第5話「壬生の狼と、届かなかった盃」
白い空間に、人が増えていた。
最初は二人だった。それが五人になり、七人になり、今では数えることに意味がなくなっていた。幕末という時代は、人を死なせすぎた。志があろうとなかろうと、刀を持とうと持つまいと、関係なかった。時代の波に飲まれた者が、みなここへ流れ着いた。
水面は今日も揺れていた。
明治が映っていた。煉瓦造りの建物。ガス灯の並ぶ街。軍服の男たち。誰も刀を持っていなかった。水面の向こうの世界では、刀はもう必要とされていなかった。ただの、過去の遺物だった。
その水面を、二つの集団が挟んで向かい合っていた。
片方に、近藤勇。その隣に土方歳三。少し後ろに沖田総司が立っていた。山南敬助も、その場にいた。
もう片方に、芹沢鴨。その斜め後ろに新見錦。平山五郎が腕を組んで立っていた。
三人は、ずっとその場所にいた。動かなかった。近づいてもこなかった。ただ——いた。
どちらも、口を開かなかった。
しかし——空気が、重かった。
近藤の側からは、どれだけ見ても何も読めなかった。近藤は立っていた。ただ立っていた。しかしその背中が、真っ直ぐすぎた。真っ直ぐすぎることで、何かを保っているような背中だった。
土方は、視線を芹沢に向けたまま動かなかった。動かないことで、何かを押さえていた。
沖田だけが——少し違う顔をしていた。
*
この二つの集団が、かつて同じ屋根の下にいたとは、今の空気からは想像しがたかった。
壬生。
あの町で、彼らは一つの組織を作ろうとした。作ろうとして——結局、作れなかった。主導権争いがあった。暴力があった。飲んで暴れ、脅して従わせ、それでも秩序と呼んでいた。
芹沢鴨は、白い空間の中でも変わらなかった。
大柄で、どこか粗削りで、立っているだけで場の空気を変える男だった。水戸の出。その訛りは今も残っていた。目が鋭かった。鋭いが——何かを探しているような目でもあった。じっと近藤を見ていた。何かを測っていた。
「ずいぶん、立派になったじゃねえか」
芹沢が言った。近藤を見て言った。水戸訛りが、この空間に静かに広がった。
「新選組、だったか。おめえらが作った」
近藤は答えなかった。
土方が、わずかに体を硬くした。
沖田が、芹沢を見た。
「芹沢さん」
沖田が言った。
いつもと違う声だった。軽くなかった。嬉しそうだった。本当に嬉しそうだった。再会を、素直に喜んでいる声だった。
「久しぶりですね」
芹沢は沖田を見た。
「……沖田くんか」
少し間があった。
「大きくなったな」
「死んでから大きくなっても仕方ないですが」
「違いねえ」
芹沢は、少しだけ口元を動かした。笑った、と言えるかどうか分からない程度に動いた。
土方が、その沖田と芹沢のやり取りを、黙って見ていた。
「……芹沢さん」
土方が言った。
低い声だった。何かを押し込めた声だった。
芹沢は土方を見た。
「土方くん」
答え方が、静かだった。怒ってもなく、責めてもなく、ただ名前を呼んだ。それが余計に重かった。
「俺たちを消してから、な」
芹沢の声に棘はなかった。ただ、事実として言った。
「芹沢さん」
近藤が、静かに言った。
「ここでその話をしますか」
「するもしないも」
芹沢は肩をすくめた。
「ここ以外に、どこでする場所がある」
山南が、静かに口を開いた。
「芹沢」
山南の声は穏やかだった。責める色もなく、懐かしむ色もなく、ただ呼んだ。
芹沢は山南を見た。
「……山南くんか。お前もいたのか」
「ええ。しばらく前から」
「切腹したんだったな」
「そうです」
「そうか」
芹沢はそれ以上聞かなかった。山南もそれ以上言わなかった。この二人の間には、壬生での記憶があった。近藤や土方とは別の、もう少し静かな記憶が。
*
伊東甲子太郎が、少し離れた場所から、芹沢の方を見ていた。
