第6話「斬る理由」
酒盛りの余韻が、まだ白い空間に残っていた。
残っていた、というより——空気の中に染み込んでいた。酒の匂いがするわけではない。しかし何か、さっきまであった温度のようなものが、まだそこにあった。人が集まって、飲んで、騒いで、静かになって——その後の空気だった。賑やかだったものが静まり返ったとき、静けさはただの静けさではなくなる。さっきまであったものの形を、ちゃんと残している。その形の中に、以蔵は一人で座っていた。
水面は揺れていた。
明治が映っていた。煉瓦の建物。汽車の煙。制服の人間たち。それはいつも通りだった。以蔵はそれを見ていたが、見ていなかった。目が水面の方を向いているだけで、見ているのは別のものだった。あるいは、何も見ていなかった。
岡田以蔵は、一人でその水面を見ていた。
*
以蔵は、昨日から——昨日、という言葉がここでは意味を持たないが、とにかくあの酒盛りから——ずっと、何かを考えていた。
考えていた、というより、何かが体の中に引っかかって、取れないでいた。
中岡慎太郎の言葉だった。
答えが出た瞬間に、人は考えるのをやめる。考えるのをやめた人間が、一番危ない。
その言葉が、以蔵の体の中で、ずっと引っかかっていた。棘のように刺さっているというより——石のように沈んでいた。重くて、動かなくて、そこから離れられない何かだった。
自分はずっと、武市の答えを信じて動いてきた。武市が正しいと思った。武市の言葉が答えだと思った。だから動いた。だから斬った。
それが——考えるのをやめた状態だったのか。
以蔵には分からなかった。分からないまま、水面を見ていた。目が乾いた。しかし瞬きをするのを忘れていた。水面が揺れるたびに、映っているものが少しずつ形を変えた。建物が変わった。人が変わった。しかしどれも、以蔵の知らない世界だった。自分が死んだ後の世界だった。
武市は、少し離れた場所にいた。以蔵の方を見ていた。しかし近づいてこなかった。近づく言葉を、まだ持っていないのだと、以蔵には何となく分かった。武市半平太という男が言葉に詰まるのを、以蔵は生きている間に何度か見たことがあった。そういうときの武市の顔を、以蔵は知っていた。今の武市の顔は、あのときの顔に似ていた。
*
龍馬が、以蔵の隣に来た。
音もなく来て、隣に座った。以蔵の隣に座って、同じように水面を見た。脚を崩して、少し前のめりに、気安い座り方だった。こういう男だった、と以蔵は思った。場の空気を読んでいるのか読んでいないのか分からないが、気づくといる。気づくと隣にいる。
しばらく、何も言わなかった。
以蔵も何も言わなかった。
二人でしばらく、水面を見ていた。水面の中で、汽車が走っていた。煙を引いて、真っすぐに走っていた。あんなに速く動くものが、自分の死んだ後の世界にはあるのだと、以蔵はぼんやりと思った。
「以蔵」
龍馬が言った。
「何を考えちゅう」
以蔵は答えなかった。すぐには答えられなかった。
何を考えているか、言葉にしたことがなかった。言葉にする習慣がなかった。感じたことを言葉にする前に、体が動いた。それが以蔵という男だった。子どもの頃からそうだった。考える前に動く。動いてから後悔する。しかし後悔しても、もう遅い。そういう繰り返しだった。
「……わしは」
以蔵は、ゆっくりと言った。言葉を探すように、一つずつ出した。
「斬る理由を、自分で持ったことが——なかった」
龍馬は何も言わなかった。
言わなかったが、聞いていた。ちゃんと聞いていた。それが龍馬という男の聞き方だった。相槌も打たず、うなずきもせず、ただそこにいて、聞く。その聞き方が、以蔵には話しやすかった。
「先生が言うから、斬った。先生が喜ぶから、斬った。先生のためになると思うたから、斬った」
以蔵は水面を見たまま言った。水面の中の汽車が、遠ざかっていった。煙だけが残って、それも消えた。
「それは——人を斬る理由に、なるがか」
問いを口にした瞬間、以蔵は自分でも驚いた。こんな問いを、自分が持っていたとは思っていなかった。持っていたのかどうか、昨日まで分からなかった。しかし——あの酒盛りの後、中岡の言葉が体の中に沈んでから、この問いが浮かんできた。浮かんできて、消えなかった。
龍馬は、水面を見た。
明治が揺れていた。以蔵が斬った人間たちの、その後の世界が揺れていた。以蔵が斬らなければ、また違う世界になっていたのかもしれない。しかし誰にも分からなかった。
「……わしには分からん」
龍馬は、静かに言った。
「なるかならんか、わしには答えられん」
「そうか」
「けんど」
龍馬は続けた。少し間を置いてから、続けた。
