第六話 衛さんの、かわり蕎麦
その日、内海ヨシエは、いつものように蕎麦処 権堂の暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ!」
威勢のいい声が聞こえる。
「ああ、衛さん。今日はいるんだね」
「はい。今日は忠雄さんと一緒に店に立っています」
「そうかい。忠雄さんは?」
「奥で仕込みをしています。すぐ呼んできますよ」
「いいよ。急かすんじゃないよ。こっちは逃げやしないんだから」
ヨシエは、いつもの席に腰を下ろした。
店内を見回す。
以前と変わらない店の佇まい。しかし、厨房から聞こえてくる音は、少しだけ違っていた。
衛さんが店を手伝うようになってから、厨房には新しい活気が生まれていた。
「ご注文は?」
「八海山を一本。焼き海苔と、大根とにんじんのぬか漬けを頼むよ」
「はい、かしこまりました」
衛さんが厨房に注文を伝える。
ほどなくして、酒と肴が運ばれてきた。
ヨシエは徳利から猪口に酒を注ぎ、ゆっくりと口に運ぶ。
「うん。やっぱり、ここの酒は落ち着くねえ」
焼き海苔を一枚、軽く炙った香りを楽しみながら口にする。
続いて、ぬか漬け。
大根をひと切れ、にんじんをひと切れ。
「ふん。今日もいい漬かり具合だ」
誰に聞かせるでもなく、ヨシエはつぶやいた。
そこへ忠雄さんが顔を出した。
「内海さん、いらっしゃい。お元気そうですね」
「おや、忠雄さん。あんたも相変わらず元気そうじゃないか」
「おかげさまで。最近は、こいつのおかげで厨房も賑やかになりました」
「そうかい。それは結構なことだね」
ヨシエは、忠雄さんの顔を見た。
以前より、表情が少し明るくなったように見える。
「ところで、今日は何か変わったものはないのかい?」
忠雄さんが笑った。
「ありますよ。衛さんが、ぜひ内海さんに食べてもらいたいものがあるそうです」
「ほう。衛さんが?」
厨房から衛さんが出てきた。
「内海さん、実は今日、ゆず蕎麦を用意したんです。ぜひ食べていただけませんか」
「ゆず蕎麦?」
「はい。季節のゆずを使った変わり蕎麦です。まだ試作を重ねているところですが、今日は忠雄さんにも認めてもらえました」
「そうかい。じゃあ、いただこうかね」
「ありがとうございます!」
衛さんの表情が、少し明るくなった。
しばらくして、運ばれてきた蕎麦は、ほんのりと淡い色をしていた。
ゆずの爽やかな香りが、ふわりと立ち上る。
ヨシエは箸を取り、まずは何もつけずにひと口食べた。
噛みしめるように、ゆっくりと味わう。
次に、つゆにつけて、もうひと口。
衛さんは厨房の入口から、その様子をじっと見ていた。
「どうですか?」
ヨシエはすぐには答えなかった。
もう一度、蕎麦を口に運ぶ。
そして、猪口を置いた。
「あんた、なかなか、うまいね」
衛さんの顔に、ぱっと笑みが広がった。
「ありがとうございます!」
「ただし、まだ忠雄さんには敵わないよ」
「はい。それは、よくわかっています」
「そうかい。なら、いい」
忠雄さんが、横から口を挟んだ。
「衛さんも、だいぶ腕を上げてきましたよ。最近は、私のほうが教わることもあるんです」
「へえ。忠雄さんが、そんなことを言うようになったのかい」
「新しい料理人が加わると、店の味も少しずつ変わりますからね。昔からの味は守りながら、新しいものも取り入れていきたいと思っています」
ヨシエは、忠雄さんの顔を見た。
「ふうん。前は、店を閉めるなんて話をしていたじゃないか」
忠雄さんは、少しだけ間を置いた。
「ええ。あのときは、もう潮時だと思っていました。けれど、衛さんと一緒に仕事をするようになって、もう少し、この店の先を考えてみようと思うようになったんです」
「無理をするんじゃないよ。あんたも、もう若くないんだからね」