芹沢は、伊東の視線を感じて、そちらを向いた。
伊東を見た。
じっと見た。
「……誰だ、あいつ」
芹沢が、新見に小声で言った。
「伊東甲子太郎という男です。後から新選組に入った」
「後から入った?」
「高台寺党を作って、新選組から分かれた」
芹沢は伊東を、もう一度見た。
上から下まで見た。
「シュッとしてやがる」
芹沢が言った。
「気に入らねえ」
伊東は、その視線を受けながら、表情を変えなかった。
「初めてお目にかかります。伊東甲子太郎と申します」
「俺が壬生にいた頃は、おめえはまだいなかったな」
「そうなりますね」
「ふん」
芹沢は、それきり伊東を見るのをやめた。気に入らない、という態度が、言葉よりもはっきりしていた。
伊東は、その言葉を受けた瞬間——目つきが、わずかに変わった。
一瞬だった。ほんの一瞬、何かが揺れた。プライドの高い男が、格下に扱われたときの、あの目つきだった。しかし伊東はそれを、すぐに引っ込めた。
静かに、笑みを浮かべた。
上品な笑みだった。何事もなかったような笑みだった。しかしその笑みの奥に、さっきの一瞬が、まだ残っていた。
*
龍馬は、芹沢を遠くから見ていた。
一度、会ったことがある。京の街で、擦れ違う程度に。壬生浪士組が何者かを、龍馬は知っていた。あの男があの組織の頭だということも。
芹沢が、ふと龍馬を見た。
「お前は」
「坂本龍馬じゃ」
龍馬は、あっさりと答えた。
「土佐の」
「そうじゃ。一度、会うちゅうぞ」
芹沢は少し考えた。
「……覚えてねえな」
「まあ、そうじゃろうな」
龍馬は笑った。気にしていなかった。
芹沢は龍馬を見た。値踏みするような目だったが、悪い目ではなかった。
「坂本龍馬か。名前は知っちょる」
「知っちゅうてくれて嬉しいがじゃ」
芹沢は、また口元を動かした。
*
土方は黙っていた。
粛清、という言葉が、体の奥に刺さっていた。刺さったまま、ずっと抜けなかった。
芹沢鴨の暗殺を命じたのは、土方だった。命じて、実行した。組織のためだった。新選組が新選組であり続けるために、必要なことだった。そう判断した。今でもその判断が間違いだったとは思っていない。
しかし——
ここで芹沢と向かい合うと、判断と感情が、別々に存在した。判断は正しかった。しかし感情は、何も言えなかった。
沖田が、ひょいと前に出た。
「芹沢さん、平山さん、新見さん」
軽い声だった。いつもの沖田に戻っていた。
「久しぶりですね。元気でしたか」
「死んでんだから元気も何もあるか」
平山が低い声で言った。
「まあ、そうですね」
沖田は笑った。笑い方が、この場に全くそぐわない軽さだった。しかしその軽さが、場の空気を一ミリだけ動かした。
一ミリだけ、しかし確かに動いた。
*
酒が出たのは、誰が持ち出したのか、後から誰も覚えていなかった。
気づいたら、あった。
白い空間に徳利が一本、それからもう一本、気づけばいくつか並んでいた。この場所でなぜ酒が存在できるのか、誰も問わなかった。問う必要がなかった。あるものはある。それだけだった。
最初に手を伸ばしたのは、以蔵だった。
岡田以蔵は、場の空気など気にしない男だった。というより、場の空気を読む能力と、それに従う意思が、他の人間より少なかった。徳利を取って、盃に注いで、ひと口飲んだ。
「うまい」
以蔵が言った。
誰かが苦笑した。それを合図にしたわけでもないが、次第に手が伸び始めた。
芹沢が盃を取った。新見が取った。平山が取った。
沖田が嬉しそうに取った。土方が仕方なさそうに取った。近藤が、少し間を置いてから取った。
山南が、静かに取った。
武市半平太が、静かに取った。
龍馬が、当然のように取った。
中岡慎太郎が、龍馬の隣に座りながら取った。
気づけば、座っていた。
敵も味方も関係なく、白い空間の中に輪ができていた。
*
最初はぎこちなかった。