「以蔵が今、それを問えちゅうことは——何かが変わったということじゃ。あの頃のお前には、その問いがなかった」
以蔵は、少し間を置いた。
「……変わったがか、わしは」
「変わっちゅう」
龍馬は言った。迷わずに言った。断言するでもなく、慰めるでもなく、ただ見えているものを言葉にするような言い方だった。
以蔵は、その言葉を受け取った。受け取って——どうすればいいか分からなかった。変わったと言われても、それが何を意味するのか、以蔵にはまだ掴めなかった。しかし、受け取った。受け取った言葉は、体の中のどこかに落ちて、沈んでいった。石のように沈んでいた中岡の言葉の隣に、落ちていった。
*
足音がした。
武市半平太が、近づいてきた。
遠くから聞いていた。全部聞いていた。龍馬と以蔵の会話を、離れた場所で、動かずに聞いていた。近藤が聞いていたように聞いていた。立ち入るべきではない、と思っていた。しかし——このまま黙っていることも、できなかった。武市という男は、黙ることで誠実さを示す男だったが、今この黙り方は誠実ではないと、自分でも分かっていた。
龍馬が気づいて、静かに少し場所を空けた。
以蔵が振り向いた。
「先生」
声が、思ったより小さかった。以蔵自身も気づかなかったが、小さかった。子どもが親を呼ぶような、小さな声だった。
「以蔵」
武市は、以蔵の前に立った。
何かを言おうとして——言葉を探している顔だった。謝ろうとしているのではなかった。謝る、という言葉では足りないと知っていた。足りないと知っているから、謝れなかった。しかしそれ以外の言葉を、武市はまだ持っていなかった。武市半平太という男は、言葉を持っている男だった。学問があり、論があり、言葉があった。しかし今この場面に合う言葉を、武市はまだ見つけられないでいた。
「お前に」
武市は、ゆっくりと言った。一つずつ確かめるように言った。
「問いを持つ間を、与えなかった」
以蔵は武市を見た。
「わしが命じた。お前は動いた。それだけのことだと、思っちょった」
武市は自分の声が、いつもの自分の声ではないと知っていた。張りがなかった。教壇に立つときの声ではなかった。それでも続けた。
「しかし——わしは、お前を人として見ていなかった時があった。刀として見ちょった。道具として見ちょった。それは——間違いじゃった」
以蔵は、武市を見続けていた。
武市の言葉を、一つずつ受け取っていた。受け取り方が分からなかった。これまで武市から言葉をもらうときは、命令だった。指示だった。方角だった。しかし今の言葉は、そのどれでもなかった。以蔵は、この種類の言葉の受け取り方を知らなかった。
「先生」
少し間を置いてから、言った。
「わしは、先生についていって、よかったと思うちゅう」
「以蔵——」
「先生のせいじゃない、とは言わん」
以蔵は言った。遮るように言った。しかし責めてはいなかった。ただ、正直に言った。以蔵という男は、嘘をつくのが下手だった。うまく言い繕うことができなかった。だから正直に言った。
「先生がわしを道具として使うたのは、本当じゃった。けんど——それでも、わしは先生についていきたかった。それも本当じゃ」
武市は、答えなかった。
答えられなかった。以蔵の言葉の中に、武市が予想していなかったものがあった。責めの言葉を予想していた。或いは許しの言葉を。しかし以蔵の言葉は、そのどちらでもなかった。ただ——事実だった。以蔵が感じた事実を、以蔵の言葉で言っていた。
「ただ」
以蔵は続けた。
「次があるなら——わしは、自分で考えてから斬りたい。自分の理由で」
武市は、以蔵を見た。
長い間、見た。以蔵の顔を見た。以蔵は武市から目を逸らさなかった。逸らす理由がなかった。言いたいことは全部言った。後は——武市がどう受け取るかだった。
「……そうじゃな」
武市は、ようやく言った。声が、少しだけ変わっていた。
「それが——わしがお前にしてやれなかったことじゃ」
龍馬は、二人から少し離れた場所で、水面を見ていた。
この会話に入る必要はなかった。入るべきではなかった。ただ、そこにいた。いることで、場が成り立っていた。龍馬という男は、こういうところにいるのが上手かった。中心にいるのでも、外にいるのでもなく、ちょうどいい場所にいる。
三人の間に、静けさがあった。
重い静けさではなかった。何かが終わって、次が来る前の静けさだった。
*
気配があった。
三人が、同時に気づいた。
いつからいたのか、分からなかった。気づいた瞬間には、既にそこにいた。白い空間の、少し離れた場所に、一人の男が立っていた。腕を組んで、立っていた。三人の会話を、全部聞いていた。聞きながら、何も言わなかった。割り込もうとしていたわけでもなかった。ただ——聞いていた。
