第3話「言葉が、人を狂わせる」
水面は揺れていた。
明治が映っていた。
今日の映像は、今までと少し違った。石造りの建物ではなく、木造の建物が映っていた。瓦屋根で、縁側があって、庭があった。しかしその建物の中に、子どもたちがいた。揃いの服を着て、机に並んで座っていた。先生らしい男が、黒板の前に立っていた。黒板、という言葉を龍馬は知らなかった。しかしその板の前に立つ男の姿は、龍馬の知っている何かに似ていた。
学校だ、と思った。
龍馬は腕を組んで、その映像を見ていた。少し首を傾けて。表情は穏やかだったが、目の奥に何かがあった。松陰先生が夢に見ていたものが、あの水面の中にある。形は違うかもしれない。しかし確かに、ある。
子どもたちの顔は、それぞれ違った。揃っているのは服と机だけで、顔は違った。笑っている子どもがいた。つまらなそうにしている子どもがいた。一生懸命に板の文字を写している子どもがいた。それが龍馬には、なぜか——よかった、と思えた。
その考えが浮かんだ瞬間——龍馬は白い空間の遠くに目を向けた。
気配があった。
*
最初に聞こえたのは、声だった。
姿より先に、声が届いた。
白い空間の向こうから、言葉が流れてきた。誰かに向かって話している。しかし周りに誰もいない。それでも話している。止まらない。歩きながら、話し続けている。何かの続きを話しているような口調だった。どこかから始まって、どこかへ向かっている言葉だった。
影が見えてきた。
一人ではなかった。二人だった。前を歩く影と、その後ろをついていく影。前の影が喋り続けていた。後ろの影は黙っていた。
前の影が、近づくにつれて、形を現した。
小柄だった。背が高くない。しかし歩き方に、妙な熱があった。足が速い。止まれない。止まることを忘れているか、止まる必要を感じていないかのどちらかだった。着物の袖が揺れていた。目が、遠くを見ていた——遠くというより、まだ来ていない何かを見ていた。この世界に着いて、まだ間もないはずなのに、次に向かう場所を探しているような目だった。
「……来た」
龍馬が、小さく言った。
近藤が龍馬を見た。
「知っている人ですか」
「知っちゅう」
龍馬は答えた。
「長州の人間じゃ。萩の出じゃ。松陰先生——吉田松陰。松下村塾いうて、自分の家を塾にして若者に教えた人じゃ。処刑されたとき、まだ二十九じゃった」
近藤は、その名前を聞いた。
吉田松陰。長州の思想家。松下村塾の先生。高杉晋作も、久坂玄瑞も、あの男の言葉から動き出した。新選組が守ろうとした秩序を、根本から揺さぶった思想の、源流にいた男だ。その男が、今こちらへ歩いてきていた。
「後ろは」
「橋本左内。越前福井の人間じゃ。こちらも若うして死んだ。二十六じゃった」
近藤は、後ろの影を見た。
松陰とは対照的な歩き方だった。静かで、落ち着いていて、前の男の熱に引きずられながら、しかし自分の速度を保っていた。流されているのではなく、選んでついていっている歩き方だった。
「二十六で」
近藤は繰り返した。
「そうじゃ」
「それで、あの落ち着きは」
「天才いうのは、ああいうもんじゃろ」
龍馬は短く言った。
土方が遠くで、二つの影を見ていた。腕を組んで、黙って見ていた。土方の目が、いつもより少し違う色をしていた。
*
吉田松陰は、歩きながら喋り続けていた。
近づいてきて、全員の顔が見えるようになっても、歩き続けていた。止まったのは、水面の前に来たときだった。水面を見て——初めて足が止まった。
ぴたり、と止まった。
それまでの勢いが嘘のように、止まった。
しばらく、黙って見ていた。
その沈黙が、周りの全員に伝わった。あれだけ喋り続けていた男が、黙っていた。喋ることをやめていた。水面に映る明治を、じっと見ていた。目を細めて、唇を結んで、見ていた。
学校が映っていた。
さっき龍馬が見ていたのと同じ映像だった。子どもたちが机に並んで座っていた。黒板の前に先生が立っていた。身分は関係ない場所で、子どもたちが学んでいた。
松陰の目が、さらに細くなった。
「……できちょる」
松陰が言った。
龍馬と響きは似ていた。しかし声の色が、全く違った。龍馬の「できちゅうじゃ」が、答えの出ない問いを抱えた静かな呟きだったとすれば——松陰の「できちょる」は、確認だった。自分が信じていたことが正しかったという、揺るぎない確認だった。それ以上でも以下でもなかった。
橋本左内が、松陰の隣に並んだ。
水面を見た。松陰とは少し違う目で見た。感動しているのではなく、分析している目だった。何が映っているのかを、正確に読もうとしている目だった。感情を後回しにして、まず情報を受け取る。左内という男の、頭の動き方がそのまま目に出ていた。
