第四話 家族の想い
「娘さんたちは何と言ってるんだい?」
内幸町の占いの店で、内海ヨシエはタブレットを脇に置き、権藤忠雄に尋ねた。
「まだ、ちゃんとは話してねえよ。来年、店を閉めるつもりだとは言ったがな」
「三人も娘がいるんだ。そりゃ、それぞれ思うところがあるだろうさ」
「まあな……」
忠雄は、いつになく歯切れが悪かった。
長女の真理子は四十八歳。二年前に離婚し、中学三年生の息子を一人で育てている。
次女の美奈子は四十三歳。夫の衛は洋食店の料理人で、今の蕎麦屋を継ぎたいと言っている。
三女の奈緒子は三十八歳。来年、結婚する予定だ。
三人とも、父親のことを心配していないわけではない。
ただ、心配の仕方は、それぞれ違っていた。
*
最初に口を開いたのは、長女の真理子だった。
「お父さん、本当に来年でお店を閉めるの?」
「ああ。そのつもりだ」
「……そう」
真理子は、すぐには何も言わなかった。
父が長年、朝早くから仕込みをして、夜遅くまで働いてきたことを知っている。
母が亡くなってからの二年間も、父は店に立ち続けた。
もう、十分に働いたのではないか。
そう思う一方で、息子が小さい頃から通い慣れた店がなくなることには、寂しさがあった。
「お父さんが決めたことなら、私は反対できないよ。でも……寂しくなるね」
「ああ」
「お母さんも、きっとそう思うんじゃないかな」
忠雄は、返事をしなかった。
亡くなった妻と一緒に店を切り盛りしていた日々が、胸の奥によみがえった。
*
次女の美奈子は、夫の衛が蕎麦屋を継ぎたいと言っていることを知っていた。
もちろん、美奈子自身も、店が残ってくれたらうれしい。
子どもたちは、物心ついた頃から祖父の店に通っている。
自分たちの家とは別に、いつでも帰れる場所がある。
それがなくなるのは、やはり寂しかった。
けれど、父の身体も心配だった。
「お父さん。衛さんが継ぎたいって言ってくれているのは、ありがたいと思う。でも、無理はしてほしくないの」
「無理なんかしてねえよ」
「そういう人ほど、無理をするのよ」
美奈子は苦笑した。
「衛さんだって、簡単に考えているわけじゃないと思う。でも、蕎麦屋をやるって、料理を作るだけじゃないでしょう?」
「……ああ」
「お父さんが、いつまで教えられるか。それも考えないといけないよね」
忠雄は、黙ってうなずいた。
娘に言われなくても、わかっている。
だからこそ、簡単には答えを出せなかった。
*
三女の奈緒子は、少し違う角度から父を見ていた。
来年には、自分も結婚する。
これからは自分の家庭を築いていくのだから、父の店のことに口を出しすぎるのも違う気がした。
「お父さん、私もお店がなくなるのは寂しいよ。でも、お父さんが決めたことなら、ちゃんと考えたうえでのことなんでしょう?」
「まあな」
「ただね。お店を閉めたあと、お父さんが毎日どう過ごすのか、それが気になるの」
忠雄は顔を上げた。
「店をやめたら、することがなくなるってわけじゃないぞ」
「わかってる。でも、お父さん、ずっとお店中心だったじゃない。急に生活が変わるでしょう?」
「……そうだな」
奈緒子は、父の顔を見つめた。
「お店を続けるにしても、閉めるにしても、お父さん自身が納得できるようにしてほしい。それだけ」
三人の娘は、みな父を思っていた。
店を残したい気持ちもある。
けれど、それ以上に、父に無理をしてほしくなかった。
そして、その思いは、孫たちにも伝わっていた。
いや、孫たちは大人とは違う理由で、店がなくなることを嫌がっていた。
*
「おじいちゃん、お店やめちゃうの?」
声を上げたのは、次女の美奈子の娘、愛だった。
中学一年生の愛にとって、祖父の蕎麦屋は特別な場所だった。
学校で嫌なことがあった日も、店に来て蕎麦を食べれば、少し気持ちが落ち着いた。
祖父がいつもの顔で「よく来たな」と言ってくれる。
それだけで、なんとなく安心できた。
「来年で閉めるつもりだ」
