第7話「刃の先にあったもの」
以蔵は、一人でいた。
白い空間の、水面から少し離れた場所に座っていた。膝を抱えていた。水面は見ていなかった。どこも見ていなかった。
何も見たくなかった。目を閉じても、開けても、同じだった。白い空間は何も遮らなかった。壁がなかった。影がなかった。遮るものが何もないから、ただそこにある自分だけが、くっきりと残った。
顔が、浮かんでいた。
斬った相手の顔が、浮かんでは消えた。消えてはまた浮かんだ。名前を知らない顔があった。名前を知っている顔もあった。どちらも、同じように浮かんだ。どちらも、同じ目をしていた。
あの目が、以蔵には分からなかった。怒りでも、憎しみでもなかった。恨みとも少し違った。ただそこにあった。ただ以蔵を見ていた。何かを言おうとして、言えなかった目だった。言えないまま、消えた目だった。
何人斬ったか、以蔵は数えたことがなかった。
数える必要がなかった。先生が言うから斬った。斬ったら、それで終わりだった。終わりにしてきた。終わりにできると思っていた。斬る前も、斬った後も、それ以上のことは考えなかった。考えなくて済んでいた。
しかしここに来てから——浮かぶのだ。
顔が浮かぶ。声が聞こえる気がする。自分が斬った男たちの、最後の顔が、一人ずつ順番に浮かんでは消える。消えてはまた浮かぶ。誰かの顔が消えると、次の顔が来る。次が消えると、また次が来る。終わりがなかった。生きていた頃は来なかったものが、ここでは来た。止める方法が分からなかった。
怖かった。
斬ることが怖くなっていた。それだけではなかった。生きることも、怖くなってきていた。自分がここにいることが、怖かった。自分という存在が——自分の中に潜んでいるものが、怖かった。先生に言われたから斬った、と思っていた。しかし本当にそれだけだったのか。斬るとき、自分の中に何があったのか。それを問うと、以蔵は答えを見つけられなかった。見つけたくなかった、という気もした。
以蔵は膝を抱えたまま、白い空間の中に座っていた。
何もない場所だった。何もないから、余計に顔が浮かんだ。何かがあれば、そちらを見られた。しかし何もないから、自分しかなかった。自分の中にあるものしかなかった。
*
沖田総司が、以蔵の隣に来た。
音もなく来た。気配もなかった。気づいたときには、隣にいた。
沖田という男は、いつもそうだった。気づいたときには、そこにいた。生きていた頃も。この場所でも。以蔵はそれを不思議だと思ったことがあった。しかし今は、不思議だとも思わなかった。この白い空間では、音も気配も薄かった。それが普通だった。
以蔵は沖田を見た。沖田は前を見ていた。水面を見ているわけでもなく、ただ前を見ていた。その横顔は穏やかだった。しかし穏やかさの下に、何かがあった。それが何かを、以蔵はすぐには言えなかった。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
白い空間の静けさが、二人を包んでいた。言葉がなくても、その静けさは重くなかった。二人が似たものを抱えているということを、言葉より先に感じていた。同じ時代を生きたわけではない。同じ場所で戦ったわけでもない。しかし——似たものを持って、ここに来た。それが、二人の間の空気に滲んでいた。
「以蔵さん」
沖田が、静かに言った。
「何を考えていますか」
以蔵は、少し間を置いた。すぐには答えられなかった。何を考えているか、と問われると、言葉にするのが難しかった。考えというより、渦のようなものだった。形がなかった。形がないから、言葉にしにくかった。
「……斬った顔が、出てくる」
沖田は何も言わなかった。続きを待っていた。
「何人斬ったか、数えたことがなかった。けんど——ここに来てから、数えてしまう」
以蔵は、膝を抱えたまま言った。声が、いつもより低かった。低くなるのが分かったが、どうにもならなかった。
「名前も知らん顔もある。名前を知っちゅう顔もある。みんな、順番に出てくる。出てきて、消えて、また出てくる。止まらん」
言いながら、また来た。顔が来た。以蔵は目を細めた。細めても、消えなかった。
「……僕も」
沖田が、静かに言った。
「斬った人の顔を、覚えています。全員ではないかもしれない。しかし——覚えている顔がある。ふとした瞬間に、出てきます」
以蔵は沖田を見た。
「おまんも、か」
「はい」
沈黙があった。
