第一隻 2話 真っ白な爪、男の様子がおかしい
石壁に囲まれた薄暗い路地裏の中、その横にある通路から数人の足音が聞こえてくる。
2人、いや3人ほどだろうか。硬い靴底が石畳を踏む音に混じって、金属同士がカンカンとぶつかるような異音も聞こえる。
「ったく俺たちの管轄で好き勝手に漁りやがってあのラヴィ野郎」
「今日も上がりねえなー! バカの金持ちが拉致って捨てられたりしてねえかなーあっはっはっ!」
「うるせーぞ。”通行料”を払ってねえ奴らを逮捕すんのも俺らの仕事だし、死んでたら手間省けるけどくせえしそっちのが……てかあっちでなんか声聞こえたぞ」
知らない男の声。
下品な会話と笑い声が耳に入る。
そして目の前の男はというと、ぴくりと頭の上の長いうさぎ耳が動いて私の肩を掴んでいた手が止まった。
「……クソ、こんなことに手間取られた」
さっきまで私に向かって怒鳴り散らしていた男の顔から、一瞬で怒りが消えた。
代わりに浮かんだのは、明らかな焦りだった。
「だ、誰ですか……あれ……」
「あぁ? どう見ても治安部隊だろうがよ」
「で、でも明らかに話してることが……なんかそういう感じじゃ……」
「テメェ、まさかここの治安部隊がマトモだと思ってんのか?」
男が鼻で笑った。
私を本気で憐れむように。
男が私を軽く突き放し、そのまま路地の奥へ走り出そうとする。
(待って)
そして気がつく。
(この人私を置いていく気だ!!)
その事実に気がついた瞬間に背筋が冷えた。
無理だ、それは無理。私は今、自分がどこにいるのかすら分からない。幻覚でも見ているのかもしれないが危険な状況なことには変わりがない。
お金も使えない、スマホもネットが繋がらない、そもそも知らない場所で文字が読める保証がない。
どうする、どうする私。どうやってここを切り抜ける、どうやって─────。
「待って!!」
私は咄嗟に男の服を掴んでいた。
「あぁ!?」
男が振りほどこうとする、だけど絶対に離さない。
「私も連れていってください!!」
「なんの得があってテメェみたいな女なんか!!」
「得なら、あります!!」
私は自分のお腹を指差した。
ここにひとつだけ、この男のメリットになるものがある。
男の目が私の手元に向いた後、次にまたお腹に向いた。
確信に近い何かを得て私はまた口を動かし続けた。
「まず、ここで私と騒いでいたらさらに見つかるリスクが高まりますよ。いいんですか? 困ってるんですよね?」
「誰に向かってんな口を……」
「私の言うことを聞いてくれたら!」
男が青筋を立て思い切り眉をひそめたのを見て間髪入れずに続きを話した。
「ここにあるもの……吐きます」
男が静止した。
私とお腹を交互に見比べたあとにまた後ろを向く。どんどんと近づいてくる足音を聞いて明らかに焦った表情を見せ、またさらに睨んで唸るように腕を組んだ。
(効いてる)
心臓が跳ねた。
(あれが高価だってわかってるし、この人相当お金に困ってるな)
優位に立てる可能性が見えてきた。小声で男に近付く。
「今ここで吐いたら絶対に時間がかかります、バレて二人とも……通行料、払わされますよ。安全な所に私を連れて行ってくれれば」
見上げた。
この時、初めて彼の顔をしっかりと見た。
顔は傷跡だらけだった。
「絶対にあの指輪を渡します。どうですか」
正直絶対の保証はない。あげたくないからだ。
だけどまずはここを切り抜けることが最優先だ。
「これは」
「交渉、ですよ」
男が拳を握ってぷるぷると震えた。
そして私をまた睨みつけ───────思い切り胴体を持って俵担ぎにしてきた!!
「えっ、ちょ」
「今は聞いてやる」
ぐ、と。男が地面を思い切り踏みしめる。
「正面から逃げれりゃ消耗しねえけどこっちのがいい」
ブゥン、と不思議な音が男の踏みしめた足元で小さく鳴った。
ピンク色の魔法陣が……出てきていた。
「あの、何を───────」
私が言い切る前に、視界が開けた。
さっきまで私たちを囲っていた狭い石壁が足元へと落ちていく。
そのまま男が跳躍し屋根から屋根へと飛んで行く!! まさに、脱兎!!
「んわああああ高い!? ムグッ」
「静かにしろや!!」
男が私の口を押さえて青筋を立てた。こくん、と頷くとまた前を向いてどんどんと足元に魔法陣を召喚していき跳躍していく。石造りの建物の屋根をいくつも飛び越えていった。
(わ、)
(私本当にこれからどうなるのーー!?!?)
