第4話「正義の値段」
水面が、今日は違うものを映していた。
学校ではなかった。議会でもなかった。
軍隊だった。
整列した兵士たちが映っていた。揃いの軍服を着て、銃を肩に担いで、隊列を組んでいた。旗があった。どこかへ向かっていた。その先に何があるのかは、水面には映っていなかった。しかし向かっていることだけは、はっきりと分かった。
龍馬は腕を組んで、その映像を見ていた。
長い間、黙って見ていた。いつもなら何か呟く。しかし今日は黙っていた。
近藤も黙って見ていた。
軍隊の整列には、見覚えがあった。隊列の組み方、旗の立て方、兵士たちの間合い——新選組が京でやっていたことと、形だけは似ていた。しかし何かが、根本的に違った。何が違うのか、近藤にはまだ言葉にできなかった。
水面が揺れた。
兵士たちの向こうに、煙が見えた。
*
「また増えちゅうな」
声がした。
龍馬が振り向いた。
中岡慎太郎が立っていた。
いつの間に来たのか、分からなかった。龍馬の隣に、当然のように立っていた。背筋が真っ直ぐで、目が鋭かった。龍馬のような飄々とした雰囲気はなかった。地面に根を張ったような、静かな重さを持つ男だった。
「慎太郎」
龍馬が言った。
名前を呼んだだけだった。しかしその声に、久しぶり、という感情と、来るとは思っていた、という感情が、両方混じっていた。
「龍馬」
中岡は答えた。
それだけだった。二人はそれ以上何も言わなかった。しかし言わなくてよかった。近江屋で同じ夜に斬られた二人には、言葉より先に伝わるものがあった。
中岡は周囲を見渡した。
近藤を見た。土方を見た。沖田を見た。武市を見た。以蔵を見た。
「土佐と江戸と、随分混ざっちゅうな」
「ここはそういう場所じゃ」
龍馬は答えた。
「龍馬らしい」
中岡は言った。呆れているのか、納得しているのか、判断のつかない言い方だった。
近藤が中岡を見た。
「坂本さんの——」
「中岡慎太郎じゃ」
中岡は近藤に向き直って、静かに言った。
「龍馬とは、土佐で一緒じゃった。近江屋でも——一緒じゃった」
近藤は、中岡を見た。
近江屋。龍馬が斬られた夜に、同じ場所にいた男だ。
「ご苦労でしたね」
近藤は言った。
中岡は少し間を置いてから、答えた。
「お互いに」
*
水面の軍隊が、まだ映っていた。
龍馬が、ようやく口を開いた。
「わしが夢見た国が——戦をしちゅう」
誰に言うでもなく、言った。
近藤が龍馬を見た。
「国ができれば、守らなければならない」
近藤は言った。
「外から脅かされれば、応えなければならない。それは——当然のことです」
「当然か」
龍馬は水面を見たまま言った。
「守るために、また人が死ぬ。わしが夢見たのは、人が死なん国じゃった。けんど下にあるのは、死に方が変わっただけの国じゃ」
「死に方が変わったのなら——何かが変わったということでは」
「そうじゃろか」
龍馬は、近藤を見た。
「近藤さんは、どう思う。あの兵隊たちを見て」
近藤は水面に目を戻した。
整列した兵士たちを見た。顔のない兵士たちを。命令に従って動く兵士たちを。
「俺たちと——同じだ、と思う」
近藤は、静かに言った。
「何かを守るために動いている。その点では、同じだ」
「同じか」
中岡が、静かに割って入った。
龍馬でも近藤でもなく、中岡が言った。
「龍馬は夢を見る。近藤さんは秩序を見る。わしは——現実を見る」
中岡は水面を見た。
「あの兵隊たちが守ろうとしているものが何か、死んでいく者たちが何のために死ぬのか——それが分からなければ、同じとも違うとも言えない」
近藤は、中岡を見た。
龍馬とは違う硬さだった。龍馬が言葉を広げる男だとすれば、中岡は言葉を絞る男だった。
*
そのとき、白い空間の向こうから、声が聞こえてきた。
「おい、お前——吉田いうんか」
明るい声だった。
吉田東洋が、歩き回っている松陰を見つけて、声をかけていた。
松陰は歩きながら振り向いた。止まらなかった。
「そうじゃ。君は誰じゃ」
「わしも吉田じゃ。吉田東洋いうて、土佐の参政をしちょった」
松陰は、初めて足を止めた。
東洋を見た。
「吉田同士か」
「奇妙じゃろう」
東洋は笑った。明るい笑い方だった。初対面の男に対して、まるで旧知のように笑った。
「お前が吉田松陰か。名前は聞いちょった」
