第五話 理想だけでは、語れない夢
「さて、衛さん。あんたの夢を、もう一度聞かせてもらおうかね」
内幸町の占いの店で、内海ヨシエは向かいに座る男を見た。
矢田衛、四十歳。
洋食店の料理人であり、権藤忠雄の次女・美奈子の夫。そして、義父の蕎麦屋を継ぎたいと願っている男だ。
「夢って……蕎麦屋を継ぐことですか?」
「そうさ。あんたは、どうして継ぎたいんだい?」
「それは、前にもお話ししたとおりです。義父には、料理人としていろいろ教わりました。お店にも愛着がありますし、あそこに通うお客さんたちのことも好きです。それに、料理人として蕎麦を学ぶことにも興味があります」
衛は、少し考えてから続けた。
「何より、妻や子どもたちにとっても、大切な場所ですから」
「なるほど。どれも嘘じゃなさそうだね」
「嘘なんかじゃありません」
「わかってるよ。だから、こうして話を聞いてるんじゃないか」
ヨシエは、タブレットを机の上に置いた。
「じゃあ、聞くよ。あんた、いつまでに一人前になるつもりだい?」
衛は口を閉じた。
「……それは、やってみなければ」
「そうだね。やってみなけりゃ、わからない。だがね、わからないから考えなくていい、って話にはならないよ」
ヨシエは、指を一本立てた。
「蕎麦打ち三年、茹で一生。そう言うんだろう?」
「はい」
「蕎麦が打てるようになれば、それで店ができるのかい?」
「いいえ。出汁もありますし、茹で方もあります。仕入れも、仕込みも、接客も、経営も……」
「よくわかってるじゃないか」
「だからこそ、学びたいんです」
衛は、まっすぐに答えた。
その目を見て、ヨシエは小さくうなずいた。
この男は、夢を口にしているだけではない。
だが、夢を実現するために必要な時間を、まだ具体的には計算できていない。
「もう一つ聞こうか。忠雄さんは、いくつだい?」
「七十三歳です」
「そうだね。あんたが一人前になるまで、何年かかるかわからない。その間、誰が店を支えるんだい?」
「それは……義父に教わりながら、できることから少しずつ覚えていくつもりです」
「教わりながら、ねえ」
ヨシエは、ため息をついた。
「教えるほうにも、体力がいるんだよ。朝早くから仕込みをして、あんたに教えて、自分の仕事もする。そんな毎日を、七十代の人間に何年も続けさせるつもりかい?」
「そんなつもりはありません!」
衛は、思わず声を強めた。
「義父に無理をさせたいわけじゃないんです。むしろ、これまで苦労してきたんだから、少しでも楽になってほしい。だから、私が継ぎたいんです」
「気持ちはわかるよ」
ヨシエは、静かに言った。
「だがね、あんたが継ぐために、忠雄さんが無理をしなきゃならないんだったら、それは本当に、あの人を楽にすることになるのかい?」
衛は、何も答えられなかった。
*
「それから、もう一つ。商売の話だ」
ヨシエは、二本目の指を立てた。
「蕎麦粉も、鰹節も、昆布も、醤油も、値上がりしている。値段を上げれば、お客が離れるかもしれない。上げなければ、利益が減る。商売ってのは、なかなか思うようにはいかないもんさ」
「はい。そこも、考えなければいけないと思っています」
「思っている、じゃなくて、考えるんだよ」
「……はい」
「今の洋食店の仕事はどうするんだい? 辞めるのかい? それとも、しばらくは掛け持ちするのかい? 収入はどうする? 店の借金や設備の修繕が必要になったら、どうする?」
矢継ぎ早の質問に、衛は目を伏せた。
「まだ、すべての答えは出せていません」
「正直でよろしい」
ヨシエは、意外にもあっさり言った。
「わからないことを、わかったふりするよりは、よっぽどましさ。ただし、答えが出ていないことを、誰かが何とかしてくれると思っちゃいけないよ」
衛は、顔を上げた。
「……はい」
「夢を持つのは結構。家族を大切にするのも結構。義父に恩返ししたいって気持ちも、立派なもんだ。だけどね、理想だけでは、語れない夢ってものがあるんだよ」
ヨシエは、そこで一度言葉を切った。
「夢を実現したいなら、夢のために誰が何を負担するのか。そこまで考えるんだね」
衛は、深く頭を下げた。
「わかりました。もう一度、義父と話します。どれだけ時間がかかるのか、何を覚えなければならないのか。経営のことも含めて、具体的に考えます」
「そうしな。継ぐと決めるのは、それからでも遅くないよ」
*
その日の夕方。
ヨシエは、神谷町の「蕎麦処 権堂」を訪れた。
いつものように蕎麦焼酎を頼み、板わさをつまみながら、忠雄の顔を眺めた。
「衛さんと話してきたよ」
「そうか」
「本気で継ぎたいらしいね。あんたへの恩もある。店への愛着もある。料理人としての挑戦もある。家族のことも考えている。どれも本当だろうさ」
