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占いババア・内海ヨシエ/蕎麦処 権堂編/The Old Fortune Teller of Uchisaiwaicho is Way Too Sharp-Tongued  作者: 八卦六十四郎


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第八話 息子と海老天そば



 内幸町の占い店を出たヨシエと達也は、並んで歩いていた。


「母さん、よく行くお店なんですか?」


「そうさ。蕎麦処 権堂って店でね。もう長いこと通ってるんだよ」


「そんなにおいしいんですか?」


「食べてみりゃわかるさ。あたしの舌は、そう簡単にはごまかせないよ」


達也は笑った。


店に着くと、ヨシエは慣れた様子で暖簾をくぐった。


「いらっしゃいませ。ああ、ヨシエさん!」


店主の権藤忠雄が、いつもの笑顔で迎えた。


「こんにちは。今日は連れがいるんだよ」


「おや、珍しいね。こちらの方は?」


「息子さ」


忠雄は一瞬、目を丸くした。


「えっ、ヨシエさん、息子さんがいたのかい?」


「いたよ。あたしだって、子どもの一人くらいいるさ」


「そりゃそうだね。いやあ、驚いたよ」


ヨシエは、隣に立つ達也を紹介した。


「奈良岡達也。あたしの息子だよ」


「奈良岡達也です。母がお世話になっています」


「これはご丁寧に。権藤です。どうぞ、ゆっくりしていってください」


奥から、料理人の衛も顔を出した。


「ヨシエさん、いらっしゃいませ。今日はお二人なんですね」


「そうだよ。息子を連れてきたんだ。よろしく頼むよ」


「はい。いらっしゃいませ」


二人は席に案内された。


ヨシエは腰を下ろすと、いつもの調子で注文した。


「忠雄さん、いつものを頼むよ。焼き海苔と八海山。それから、ぬか漬けもね」


「はいよ」


達也は母親の様子を眺めていた。


占い店にいたときとは、少し違う。


ここでは、ヨシエは店の人たちと気兼ねなく話し、すっかり馴染んでいる。


「母さん、常連なんですね」


「古株だよ。今さら説明することもないくらいさ」


ほどなくして、焼き海苔と八海山、大根とにんじんのぬか漬けが運ばれてきた。


ヨシエは酒を一口飲み、海苔を少しつまんだ。


「さあ、あんたも飲むかい?」


「じゃあ、少しいただきます」


達也は盃を手にした。


「こういう時間、いいですね」


「そうかい。蕎麦屋ってのは、蕎麦だけ食べて帰るところじゃないんだよ」


「なるほど」


「まずは、こうして一杯やる。これがいいんだ」


ヨシエは、ぬか漬けをひと切れ口に運んだ。


「うん。今日もいい漬かり具合だね」


達也は、そんな母親を見ていた。


目の前のヨシエは、昔の記憶にある母親とはずいぶん違う。


けれど、ふとした仕草に、懐かしいものが重なる。


「母さん、昔も、よくこうして食事をしていましたね」


「そうだったかね」


「台所でご飯を作ってくれて。ボクが遊んでいると、手を洗っておいでって」


「そりゃ言うだろうね。手を洗わずに食べようとする子だったからさ」


達也は笑った。


「覚えているんですね」


「そんなことまで忘れちゃいないよ」


達也の記憶にも、台所の音や、食卓に並ぶ料理の匂いが残っていた。


何を食べたかまでは、はっきり覚えていない日もある。


けれど、母親が食卓の向こうにいたことは覚えていた。


やがて、衛が注文を取りに来た。


「ヨシエさん、お蕎麦はいかがなさいますか?」


「今日は海老天そばにするよ」


「かしこまりました」


達也も品書きを眺めた。


「じゃあ、僕も同じものをお願いします」


「おや、あんたも海老天かい」


「ええ。好きなんです」


ヨシエは、少しだけ口元を緩めた。


「あんた、海老天が大好きだったろ」


達也は驚いて母親を見た。


「覚えていたんですか?」


「忘れるわけないだろう」


ヨシエは盃を置いた。


「あんたが小さい頃、海老天が出ると、真っ先に手を伸ばしてね。あたしの分まで欲しがったことがあったよ」


「そうでしたか」


「そうさ。あたしが自分の分をあげたら、ずいぶん嬉しそうに食べていたねえ」


達也は、懐かしそうに笑った。


「なんとなく、覚えています。母さんが、いつも自分の分をくれたような気がする」


「そうだったかね」


「はい。ボクは、海老天ばかり食べていたんでしょうね」


「まったく、欲張りな子だったよ」


二人のところへ、海老天そばが運ばれてきた。


丼の上には、揚げたての海老天が載っている。


「お待たせしました」


「ありがとう」