「制度が整っています」
左内が、静かに言った。
「学校制度、ですね。身分に関わらず、子どもが学べる仕組みが出来ている。明治五年——学制が発布されたはずです」
「そうじゃ」
松陰が言った。今度は振り向いて言った。左内に向かって言った。嬉しさを隠さない顔だった。
「僕が言い続けてきたことじゃ。学問は武士のものではない。人のものじゃ。身分がどうあろうと、頭を使える人間が国を作る。そう信じて、言い続けてきたけぇ」
「松陰先生の言葉が、直接繋がったとは言えませんが」
「繋がっちょる」
松陰は断言した。
左内は反論しなかった。しかし同意もしなかった。ただ、水面を見続けた。繋がっているかどうかではなく、何が起きたのかを確かめている目だった。
*
松陰がようやく周りを見渡した。
龍馬を見た。近藤を見た。土方を見た。沖田を見た。武市を見た。以蔵を見た。
素早く見渡した。一人ひとりを、一瞬で見た。値踏みするのではなく——見ただけで、その人間の何かを受け取るような目だった。受け取って、分類して、次に進む。松陰という男の目の動き方は、そういう目だった。
武市のところで、目が止まった。
「君は」
武市は答えた。
「そうじゃ」
「土佐勤王党の」
「そうじゃ」
松陰は武市を、少しの間、見た。端正な顔の、その奥にある何かを読もうとするような目だった。以蔵が隣にいた。松陰は以蔵も見た。見て——何かを理解したような顔をした。
「君は、正しかったんじゃ」
武市は、松陰を見た。
正しかった、と言われた。東洋には「やり方が惜しかった」と言われた。それとは全く逆の言葉だった。二つの言葉が、武市の中で重なった。
「……何が正しかったと」
「志のために、人を動かしたことじゃ」
松陰は言った。
「僕も同じことをしようとした。松下村塾で、若者たちに言い続けた。国のために命を使え。正しいと思うことのために、全てを賭けろ。そう言い続けた。そして実際に、僕の言葉を受け取った者たちが、命を使った。動いた。斬られた。死んだ」
武市は黙っていた。
「君がやったことは、僕の教えと同じじゃ。志があって、人を動かした。それは——正しかった」
間があった。
左内が、静かに口を開いた。
「松陰先生」
「なんじゃ」
「それは、少し違います」
松陰が左内を見た。異論を歓迎するような目で見た。
「どう違うのじゃ」
「武市さんが動かしたのは——命令でした」
左内は言った。感情なく、しかし明確に言った。言葉の一つひとつが、過不足なく並んでいた。
「松陰先生が動かしたのは、心でした。同じに見えて、全く違う。命令に従った人間と、心が動いて動いた人間は、同じ行動をしていても、全く違うものです」
松陰は、すぐには答えなかった。
龍馬が、腕を組んで、この二人を見ていた。面白そうな目だった。こういう話を聞くのが、龍馬は好きだった。答えが出ない話が、特に好きだった。
*
「命令と心の違いを言うなら」
松陰がようやく言った。
また歩き始めていた。今度は狭い範囲を、ゆっくりと歩いていた。考えながら歩く習性が、死んだ後も抜けていなかった。
「命令から始まっても、心が動けば同じことじゃ。最初が命令でも、途中で本人の意志になれば、それはもう命令ではないけぇ」
「心が動かなければ、どうなりますか」
「それを動かすのが、指導者の務めじゃ」
「動かせなかったとき、その命令はただの暴力になります」
静かな言い方だった。声が大きくなるわけでも、感情的になるわけでもなかった。しかし言葉が、刃のように鋭かった。橋本左内という男は、そういう男だった。感情を使わずに、論理だけで人の思考を斬る。斬られた側は、血が出るまで時間がかかる。
松陰は、左内を見た。
「君は冷たいのう」
「冷たいのではありません」
左内は言った。
「正確でありたいだけです」
「正確さだけでは、人は動かぬじゃろう」
「動かすことと、正しいことは、別の話です。松陰先生が動かしたのは事実です。しかし正しかったかどうかは、また別の問いです」
「君は、僕が正しくなかったと言いたいのか」
「正しかったかどうかを、今決める必要はないと言っています」
松陰は、止まった。
歩きながら話していた男が、止まった。
左内を見た。左内は松陰を見ていた。どちらも、引かなかった。
松陰が、少し笑った。
怒った笑い方ではなかった。この男に言い返せる人間がいることへの、純粋な満足だった。松陰という男は、反論を恐れなかった。むしろ反論がなければ、退屈した。
