第8話「おもしろき、こともなき世を」
白い空間に、新しい気配があった。
今までとは違う空気だった。土佐でも江戸でも水戸でもない。長州の空気だった。
以蔵が最初に気づいた。体が、反応した。京の夜に何度も感じた気配だった。勤王の志士の気配だった。土佐とも薩摩とも違う、長州独特の、どこか張り詰めた気配だった。
武市も気づいた。龍馬も気づいた。
白い空間の遠くから、誰かが歩いてきていた。
*
男は、早足で歩いていた。
背が高く、目が鋭かった。着物の着方が少し乱れていた。急いでいた。焦っていた。何かを探しながら歩いていた。
若かった。まだ二十代の前半に見えた。しかしその目に、年齢以上のものが宿っていた。燃やし続けた何かが、消えずに残っているような目だった。
長州の空気が、その男から出ていた。
水面を見ながら歩いていた。
明治が映っていた。近代的な建物が映っていた。軍服の男たちが映っていた。
男は、その映像を一瞥して、目を細めた。
自分が夢見た国とは、違った。しかし——何かが、確かにあった。その「何か」が自分たちの命の先にあるものかどうか、男にはまだ判断できなかった。
そのとき、見えた。
松陰が——近藤勇と、話していた。
男の顔が、変わった。
*
「先生!」
男が、声を上げた。
松陰が振り向いた。その顔が、明るくなった。
「来るのを待っておったよ。久しぶりじゃのう」
龍馬は、その声を聞いた瞬間、男の顔を見た。
松陰が「待っておった」と言う弟子。長州の、あの張り詰めた気配。二十代の、燃やし続けた目。
——久坂さんか。
龍馬は、声には出さなかった。ただ、合点がいった。
*
「先生——」
男は、松陰の隣に立つ近藤を見た。
新選組局長。幕府方の剣客集団の長。長州の仲間たちを幾人も斬った組織の頭。池田屋で長州の志士たちを斬った男の上に立っていた男。
男の顔が、変わった。
「先生。なぜあの男と——」
「久坂君」
松陰が、落ち着いた声で言った。
「ここはそういう場所じゃ。君も分かるじゃろう」
「そういう場所では済まされません」
男の声が、硬くなった。
「先生、あの男たちが京で何をしたか——長州の同志が何人斬られたか——先生はご存知のはずです」
「知っておる」
「知っておいて、なぜ——」
「久坂君」
松陰は、男を真っ直ぐ見た。
「君の怒りは正しい」
男は、口を閉じた。
「正しい。しかし——」
「正しくて何が悪いんですか」
男は遮った。
「正しいなら、正しいままでいい。なぜここで——なぜ先生が、あの男と並んでいなければならないんですか」
松陰は、すぐには答えなかった。
近藤は、黙っていた。男の言葉を、正面から受けていた。反論しなかった。反論できなかった、というより——反論する必要を感じていなかった。男の怒りは正当だと、近藤も分かっていた。
「久坂さん」
別の声がした。
橋本左内が、少し離れた場所から言った。
「少し、落ち着いてください」
「左内さんまで——」
男は左内を見た。
「左内さんも、ここでは敵と並んでいるんですか」
「敵という概念が、ここでは機能しないんです」
左内は静かに言った。感情なく、しかし明確に言った。
「生前の立場は、ここでは参照されない。それがこの場所の掟です」
「掟で割り切れるものじゃない」
「割り切れなくていい」
左内は言った。
「割り切れないまま、ここにいることができる。それがここです」
男は、左内を見た。松陰を見た。近藤を見た。
黙った。
黙って、拳を握った。
そのとき——
「うるせえな」
別の声が、割り込んだ。
芹沢鴨だった。
少し離れた場所に立っていた。腕を組んで、男を見ていた。水戸訛りが、その短い言葉に滲んでいた。
「さっきからぎゃあぎゃあと——死んでまで喚いてんのか」
男が、芹沢を見た。