当然だった。壬生浪士組の残党と新選組幹部が、同じ場で飲んでいる。生きていた頃には、有り得なかった光景だった。
しかし酒というものは不思議だった——この場所の酒がなぜ存在するのかは誰も説明できなかったが、とにかく不思議だった。盃が重なるにつれて、体の中の固いものが、少しずつほぐれていった。
沖田が笑い始めた。
以蔵が飲んだ。飲んで、また飲んだ。以蔵の飲み方は豪快だった。何も考えず飲む飲み方だった。それが場を和らげた。
芹沢が騒ぎ始めた。
声が大きくなった。水戸訛りが強くなった。新見が苦笑しながら止めようとした。平山が諦めた顔をした。
「芹沢さんは変わらないですね」
沖田が笑いながら言った。
「うるせえ」
芹沢が言ったが、悪い顔ではなかった。
近藤と武市が、気づけば並んで座っていた。土佐と江戸。勤王と佐幕。水と油のはずの二人が、同じ方向を向いて水面を見ていた。
土方と中岡が、静かに飲んでいた。
この二人は口数が少なかった。しかし黙って飲み続けた。互いに何も言わなかったが、それが不思議と心地よかった。組織のために生きた者同士の、無言の共鳴のようなものがあった。
山南は伊東の隣に座っていた。二人とも、盃を持ったまま、それぞれ水面を見ていた。
*
どれくらい経ったか分からなかった。
ここでは時間が意味を持たない。しかしその夜——夜と呼んでいいかどうか分からないが、とにかくその時間——は、ゆっくりと流れていた。
近藤が、盃を持ったまま言った。
静かな声だった。
「芹沢さんは」
芹沢が近藤を見た。
「酒さえなければ」
間があった。
「立派な侍でした」
芹沢は答えなかった。
答えるかと思ったら、答えなかった。盃の中を見ていた。水面が揺れるように、盃の中の酒が小さく揺れていた。
近藤は続けなかった。言いたいことは言った。それだけだった。
しばらくして、芹沢が口を開いた。
「……近藤さんが」
低い声だった。水戸訛りが、このときだけ柔らかかった。
「眩しかったんだ」
近藤は、芹沢を見た。
「正直に言うとな。新見も平山も言わねえから、俺が言う」
芹沢は盃を置いた。
「真っ直ぐな奴が、嫌いだった。ずっと嫌いだった。じゃあなぜ嫌いなのか——たぶん、眩しかったんだ。俺には持てないものを持ってたから」
誰も口を挟まなかった。
土方が、盃を持ったまま動かなかった。
「そういう奴を、俺は壊したくなる」
芹沢は続けた。
「生まれつき、そういう性分だ。だから酒を飲んだ。飲んで暴れた。それが俺だ」
「芹沢さん」
近藤が言った。
「俺は」
少し考えてから、言った。
「あなたを、恨んでいません」
芹沢は近藤を見た。
「……馬鹿か、おめえは」
「よく言われます」
近藤は笑った。
芹沢は笑わなかった。しかし目の端が、わずかに動いた。
山南が、その二人を見ていた。
静かに、盃を口に運んだ。
*
伊東甲子太郎は、少し離れた場所からその光景を見ていた。
優雅な男だった。立ち方も、目の動かし方も、全てに品があった。しかし品の中に、何かが隠れていた。何かを常に測っている目だった。
伊東は盃を持ったまま、輪の中を眺めていた。
近藤と芹沢。土方と中岡。龍馬と武市。沖田と以蔵。
ありえない組み合わせが、ありえない場所で、同じ酒を飲んでいた。
「我々は」
伊東は静かに言った。
誰に言うでもなく、しかし全員に聞こえる声で言った。
「もっと早く、こうするべきだったのかもしれない」
誰も否定しなかった。
近藤も。土方も。芹沢も。龍馬も。
否定する言葉が、誰にも出なかった。
もっと早く——そのたった一言が、全員の胸に刺さっていた。生きていた頃に、こうして向かい合うことができていたら。刀ではなく言葉で向かい合っていたら。何かが変わったかもしれなかった。変わらなかったかもしれなかった。
しかしその可能性が、間に合わなかった。