「君と話すのは、やはり面白いのう」
「私もそう思います」
左内は言った。表情は変わらなかった。しかし、わずかに——ほんのわずかに、口元が動いた。それが左内の笑い方だった。
武市は、この二人のやり取りを、黙って聞いていた。
以蔵も聞いていた。以蔵には難しい話だった。しかし聞いていた。武市が聞いているから、聞いていた。それだけだった。それで十分だった。
*
近藤が、龍馬の隣に来た。
小声で言った。
「あの二人は、いつもああなんですか」
「そうじゃ」
龍馬は笑いながら答えた。
「松陰先生は止まれん人じゃ。考えが、体より速い。体が追いつかんき、歩きながら喋る。喋りながら考える。立ち止まると考えが止まる気がするがじゃろ、あの人は」
「左内さんは」
「松陰先生についていきながら、全部整理する。先生が広げたものを、左内が畳む。二人でひとつ、みたいなもんじゃ」
「左内さんは何歳で死んだんですか」
「二十六」
近藤は、左内を見た。
二十六。近藤が天然理心流の修行に明け暮れていた頃の年齢だ。道場の床を毎日磨いていた頃だ。その年齢で、あれだけの言葉を持っていた。あれだけ正確に、物事を切る言葉を。
「勿体ない」
近藤は言った。
「そうじゃな」
龍馬は答えた。その二文字に、龍馬自身の何かが混じっていた。二十九で死んだ男と、二十六で死んだ男を、龍馬は知っていた。
土方が、腕を組んで松陰を見ていた。
長州の思想家。新選組が守ろうとした秩序を、根本から否定した思想の源。あの男がいなければ、高杉晋作も、長州の奇兵隊も、なかったかもしれない。新選組が京で斬り合ってきた相手の、遠い根っこにある男が、今目の前に立っていた。
白い空間の中で、水面の明治を見て「できちょる」と言った男が。
土方は何も言わなかった。
言えることが、なかった。
沖田が土方の隣に来た。音もなく来た。
「複雑な顔してますね、副長」
「うるさい」
「いや本当に」
「うるさい」
沖田は笑った。笑いながら、松陰を見た。沖田の目が、少し真剣だった。笑みの奥に、何かが混じっていた。二十九で死んだ男への——何かが。
*
松陰が、武市の方へ向いた。
武市はまだそこにいた。以蔵が隣にいた。
「武市」
松陰が呼んだ。
先生でも、半平太でも、武市さんでもなかった。ただ武市、と呼んだ。初めて会ったのに、ずっと知っていたように呼んだ。松陰という男は、そういう男だった。敬称を使わないのは、軽んじているからではなかった。対等だと思っているから使わなかった。
「武市よ、君に聞きたいことがある」
「何を」
「君は——本当に、志のために動いたのか」
武市は、松陰を見た。
「それとも——怒りのために動いたのか」
沈黙があった。
水面が揺れていた。
武市は、その問いを受け取った。受け取って、どこかへ放ることができなかった。志と怒り。その二つは、武市の中でずっと混ざっていた。混ざったまま、ずっと来た。分けようとしたことがあった。志がある、だから動く。そう自分に言い続けた。しかし東洋への怒りも、確かにあった。怒りがあったから、動けた部分もあった。
「……分からん」
武市は、ようやく言った。
「それだけは、わしにも分からん。志のためだと思っちょった。けんど怒りもあった。どちらが先だったのか、今でも分からん」
松陰は、その答えを聞いて、頷いた。
「……正直じゃのう」
一言だけ言った。評価でも批判でもなかった。ただ、正直だと言った。
「先生」
左内が、今度は武市に向かって言った。
「あなたは——何のために、以蔵さんに刀を持たせたのですか」
静かな問いだった。責めていなかった。ただ、聞いていた。左内の問いは、いつもそうだった。責めるために聞くのではなく、分かるために聞く。
武市は以蔵を見た。
以蔵は武市を見ていた。答えを待っているのではなかった。ただ、そこにいた。どんな答えが出ても、武市の隣にいるつもりだった。そういう顔をしていた。何があっても動かない、という顔だった。
武市は、口を開いた。
言葉が、来なかった。
来ないまま、口を閉じた。
胸の中には、何かがあった。しかしそれを言葉にする方法を、武市はまだ持っていなかった。この場所に来てから、武市は多くのものを受け取った。東洋の「やり方が惜しかった」を受け取った。以蔵の「ええがです」を受け取った。松陰の「正しかった」を受け取った。左内の「命令と心は違う」を受け取った。全部が、武市の中にあった。しかしまだ、整理できていなかった。
左内は急かさなかった。待っていた。待つことのできる男だった。
*
松陰が、また歩き始めた。
