第九話 蕎麦屋 八兵衛
「そういえばさ、神谷町に新しい蕎麦屋ができたんだってね」
内幸町の占いの店で、常連客の女性から、そんな話を聞いた。
「新しい、蕎麦屋かい?」
内海ヨシエは、タブレットから顔を上げた。
「そう。八兵衛っていう店。チェーン店らしいよ。昼時は、けっこう混んでるんだって」
「ふうん」
ヨシエは、さほど興味がなさそうに返事をした。
だが、頭の片隅には、その名前が残った。
神谷町といえば、長年通っている蕎麦処 権堂がある。
店主の権藤忠雄は七十三歳。ヨシエより五歳年下だ。
蕎麦の味はもちろん、店の雰囲気も気に入っている。あそこは、ゆっくり酒を飲みながら蕎麦を楽しめる店だ。
とはいえ、客商売に変化はつきもの。
近所に新しい店ができたとなれば、どんな店なのか気になるのも事実だった。
「まあ、一度くらい食べてみるかね」
ヨシエは独り言のようにつぶやいた。
*
翌日、ではなく、その日の夕方。
ヨシエは仕事を終えると、神谷町へ向かった。
目当ては、蕎麦屋 八兵衛。
店の前まで来ると、威勢のいい声が聞こえてきた。
「いらっしゃいませーっ!」
店員の声が、通りにまで響いている。
暖簾をくぐると、さらに大きな声が飛んできた。
「いらっしゃいませーっ! お一人様、ご案内しまーす!」
「……ずいぶん元気な店だねえ」
ヨシエは小さくつぶやいた。
店内は明るく、客の回転も速い。会社帰りらしい客や、食事を済ませて早く帰ろうとする客が、次々と席についていた。
注文を取り、料理を運び、食べ終えた客を送り出す。
店員たちは、休む間もなく動いている。
「肉蕎麦をお願いします」
「はいっ! 肉蕎麦、一丁入りまーす!」
厨房から返事があり、別の店員が復唱する。
ヨシエは、思わず眉をひそめた。
「蕎麦を食べに来たんだか、運動会に来たんだか、わからないねえ」
もちろん、店員たちに聞かせるつもりはない。
彼らは彼らで、一生懸命働いているのだ。
やがて、肉蕎麦が運ばれてきた。
「お待たせしましたーっ! 肉蕎麦です!」
「はいはい。ありがとうよ」
ヨシエは箸を取り、まずはつゆをひと口すすった。
それから、蕎麦を口に運ぶ。
しばらく黙って食べていたが、やがて箸が止まった。
「……なるほどねえ」
肉は柔らかい。味も悪くない。
忙しい昼休みに、さっと食べるには便利だろう。
けれども、ヨシエの好みとは違っていた。
つゆは、少し油っぽい。
蕎麦をすすってみても、あの独特の香りが感じられない。
それに、蕎麦が柔らかすぎる。
「蕎麦ってのは、こんなに柔らかくなくてもいいんだけどねえ」
もちろん、店のやり方には店のやり方がある。
この店には、この店の客がいるのだろう。
ヨシエは残りの蕎麦を食べ終え、席を立った。
「ありがとうございましたーっ!」
またしても、大きな声が響く。
「はいはい。ご苦労さん」
ヨシエは軽く手を上げて、店を出た。
店の善し悪しを決めるのは、声の大きさではない。
ましてや、値段だけでもない。
ただ、客が何を求めているのか。
それを考えることが、商売というものだ。
ヨシエは、そんなことを考えながら帰路についた。
*
翌日。
ヨシエは、いつものように蕎麦処 権堂の暖簾をくぐった。
「いらっしゃい!」
厨房から忠雄の声がする。
「なんだい、ヨシエさんか」
「なんだいとは何だい。毎度ありがとうございます、だろ」
「へいへい。毎度ありがとうございます」
忠雄は笑いながら、いつもの席を示した。
ヨシエは腰を下ろし、ひと息ついた。
「ねえ、忠雄さん」
「何だ?」
「この近くに、八兵衛って蕎麦屋ができたの、知ってるかい?」
「ああ、聞いてるよ。チェーン店だろ?」
「そうそう。昨日、食べに行ってきたんだよ」
忠雄の手が止まった。
「へえ。どうだった?」
「肉蕎麦を食べてきた」
「それで?」
ヨシエは、少し考えてから答えた。
「店員さんの声が大きいねえ」
「……そこかよ」
「それだけじゃないよ。注文も早いし、料理が出てくるのも早い。昼休みの客には便利だろうね」
「なるほどな」
忠雄の顔から、少しずつ笑みが消えた。
「蕎麦の味は?」
「肉は柔らかいし、味も悪くない。でも、つゆがちょっと油っぽいね。それに、蕎麦が柔らかすぎる。蕎麦の風味も、あたしには感じられなかったよ」
「そうか……」
忠雄は腕を組んだ。
「まあ、うちはうちだ。昔からのやり方でやっていくしかねえな」
「忠雄さん」
ヨシエの声が、少し低くなった。
「昔からのやり方を守るのと、何も変えないのとは違うよ」
忠雄は、黙ってヨシエを見た。
「八兵衛には八兵衛の良さがある。早く食べられるし、昼飯には便利だ。そういう客が、あっちへ流れるのは仕方ないさ」
「ああ……」
「でもね。こっちにしかできないことだって、あるんじゃないのかい?」
忠雄は、すぐには答えなかった。
厨房の奥では、由芽子が洗い物をしている。
いつもの店。いつもの蕎麦。
それでも、時代は少しずつ変わっていく。
ヨシエは、そんな忠雄の顔を見ながら、静かに言った。
「まあ、あたしは、ここの蕎麦が好きだけどね」
「……ありがとよ」
忠雄は、照れくさそうに笑った。
ヨシエは、いつものように注文を告げた。
「蕎麦焼酎。それから、板わさを頼むよ」
「はいよ」
忠雄が厨房へ戻っていく。
ヨシエは、その背中を見つめていた。
八兵衛の店員たちは、声を張り上げ、手早く料理を出していた。
あの店には、あの店の商売がある。
ならば、権堂には権堂の商売があるはずだ。
「……さて、どうしたものかねえ」
ヨシエは、グラスが運ばれてくるのを待ちながら、考え始めていた。




