第38話 勝利の代償
「将軍が討たれた!」
トロス軍の本陣を、叫びが駆け抜ける。
将軍の馬だけが走り去り、地面には主の血が広がっていた。駆け寄った護衛は地面に倒れた主を見て足を止め、剣を握ったまま立ち尽くす。
ライコは白い軍馬を止め、振り返った。
ドルグたちが敵兵を押し退けて近づいてくる。
「倒したよ!将軍!」
「分かったから、こっちへ来い!」
ドルグが手を振った。残った護衛がライコを睨み、槍を構えている。
ライコは馬を味方の方へ向けた。鞍の上で身体を動かすと、右脚に焼けるような痛みが走る。
「ライ、その脚……!」
近づいたドルグの顔が険しくなった。
太腿から流れた血が、馬の脇腹まで汚している。
「あとで縛れば――」
「今だ!お前ら、周りを固めろ!」
バスティオンが兵に指示し、ライコの周りへ盾を並べさせる。盾と槍に守られながら、ライコは鞍の上で傷口を布で押さえた。ドルグが布を巻き、きつく締める。
「いっ……!」
「我慢しろ。戻るぞ!」
◇
前線のトロス兵は、まだ戦っていた。
後方で起きた異変を知らず、退くルミナス兵へ槍を突き出している。だが、本陣から伝令が駆けてくると、部隊長の顔色が変わった。
「後退する!列を崩すな!」
角笛が鳴る。
ほかの隊にも報せが届き、それぞれの指揮官が兵を退かせ始めた。すぐには退けない隊もある。目の前の敵を押し返して距離を取り、後ろの隊と交代しながら下がる。
指揮する者まで、すべて失われたわけではない。
トロス軍は戦列のあちこちで足を止め、ルミナス軍を牽制しながら、少しずつ後退していった。
ペドルは馬上からその動きを見ていた。
「報告!第十二中隊のライコが、敵将軍を討ち取りました!」
伝令の声に、ペドルは息を呑んだ。
「……本当に、やり遂げたか」
左軍を支える兵は、もう余裕を失っていた。あと少し遅ければ、敵より先に味方が崩れていたかもしれない。
ペドルは剣を抜き、前へ掲げる。
「全隊、前へ!敵を押し返せ!」
守り続けていた右軍が進む。
報せは兵から兵へ伝わった。
「ライが将軍を討ったぞ!」
「あのガキ、本当にやりやがった!」
左軍の兵も声を上げた。
何度も救援を受けた隊では、兵が盾を持ち直し、退く敵へ踏み出す。
「あいつらだけにやらせるな!俺たちも押せ!」
ルミナス軍が、ついにトロス軍を押し戻す。
しかし、ペドルは退く敵の槍の列を見ていた。追う味方の足取りも重い。ここで深入りすれば、整った敵の隊列へ疲れ切った兵をぶつけることになる。
本来の目的は、トロスの兵をこの国境へ引きつけることだ。敵を一人残らず討ち取る必要はない。
「追撃はそこまでだ!負傷者を収容し、隊をまとめろ!」
右軍に、停止の命令が伝えられた。
◇
「止まるな!敵は逃げておるぞ!」
左軍では、ドエゴンが声を張り上げていた。
退くトロス軍を見れば、先ほどまで抱えていた恐怖も薄れる。あれほど苦しめられた敵が、背を向けているのだ。
ここで手柄を挙げずに、いつ挙げる。
「追え!逃げる敵を討ち取れ!」
左軍の歩兵が駆け出した。速く走れる者が先へ出て、負傷した兵は後ろに残る。隊の間隔が開き、追撃する兵の列は長く伸びていった。
その横手に、白い騎馬が集まっていた。
白狼騎士団だった。
「ガスパール隊長の仇だ!」
一人の騎士が槍を掲げる。
白い上衣は泥と血にまみれ、鎧には幾つもの傷が刻まれていた。それでも騎士たちは、敵陣に突進していった。我が身を顧みることなく。
「ルミナスの兵を、生かして帰すな!」
蹄の音が地面を震わせる。
退く敵を追っていた左軍の兵が振り向いたとき、白い騎馬はすでに間近へ迫っていた。
突撃槍が歩兵の列へ突き刺さる。
槍に貫かれた兵が宙へ跳ね上がり、その後ろへ別の馬が飛び込んだ。引き伸ばされた左軍の隊列を、白い牙が横から噛み砕く。
「騎兵だ!槍を向けろ!」
歩兵が向き直る。だが、盾を並べる前に次の突撃が襲った。
白狼騎士団は味方の死骸を越え、倒れた馬の脇を抜け、なおも槍を突き出す。仲間が落馬しても、止まらない。
傷ついた狼が、最後の力で獲物の喉へ食らいつくようだった。
左軍も必死で反撃した。
何本もの槍が馬の胸を貫き、崩れ落ちた騎士へ歩兵が群がる。白い上衣が一枚、また一枚と土に沈んだ。
それでも、残った騎兵は再び馬を走らせた。
やがて最後の騎士が槍を折られ、鞍から引きずり下ろされた。
白狼騎士団は、全滅した。
左軍の兵は、立ち尽くしていた。
倒れた馬と兵が折り重なり、うめき声がそこかしこから上がる。追撃に向かったはずが、隊を立て直すだけで精一杯だった。
ほかのトロス軍は、その間に遠くへ退いている。
左軍には、もう追いつけなかった。
◇
帰陣したライコが馬から下りようとすると、右脚に力が入らなかった。
「おっと!」
第十小隊の兵が身体を受け止める。
「将軍を斬った奴が、馬から落ちるなよ!」
「ありがと……あ、剣!」
「剣は俺が持つ!お前は座れ!」
別の兵が大曲剣を受け取った。
ライコは二人に支えられ、天幕へ入る。腰を下ろした途端、身体の重さを感じた。脚だけではない。ガスパールに叩き飛ばされた背も、剣を振るい続けた腕も痛む。
傷の手当てが始まってしばらくすると、ペドルが訪れた。
ライコは立とうとしたが、手で制される。
「そのままでいい」
ペドルは血の滲んだ布へ目を落とし、それからライコを見る。
「よくやった。お前たちのおかげで、この軍は救われた」
ドルグもバスティオンも、黙って聞いていた。
ライコは少し照れたように笑う。
「将軍、倒すって言ったから」
「そうだな。私との約束を果たしてくれた」
ペドルが頷いた。
ライコは傍らに置かれた大曲剣を見る。
「ガスパール、強かったな……。槍って、あんなふうにも使えるんだ」
驚いたようにペドルの眉が上がる。
敵将を討った誇りより、あの騎士との戦いが少年の胸を占めているらしい。
ドルグが溜息をついた。
「戦いのことは後だ。今は休め」
◇
ドエゴンの天幕では、部下が死傷者の報告を読み上げていた。
追撃で得た戦果に比べ、失った兵があまりに多い。
ドエゴンは苛立たしげに指で卓を叩いていたが、ある言葉に顔を上げた。
「白狼騎士団は、全滅したのだな?」
「はい。しかし、我が軍の損害も――」
「ならば、その戦果をしかと記しておけ!」
ドエゴンの口元に、笑みが戻る。
「トロスの精鋭を葬ったのは、我が左軍だ。誰にも、この手柄は渡さんぞ」
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