第35話 希望の光
ドエゴン軍は動かない。
前へ出たペドル軍だけが、トロス軍の攻撃を受ける配置だった。
ペドルは奥歯を噛みしめた。
「右端の部隊はそのまま。左の部隊を下げ、左軍につなげろ!」
伝令が走る。右端を前に残したまま、左へ行くほど後ろへ下がる。ペドル軍の戦列は斜めに並び直した。
トロス軍から角笛が鳴り響く。
槍の穂先が朝日を弾き、三千の兵が動き出した。
ペドルが命じた。
「弓兵、放て!歩兵は盾を構えろ!」
矢が空を覆い、怒号とともに敵が迫る。
ぶつかった盾が軋み、槍が盾の隙間を貫いた。
ペドル軍は敵を真正面から押し返そうとはしなかった。押された部隊を少し下げ、その隣の部隊が敵の横から槍を突き出す。トロス兵は横からの攻撃を避けようと、斜めの戦列に沿って左軍の方へ進んでいく。
斜面を流れる濁流のように、敵の勢いは左へ流れた。
右軍だけで攻撃のすべてを受ける事態は避けられた。
だが、流れ込んだ敵を、ドエゴン軍は受け止めきれない。
「伝令!左軍の二つの中隊が下がっています!」
「第十二中隊を向かわせろ!左軍が逃げ出す前に支えろ!」
◇
「下がるな!盾を並べろ!」
ドエゴン軍の小隊長が叫んだ。
返ってくるのは悲鳴ばかりだ。隣で槍を構えていた兵が倒れ、空いた場所へトロス兵が踏み込む。
後ろの兵が逃げようとした、そのとき。
「あの剣だ!」
離れた場所で、巨大な刃が陽光を跳ね返した。
「ライコ隊が来るぞ!耐えろ!」
隣の兵も声を張った。
「昨日も助けてくれたんだ!もう少し持たせろ!」
逃げかけた兵が振り返る。
盾を握りしめ、隣の兵と並んだ。
「どいて!」
味方の間を抜け、ライコが飛び出す。
ライコは腹へ突き出された槍を、横へ一歩踏んでかわし、敵の戦列の横へ回り込んだ。
左軍を押し込もうとしていたトロス兵が、こちらへ盾を向ける。その一瞬、ライコは大曲剣を腰の後ろまで引き絞った。
「そこ、通るよ!」
踏み込んだ足が地面を抉る。
解き放たれた大曲剣が、黒い三日月となって敵の列を薙いだ。盾が砕け、槍が折れ、血飛沫が弧を描く。数人の兵がまとめて倒れ、その後ろの兵まで慌てて後ずさった。
「今だ、前へ!」
バスティオンが盾を突き出す。
彼の小隊が敵を押し戻す間に、ドルグたちが負傷した左軍の兵を後ろへ引きずり出した。
「動ける奴はこっちへ来い!こいつらを運んでやれ!」
逃げかけていた兵も足を止め、仲間の腕を肩へ回す。
その背へ斬りかかろうとしたトロス兵の前に、痩せた長身がぬっと現れた。
「キョエエエエッ!」
ラーヴァは敵の剣を跳ね上げ、腕の下へ踏み込んで敵の喉を突いた。剣を引き抜いたときには、もう次の敵が迫っていた。
胴へ斜めに振り下ろされた剣を、身を捻ってかわし、すれ違いざま膝裏を斬る。崩れ落ちた敵が起き上がる前に、ラーヴァの剣が背を貫いた。
「あの声だ!左側には味方がいるぞ!」
負傷兵を運ぶ男が叫んだ。
昨日は肝を冷やした奇声が、今日は背中を守ってくれる。兵たちはラーヴァに敵を任せ、傷ついた仲間を運び続けた。
トロス兵の足が止まる。
さっきまで逃げ腰だった相手が、盾を並べて踏みとどまっている。
巨大な剣が見える。
あの不気味な奇声が聞こえる。
それだけで、助けられた兵たちはもう一度、歯を食いしばった。
いつしかライコ隊は、崩れかけた戦場で、兵たちがすがる希望の光になっていた。
◇
それでも、戦場全体を支えるには足りなかった。
伝令がペドルのもとへ駆け込んだ。
「左軍の左端が押されています!今度は騎兵です!白狼騎士団が回り込んでいます!」
ライコたちが一つの中隊を立て直す間に、別の中隊が崩れかける。
ペドルは右軍から兵を送り、その穴へ後方の部隊を入れた。休ませるために下げた兵まで、再び前へ出さねばならない。
ほころびを押さえる指が足りない。
一か所でも手を離せば、堤は決壊する。
ライコは何度も左軍の中を駆けた。
大曲剣で敵を蹴散らし、仲間が戦列を立て直すのを待つ。まだ敵を追えると思ったところで、次の救援要請が来る。
「ライ、次だ!あっちの旗のところだ!」
「わかった!」
ドルグの声に、ライコが走り出す。
その背中へ、助けられた兵が叫んだ。
「ここは俺たちが持たせる!行ってくれ!」
ライコは振り返り、にっと笑った。
すぐに前へ向き直り、土煙の中へ飛び込んでいく。
数では、まだルミナス軍が勝っている。
だが、ドエゴン軍が逃げ出せば、ペドル軍も横から呑み込まれる。勝つための攻撃どころか、敗北を遠ざけるだけで手一杯だった。
トロス軍の引き上げを告げる角笛が響いたのは、日が傾いてからだった。
敵の背を追おうとする兵は、ルミナス軍にはいなかった。
◇
夜、ライコの天幕をペドルが訪れた。
ライコは座ったまま、大曲剣についた血を拭いていた。そばではドルグが水を飲み、バスティオンが割れた盾を調べている。
入口に立つ将軍を見て、三人が腰を上げかけた。
「そのままでいい。今日はよく働いてくれた」
ペドルが中へ入る。
昼間はよく通っていた声も、今は少し掠れていた。目の下に疲れが滲み、腰を下ろすと、深く息を吐く。
「お前たちがいなければ、左軍は持たなかっただろう」
「でも、明日もあんな感じなの?」
ライコの問いに、ペドルはすぐには答えなかった。
「……同じことを続けていては、持たんな」
ドルグが黙って水を差し出す。
ペドルは受け取り、口をつけた。
「あの人たち、白狼騎士団っていうんだって。ドルグに聞いた」
ライコが布を置く。
「狼って、犬に似てるよね」
「似てはいるな」
「村長がさ、犬が狼をやっつけた話をしてくれたんだ」
ライコは大曲剣を脇へ置き、身を乗り出した。
「犬が逃げて、狼に尻尾を噛まれたんだって。でも、そこで振り向いて、狼の首に噛みついたんだ。狼は尻尾を噛んでるから、口を開けないと噛み返せないでしょ」
「ずいぶん賢い犬だな」
バスティオンが笑う。
「ほんとにあった話なのか?」
「わかんない。村長、そういう話ばっかりするから。でも、その犬、強かったんだろうな!」
ライコも笑った。
「尻尾に噛みついたら、もう勝ったと思うよね。でも、犬の口は空いてたんだ」
ペドルの手が止まった。
水の残った器を見つめたまま、しばらく動かない。
やがて器を置くと、ライコへ顔を向けた。
「ライ」
さっきまでの疲れた声ではなかった。
「明日は、お前に任せたい仕事がある」
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