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最後の舟 2話 意志の定義

 アーサードが私の頬を思い切り引っぱたいた。


 パァン、と乾いた音が響く。一瞬呆然とした後、じんじんと痛む頬を触る。叩かれた場所が熱くなっている。


 そして、アーサードの顔を見た。


 彼は、歯を思い切り食いしばりながら私を強く睨んでいた。息は荒くなっていて、相当怒っているように見えた。


「…………王は、ヨシヒトは」


 私の頬を叩いた手を、その位置に止めたまま話し始めた。


「ヨシヒトは……私にそんなことを言わなかった……!!!」


 ぞくり、と背中が冷たくなった。


 怖い。


 アーサードは憎悪の籠った目で私を見ていて、もう片方の手は、私の腕が鬱血するほど強く握り込まれていた。


 私は思わず、アーサードから思い切り身体を引いた。


「……やめて!!!」


 アーサードを振り払おうとする。とにかく掴まれている腕から手を離させようとして、爪を立てる。それでもアーサードは私を離してくれなかった。


「離して!! やめて!!」


枕を何度も叩きつける。足も滅茶苦茶に動かして、何度も蹴った。アーサードは、さらに私の腕を強く握って怒鳴っていた。だけど、何を言っているのか上手く聞こえなくなるくらいに、私はアーサードを何回も枕で殴りつけていた。


「やだ、離して!!」


 逃げたい。


 ここから逃げたい。


「帰りたい……!!」


 気づいたら、そんな言葉が口から出ていた。


「ツクヴァルのところに帰りたい……」


 痛みと恐怖で、涙が出てくる。


「お母さんと、お父さんのところにも帰りたい……!!」


 その言葉を漏らした瞬間。


 ぴた、とアーサードの動きが止まった。そして、私の顔を改めてじっと見た後に、ゆっくりと手を離した。


 埃をはらうみたいに手をぱんぱんと叩いたあと、アーサードが……鼻で笑うみたいに、息を吐いた。


「父と母?」


 静かに言う。


「元の世界のですか?」


 ようやく離されてから、紫色に鬱血している腕を見る。はっきりと手形がついていた。


 アーサードは、呆れたように私を見ていた。そして、時々ため息をついた。


「何が、変なんですか……」


「いいや? そこまで知らなかったのかと思いまして。前王は、結構早くから受け入れていましたから」


 受け入れていた。


 私は、その言葉の意味がわからなかった。


「……どういう、ことですか」


「ここまで言っても分からないんですね、救世主が聞いて呆れますね」


 そして、次は見下すように私を見てきた。




「帰れませんよ」


「救世主は、元の世界で役目を終えた……既に死んだものがなるものですから」




 …………。


 何を言われたのか、分からなかった。


 死んだ?


 誰が?


 私が?


 私が、死んだ?



「……いや、多分あなたは無意識には分かっていたんじゃないでしょうか?」



 アーサードが、何を言っているのか、本気でわからなかった。


 それなのに、色んな言葉や記憶が、私の頭の中に流れ込んでくる。



 ダイヤモンドの指輪を撫でた。



 ノイズ、ノイズ、ノイズ。



「貴方、帰りたいと言った割には随分と旅も楽しんでいたみたいじゃないですか。本当に帰りたいのならば、もっと焦って探すのでは?」


「……違う」


「それにさっき、帰りたいと言った時に最初に出た名前があの白銀の残光でしたね。父や母よりも、白銀の残光ですか。やっぱり、無意識に帰れないとわかっていたんでしょう」


「違う」


「それに、他にも────」


「違う、違う、違う、違う、違う!!!!」


 頭を振る。それでも〝何か〟の映像が頭の中に沢山流れ込んでくる。


 絶対それに目を向けなかった。頭を振り続けた。そして叫んで、映像の中にある声を聞かないようにした。


 違う。


 私は帰りたかった。


 だけど、旅だって楽しかった。


 ツクヴァルと一緒に歩くのも、知らないものを見るのも。


 それに。


「私は……!!」


 必死に息を吸った。


「みんなに、ご飯を食べてもらうのが楽しかったから……!!」


「…………」


 アーサードが黙った。


「……ご飯」


 何かを思い出すように目を細める。

 そして、笑った。


「ああ、なるほど! 色々と理解ができました!」


 勝ち誇ったような顔で私を見てくる。それが本当に苛立たしくて、見たくなくて、でもやっぱりこいつの言葉を聞くと色々なことを思い出しそうで、目を瞑っても無駄だった。


「調査の中で、貴方に色々と違和感があったんですよ! 食のことに異様に執着しているなって!」


「……違う」


「不思議に思っていたんですが、その様子を見て納得ができました」


「やめて」



 アーサードが、


 笑ったまま、私を見て言った。 



「────貴方、前の世界で餓死でもしたんでしょうね」



 その瞬間だった。


 ぐにゃり、と腐りかけのみかんを潰してしまった感触を思い出した。


 配給されたあのみかん。


 一部が少し黒くなっていて、カビた粉がかかっているみかん。


『ヒロコ、私たち……戦争に負けたのよ』


 そして、今まで聞こえないようにしていた声が、今はっきりと聞こえた。



『ごめんね、ヒロコ。お父さんはもう、帰ってこないと思うから……』


『せめてあなたが、貰ったものを食べて……』




 私は、胃の中のものをそこで吐いた。


 涙と唾液がぼたぼたと落ちて、またその臭いで吐いた。


 胃酸の味が口に広がった。苦くて、苦しくて、喉がヒリヒリして痛んだ。


「……あーあ」


 アーサードが、蹲って吐いている私を見て呟いた。


「まあいいですよ、後で掃除させます」


 そして、しゃがんで私の方へと目線を合わせた。


 さっきまで怒鳴っていて、私のことを憎むみたいに見てきた目はすっかりと落ち着いていた。代わりに、本気で私に同情しているような瞳を向けていた。


「可哀想に、兼々寛子」


 そして、わざとらしくポケットからハンカチを取り出して、私の口元を拭いてきた。


「貴方の今までの行動は、全て餓死からの無念とトラウマで起こされていたのですね」


 拭った後に、また小さく笑った。


 私は、何も言えなかった。ただ、喉がヒリヒリして痛かった。


「スラム街の者たちをわざわざ食べさせていたのも、あの素行の悪い白銀の残光に食事を作っていたのも、魔獣とやらを食べていたらしいのも、ぜーんぶ貴方のトラウマがそうさせていたのですね。大変だったでしょう」


 そして、アーサードが立ち上がった。


 こつ、と小さく足音を鳴らしてドアの方へと歩いていく。


「でももう大丈夫ですよ、そんなことをする必要はありません。死んだ時のことに囚われなくても良いのです」



 鍵を刺す音がした。



「せっかく神があなたを遣わしてくださったのですから、役目を果たせば良いのですよ。救世主様」


「その方が、貴方も苦しくないでしょう?」



 そして、アーサードが部屋から出て行った。

 ガチャン、とまた外から鍵をかける音がした。


 ばたばたと数人の足音が聞こえてきた。多分、私の吐いたものの片付けに呼ばれたのだろうか。


(私が今までしていたことって)


 喉はまだ痛かった。


(全部、トラウマのせいだったの?)


 色んなことを思い出す。


 ツクヴァルが捕まった時のこと、思わず役場の方へ飛び出したあの時のこと。


(無念に囚われて、やっていたことだったの?)



 だから私は。


 だから私は、夢の中であんなことを思ったのだろうか。



『私ってなんで旅をしてるんだっけ?』



 私は、私のことが信じられなくなってしまった。


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