ヨシエは箸を手に取った。


達也も、そばを一口すすった。


「おいしいですね」


「だろう? ここは蕎麦もいいし、天ぷらもいいんだよ」


ヨシエは海老天をひと口食べた。


そして、自分の丼に残った海老天を箸で持ち上げ、達也の丼へ移した。


「はい、これも食べないとね」


達也は箸を止めた。


「えっ、母さんの分でしょう?」


「いいんだよ。あんた、好きだろう?」


「でも、母さんは?」


「あたしは、もう一つ食べたからね」


そう言って、ヨシエは何事もなかったように蕎麦をすすった。


達也は、丼の中の海老天を見つめた。


その瞬間、ふいに幼い頃の記憶がよみがえった。


五歳くらいの頃だっただろうか。


外は雨が降っていた。


達也は玄関で、母親の帰りを待っていた。


買い物袋を提げたヨシエが帰ってくると、濡れた傘を玄関先に立てかけた。


「そんなところにいたら、風邪をひくよ」


「おなかすいた」


「はいはい。今、ご飯にするからね」


ヨシエは買い物袋からおかずを取り出し、食卓に並べた。


温かいご飯と味噌汁。それから、買ってきた海老天が二尾。


達也は、さっそく箸を伸ばした。


「こら、まずご飯を食べな」


「海老天がいい」


「まったく、しょうがない子だねえ」


ヨシエは笑いながら、自分の皿の海老天を達也に渡した。


「はい、これも食べな」


達也は嬉しそうに海老天を頬張った。


雨音の聞こえる食卓。


味噌汁の湯気。


母親の声。


それは、何でもない夕食だった。


けれど、達也の記憶には、その光景がずっと残っていた。


現在の食卓に戻る。


達也は、目の前の母親を見た。


あの雨の日と同じように、ヨシエは自分の海老天を息子に譲っている。


四十九歳になった自分に、七十八歳の母親が。


「母さん」


「なんだい?」


「ありがとう」


「何を言ってるんだい。海老天くらいで大げさだねえ」


達也は笑った。


「そうですね」


彼は海老天を口に運んだ。


懐かしい味がした。


食事を終える頃、忠雄が二人のところへやってきた。


「お口に合いましたか?」


「ああ、おいしかったよ。いつもどおりだね」


「ありがとうございます」


達也も頭を下げた。


「とてもおいしかったです。また来たいです」


「ぜひ、いらしてください」


ヨシエは湯飲みを置いた。


「達也、また来ればいいさ。ここは、あたしの行きつけなんだからね」


「はい。また一緒に来たいです」


「そうかい。じゃあ、次は何を食べるか考えておきな」


「楽しみにしています」


店を出ると、秋の風が二人の間を通り抜けた。


しばらく歩いたところで、達也が口を開いた。


「母さん。ひとつ、覚えていることがあるんです」


「なんだい?」


「母さんが家を出ていった日のことです」


ヨシエは、歩みを止めなかった。


達也は続けた。


「ボクは、何が起きているのか、よくわかっていませんでした。ただ、玄関で母さんの後ろ姿を見ていたことだけは覚えています」


「そうかい」


「母さんが何を言ったのかは、覚えていないんです。もしかしたら、何も言わなかったのかもしれません」


少し間があった。


「でも、台所の匂いや、食卓のことは覚えているんです。海老天をもらったことも」


ヨシエは、前を向いたまま聞いていた。


「そうかい。あんたにも、いろいろ残っていたんだね」


「はい」


「忘れずにいてくれて、ありがとうよ」


達也は母親の横顔を見た。


ヨシエは、いつもの調子に戻って言った。


「今度は、あたしがあんたにご馳走してもらおうかね」


「もちろんです。何が食べたいですか?」


「そうだねえ。おいしいものなら、何でもいいよ」


「母さんらしいですね」


「当たり前だよ。食べることは大事だからね」


二人は笑った。


過ぎた年月を、今日一日で埋めることはできない。


母親が家を出た日のことも、幼い達也が何を思っていたのかも、すべてを確かめることはできない。


それでも、二人には、これから一緒に食事をする時間がある。


ヨシエは、少し先を歩きながら振り返った。


「達也、次は海老天じゃないものにしなよ」


「どうしてです?」


「あんたにばかり海老天を食べさせていたら、あたしの分がなくなるだろう」


達也は声を出して笑った。


「わかりました。次は母さんの好きなものにしましょう」


「そうだね。期待してるよ」


母と息子は、並んで歩いていった。


今度は、別れの背中ではない。


二人で同じ方向へ歩いていく背中だった。

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