ぴょんぴょんと街の上を飛び跳ねていく景色を眺めながら、塞がれた口も開けることができず心の中で叫んだ。
…………。
抱えられいくつかの石造りの建物を飛び越えていきたどり着いたのは、山の少し奥にあるひとつの小さな小屋だった。
小屋といっても物置くらいの狭さで人はぎりぎり二人座れるような狭い部屋であり、中には簡単に作られたベッドと飲みかけの酒のようなものが入った棚があるだけだった。
ぼろ布のカーテンが付いた窓を覗くと下の方には町がある。人は多くないがそれでも多少の賑わいはあり、地元住民らしい猫の耳が付いた女性や角の生えた大柄な男性などが談笑している。
だがその町のもう少し奥、そして横を見ると一気に廃れ始めていた。窓から見える範囲だけでも、妙なほど景色が二つに分かれていた。
(……普通の町と、スラム街なのかな。向こうは)
片方では獣の耳や角を持った人たちが店先で笑いながら話している。子供らしき姿も走り回っている。
なのに、そこから少し道を外れただけで建物は黒ずみ、窓は割れ、人が地面に座り込んでいる。壁にもたれている痩せた人を見て、一瞬、眠っているのかと思った。だけどその人に声をかける人はいなくて、誰かが近づいたかと思えばきょろきょろ周りを見た後に全身をまさぐり、そして走って去っていった。
(……まさか、死体から物を漁って)
さっきの男の言葉を思い出した。「死んでるかと思った」と。
(わ、私も死体かと思って漁られてたってこと!?)
そんな風にいろいろと考えていたら「おい」と男から声をかけられた。
「ひゃいっ!!!」
「ひゃいじゃねえよ、あんま窓も見るんじゃねえ」
シャッとカーテンを閉められると部屋がまた少し薄暗くなる。おそるおそる上を向くと男が手を差し伸べるように伸ばしてきた。
「吐け、指輪」
「あっ」
「あっじゃねえ、吐け! 約束だろうがよ!」
しまった。逃げた後のことを考えていなかった。
だらだらと汗が噴き出てきてそのまま男を見つめる。本心を言うとまったく指輪をあげたくない、あんなもの無事に逃げるための嘘八百だ。
「あ~~~ちょっと朝ごはん食べてないんでいま吐けるかわかんないです……」
「テメェ、さっきあんだけ堂々と交渉とか言ってたくせによくもまあ吐けるかわかんねえだとか言えるな……!!」
目をそらす。一生懸命に目をそらす。そらしたところで逃げられるわけではないのだがとにかくそらして汗だらけの額の中にある脳みそをフル回転させた。
(トイレで吐いてきますって言って隙見て逃げるか……?)
男を見る。かなり怒っている、なんかもう怒りすぎて顔色まで悪いし手まで震えているし呼吸もぜぇぜぇ言ってるし唇も乾いてて……。
「……ん? いやいや」
とあることに気が付いた。
怒っているからというだけでは説明できないくらいになんか様子がおかしい。
「何じろじろ見て────」
……そして、
倒れた。
男が、膝をついて倒れた。
ドスンと重い音を立てて、その衝撃でまた意識が戻ったのか目を一瞬見開き、そして頭を押さえて私を睨みつけた。
「く……そ……膝に力が……」
「えっ!? あっ!?」
何かに掴まろうとして立ち上がろうとしているが目の前がよく見えていないのか上手く掴めていない。
よろよろと立ち上がろうとするが膝が上手く動かないのかまた座り込み、それを何回か繰り返した。
そして考えた。
(チャンスだ)
逃げるなら今だ。
何でだかわからないけどこいつは動けていないし、私も指輪を吐かなくて済む。
ラッキー中のラッキー。治安隊とかいう名前しながら物騒な奴からは逃げれたし、こいつとももう関わらずに済める。
あとは私が何とかしよう、どこかわかんないけど頑張って帰る方法探そう、とにかくこいつは危険なんだし離れよう。
(離れ、よう)
そう思った、はずだった。
【……のままじゃ……が……攻め……】
【そした……みん……食べ……】
「ッ!?」
頭の中でノイズが走った。
途切れ途切れの声と何かの記憶。
ノイズがかかった記憶の中で私はニュースのようなものを見ていた。そして両手には買い物袋。
ちょっとのお米と、みかんを四つくらい持っている。
そんな記憶。
「…………」
立ち尽くしてしまった。
そして思わず、男を見た。
(この人)
男の爪に目を向けた。
(爪、真っ白だな)
そう思った瞬間、
「────最近ご飯、食べてますか!!!」
そんな言葉が出ていた。