背が高かった。体に、どこか異様な密度があった。静止しているのに、動いているような緊張感があった。目が、鋭かった。何もかもを等しく見ているような、しかし何もかもの価値を既に決めているような目だった。
織田信長だった。
いつからそこにいたのか。三人には分からなかった。
龍馬が信長を見た。武市が信長を見た。以蔵が信長を見た。三人とも、声が出なかった。知っている、という感覚があった。名前を知っている、ということではなく——この男の存在の重さを、どこかで知っている、という感覚だった。
しかし信長は、動じなかった。動じていないというより——最初から見ていた、という顔をしていた。審判が試合を見るような顔だった。
三人は、信長を見た。
信長は、三人を見た。
しばらく、誰も口を開かなかった。
水面が揺れていた。
信長が、口を開いた。
*
「武市」
低い声だった。静かだったが、通った。尾張の訛りが、わずかに混じっていた。呼ばれた武市の体が、わずかに固まった。固まったのは武市だけではなかった。龍馬も、以蔵も、その声に体が反応した。この種類の声を持つ男を、三人はそれぞれ知っていた。しかし信長の声はその全てより、もう少し何かが違った。
「お前の謝り方は、間違えとる」
武市が、信長を見た。
「お前は『道具として見ちょった』と言うた。しかしそれは——お前自身の罪悪感を楽にするための言葉じゃ。以蔵のための言葉ではない」
武市は、何も言えなかった。反論しようとして——できなかった。信長の言葉は、武市の言葉の構造を外から見ていた。武市は自分の言葉の中にいたから、その構造が見えていなかった。外から見た言葉を差し込まれて、武市は黙るしかなかった。
「謝るなら、もっと具体的に謝れ。何をいつ、どう間違えたか。それを言わん限り、謝罪は自己満足じゃ」
信長の声に、怒りはなかった。責めているわけでもなかった。ただ——正確だった。正確すぎて、逃げ場がなかった。
信長は、次に龍馬を見た。
「龍馬」
「……なんじゃ」
龍馬の声が、少しだけ低くなっていた。
「お前は答えを出すのを、怖がっとる」
龍馬は、少し黙った。
「以蔵に聞かれた。人を斬る理由になるか、と。お前は『分からん』と言うた。分からんのではない。答えを出したら、重さを引き受けることになる。それが怖いんじゃ」
龍馬は、反論しなかった。
反論できなかった。信長の言葉が正確だったからではなかった。正確かどうかも、まだ判断できていなかった。しかし——何かが刺さった。刺さって、抜けなかった。
信長は、最後に以蔵を見た。
「以蔵」
「……はい」
以蔵の声は、反射的に出た。この種類の呼ばれ方をしたとき、体が勝手に答えた。
「お前はまだ、誰かに許してもらおうとしとる」
以蔵は、固まった。
「自分で考えてから斬りたい、と言うた。それは正しい。しかし——お前が本当に欲しいのは、自分の理由ではなく、誰かからの『それでよかった』という言葉じゃないか」
以蔵は、答えなかった。
答えられなかった。否定する言葉が出てこなかった。否定できないから、答えられなかった。図星というより——図星という言葉では収まらない何かだった。自分の中の一番柔らかいところを、正確に指されたような感覚だった。
白い空間に、静寂が満ちた。
水面だけが、揺れ続けていた。
*
信長は、そのまま踵を返すかと思った。
しかし——動かなかった。
しばらく、水面を見た。腕を組んだまま、水面を見た。三人は信長の横顔を見ていた。信長が何を見ているのか、三人には分からなかった。水面の中の明治を見ているのか、それとも別の何かを見ているのか。
明治が映っていた。煉瓦の建物。汽車。制服の人間たち。そして——水面の端の方に、西洋の船が映っていた。黒い煙を吐いて、大海を走る船が。帆ではなく、蒸気で動く船が。信長の目が、その船の方へ向いていた。
「天下布武」
信長が言った。
独り言のようだった。しかし三人に向かって言っていた。声の向きが、三人の方を向いていた。
「儂が天下を取ろうとしたのは、武力で全てを支配したかったからではない」
龍馬が、信長を見た。
「武をもって、天下に布く——争いをなくすための武じゃ。戦のない世を作るために、戦をした。矛盾しちょるように聞こえるかもしれんが、儂にはそれしか方法が分からんかった」
武市が、信長を見た。
「儂はのう、南蛮から鉄砲を取り入れた。宣教師と話した。茶を飲んだ。能を見た。バテレンの神様の話も、面白いと思って聞いた」
信長は、水面を見たまま言った。目が、船を追っていた。
「なぜか分かるか」
誰も答えなかった。答えを求めているわけではないと、三人とも分かっていた。