水面が揺れていた。遠くで、明治が揺れていた。以蔵はその揺れを、視界の端で見ていた。明治という時代が何を持ってきたのか、以蔵にはよく分からなかった。自分が斬った人間たちが守ろうとしていたものが、その水面の中にあるのか。自分が斬った人間たちが壊そうとしていたものが、その水面の中にあるのか。どちらも、分からなかった。
「怖い」
以蔵が言った。声に、力がなかった。
「斬ることが、怖くなってきた。斬ることだけじゃない。生きることも——自分がここにおることも、怖い。自分が何をしてきたか、ここに来てから初めて——全部が来る」
全部が来る、と言ったとき、以蔵の体が少し震えた。震えていることに、自分で気づいた。ここには寒さがない。しかし震えた。
沖田は、以蔵を見た。
「怖い、と思えるんですね」
「怖くないがか、おまんは」
「怖いですよ」
沖田は答えた。即座に答えた。迷わなかった。
「ただ——僕は、少し違う経路でそこに来ました」
*
沖田は、しばらく黙っていた。
言おうとして、言い方を探していた。言い方が見つからないまま、言うことにした。言い方よりも、言うことの方が大事だと思った。この白い空間では、言わないことがいつまでも残った。言わないでいることが、じわじわと重くなっていくことを、沖田は知っていた。
「僕は——斬るのが、楽しかった」
以蔵は、沖田を見た。
「楽しくて仕方がない時がありました。剣を持つと、体が動いた。考えるより先に体が動いて、気づいたら相手が倒れていた。速く動けた。正確に動けた。それが——楽しかった」
沖田は、自分の手を見た。
右手を。左手を。この手が動いた。この手が剣を持った。この手が人を斬った。白い空間の中では、その手に何も残っていなかった。傷もなかった。血もなかった。しかし沖田には、この手が何をしたか、分かっていた。
「局長のため、組織のため、と言っていました。それは本当のことでした。しかし——楽しかった、というのも、本当のことでした。どちらかだけが本当だったわけではない」
以蔵は、何も言わなかった。
「池田屋でも、そうでした。壬生でも。夜の巡回でも。斬るたびに——何か、体の中に火がついたような感覚がありました。もっと速く動けるか、もっと正確に動けるか。それを試したかった。試せることが——楽しかった」
沖田の声は、平坦だった。責めているのでもなく、開き直っているのでもなかった。ただ、あったことを言っていた。あったことを、なかったことにはできないから、言っていた。
沖田は、手から目を離した。
「しかし病になって、咳が止まらなくなって——刀が持てなくなって」
間があった。
長い間があった。白い空間がその間を受け取って、静かに広げた。
「死が近づくにつれて、初めて分かったんです。命がどれだけ重いか」
以蔵は、沖田を見ていた。
「病床で寝ながら、考えました。あの人たちも、こんな感覚を持っていたのか、と。咳が出るたびに——体が言うことを聞かなくなるたびに——命がなくなっていく感覚を味わうたびに。あの人たちも、こうだったのか、と」
沖田の声は、静かだった。笑みはなかった。いつも顔に笑みを乗せている男だったが、今はなかった。それが、この話の重さを表していた。
「斬ることが楽しかった。しかし斬られた相手にも、同じだけの命があった。その重さを——僕は、楽しんでいる間は、一度も考えていなかった」
沖田は、静かに言った。
「楽しかったことを、今は怖いと思っています。あの楽しさが怖い。自分の中にあったあの感覚が、怖い。死んだ後でも、まだそれが怖い」
以蔵は、しばらく黙っていた。
沖田の言葉が、以蔵の体の中を通っていった。自分とは違う。しかし、どこか同じだった。斬り方も、理由も、全部違う。しかし——斬った後に残るものが、似ていた。以蔵には楽しさはなかった。しかし命の重さを考えていなかったことは、同じだった。考えたことがなかった。考えなかったことを、今ここで初めて、考えていた。
「おまんは——強いのぉ」
以蔵が、ゆっくりと言った。
沖田は、以蔵を見た。
「強くないです」
沖田は答えた。即座に答えた。
「死が近づいて、初めて怖くなっただけです。怖くなるのが遅すぎた。生きている間に気づけなかった。それだけのことです」
「それでも」
以蔵は言った。
「おまんは——自分でそこまで来た。わしは、まだ途中じゃ」
沖田は、以蔵を見た。
以蔵という男は、今、自分の言葉で話していた。武市の言葉ではなく、信長の言葉でもなく、自分の言葉で。それが沖田には、以蔵が変わったということの証拠に見えた。変わっている途中の人間の顔をしていた。途中の顔というのは、完成した顔よりも、何かを多く持っていると、沖田は思った。
「以蔵さんも、来ています」