「あなたは——」
「芹沢鴨だ。壬生浪士組の元局長だ。文句あるか」
男は、芹沢を見た。
大柄な男だった。水戸訛りが滲んでいた。壬生——幕府方の組織にいた男。しかし男の目が、芹沢の出自を計算していた。
「……水戸の出ですね」
「そうだ」
「水戸は尊王派でしょう」
芹沢の目が、細くなった。
「だから何だ」
「だから——あなたも分かるはずです。天子様を戴くことの意味が。あなたも尊王なら、なぜ幕府方に味方をしたのか——それが分からない」
「黙れ」
芹沢が言った。
静かだったが、通った。水戸訛りが、このときだけ鋭くなった。部屋の空気が変わる、そういう声だった。
「お前らと一緒にするな」
男は、口を閉じた。
「水戸の尊王と、お前ら長州の尊王は——根っこが違う。念が違う。年季が違う」
芹沢は、男の方へ一歩踏み出した。
「水戸は徳川の御三家でありながら、尊王を説き続けた。矛盾を抱えながら、それでも天子様への敬いを捨てなかった。それが水戸の生き方だ。百年以上、その矛盾の中で生き続けた」
近藤は、黙って芹沢を見ていた。
知らなかった、とは言えなかった。芹沢が水戸の出であることは知っていた。しかし——こういう言葉が出てくる男だとは、思っていなかった。壬生にいたころの芹沢は、こういう話をしなかった。する男だとも見えなかった。
近藤の隣で、土方も黙っていた。
土方の表情は読めなかった。しかし——何かが、その顔にあった。芹沢を見る目が、壬生のころとは少し違っていた。
いつの間にか、井上源三郎が近藤の少し後ろに立っていた。
いつからそこにいたのか、誰も気づいていなかった。気づいたら、いた。腕を組んで、芹沢の言葉を聞いていた。その顔に、何かがあった。驚きとも、困惑とも、違う何かだった。
河合耆三郎も、いた。
少し離れた場所に、静かに立っていた。芹沢の方を見ていた。見ながら、何も言わなかった。
松原忠司も、いた。
壁際に近い場所に、音もなく立っていた。三人とも、誰かに呼ばれたわけではなかった。しれっと、そこにいた。
「お前らはどうだ」
芹沢は続けた。声が、低くなった。男の方を向いたまま、しかしその言葉は空間全体に届いた。
「お前ら長州は——天子様を、自分らの道具に使おうとしてただけだ」
男の顔が、変わった。
「なんですって」
「攘夷を通すために天子様を利用した。倒幕の旗印にするために天子様を利用した。天子様への敬いではなく——天子様の名前が便利だったから使った。それだけだろうが」
「違います」
男は、声を荒げた。
「我々は本当に天子様を——」
「本当に、か」
芹沢は、男を遮った。
「本当に天子様を思うていたなら——なぜ京で戦を起こした。禁門の変で何人死んだ。御所に砲を向けたのは誰だ。天子様の御膝元で火を放ったのは誰だ」
男は、黙った。
黙るしかなかった。禁門の変——自分が死んだあの戦——で、長州は御所に向かって砲を向けた。それは事実だった。
「水戸は——何百年も前から、天子様を敬い続けた。戦の道具にしたことはなかった。それがお前らと水戸の違いだ」
近藤は、芹沢の背中を見ていた。
壬生にいたころ、芹沢はこういう顔をしなかった。酒を飲み、暴れ、好き勝手に生きていた。尊王など、口にしたことがなかった。——少なくとも、近藤の前では。
この男の中に、こういうものがあったのか。
近藤は、そう思った。思いながら、何も言えなかった。
井上は、近藤をちらりと見た。近藤の顔を確認して、また芹沢の方へ視線を戻した。何も言わなかった。
男は、しばらく黙っていた。
言い返したかった。言い返す言葉もあった。
「芹沢さん」
男は、声を整えて言った。
「水戸の尊王は——徳川への忠義と矛盾したまま、結局幕府を守ることになった。どれだけ天子様を敬っていても、幕府が天子様の上に立っている現実を変えられなかった」