「どこで」
「武市から、じゃないな。武市はお前の話を直接はせんかった。けんど——お前の影響を受けた連中が、土佐をずいぶん騒がせたき。間接的に知っちゅう」
松陰は、東洋を見た。
「君がその参政か。武市が最も恐れ、最も憎んだ男か」
「そうじゃ」
東洋は、あっさりと言った。
「で、以蔵がわしを斬った」
松陰は、少し間を置いた。
「……それは、武市の判断じゃ。僕の言葉が直接そこに繋がったとは——言えん」
「分かっちゅう」
東洋は笑ったまま言った。責める顔ではなかった。
「お前を責めちゅうわけじゃない。ただ——武市がああなったのも、時代がああなったのも、全部繋がっちゅう、とは思う。お前のせいでもなく、わしのせいでもなく、あの時代がそうさせたがじゃ」
松陰は、東洋を見た。
怒っているのでも試しているのでもなく、ただ事実を整理している男がいた。
「君は——冷静じゃのう」
「死んだら冷静になるがじゃ」
東洋は笑った。
「お前はどうじゃ。武市のことを、どう思うちゅう」
松陰は、少し考えた。
「武市は——正しかったと思うちゅう。志のために動いた。しかし」
松陰は水面を見た。
「やり方が、惜しかった」
東洋の目が、わずかに動いた。
「……それはわしも言うた」
「同じことを、二人が言うちゅうということじゃ」
しばらく、二人は黙った。
遠くで龍馬が、この二人を見ていた。
「あの二人」
中岡が龍馬の隣に来た。
「なんじゃ」
「なんか——似ちゅう」
龍馬は、どこか面白そうに言った。
「似ちゅうか」
「どっちも、自分のやり方で土佐と長州を変えようとしちょった。立場は全然違うけんど、見ちょったものは近かったかもしれん」
中岡は、東洋と松陰を見た。
「言われてみれば、そうじゃな」
「ああいう二人が、生きているうちに話せちょったら——どうなっちょったかのう」
龍馬は呟いた。
答えは出なかった。
*
東洋と松陰は、いつの間にか水面の前に並んでいた。
どちらからともなく、そうなっていた。
水面に、学校が映っていた。さっきの軍隊の映像が消えて、また子どもたちが映っていた。
「学校ができちゅう」
東洋が言った。
明るい声だったが、水面を見る目は真剣だった。
「身分関係なしに、子どもが学べる場所が」
「そうじゃ」
松陰が言った。
「僕が夢見ておったものじゃ。形は全然違うが——確かに、ある」
「わしが土佐でやろうとしちょったことも、そういうことじゃった」
東洋は言った。
「身分がどうとか、家柄がどうとか——そういうことより、その人間に何ができるかを見る。才のある者を取り立てる。土佐をそういう場所にしたかった」
「君は思想家ではないが」
松陰が言った。
「同じものを見ておったのじゃのう」
「思想家は好かんけど」
東洋は笑った。
「お前は好きじゃ」
松陰は少し笑った。
珍しい笑い方だった。松陰という男は、笑うとき大抵何かを確信している顔で笑う。しかしこのときは違った。少し意外だという顔で、笑った。
「君のような人間が土佐におったとは——知らなんだ」
「君のような人間が長州におったことは——噂には聞いちょった」
東洋は言った。
「松下村塾の話は、土佐にも届いちょった。身分に関係なく学ばせる塾が長州にある、と。わしがやろうとしちょったこととよう似ちゅう、と思うちょった」
松陰は、東洋を見た。
「それが君か」
「それがわしじゃ」
二人は並んで、水面を見た。
学校が映っていた。子どもたちが映っていた。刀のない世界が映っていた。
東洋が、ゆっくりと言った。
「この国は——どうなるんじゃろな」
「どうにでもなる」
松陰は答えた。
「人が作るものじゃけぇ。良くも悪くも、人次第じゃ」
「楽観的じゃのう」
「楽観ではない」
松陰は言った。
「人を信じておるだけじゃ」
東洋は、その答えを聞いて、少し黙った。
「……わしには、なかなかそうは思えん」
「思えぬでも、信じることはできる」
松陰は言った。歩き始めながら言った。止まれない男が、また動き始めていた。
「信じることと、確信することは、違うけぇ」
東洋は、歩き始めた松陰の背中を見た。
そして、小さく笑った。
*
武市が、東洋と松陰の背中を見ていた。
二人が並んで水面を見ていた時間を、少し離れた場所から見ていた。