「わかっています。だからこそ、今度は一人で抱え込まないことにしました。衛さんと相談しながら、できることを一つずつ考えていきます」
衛さんが、そばで静かにうなずいた。
「僕も、まだまだ教わることばかりです。親父さんが元気なうちに、できるだけ多くのことを覚えたいと思っています」
「親父さん、かい」
ヨシエが、にやりと笑った。
「すっかり板についてきたじゃないか」
「はい。僕にとっては、もうそういう存在ですから」
忠雄さんは、照れくさそうに笑った。
「まだまだ教えることは山ほどありますよ」
「そうだね。蕎麦打ち三年、茹で一生、だったかね」
「そうです。技術だけじゃありません。お客さんに喜んでもらうことも、覚えていってほしいんです」
「いい心がけじゃないか」
ヨシエは、残った蕎麦をきれいに食べ終えた。
「ところで忠雄さん、ニンジンのかき揚げもらおうかね」
「お酒のおかわりもですか?」
「当たり前だろ。八海山をもう一合。それから、かき揚げは藻塩で食べるから、忘れないでおくれよ」
「はい、承知しました」
揚げたてのかき揚げが運ばれてくる。
ヨシエは、箸でひと口大に割り、藻塩をほんの少しつけた。
サクッ。
衣の軽い音がする。
「うん。ニンジンが甘いねえ」
日本酒をひと口。
その様子を見ていた衛さんが、嬉しそうに言った。
「内海さん、今日はずいぶん楽しんでいただけたようですね」
「当たり前だよ。うまいものを食べて、いい酒を飲む。これ以上の楽しみがあるかい」
「ありがとうございます」
「それに、あんたのゆず蕎麦も悪くなかった」
「本当ですか?」
「二度も言わせるんじゃないよ」
店内に笑い声が広がった。
食事を終えたヨシエは、会計のときに忠雄さんへ声をかけた。
「そうだ。焼きおにぎりを二つ、包んでおくれ」
「お持ち帰りですか?」
「ほかに何があるんだい。明日の朝飯だよ」
「ありがとうございます。温め直してもおいしいですよ」
「知ってるよ。何年ここに通ってると思ってるんだい」
忠雄さんは笑いながら、焼きおにぎりを包んだ。
店を出る前に、ヨシエは振り返った。
「忠雄さん」
「はい?」
「いい顔になったね」
「そうですか?」
「前は、店を閉めることばかり考えていた顔だった。今は違う」
忠雄さんは、衛さんのほうを見た。
「一人で店を守るのは、もう難しいと思っていました。でも、二人なら、まだできることがある。そう思えるようになったんです」
「そうかい。なら、あとは二人で算段するんだね」
「はい」
「衛さんも、忠雄さんを頼むよ。無理をさせちゃいけないからね」
「はい。わかっています」
「よし。それならいい」
ヨシエは、手にした包みを持ち直した。
「じゃあ、また来るよ。次は、もっと腕を上げたゆず蕎麦を食べさせておくれ」
「はい。楽しみにしていてください」
忠雄さんと衛さんが、揃って頭を下げた。
ヨシエは暖簾をくぐった。
手には、明日の朝食になる焼きおにぎり。
そして、胸の中には、少しばかりの安心があった。
蕎麦処 権堂は、今日もそこにあった。
忠雄さんがいて、衛さんがいて、いつもの味がある。
店の未来は、まだ決まったわけではない。
けれど、二人はもう、同じ方向を見始めている。
ヨシエは、ゆっくりと歩き出した。
「さて、次はいつ来ようかねえ」
口元に、小さな笑みが浮かんでいた。
◾️ヨシエさんの翌朝
翌朝。
ヨシエさんは、昨日買って帰った焼きおにぎりをトースターに入れた。
その間に、インスタントの「あさげ」をお椀に入れ、電気ポットのお湯を注ぐ。
焼きおにぎりは、表面が少し香ばしくなったところで取り出した。
お椀の味噌汁と並べて、朝ごはんの完成。
ひと口かじる。
「……なかなか、うまい焼きおにぎりだね」
誰に聞かせるでもなく、ヨシエさんはそうつぶやいた。
自分で料理をする気は、相変わらずない。
けれど、おいしいものを見つける算段だけは、今日も抜かりなかった。