芹沢は、男を見た。
「我々長州は——その現実を変えようとした。手段は荒かったかもしれない。しかし動いた。変えようとした」
「動いた結果、御所に火がついた」
「それは——」
「綺麗事で済む話じゃねえんだよ」
芹沢は言った。
「天子様を思うなら、天子様の御膝元を戦場にするな。それだけのことだ」
男は、黙った。
言い返せなかった。言い返す言葉が、出なかった。
芹沢の言葉の中に、刺さるものがあった。認めたくなかった。しかし刺さっていた。長州の仲間たちの命をかけた戦が、確かに御所を焦がした。それは——事実だった。
男は、もう一度口を開いた。
「しかし水戸は——結局、幕府の枠の中から出られなかった。それが——」
芹沢の右手が動いた。
気づいたときには、男は白い空間の床に転がっていた。
頬が、熱かった。張り飛ばされたのだと、少し遅れて分かった。
「続きは言うな」
芹沢は、男を見下ろして言った。
「俺も分かってる。水戸の限界は、俺が一番知っとる。だからお前に言われるのが、一番腹が立つんだ」
静かだった。静かだったが、通った。
男は、床から顔を上げた。頬を押さえた。何も言えなかった。
土方が、小さく息を吐いた。
聞こえるか聞こえないかの音だった。しかしそこに、何かがあった。呆れでも感心でもなく——土方自身も、まだ言葉にできていない何かだった。
白い空間の端の方から、声がした。
「立てるか」
男が振り向いた。
腰を下ろして三味線を持った男が、こちらを見ていた。細身で、目が涼しかった。この一部始終を眺めながら、急ぐ様子がなかった。
「……立てる」
「そうか」
三味線の男は、また弦を爪弾いた。
龍馬は、その男を見た。
三味線。飄々とした顔。長州の気配。この騒ぎを面白そうに眺めている、あの目。
——高杉さんか。
龍馬は、声には出さなかった。
*
松陰が、静かに口を開いた。
「二人とも」
芹沢も男も、松陰を見た。
「どちらの尊王も——本物だったと、僕は思う」
間があった。
「形が違った。やり方が違った。しかし——天子様への敬いは、どちらも本物だった。その本物同士が、方向の違いで斬り合った。それがあの時代だったんじゃ」
芹沢は、松陰を見た。
何も言わなかった。
男も、松陰を見た。
何も言えなかった。
松陰が、三味線の男の方へ目を向けた。
「晋作君」
男は、三味線の男を見た。
「……君は何か言わないのか」
「言いません」
三味線の男は即答した。
「なぜ」
「面白いから見ています」
「面白い?」
「水戸の尊王と長州の尊王が、あの世で言い合っている。こんな話、生きている間には聞けませんでした。しかも——どちらも間違っていない。それが余計に面白い」
男は、何も言えなかった。
芹沢は、男から視線を外した。
近藤を見た。
「近藤」
「……なんですか、芹沢さん」
近藤の声は、いつもより少し、低かった。
「この長州の若造がうるさくしたら、また声かけていいか」
「それはここでは意味がないと思いますが」
近藤は、少し困った顔で言った。困った顔の中に、別の何かが混じっていた。
「そうか」
芹沢は、ふんと鼻を鳴らして、視線を水面に戻した。
近藤は、芹沢の横顔を、しばらく見ていた。
壬生のころは、見なかった顔だった。
井上が、近藤の隣に並んだ。
小声で言った。
「……近藤さん」
「ああ」
「芹沢さんが、あういう人だったとは」
「……俺も、知らなかった」
二人は、それ以上何も言わなかった。
河合は、少し離れた場所で、水面を見ていた。松原は、壁際で腕を組んだまま、黙っていた。
男は、芹沢を見た。松陰を見た。
松陰は、この一部始終を見ていた。見ながら——何も言わなかった。弟子が言われたことを、弟子自身に受け取らせていた。