「……そうか」
忠雄は、手元の布巾を畳み直した。
「それで、どう思った?」
「夢は立派だよ。ただね、夢があるのと、店を経営できるのとは別の話さ」
「厳しいな」
「当たり前だろう。蕎麦屋は、夢だけじゃ開けないんだよ」
忠雄は苦笑した。
「それで、お前の占いじゃ、どう出たんだ?」
「占い?」
ヨシエは鼻で笑った。
「今回は、占ってないよ」
「なんだと?」
「算段さ。人の気持ちを聞いて、現実を数えて、どうすりゃ誰か一人に無理が集中しないか、考えてるんだよ」
「占い師が、そんなことまでやるのか」
「やるさ。困ってる人間を目の前にして、星のせいにして帰すわけにもいかないだろう」
忠雄は、声を出して笑った。
だが、その笑いも、すぐに静かになった。
「……孫たちは、店を閉めるなって言ってたよ」
「ああ。聞いたよ」
「俺の蕎麦が食えなくなるのが嫌なんだとさ」
「そりゃ、そうだろうね。あの子たちにとっちゃ、あんたの店は特別な場所なんだよ」
忠雄は、しばらく黙っていた。
「俺だって、本当は寂しいよ。女房と一緒にやってきた店だからな。店を閉めるって決めたときも、簡単に決めたわけじゃない」
「わかってるよ」
「でも、もう七十三だ。いつまで、今までどおりに働けるかわからねえ。衛に継がせるにしても、教える時間がいる。店を残したいって気持ちだけで、決められる話じゃねえんだ」
「そのとおりさ」
ヨシエは、蕎麦焼酎をひと口飲んだ。
「だから、あんた自身が決めるんだよ。店を残したいのか。誰かに託したいのか。それとも、ここで暖簾を下ろして、別の人生を始めたいのか」
「別の人生、ねえ……」
忠雄は、店内を見回した。
何十年も使ってきた調理場。
毎日、暖簾を掛けてきた入口。
常連客の座る席。
ここには、数えきれないほどの思い出がある。
けれど、思い出があるからといって、永遠に同じ形で残せるわけではない。
「俺は……」
忠雄は、ゆっくりと口を開いた。
「この店が、なくなってほしくないんだろうな」
ヨシエは黙って聞いていた。
「でも、自分がいつまでも店に立ち続けられるとも思っていない。衛に任せられるなら、そりゃうれしい。だが、あいつの人生まで、この店に縛りつけたくはねえ」
「それなら、まずは腹を割って話すことだね」
「そうだな」
「衛がどこまで本気なのか。どこまで覚悟があるのか。あんたが何を教えられて、何を教えられないのか。経営の数字も、きちんと見直す。そうやって、二人で現実を確かめるんだよ」
「簡単にはいかねえな」
「簡単にいく話なら、あたしのところに持ち込まないだろう?」
忠雄は、また笑った。
*
数日後。
忠雄と衛は、店の営業が終わったあと、向かい合って話をした。
衛は、自分が覚えなければならない技術と、店を継いだ場合の収支について、ひとつずつ確認した。
忠雄も、できることと、できないことを率直に伝えた。
何年で一人前になれるのか。
その間、どのように収入を確保するのか。
店を継いだあと、経営を続けられるのか。
まだ答えの出ない問題は、いくつもあった。
それでも、二人は初めて、夢と現実を同じ机の上に並べて考えた。
店を継ぐかどうか。
その答えは、まだ出ていない。
だが、少なくとも、義父の善意だけに頼って始める話ではなくなった。
*
「で、どうなったんだい?」
いつもの蕎麦屋で、ヨシエは忠雄に尋ねた。
「まだ、決まってねえよ」
「そうかい」
「だが、衛とちゃんと話した。これから、数字も技術も、具体的に調べていく。できるかどうか、二人で考えることにした」
「上出来じゃないか」
ヨシエは、満足そうにうなずいた。
「夢を持つのは自由さ。でも、その夢を誰かに背負わせるのは、また別の話だからね」
「……ああ」
「それにね、店を残す方法は、暖簾を継ぐことだけじゃない。もし継げなかったとしても、家族の思い出までなくなるわけじゃないんだよ」
忠雄は、静かにうなずいた。
「わかってるよ」
「なら、あとはあんたたちが決めな。あたしは占い師であって、あんたの人生の決定権まで持ってるわけじゃないからね」
「最後まで、口が悪いな」
「親切な占い師だと思われたら、商売にならないんだよ」
ヨシエは、蕎麦焼酎のグラスを持ち上げた。
忠雄も、笑いながら自分のグラスを持った。
店を継ぐのか。
それとも、暖簾を下ろすのか。
答えは、まだ先にある。
だが、夢を語るだけの時間は終わった。
これから始まるのは、夢を現実にできるかどうかを、二人で確かめる時間だった。
ヨシエは、二人の行く末を思いながら、蕎麦焼酎を飲み干した。
「さて……次は、どこの誰が困ってるんだい?」
占いババアの算段は、まだまだ終わりそうになかった。