沖田は言った。
「今ここで、こうして話せているんですから」
*
「難しい顔しちゅうのう」
声がした。
以蔵と沖田が振り向いた。
吉田東洋が立っていた。その後ろに、吉田松陰がいた。
二人は、いつの間にか近くにいた。どこから来たのか分からなかった。白い空間では、近づいてくる気配が分かりにくかった。距離というものが、普通とは違う動き方をした。気づいたときには、そこにいた。
松陰は少し離れた場所に立って、腕を組んでいた。歩き回っていないのは珍しかった。それほど、二人の話を聞いていたということだった。腕を組んだまま、じっと二人を見ていた。その目は静かだったが、何かを考え続けている目だった。この男はいつも考え続けていた。止まっていても、考えることは止まらなかった。
東洋は、明るい顔だった。しかしその明るさの奥に、何かがあった。軽くはない何かが。東洋という男の明るさは、何も考えていない明るさではなかった。全部を考えた上で、それでも明るくいようとする、そういう明るさだった。
「以蔵」
東洋が言った。
「わしはお前に斬られた」
以蔵は、東洋を見た。体が固まった。膝を抱えていた手が、少し強くなった。
東洋の顔が、浮かんでいた顔の一つだった。名前を知っている顔だった。武市の命令で斬った顔だった。しかし今、その顔がここにあった。浮かんでいるのではなく、ここにあった。目が合った。言葉が来た。
「責めちゅうわけではない。ただ——事実として言う」
東洋は、以蔵の前に座った。以蔵と同じ高さになった。その目が、以蔵の目を見た。逸らさなかった。逸らさせなかった。
「お前が今、あの日のことを怖いと思えちゅうなら——それはお前がまだ、人間じゃということじゃ」
以蔵は、東洋を見た。何か言おうとして、何も出なかった。
「恨んじゅうか、と聞かれたら——恨んでいない、とは言えん。正直なところ、言えん」
東洋は、静かに続けた。その声には、怒りがなかった。しかし柔らかくもなかった。ただ、正直だった。
「わしにも、命があった。やりたいことがあった。土佐を変えたかった。道半ばで考えていたことがあった。それが、あの日に終わった。それを恨まんというのは——嘘になる」
以蔵は、俯いた。東洋の言葉が体に当たった。重かった。しかし、逃げられなかった。逃げてはいけないと思った。ここで逃げたら、また顔が浮かぶだけだった。
「しかしのう、以蔵。お前が怖いと思えることと、わしが恨むことは——別の話じゃ。どちらも本当のことじゃ。どちらかを消す必要はない。わしが恨むことで、お前が怖いと思えることが消えるわけでもない。お前が怖いと思うことで、わしの恨みが消えるわけでもない」
以蔵は、東洋を見た。
斬った相手が、目の前にいた。その男が、怖いと思えることと恨むことは別の話だと言っていた。どちらも本当だと言っていた。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているのではない、と言っていた。
何かが、以蔵の中で、ほどけるような——しかしほどけきらないような、そういう感覚があった。ほどけきらなくていい、という気がした。全部がほどけたら、また別の何かが消えてしまうような気がした。消えてはいけないものが、その中にある気がした。
松陰が、以蔵の隣に来た。歩き回っていた男が、今日は歩かずに座った。腕を組んだまま、ゆっくりと座った。
「以蔵くん」
松陰が言った。
「君が斬った人たちのことを——君だけが覚えていなくていい」
以蔵は、松陰を見た。
「僕も、人を動かして死なせた。松下村塾の塾生たちが、僕の言葉を受け取って、命を使った。久坂玄瑞も、吉田稔麿も——みんな、僕の言葉の先で死んだ。その重さは——消えない」
松陰は、水面を見た。その目が、遠くを見ていた。ここではない場所を。あるいは、もうない時間を。
「しかし——消えないことと、押しつぶされることは、違う。重さを持ったまま、立っていることができる。君はすでに、その重さを持って立っておる。膝を抱えて座っていても、その問いを持ったまま、ここにいる」
以蔵は、何も言えなかった。松陰の言葉は、責めていなかった。励ましてもいなかった。ただ、見ていた。以蔵のことを、ここにいる人間として、見ていた。
「斬った顔が浮かぶということは——君がその人たちを、覚えているということじゃ。忘れていない。覚えているということが、君にできることじゃ。それだけで十分とは言わない。しかし——それが始まりじゃ」
沖田が、松陰の言葉を聞いていた。