「正義とは、何じゃ」
武市が言った。
誰に向かって言ったのか、分からなかった。全員に向かって言ったのか、自分に向かって言ったのか、それすら分からなかった。ただ、言わずにはいられなかった。
誰も、すぐには答えなかった。
水面が揺れていた。
東洋は土佐を変えようとした。松陰は学問で国を変えようとした。龍馬は国の形を変えようとした。近藤は幕府を守ろうとした。土方は秩序を守ろうとした。武市は土佐を変えようとした。以蔵は武市のために刀を振るった。
みな、正しいことをしようとしていた。
みな、正義があると思っていた。
それでも、斬り合った。
「正義は」
土方が、静かに言った。
「守る者が決める」
誰も反論しなかった。
しかし龍馬が、ゆっくりと口を開いた。
「それは正義じゃない」
土方を見た。
「力じゃ」
「同じことだ」
土方は答えた。
間があった。
「同じではない」
中岡が言った。
龍馬でも土方でもなく、中岡が言った。静かな声だった。しかし芯があった。
「しかし——切り離せない」
中岡は続けた。
「正義と力は、別物じゃ。しかし力のない正義は、誰にも届かない。届かない正義は、正義として機能しない。だから力が必要になる。しかし力が先に来ると、今度は正義が力に食われる」
沈黙があった。
「どこで折り合うんか、わしにも分からん。ただ——それを考え続けることを、やめてはいけない、とは思う」
武市は、中岡を見た。
「考え続けても、答えが出なければ」
「出なくていい」
中岡は言った。
「答えが出た瞬間に、人は考えるのをやめる。考えるのをやめた人間が、一番危ない」
以蔵が、中岡を見ていた。
難しい話だった。以蔵には難しかった。しかし——何かが、体に届いた。答えが出た人間が一番危ない、という言葉が。自分はずっと、武市の答えを信じて動いていた。武市の答えが正しいと信じていた。信じることと、考えることは、違ったのだろうか。
以蔵は、その問いを抱えたまま、黙っていた。
*
水面が、また変わっていた。
軍隊が映っていた。しかし今度は行進ではなかった。戦場らしい場所が映っていた。煙があった。倒れている者がいた。
龍馬は、その映像から目を離さなかった。
中岡が龍馬の隣に立った。
「次は何が来るんじゃろな」
中岡が言った。
龍馬は少し間を置いてから、答えた。
「さあのう」
「龍馬らしくない答えじゃ」
「らしくないか」
「いつもなら、こうなる、と言う」
「言えん、というときもある」
龍馬は、水面を見たまま言った。
「わしが夢見たものと、あの水面に映るものが——遠すぎて、今日はよう繋げんがじゃ」
中岡は、龍馬を見た。
龍馬が弱いことを言うのは、珍しかった。珍しくて——しかし、中岡には自然に聞こえた。この男がずっと強いふりをしていたわけではない。ただ、弱さを見せる相手を選んでいただけだ。
「ここには時間があるき」
中岡は言った。
「急がんでいい」
龍馬は、中岡を見た。
少し笑った。
「お前に言われるとは、思わんかった」
「わしも思わんかった」
中岡は、珍しく笑った。
水面が揺れていた。
東洋と松陰が、まだ水面の前にいた。松陰がまた歩き始めていたが、東洋がついていっていた。東洋が松陰についていく、という光景は、何か奇妙で——しかし自然だった。
近藤が、その二人を見ていた。
「あの二人は」
「土佐と長州の、古いものをぶち壊そうとした人間じゃ」
龍馬が答えた。
「生きているうちに会えちょったら、面白かったと思う」
「ここで会えたがじゃ」
「そうじゃな」
龍馬は言った。
「間に合わんかったことが——ここで間に合うことも、あるがじゃ」
水面が揺れていた。
戦争が映っていた。
しかし水面の端の方に、また学校が映っていた。子どもたちが、本を持って歩いていた。
*
山南敬助は、静かに現れた。
騒がしくもなく、劇的でもなく、ただ——いた。気づいたときには、白い空間の中に立っていた。
近藤が最初に気づいた。
「山南さん」
声が、少し変わった。土方でも沖田でもなく、山南だった。新選組の中で、近藤が最も古くから知っている男だった。試衛館の頃からの仲間だった。
山南は近藤を見て、静かに笑った。
いつもの笑い方だった。穏やかで、どこか諦めを含んでいて、しかし温かい笑い方だった。山南敬助の笑い方は、生きていた頃からそうだった。