「先生」
男が言った。
「……水戸の尊王と、我々の尊王は——本当に違うんですか」
「違う部分もある。同じ部分もある」
松陰は答えた。
「しかし——芹沢さんの言葉の中に、久坂君が受け取るべきものがあったじゃろう。それは君自身が考えることじゃ」
男は、黙った。
拳を、もう一度握った。しかし今度は——少し違う理由で、握っていた。
*
三味線の男が、近藤の方へ歩いてきた。
三味線を持ったまま歩いてきた。近藤の前で止まった。
近藤は、三味線の男を見た。
「高杉晋作か」
「そう。君が近藤勇か」
三味線の男は、近藤を見た。値踏みするのではなく——ただ見た。
「京では世話になったな」
皮肉なのか本気なのか、分からない言い方だった。
「世話というのは、どういう意味だ」
「そのままの意味さ。君たちのおかげで、京は締まった。おかげでこちらも、動き方を変えなければならなかった」
近藤は、三味線の男を見た。
「敵の動きを褒めるか」
「褒めてはいない。ただ——認めるのと憎むのは、別の話だ」
三味線の男は、龍馬の方へ視線を移した。
「龍馬さん」
「高杉さんか。来ちょったか」
龍馬は笑った。知り合いに会ったような顔だった。
「先に来ていたんですね」
「そうじゃ。長うここにおる」
「退屈でしょう」
「退屈はせん。色々あるき」
高杉は、龍馬を見た。
「あなたが来て、何かが変わりましたか、ここは」
「少しずつな」
「そうですか」
高杉は、また三味線を爪弾いた。
「おもしろき——こともなき世を——」
「高杉さん、それはどういう意味じゃ」
龍馬が聞いた。
「おもしろくない世を、おもしろくしたい、ということさ」
「ここは——おもしろいか」
高杉は少し考えた。
「おもしろい」
即答だった。
「敵と元敵と、何が何だか分からない人間たちが、刀を抜けない場所で言い合いをしている。これほどおもしろい場所は、そうそうない」
龍馬は笑った。
「そうじゃな」
久坂が、高杉の隣に来た。
さっきより、少し落ち着いていた。まだ何かが残っていたが——少し、落ち着いていた。
「晋作」
「なんだ」
「先生は——ここでも、先生だな」
「そうだろ」
高杉は、三味線を爪弾いた。
「それが嫌か」
「嫌じゃない」
久坂は言った。
「ただ——複雑だ」
「複雑なままいればいい。ここはそういう場所だ」
高杉は言った。
「おもしろき——こともなき世を——おもしろく——」
久坂は、高杉を見た。
「晋作、その続きは」
「住みなすものは——心なりけり」
高杉は、静かに歌った。
白い空間に、その言葉が広がった。
松陰が、高杉の方を見た。
弟子の歌を聞いていた。聞きながら——松陰の目が、細くなった。
怒っていなかった。
ただ——嬉しそうだった。
「晋作君」
松陰が言った。
「君は相変わらず、肝心なことを歌で言う」
「歌の方が、余計なものが入らないんです」
「それも君らしい」
松陰は、笑った。
高杉は、その笑い方を見た。三味線の弦を、一度だけ静かに押さえた。
「先生が笑うと——こちらまで、少し軽くなる」
小さな声だった。久坂にだけ届いたかもしれない声だった。
松陰は、聞こえていたかどうか、何も言わなかった。
ただ——まだ、笑っていた。
珍しい笑い方だった。確信の笑いではなかった。ただ——嬉しい、という笑い方だった。
久坂は、その笑い方を見た。
生前も、何度か見た顔だった。しかしここで見ると——何か違った。生前より、少しだけ、柔らかかった。
*
しばらく、静かになっていた。
高杉の三味線が低く鳴り、水面が揺れていた。誰もが、それぞれの場所で黙っていた。
そのとき、久坂が芹沢の方へ、もう一度歩いた。
足取りは、さっきより静かだった。怒りではなかった。それでも——何かが、久坂をそこへ向かわせていた。