それだけは、確かだった。
*
一瞬、その場が完成した。
完成、という言葉が正しいかどうか分からない。しかしその瞬間、何かが完成した。
近藤と武市が並んでいた。土方と中岡が飲んでいた。龍馬が笑っていた。沖田が笑っていた。芹沢が騒いでいた。以蔵が飲んでいた。新見が苦笑していた。平山が諦めていた。伊東が眺めていた。山南が静かに飲んでいた。
新選組と、尊王攘夷の志士が、同じ場所にいた。
かつて命を賭けて争った者たちが、今は同じ酒を飲んでいた。
それは奇跡でも和解でもなかった。
ただ——間に合わなかった、何かの残像だった。
*
誰かが、過去に触れかけた。
誰だったか、後から誰も言わなかった。しかし誰かが、何かを言いかけた。池田屋のことか。禁門の変のことか。壬生でのことか。あるいはもっと個人的な、取り返しのつかない何かのことか。
言いかけて——止まった。
場の空気が、一瞬止まった。
完全には壊れなかった。しかし、元には戻れなかった。さっきまであった温度が、少しだけ下がった。下がったまま、誰も戻し方を知らなかった。
その沈黙の中で——
遠くから、声が聞こえてきた。
*
「だから言うたがね! そこは儂の石だがね!」
甲高い声だった。尾張の訛りが強かった。
「何を言う。わしが先に置いたんじゃ」
もう一方の声は、三河の訛りがあった。落ち着いた声だったが、内容は全く落ち着いていなかった。
「嘘こきゃあがって! ズルしたがや! この三河者がぁ!」
「ズルなどしとらん。お前が目を離したもんで——」
「目ぇ離した隙にやるのがズルっちゅうんじゃ! これだから三河者はいかんわ! この狸ジジイが!」
「誰がジジイじゃ。このハゲネズミめが」
「ハゲ言うなってぇ!」
白い空間の向こうから、二つの声が近づいてきた。
一人は小柄で、猿のような動きをしていた。手が長く、顔が明るく、怒っているのに何となく愛嬌があった。声が大きかった。よく通る尾張弁が、白い空間に響いた。
もう一人は丸々として、貫禄があった。怒られているのに動じなかった。どこか飄々として、狡猾さと愛嬌が同居していた。三河弁は穏やかだったが、言葉の中身は穏やかではなかった。
二人の間に、もう一人いた。
細身で、生真面目な顔をした男が、二人の間に入ろうとしていた。近江の言葉を使っていた。
「お二方、お止めください。ここは——」
「三成は黙っとれ!」
「そうじゃそうじゃ、お前は引っ込んどれ!」
二人に同時に怒鳴られ、三成は押し黙った。しかし諦めなかった。また二人の間に入ろうとした。
輪の中にいた全員が、その三人組を見ていた。
龍馬が口を開けていた。沖田が目を丸くしていた。以蔵が徳利を持ったまま固まっていた。近藤が首をかしげた。武市が眉間に皺を寄せた。芹沢でさえ、騒ぐのを忘れていた。
「誰ですか、あの人たち」
沖田が龍馬に聞いた。
龍馬はしばらく眺めてから、ゆっくりと答えた。
「……歴史じゃ」
近藤が、二人をじっと見た。
「あの小柄な方が——太閤様、ですか」
「そうじゃ」
「大きい方が——大権現様」
「そうじゃな」
近藤は、しばらく黙った。
教科書で習ったような二人が、白い空間で囲碁の石を巡って怒鳴り合っていた。
小柄な方が、また口を開いた。
「ええか家康! 儂が言うちゃるけどな! お前は昔っからずる賢いがや! 桶狭間の時も、関ヶ原の時も——」
「桶狭間の時はわしはまだ——」
「関係ないがね! この三河者がぁ!」
「ハゲネズミに言われとうないわ」
「なんじゃとォ! 今なんて言うたがね!」
三成が、また二人の間に入った。
「お二方、声が大きゅうございます。他の方々が——」
「三成はええから黙っとれっちゅうとるがや!」
「しかし——」
*
その声を、断ち切るものがあった。
声ではなかった。気配だった。
全員が、同時に気づいた。