「近藤さん」
「よく来た」
「来るのが遅くなりました」
「そんなことはない」
近藤は言った。
土方が、山南を見ていた。何も言わなかった。山南と土方の間には、言葉では片付かないものがあった。山南が新選組を脱走しようとして、土方の命令で沖田が追い、山南は切腹した。それだけの話ではなかった。しかしそれだけの話でもあった。
沖田が山南を見た。
沖田の顔が、今日一番——何かを押さえている顔になった。いつもの笑みが、薄かった。
「山南さん」
沖田が言った。
「総司」
山南は答えた。穏やかに答えた。責める色がなかった。恨む色もなかった。ただ——山南だった。
沖田は何も言えなかった。
言えないまま、山南の隣に立った。
*
伊東甲子太郎は、山南とほぼ同時に現れた。
しかし山南とは正反対の現れ方だった。
気配があった。優雅な気配だった。どこかから見ていた——という気配だった。この場の全員を、少し離れた場所から眺めていた。それがいつの間にか輪郭を持ち、一人の男になっていた。
背が高く、所作が整っていた。着物の着方が美しかった。目が、静かに場を読んでいた。
伊東甲子太郎だった。
土方が、すぐに気づいた。
気づいて——表情が変わった。変わった、というより、固まった。
「伊東」
土方が言った。
声に、何かが混じっていた。
伊東は土方を見た。
「土方さん」
答え方が、丁寧だった。丁寧すぎた。その丁寧さの中に、刃が入っていた。伊東甲子太郎という男の言葉は、いつもそうだった。表面が滑らかであるほど、奥が鋭かった。
「久しぶりですね」
「そうだな」
土方は短く答えた。
伊東は、場全体を見渡した。龍馬を見た。中岡を見た。武市を見た。
「土佐の方々も」
伊東が言った。
「面白い場所になっていますね、ここは」
龍馬が伊東を見た。
初めて見る顔だった。しかし——何かを知っているような目をしていた。知略を持つ人間の目だ、と龍馬は思った。
*
山南が、水面を見ながら言った。
「明治が映っているんですね」
「そうじゃ」
近藤が答えた。
「ずっと見ていたんですか」
「ずっと見ている」
山南は、水面をしばらく見た。軍隊が映っていた。学校が映っていた。刀のない人間たちが映っていた。
「新選組が守ろうとしたものは——もうないですね」
山南は、静かに言った。責める言い方ではなかった。ただ、確認していた。
「ない」
近藤は答えた。
「それでも」
山南は続けた。
「守ろうとしたことは——あった」
「……ああ」
近藤は、短く答えた。
その一言に、何かが詰まっていた。
伊東が、二人の会話を聞いていた。聞きながら、水面を見ていた。伊東という男は、場の中心にいなくても、場の全てを把握していた。
「面白いことを聞いていいですか」
伊東が言った。
全員が伊東を見た。
「坂本さん」
伊東は龍馬に向かって言った。
「あなたは——誰に斬られたか、分かっていますか」
場の空気が、変わった。
*
龍馬は、伊東を見た。
表情は変わらなかった。しかし目が、少し違う色になった。
「分からん」
龍馬は答えた。
「今でも、分からん」
「諸説ありますね」
伊東は言った。相変わらず、丁寧な声だった。
「見廻組という説。薩摩という説。そして——新選組という説」
その言葉が、空気を変えた。
土方が、伊東を見た。
近藤が、伊東を見た。
中岡が、わずかに体を動かした。
「伊東」
土方が言った。低い声だった。
「何が言いたい」
「何も」
伊東は答えた。
「ただの事実の確認です。いくつかの説がある。それだけのことです」
「新選組は——」
「土方さん」
伊東は遮った。
遮り方が、柔らかかった。しかしその柔らかさが、余計に鋭かった。
「ここで争うつもりはありません。刀も斬れない場所ですし」
少し笑った。
土方は何も言わなかった。
山南が、静かに言った。
「伊東さん」
「山南さん」
「それを今、ここで言う必要が——本当にありましたか」
伊東は、山南を見た。
少し間があった。
「……なかったかもしれませんね」
伊東は、珍しく、素直に言った。
山南は頷いた。
龍馬が、その一部始終を見ていた。
*
中岡が、龍馬の隣に来た。
静かに来た。
「龍馬」
「分かっちゅう」
龍馬は言った。
「何が」
「今、お前が何を思うちゅうか」
