第十話 衛さんの新メニュー
ヨシエは、いつもの席で蕎麦焼酎を飲んでいた。
焼き海苔を一枚、指先でつまむ。
ぱりっとした食感と、海苔の香ばしさ。口の中に広がる風味を楽しんでから、蕎麦焼酎をひと口飲んだ。
続いて、板わさをつまむ。
「ふう。やっぱり、これだねえ」
ヨシエにとって、蕎麦屋で酒を飲む時間は、長年の楽しみのひとつだった。
蕎麦を食べる前に、酒と肴を味わう。
急いで腹を満たすだけでは、蕎麦屋に来た意味がない。
そんなことを考えながら、グラスを傾けていたときだった。
「ヨシエさん」
厨房から出てきた衛が、声をかけた。
「何だい?」
「ちょっとお願いがあるんです」
「何だい、改まって。あたしに借金の保証人にでもなってほしいのかい?」
「違いますよ」
衛は笑った。
「実は、新しいメニューを考えたんです。ぜひ、ヨシエさんに食べていただきたくて」
ヨシエは、グラスを置いた。
「新メニュー?」
「はい。まだ試作なんですけど、感想を聞かせてもらえませんか」
「ふうん」
ヨシエは、衛の顔をじっと見た。
「まずかったら、まずいと言うよ」
「もちろんです。ヨシエさんの率直な意見が聞きたいんです」
「よし。そこまで言うなら、食べてやろうじゃないか」
「ありがとうございます!」
衛は、うれしそうに厨房へ戻っていった。
ヨシエは、焼き海苔をもう一枚つまんだ。
「さて、どんなものが出てくるかねえ」
*
しばらくして、衛が盆を持ってやって来た。
「お待たせしました」
盆の上には、温かい蕎麦と小ぶりの丼が載っていた。
蕎麦のつゆには、薄く切ったすだちが浮かんでいる。湯気とともに、柑橘の爽やかな香りが立ち上った。
丼には、食べやすい大きさに切ったアナゴの天ぷらが盛られていた。
ヨシエは、まず蕎麦をのぞき込んだ。
「温かいすだち蕎麦かい」
「はい。すだちの香りを楽しめるように、温かいつゆに合わせてみました」
「それで、こっちはアナゴ天丼だね」
「そうです。大きなアナゴを一本揚げにするのではなく、切り身にして揚げました。蕎麦と一緒でも食べやすいようにと思いまして」
「なるほどねえ」
ヨシエは箸を手に取った。
まずは、つゆをひと口。
すだちの香りがふわりと広がる。
温かいつゆの旨味のあとに、すっきりとした酸味が続いた。
ヨシエは、蕎麦をすすった。
すぐには何も言わない。
ゆっくり噛み、もうひと口食べる。
衛は、そばで様子をうかがっていた。
「どうですか?」
「急かすんじゃないよ。味わってるんだから」
「すみません」
ヨシエは、もう一度つゆを飲んだ。
「うん。すだちの香りがいいねえ。温かい蕎麦なのに、後味がさっぱりしてる」
衛の表情が明るくなった。
「ありがとうございます」
「まだ、丼もあるだろう。勝手に合格にするんじゃないよ」
「はい!」
ヨシエは、思わず笑った。
*
次に、アナゴ天丼を試した。
箸で天ぷらをひと切れ持ち上げ、口に運ぶ。
衣は軽く、アナゴの身はふっくらとしていた。
たれも濃すぎず、ご飯との相性がいい。
ヨシエは、ご飯をひと口食べた。
「ご飯の硬さも、ちょうどいいねえ」
「ありがとうございます。天茶漬けにしたときにも、おいしく食べられるように考えました」
「天茶漬け?」
ヨシエは箸を止めた。
衛が、蕎麦の丼を指した。
「蕎麦を食べ終わったら、残ったすだちのつゆを、こちらの丼に入れてみてください」
「ほう。そういう仕掛けかい」
ヨシエは、蕎麦を食べ進めた。
そして、残ったつゆをアナゴ天丼に注いだ。
天ぷらの衣がつゆを吸い、ご飯にすだちの香りが移っていく。
ヨシエは、ひと口すくった。
「……なるほどねえ」
もうひと口。
今度は、アナゴの身とご飯を一緒に味わった。
すだちの酸味が、天ぷらの油っぽさを和らげている。
蕎麦を食べ、天丼を味わい、最後は天茶漬け。
食べ進めるごとに、味わいが変わる。
ヨシエは、ゆっくりと箸を置いた。
「衛さん」
「はい」
「これは、よく考えたねえ」
衛は、ほっとしたように笑った。
「本当ですか?」
「何度も言わせるんじゃないよ。おいしいものは、おいしいんだ」
「ありがとうございます!」
「ただ蕎麦と丼を並べただけじゃない。最後まで食べる楽しみがある。そこがいいねえ」
衛は、うれしそうに頭を下げた。
「実は、八兵衛のことを聞いてから、いろいろ考えていたんです」
「そうかい」
ヨシエは、湯呑みを手に取った。
「八兵衛には、八兵衛の商売がある。早く食べられるし、メニューも豊富だ。そこを真似したって、仕方ないからね」
「はい」
「だったら、権堂に来る理由を作ればいい。そういうことだろう?」
「そうなんです」
ヨシエは、衛の顔を見た。
「忠雄さんには、もう食べてもらったのかい?」
「いえ。まずは、ヨシエさんに試食していただこうと思いまして」
「そうかい。じゃあ、次は忠雄さんだね」
ヨシエは、空になった丼を見た。
「それと、値段だよ。材料費を計算して、店がちゃんと続けられる値段にしなきゃいけない」
「はい。そこが一番の課題です」
「安くしすぎるんじゃないよ。客を呼べても、店が潰れたら元も子もないからね」
衛は、真剣にうなずいた。
「わかっています」
ヨシエは満足そうに笑った。
「よし。今日は、いいものを食べさせてもらったよ」
「率直な感想を聞けて、本当に助かりました」
「何を言ってるんだい。あたしは、まずいものはまずいと言うよ」
「はい。それが聞きたかったんです」
衛は、盆を片づけるために厨房へ戻っていった。
ヨシエは、空になった丼を眺めた。
蕎麦焼酎を飲み、焼き海苔と板わさをつまむ。
そんな、いつもの楽しみもいい。
けれど、今日の新メニューには、また食べに来たいと思わせる工夫があった。
「……さて、忠雄さんは、何と言うかねえ」
ヨシエは、グラスに残った蕎麦焼酎を飲み干した。
権堂の新しい新メニューが、どう転ぶか。
占いでは、答えはでない。