水面の周りを、歩き始めた。止まれない男の習性だった。しかし今度は黙っていた。歩きながら、黙っていた。水面を見ながら、歩いていた。子どもたちが映っていた。議会のような建物が映っていた。汽車が走っていた。
一周して、また元の場所に戻ってきたとき——松陰は全員を見渡して言った。
「僕はのう」
全員が、松陰を見た。
「死ぬことは、怖くなかった」
声が、変わっていた。さっきまでの熱とは違う声だった。静かだった。水面のように静かだった。
「松下村塾で何度も言うた。死を恐れるな。正しいことのために死ねるなら、本望じゃと。そう言うた。そして自分でも、そう思うた。安政の大獄で捕らえられたとき、僕は怖くなかった。処刑される前夜も、怖くはなかった」
誰も口を挟まなかった。
松陰の声が、この白い空間の静けさの中に、真っ直ぐ通っていた。
「しかし——」
松陰は、水面を見た。
「間に合わなかったことが、怖かった」
水面に学校が映っていた。子どもたちが歩いていた。
「僕が伝えたかったことの、全部を伝え切れなかった。二十九で死ぬとは思うておらなんだ。もっと時間があると思うておった。あと十年あれば——あと二十年あれば——もっと多くの人間に、言葉を届けられたじゃろう。もっと多くの若者が、自分の頭で考えられるようになったじゃろう」
間があった。
「それだけが、怖かった」
白い空間に、沈黙が満ちた。
左内が、松陰の隣に立った。何も言わなかった。ただ、隣に立った。
龍馬は腕を組んで、水面を見ていた。
近藤は、松陰の言葉を聞いていた。聞きながら——近藤自身の何かと、照らし合わせていた。間に合わなかった、という感覚を、近藤も知っていた。板橋の前に、もっと何かができたかもしれない。隊士たちに、もっと何かを言えたかもしれない。土方に、もっと別の言葉をかけられたかもしれない。そういう感覚を、近藤は持っていた。持っていて、どこへも出せなかった感覚を。
武市は、動かなかった。
松陰の言葉が、武市の中に降りていった。間に合わなかった。武市もそうだった。自分が夢見た土佐の形に、間に合わなかった。ただ——松陰の怖かったのは時間が足りなかったことで、武市の怖かったのはまた別のことだったかもしれない、と、武市は思った。何が怖かったのか。それもまだ、分からなかった。
以蔵は、武市の隣にいた。
ただ、いた。
*
しばらくして、松陰がまた歩き始めた。
今度こそ止まれない、という歩き方だった。水面から離れて、白い空間の向こうへ向かっていった。
左内がため息をついた。
小さく、しかし確実なため息だった。この場所に来てから、左内は何度このため息をついたか分からなかった。
「先生」
左内が声をかけた。
「どこへ行くんですか」
「歩く」
「どこへ」
「どこかへじゃ」
松陰は振り向かずに言った。
「ここには続きがあるじゃろう。まだ話し足りぬ人間が、この場所にはおるはずじゃ。会いに行く。言いたいことがある。聞きたいことがある。時間は無限にあるじゃろう、ここは。じゃったら、使わぬ手はないけぇ」
左内は、もう一度ため息をついた。
そして、松陰の後を追った。
ついていく前に、一度だけ振り向いた。武市を見た。
何も言わなかった。
しかし、目が言っていた。答えは、急がなくていい。そういう目だった。
龍馬が、遠ざかっていく二つの影を見ながら言った。
「あの二人、ずっとああじゃ」
「知り合いなんですか、坂本さん」
近藤が聞いた。
「知り合いというより——あの時代に生きた人間は、みんなどこかで繋がっちゅう。知らんでも、知っちゅう。同じ空気を吸うちょったき」
近藤は、遠ざかっていく二つの影を見た。
松陰は歩き続けていた。止まらなかった。白い空間の中を、熱だけで歩いていた。左内は黙ってついていった。ため息をつきながら、しかし確実に、ついていった。
水面が揺れていた。
学校の映像が消えて、今度は別のものが映った。議会のような建物が映った。男たちが、机を並べて向かい合っていた。言い争っているようだった。しかし刀は持っていなかった。言葉だけで、向かい合っていた。声を荒げている男がいた。冷静に反論している男がいた。手を挙げている男がいた。
「できちゅうじゃ」
龍馬が、また呟いた。
今度は少し、違う声だった。最初に呟いたときより、少しだけ——何かが解けたような声だった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第3話「言葉が、人を狂わせる」——了
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━