「芹沢さん」
芹沢は、水面を見ていた。振り向かなかった。
「まだあるのか」
「あと一つだけ」
芹沢は、ゆっくり久坂を見た。
「大和屋のことです」
空気が、変わった。
近藤の体が、わずかに硬くなった。土方も、井上も、気づいていた。水面から目を離した者が、何人かいた。
「……何が聞きたい」
「あなたは京の商家に火をつけた。それが壬生での振る舞いの限度を超えたとされ、あなたが粛正される一因になった」
久坂の声は、静かだった。感情を抑えていた。しかし言葉は、真っ直ぐだった。
「あなたは先ほど、天子様の御膝元を戦場にするなと言った。その口で、なぜ京の街に火をつけたのか。天誅組への資金提供が理由だったとしても——火をつけたのは事実です。その矛盾を聞きたい」
芹沢は、しばらく何も言わなかった。
水面を見ていた。
それから——少し、笑った。
「矛盾か」
「矛盾です」
「まあ——天誅組にあいつらが金を流してた、ってのは本当だ。それへの怒りもあった」
久坂は、芹沢を見た。
「それと——」
芹沢は、少し間を置いた。
「酒だ。悪酔いしてた。それだけだ」
その言い方が、あまりにさらりとしていた。
あまりにさらりとしていたので、久坂は一瞬、何も言えなかった。
「……それだけ、ですか」
「それだけだ」
「天子様の御膝元を——」
「酒の上の話だ。深く考えるな」
久坂は、言葉に詰まった。怒るべきなのか、呆れるべきなのか、判断がつかなかった。
高杉が、三味線を止めた。
止めて、目を細めて芹沢を見た。何も言わなかった。ただ、その目が笑っていた。
そのとき——
「先生」
別の声が、割り込んだ。
静かだが、芯のある声だった。
平山五郎だった。
芹沢の少し後ろに立っていた。いつからそこにいたのか、誰も気づいていなかった。芹沢の配下だった男。新選組の中でも、芹沢とともに動いていた男だった。
その平山が、芹沢を見ていた。
怒っていた。静かな怒りだった。しかし——はっきりと、怒っていた。
「先生」
平山は、もう一度言った。
「本当のことを言ったらどうですか」
芹沢は、平山を見た。
「……平山」
「あの夜のことは、俺も知っています」
平山の声が、わずかに震えていた。怒りと、それ以外の何かが、混じっていた。
「天誅組への資金提供は口実だ。悪酔いも——半分は本当かもしれない。でも」
平山は、芹沢から目を離さなかった。
「大和屋焼き討ちは、会津藩からのお達しだったんでしょう」
白い空間が、静まり返った。
近藤の顔が、変わった。
土方が、平山を見た。
芹沢は、何も言わなかった。
「……先生」
「黙れ、平山」
「黙れません」
平山は言った。声が、少し高くなった。
「ここで黙ったら、ずっと黙ったままになる。あの夜から、ずっとそうだった。先生が——先生が、あんな死に方をしたのに——」
平山の声が、途切れた。
誰も、何も言わなかった。
芹沢は、平山を見ていた。長い間、見ていた。それから——視線を、水面に戻した。
近藤が、口を開いた。
「……芹沢さん」
低い声だった。
「それは——本当のことか」
「近藤さん」
土方が、近藤の隣から言った。声に、制するものがあった。
「今それを——」
「聞かなければならない」
近藤は、土方を見た。
「トシ、俺は——ずっと、何かが引っかかっていた。あの夜」
土方は、近藤を見た。何も言わなかった。
「芹沢さんを——始末しろと言われた夜、俺は」
近藤は、言葉を探した。
「違和感があった。急すぎると思った。理由がはっきりしないと思った。だが——お前に言われたとき、俺はそれを飲み込んだ。新選組のためだと思って、飲み込んだ」
芹沢は、水面を見たまま、動かなかった。
「芹沢さん」
近藤は、芹沢を見た。
「誰に言われた。会津の、誰だ」
しばらく、間があった。