白い空間の中に、新しい濃さが生まれていた。さっきまでなかった重さが、どこかに満ちていた。
一人の男が立っていた。
言い争っていた二人の後ろに、いつの間にか立っていた。背が高く、細く、どこか異質だった。着物の合わせが独特だった。尾張の空気を纏っていたが、小柄な男とは全く別の種類の尾張だった。目が、この場の全員を一瞥した。一瞥しただけで、全てを見終えたような目だった。
「……くだらねえ」
低い声だった。尾張弁だったが、荒くはなかった。静かだった。
それだけだった。
「サル」
言い争っていた小柄な男が、固まった。
「竹千代」
丸々とした男が、固まった。
「三成」
三成が、安堵したような顔をした。
「黙れ」
三人が、同時に黙った。
男は輪の中を見渡した。
新選組も。土佐の志士たちも。壬生浪士組の残党も。水面に映る明治も。全部を、一秒で見渡した。
何も言わなかった。
言う必要を感じていないような顔だった。
そして——
「サル。竹千代。三成」
もう一度、静かに言った。
「ついてこい」
踵を返した。
小柄な男が、しぶしぶついていった。丸々とした男が、ため息をついてついていった。三成が、複雑な顔をしてついていった。
三成の顔が、複雑だった。
命令されるのは分かる。黙れと言われるのも分かる。しかし——サルでも竹千代でもなく、三成と名前で呼ばれながら、同じように「黙れ」と言われた。その複雑さが、三成の顔に全部出ていた。
誰も呼び止めなかった。呼び止める言葉が、誰にも出なかった。四人の背中が白い空間の中に消えていくまで、全員が黙っていた。
消えた後も、しばらく誰も口を開かなかった。
その場にあった温度が、さっきとはまた別の形で変わっていた。壊れたわけではなかった。しかし何かが、上から圧されたような感覚があった。
*
「……強い人やったな」
誰かが呟いた。
芹沢が、珍しく神妙な顔をしていた。
「あれは」
芹沢が、龍馬に聞いた。
「織田信長じゃ」
龍馬は静かに答えた。
「太閤秀吉に、徳川家康か」
芹沢が言った。
「そうじゃ」
近藤が、消えた方向を見たまま言った。
「大権現様が……あんな方だとは」
「太閤様もあんな感じじゃったとは思わんかった」
武市が、珍しく呆然とした顔で言った。
芹沢は、消えた方向をしばらく見ていた。
「……水戸でも、あの人の話はよく聞いた」
それだけ言って、盃を口に運んだ。
しばらくして、遠くから声が聞こえてきた。
「家康! お前がさっき——」
「うるさいわ、サルめ」
「三成、聞いたかぁ! この三河者がぁ!」
「お二方……」
三成の声に、疲れが滲んでいた。
龍馬が、その声を聞きながら言った。
「……人間、変わらんのやな」
誰も答えなかった。
近藤が、静かに頷いた。
土方が、盃を口に運んだ。
芹沢が、また騒ぎ始めた。
*
水面は揺れていた。
酒の匂いが——あるような気がした。実際にあるかどうかは分からなかった。しかし、そういう気がした。
近藤と芹沢の間に交わされた言葉が、水面の揺らぎの中に溶けていった。届かなかった盃が、届かなかったままそこにあった。間に合わなかった関係が、間に合わなかったまま、ここに在った。
答えは出ていなかった。
分かり合えたわけでもなかった。
しかし——何かが、一夜だけ、存在した。
刀が斬れない場所で、かつて斬り合った者たちが、同じ酒を飲んだ。
それだけのことが、それだけのことでは、なかった。
遠くで、囲碁の言い争いが続いていた。
三成の声が聞こえた。
二人の怒鳴り声が聞こえた。
風はない。時間はない。
ただ、揺れている。
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第5話「壬生の狼と、届かなかった盃」——了
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