「この国の外に、もっと広い世界があると知っとったからじゃ。海の向こうに、全く違う考え方をする人間がおる。全く違う神様を信じる人間がおる。全く違う戦い方をする人間がおる」
水面に、西洋の船が映り続けていた。煙が尾を引いていた。
「狭い島の中で、誰が偉いか、誰が正しいか、争っとる場合ではなかった。儂が天下を統一しようとしたのは——この国を一つにして、その広い世界に向き合う準備をするためじゃ。一つにならなければ、向き合えなかった」
龍馬は、その言葉を聞いていた。
聞きながら——何かが、胸の中で動いた。ずっとそこにあったが、名前がなかった何かが、信長の言葉に触れて、少しだけ輪郭を持った。
「……それは」
龍馬は言った。
「わしが夢見たことと——同じじゃ」
「そうじゃろ」
信長は、初めて龍馬の方を向いた。ちゃんと向いた。
「お前が開国を夢見たのも、同じことじゃ。海の向こうを見た。この国の外を見た。だから動いた。儂とお前は、見ていたものが同じじゃった」
信長は、武市を見た。
「お前が守ろうとした土佐は——その広い世界の中の、小さな小さな一点じゃ。間違いではない。しかし狭すぎた。見ていた景色が、狭すぎた」
武市は、何も言わなかった。
言えなかった。信長の言葉は、責めていなかった。蔑んでもいなかった。ただ、大きかった。自分が生きていた間に見ていた景色より、はるかに大きな景色から言われていた。大きな場所から言われると、反論の言葉が出てこなかった。反論の言葉は、同じ大きさの場所からしか出てこない。
信長は、最後に以蔵を見た。
「以蔵」
「……はい」
「斬る理由を問えるようになったなら——次は、斬らない理由を考えろ」
以蔵は、信長を見た。
「斬ることよりも、斬らないことの方が、ずっと難しい。儂もそれが分からんかったから、あれだけ斬った。それで本能寺で死んだ」
信長は、それだけ言った。
自嘲でもなく、後悔でもなく、ただ事実として言った。自分の死を、事実の一つとして言える男だった。その言い方の中に、信長という男の全部があった。
「続きは、自分でやれ」
踵を返した。
白い空間の中を、信長の背中が遠ざかっていった。足音がなかった。ただ——遠ざかっていった。遠ざかりながら、小さくなりながら、しかし密度は変わらなかった。最後まで、あの密度のまま、白の中に消えていった。
*
三人は、しばらく動かなかった。
動けなかった、というわけではなかった。動く必要がなかった。動く言葉が、まだ出てこなかった。信長の言葉が、まだそれぞれの体の中で動いていた。落ちていく途中だった。どこへ落ちるのか、まだ分からなかった。
龍馬が、水面を見た。
武市が、水面を見た。
以蔵が、水面を見た。
それぞれに、信長の言葉が残っていた。刺さり方が、三人それぞれ違った。龍馬には、答えを出す怖さについての言葉が残っていた。武市には、景色の狭さについての言葉が残っていた。以蔵には、斬らない理由についての言葉が残っていた。しかし刺さっていた。三人とも、確かに刺さっていた。
「……強い人やったな」
以蔵が、小さく言った。
感想、というより——確認だった。自分が感じたことを、声にして確かめた。
「そうじゃな」
龍馬が答えた。
「あの人も——斬らない理由を、探しちょったんじゃ」
武市が、静かに言った。
誰も答えなかった。
しかし——否定もしなかった。
水面が揺れていた。
西洋の船が映っていた。大きな帆船が、大海を走っていた。煙を引いて、まっすぐに走っていた。その船の行き先に——まだ誰も行ったことのない大陸が、広がっているような気がした。行き先が分からなくても、走っていた。走ることをやめなかった。
「できちゅうじゃ」
龍馬が、また呟いた。
今度の声は、今までとは少し違った。
答えの出ない問いを抱えた呟きではなかった。何かが——少しだけ、動いた後の声だった。動いて、どこへ向かうかはまだ分からない。しかし、動いた。それだけは確かだった。
以蔵が、水面を見たまま言った。
「……わしも、できるがか」
龍馬は、少し間を置いた。
「できる」
迷わずに言った。
以蔵は、それ以上何も言わなかった。
しかし——さっきまで体の中に沈んでいた石が、少しだけ、軽くなったような気がした。軽くなった、というより——動いた。動いて、別の場所へ落ちていった。同じ重さのまま、別の場所に落ちた。それで十分だった。
水面が揺れていた。
三人は黙ったまま、それを見ていた。
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第6話「斬る理由」——了
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