自分にも、その言葉は届いていた。覚えている顔があった。忘れていない顔があった。病床で、天井を見ながら、その顔たちを思っていた。それが——始まりだった。始まりは、死んでからだった。遅かった。しかし始まりだった。
*
「わしの罪は——どこにあるがか」
以蔵が、ぽつりと言った。
誰に向かって言うでもなかった。しかし全員に向かって言っていた。白い空間に、その問いが広がった。広がって、どこにも吸い込まれなかった。返ってこなかった。ただ、漂っていた。
「わしの罪は、先生にあるがか。わしにあるがか。時代にあるがか。斬れと言うた人間にあるがか。斬ったわしにあるがか」
以蔵は、問いながら、自分でも分からなかった。全部にある気もした。どこにもない気もした。先生が言うから斬った。しかし斬ったのは自分だった。手を動かしたのは自分だった。それは消えなかった。どこに罪を置いても、手を動かした自分は消えなかった。
沖田が、続けた。
「僕の罪は——どこにあるんでしょう。命じられたからやった。しかし楽しんでいた。命令がなくても、やっていたかもしれない。そう思うと——どこに罪があるのか、分からなくなります」
沖田の声も、平坦だった。問いが多すぎて、声が平らになっていた。
白い空間に、その問いが残った。
東洋は、少し考えた。
すぐに答えなかった。答えが出るまで、待った。答えを出そうとして、出ない答えというものがある。出ない答えを無理に出すと、何かが歪む。東洋は、歪ませたくなかった。
「罪の所在を問うことが——罪を持つということじゃ」
全員が、東洋を見た。
「罪がどこにあるかを問える人間は、罪を持っちゅう。問えない人間は、罪を持っていないのではなく——持っていることに気づいていない。気づいていないから、問えない」
間があった。静けさが、その言葉を受け取っていた。
「わしも、お前に斬られる前は、問うたことがなかった。自分が誰かの罪になっているとは、考えたことがなかった。人間というのは——そういうもんじゃ」
東洋は、以蔵を見た。そして沖田を見た。それから、また以蔵を見た。
「お前たちは、問えちゅう。それが——お前たちが、ここで生きている理由かもしれん」
松陰が、静かに続けた。腕を組んだまま、しかし前に身を乗り出すようにして言った。
「答えは出ない。出ないけれど——問い続けることが、君たちにできることじゃ。問いを持ったまま、立っていることが」
以蔵は、その言葉を聞いた。
答えは出なかった。出なかったが——何かが、少し、軽くなった気がした。軽くなった、というより——持ち方が、少し変わった気がした。押しつぶされそうだったものが、まだ重いが、持てるものに変わった気がした。消えたわけではなかった。なくなったわけではなかった。しかし持てた。持ったまま、ここに座っていられた。
*
近藤勇が、静かに近づいてきた。
遠くから、この場を見ていた。全部聞いていた。しかし入らなかった。入るべきではなかった。これは、自分が踏み込む場ではないと思っていた。しかし今は——来た。来るべき時だと思った。何かが、今が、と言っていた。
「総司」
近藤が言った。
沖田が、近藤を見た。
「局長」
沖田の声が、少し変わった。局長、という言葉を呼ぶたびに、変わる。いつも変わる。硬くなるのではなかった。柔らかくなるのでもなかった。ただ、何かが動いた。この男の前では、何かが動かずにいられなかった。
「お前が全部背負うことはない」
沖田は、少し間を置いた。
「でも——僕が楽しんでいたのは、本当のことで」
「分かっている」
近藤は遮った。
遮り方が、柔らかかった。怒っていなかった。否定していなかった。ただ、分かっていると言った。
「俺も知っていた。お前が剣を持つと、どういう顔をするか。知っていた。あの目を、俺は何度も見た。止められた。しかし止めなかった」
沖田は、近藤を見た。
「なぜ止めなかったんですか」
近藤は、少し間を置いた。白い空間がその間を広げた。
「お前が強いから使った。お前が楽しんでいるように見えたから、止める理由を作れなかった。それが——俺の間違いだったかもしれない」
沖田は、何も言えなかった。近藤がそう言うとは、思っていなかった。近藤は責任を取る男だった。しかしこういう形で言う男だとは、思っていなかった。
「だから——お前だけが背負うことはない。俺にも、あった」
沖田の目が、わずかに動いた。動いて、止まった。止まったまま、しばらく近藤を見ていた。
近藤は、以蔵を見た。
「あなたの罪がどこにあるかは——俺には分からない」
以蔵は、近藤を見た。