忠雄が答えると、愛は唇を結んだ。
「……やだな」
その横から、弟の剛と透が声をそろえた。
「おじいちゃん、やめないでよ!」
小学二年生の双子には、難しい事情などわからない。
お店が大変だとか、材料が高くなったとか、そんな話を聞かされても、よく理解できない。
ただ、おじいちゃんのお店がなくなったら、いつもの場所がなくなる。
おじいちゃんが蕎麦を作ってくれる姿も見られなくなる。
それが嫌だった。
「おじいちゃんのお蕎麦、食べられなくなっちゃうの?」
「そうだよ! ずっとやってよ!」
二人は、祖父の服の裾をつかんだ。
「こらこら。そんなに引っ張るな」
忠雄は困った顔をした。
だが、その手を振りほどくことはできなかった。
長女の真理子の息子も、少し離れたところで話を聞いていた。
中学三年生ともなれば、祖父が店を続けることの大変さも、少しはわかる。
母が一人で自分を育てる姿を見てきたからこそ、働くことの苦労も知らないわけではない。
それでも、思い出の詰まった場所がなくなるのは寂しかった。
「じいちゃん……本当に、やめるんだ?」
「そのつもりだ」
「そっか……」
それ以上は言わなかった。
けれど、その顔には、隠しきれない寂しさが浮かんでいた。
*
その話を聞いたヨシエは、しばらく黙っていた。
占い師として、これまで大勢の人間の悩みを聞いてきた。
家族のこと、仕事のこと、金のこと。
人の悩みは、いつだって一つではない。
この蕎麦屋の問題も、そうだった。
忠雄には、身体のことも、商売のこともある。
娘たちには、父を心配する気持ちと、店を失いたくない気持ちがある。
そして孫たちには、ただ、店をなくしたくないという願いがある。
「……なるほどねえ」
ヨシエは、湯飲みを手に取った。
「みんな、アンタのことを考えてるんだね」
「ありがたい話だよ」
忠雄は、少し笑った。
「だが、だからって店を続けられるわけじゃねえ。気持ちだけじゃ、商売はできねえからな」
「そりゃそうさ。気持ちだけで蕎麦粉も出汁も買えりゃ、誰も苦労しないよ」
「お前は、ほんとに言い方がきついな」
「優しい言葉を聞きたきゃ、占いなんか頼まないことだね」
ヨシエは、そう言って笑った。
それから、ふっと表情を改めた。
「でもね、忠雄。アンタの店は、蕎麦を食べるだけの場所じゃなかったんだよ」
忠雄は、顔を上げた。
「孫たちにとっちゃ、おじいちゃんがいて、いつもの蕎麦があって、家族の思い出が詰まった場所なんだろうさ」
「……ああ」
「だからって、無理して続けろって話じゃないよ。年寄りを働かせるために、思い出があるわけじゃないからね」
忠雄は、返す言葉を見つけられなかった。
「店を閉めるのと、家族の思い出が消えるのは、別の話さ。でも、子どもたちには、まだそこまでわからない。だからこそ、あの子たちの気持ちも、ちゃんと受け止めてやりな」
ヨシエは湯飲みを置いた。
「さて……」
目の前の男を、じっと見つめる。
「アンタは、どうしたいんだい?」
「どうしたい、だと?」
「そうさ。娘たちのためでも、孫たちのためでもない。継ぎたいと言っている衛のためでもない。アンタ自身は、どうしたいんだって聞いてるんだよ」
忠雄は、黙り込んだ。
店を続ければ、また明日も仕込みがある。
衛に教えるなら、何年もかかるかもしれない。
店を閉めれば、長年続けてきた仕事に区切りをつけることになる。
どちらを選んでも、簡単ではない。
ヨシエは急かさなかった。
人の運勢を占うことと、人の人生を決めることは違う。
ましてや、七十年以上生きてきた男の決断だ。
他人が簡単に答えを出していいものではない。
「ま、今日はここまでだね」
ヨシエは立ち上がった。
「次は、アンタ自身の算段を聞かせてもらうよ」
忠雄は、黙ってうなずいた。
家族の思いは、わかった。
だが、それだけでは決められない。
暖簾を下ろすのか。
それとも、誰かに託すのか。
長年続けてきた蕎麦屋の行く末は、まだ決まっていなかった。