芹沢は、何も言わなかった。
平山が、静かに言った。
「……広沢冨次郎、です」
近藤は、その名前を聞いた。
聞いて——何かが、頭の中で動いた。
広沢冨次郎。会津藩の公用方。新選組と会津の間を繋いでいた男。表には出なかったが、動いていた男。
近藤は、記憶を辿った。
あの時期——大和屋焼き討ちがあった後、広沢殿と言葉を交わしたことがあった。何気ない言葉だった。しかし今思い返すと——あれは、確認だった。芹沢への処分を、こちらが受け入れる準備ができているかどうかの、確認だった。
「……広沢殿が」
近藤は、声が出なかった。
「大和屋を燃やせと、芹沢さんに言ったのか」
「言った、というより」
平山は、言葉を選んだ。
「そういう流れに——なった、と先生は言っていました。大和屋が天誅組に金を流していたのは本当だ。それを広沢殿が先生に伝えた。先生が怒った。酒も入っていた。広沢殿は——止めなかった」
近藤は、黙っていた。
「止めないことで——先生を動かした。動いたことで——先生に傷をつけた。傷をつけたことで——先生を始末する理由にした」
白い空間に、その言葉が広がった。
近藤は、芹沢を見た。
芹沢は、水面を見ていた。近藤の視線に気づいていないわけではなかった。しかし——向き合わなかった。
「……芹沢さん」
近藤の声は、低かった。
「なぜ言わなかった」
「言えるか」
芹沢は、水面を見たまま言った。
「利用されたと——自分で気づいていて、それでも止まれなかったと。局長がそんなことを言えるか」
近藤は、黙った。
「俺が弱かったんだ。それだけのことだ。広沢殿のせいにしたところで——動いたのは俺だ。火をつけたのは俺だ。それは変わらない」
平山は、芹沢の背中を見ていた。
何も言えなかった。
言いたいことはあった。しかし——芹沢の言葉の中に、平山が踏み込めない何かがあった。
久坂は、この一部始終を聞いていた。
聞いていて——何も言えなかった。矛盾を突こうとした。しかし今、久坂の中にある言葉は、矛盾への怒りではなかった。
別の何かだった。
まだ、言葉にならなかった。
高杉は、三味線を膝に置いたまま、芹沢を見ていた。
何も言わなかった。ただ——見ていた。
松陰も、芹沢を見ていた。
責める顔ではなかった。
ただ——見ていた。
*
水面が揺れていた。
明治が映っていた。近代的な建物。汽車。制服の人間たち。そして——その端に、西洋の船が映っていた。大きな帆船が、大海を走っていた。
龍馬は、楢崎の隣に座っていた。
何も言わなかった。楢崎も何も言わなかった。二人で、水面を見ていた。
高杉の三味線が、白い空間に響いていた。
「おもしろき——こともなき世を——おもしろく——住みなすものは——心なりけり——」
久坂が、松陰の隣に立っていた。
近藤が、少し離れた場所に立っていた。土方も、山南も、沖田も、それぞれの場所にいた。
井上が、近藤の少し後ろにいた。河合が、その隣にいた。松原が、少し離れた場所にいた。三人とも、黙って水面を見ていた。
芹沢が、一人、水面の前に立っていた。
平山が、その後ろに立っていた。
少し離れて。しかし——離れすぎない場所に。
長州と江戸が、同じ空間にいた。
敵同士が、同じ水面を見ていた。
答えは出ていなかった。
しかし——何かが、ここにあった。
刀が斬れない場所で、かつて斬り合った者たちが、同じ歌を聞いていた。
水面が揺れていた。
風はない。時間はない。
ただ、揺れている。
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第8話「おもしろき、こともなき世を」——了
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