「俺はあなたの敵だった。あなたが斬った人間の中に、俺の仲間もいたかもしれない。それを思うと、簡単なことは言えない」
間があった。
以蔵は、その間を受けていた。逃げなかった。近藤の言葉を、全部受けていた。
近藤は、それでも続けた。
「それでも——今、あなたがそれを問えているなら。それで、十分だ」
以蔵は、近藤を見続けた。
近藤勇という男が、自分に向かってそう言っていた。敵だった男が。幕府を守ろうとした男が。以蔵が斬った人間の仲間だったかもしれない男が。
恨まれても仕方なかった。責められても仕方なかった。しかしこの男は——それでも十分だと言った。簡単なことは言えないと言いながら、それでも言った。
以蔵は、何も言わなかった。
言えなかった。
しかし——目が、少し動いた。涙が出るわけではなかった。しかし何かが、目の奥で動いた。長い間、動かなかったものが、少し動いた。
*
五人は、水面の前に立っていた。
近藤、沖田、以蔵、東洋、松陰。
それぞれの立場が、生前は全部違った。仲間だった者も、敵だった者も、全く別の場所を歩いた者も、ここでは同じ水面を見ていた。同じ光の下に立っていた。白い空間は、過去の敵味方を問わなかった。生前の肩書きを問わなかった。ただここにいる、という事実だけを、持っていた。
罪の所在は、出なかった。
答えは、出なかった。
しかし問いは、残った。それぞれの胸に、それぞれの形で、問いが残った。問いは重かった。しかし押しつぶされない重さになっていた。押しつぶされない、というのは、軽くなったということではなかった。ただ、持てるようになった、ということだった。持てる形に変わった、ということだった。
水面が揺れていた。
明治が映っていた。その明治の中で、名前も知らない人間たちが歩いていた。以蔵が斬った人間の子孫かもしれない。沖田が斬った人間の子孫かもしれない。あるいは——近藤が守ろうとした人間の子孫かもしれない。東洋が変えようとした土佐の人間の子孫かもしれない。松陰の言葉を受け取った人間の子孫かもしれない。
あるいは——そうではないかもしれない。
分からなかった。
分からないまま、水面は揺れていた。揺れているその水面の上に、五人の影が映っていた。歪んで、揺れて、また戻っていた。
「以蔵さん」
沖田が、静かに言った。
「僕たちは——斬らない理由を、ここで考えられる」
以蔵は、沖田を見た。
「信長公が言うていた」
「斬る理由より、斬らない理由の方が難しい、と」
「はい」
沖田は、少し笑った。
いつもの笑みではなかった。軽くはなかった。しかし——笑みだった。今日初めての笑みだった。重さを持ったまま、それでも笑んだ顔だった。
「難しいことを考えられる時間が——ここにはある」
以蔵は、その笑みを見た。
おまんは強いのぉ、とまた思った。しかし今度は、声に出さなかった。
沖田が強いのではなく——沖田も、ここまで来るのに時間がかかった。来るのが遅かったと自分で言っていた。それでも来た。来るのが遅くても、来たことは本当だった。来た場所は、来るまでのことを消さなかった。来たことと、来るまでのこととが、一緒に沖田の中にあった。
以蔵は、まだ途中だった。
しかし——途中にいることが、今はそれほど怖くなかった。途中というのは、まだ動いているということだった。動いている間は、どこかに行けた。どこに行くかは分からなかった。しかし、動いていた。
水面が揺れていた。
松陰が、また歩き始めていた。いつの間にか立ち上がって、水面の周りを歩き始めていた。止まれない男が、また動き始めていた。歩きながら、何かを考えていた。あるいは考えながら、歩いていた。この男にとって、歩くことと考えることは同じことだった。
東洋がそれを見て、小さく笑った。この場所でも変わらんのぉ、と思うような笑い方だった。
近藤は、沖田の隣に立っていた。何も言わなかった。言わなくていい距離だった。隣にいることが、言葉だった。
風はない。時間はない。
ただ、揺れている。
以蔵は、水面を見た。
初めて、ちゃんと見た。浮かんでは消える顔を見るのではなく、水面そのものを見た。揺れていた。揺れながら、何かを映していた。以蔵には、それが何なのか、まだよく分からなかった。分からないまま、見ていた。分からないまま見ていられることが——少し前の自分には、できなかったことだった。
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第7話「刃の先にあったもの」——了
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