中岡は少し間を置いた。
「……分かるか」
「分かる。わしらは同じ夜に斬られた。同じ場所で」
龍馬は水面を見たまま言った。
「犯人が誰かは、わしにも分からん。今でも分からん。しかしここにいる連中の中に——関係した者がいるかもしれん、ということは、分かっちゅう」
「それで」
「それでも」
龍馬は、中岡を見た。
「ここは、そういう場所じゃないと思うちゅう。誰が斬ったかを裁く場所じゃない」
中岡は、龍馬を見た。
龍馬らしい、と思った。龍馬らしくて——しかし今は、それが中岡には少し、重かった。
「わしは——お前ほど割り切れん」
中岡は言った。
「そうじゃな」
龍馬は答えた。
「割り切らんでいい。ただ——」
龍馬は水面に目を戻した。
「今は、まだそのときじゃない、と思うちゅう」
中岡は、龍馬の横顔を見た。
水面が揺れていた。戦争が映っていた。学校が映っていた。
中岡は、何も言わなかった。
ただ、龍馬の隣に立っていた。
*
伊東は、少し離れた場所で、山南の隣に立っていた。
奇妙な取り合わせだった。新選組を内部から分裂させようとした男と、新選組の良心と呼ばれた男が、並んでいた。
「山南さんは」
伊東が言った。
「ここに来て、後悔していますか」
山南は、少し考えた。
「何を後悔するかによりますね」
「脱走を試みたことを」
「後悔していません」
山南は静かに言った。
「では——切腹したことを」
「それも」
「なぜ」
「自分で決めたことですから」
伊東は、山南を見た。
「私は」
伊東は言った。
「後悔していることが、あります」
山南は、伊東を見た。
「油小路のことですか」
伊東は答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
山南は、それ以上聞かなかった。
二人は並んで、水面を見た。
明治が揺れていた。
新選組が守ろうとした世界の、その後が、静かに揺れていた。
*
空気が、変わった。
山南と伊東が気づいた。龍馬と中岡が気づいた。近藤が気づいた。土方が気づいた。
誰かが来ていた。
一人ではなかった。
白い空間の、遠い端の方に、三つの影があった。さっきまでなかった。いつの間にか、そこにあった。近づいてくるわけでもなかった。ただ——いた。
影の中心にいるのは、大柄な男だった。
立っているだけで、場の空気が変わった。圧があった。威があった。機嫌がいいのか悪いのか、遠くからでは分からなかった。しかしどちらにせよ、近づきたいとは思わない、という種類の気配だった。
その男の斜め後ろに、もう二人の影があった。
一人は細く、どこか狡猾な目をしていた。もう一人は太く、ただそこにいるだけで威圧感があった。
三人は動かなかった。
ただ、こちらを見ていた。
近藤の体が、わずかに硬くなった。
土方の目が、細くなった。
沖田は笑みを消した。
その変化を見て、龍馬が近藤に小声で言った。
「知っちゅう人かえ」
近藤は答えなかった。
答えるより先に、土方が口を開いた。
「……芹沢だ」
低い声だった。感情を押し込めたような、それでいて何かが滲み出ているような声だった。
芹沢鴨。
新選組の前身、壬生浪士組の筆頭局長。近藤と並ぶ——いや、当時は近藤より上に立っていた男。水戸出身。酒と暴力と、しかしその奥に何かを持っていた男。
後ろの二人は新見錦と平山五郎。芹沢の側近だった。
三人は動かなかった。
こちらを見ていた。見ているだけだった。
しかし——その三人がそこにいるだけで、白い空間の空気が、明らかに変わっていた。さっきまで山南と伊東が纏っていた静かな重さとは、全く別の重さだった。
剥き出しの、何かだった。
龍馬は三人を見た。
武市は、三人を見た。
以蔵は——体が動かなかった。新選組、という言葉より先に、壬生浪士組の気配が体に来た。京の夜に、何度も感じた気配だった。
誰も、次の言葉を出さなかった。
芹沢は動かなかった。
ただ立っていた。
水面が揺れていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第4話「正義の値段」——了ーー
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━




