第三話 継ぎたい理由
午後六時。
内幸町の小さな占いの店で、内海ヨシエはタブレットの画面を確認していた。
今日の仕事は、もう終わりだ。
「さて、帰るとするかね」
そう言って立ち上がったヨシエは、店の戸締まりを済ませると、神谷町へ向かった。
行き先は、いつもの蕎麦処 権堂。
店主の権藤忠雄は七十三歳。長年続けてきた蕎麦屋を、来年閉めようと考えている。
ところが、次女の夫である矢田衛は、店を継ぎたいと言っているらしい。
ヨシエとしては、本人の話を聞かないことには、算段の立てようもない。
暖簾をくぐると、忠雄が厨房から顔を出した。
「おう、ヨシエ。いらっしゃい」
「いつものを頼むよ」
「蕎麦焼酎か?」
「ほかに何を飲むってんだい」
忠雄は笑いながら、蕎麦焼酎と板わさ、だし巻き卵を用意した。
ヨシエがカウンターの席に腰を下ろしたところで、店の戸が開いた。
「こんばんは」
入ってきたのは、矢田衛だった。
「あれ、衛さんじゃないか」
「お義父さん、ちょっと話があって」
衛は厨房の忠雄に声をかけた。
「おう。ちょうどいいところに来たな」
忠雄がヨシエに目を向ける。
「こいつが、店を継ぎたいと言ってる衛だよ」
「知ってるよ。何度も顔を合わせてるじゃないか」
ヨシエは衛を見上げた。
「まあ、座りな。あんたの話を聞こうじゃないか」
「はい」
衛はヨシエの隣に腰を下ろした。
「それで、衛さん。どうして、この店を継ぎたいんだい?」
いきなりの質問に、衛は少し戸惑った。
「それは……なくしたくないからです」
「何をだい?」
「この店を、です」
ヨシエは、ふん、と鼻を鳴らした。
「そりゃ、わかってるよ。あたしが聞いてるのは、どうしてなくしたくないのかってことさ」
衛は、目の前の板わさに視線を落とした。
「お義父さんには、ずっとお世話になってきました」
忠雄は、黙って二人の話を聞いていた。
「美奈子と結婚してからも、僕を一人の料理人として見てくれたんです。料理の話をすれば、真剣に聞いてくれる。僕が作ったものにも、遠慮なく意見を言ってくれる」
「そりゃ、料理人同士だからだろうね」
「はい。だからこそ、尊敬しているんです」
衛は、顔を上げた。
「お義父さんが、長年この店を守ってきたことも知っています。簡単なことじゃなかったはずです」
忠雄は、照れくさそうに頭をかいた。
「そんな大したもんじゃないよ。毎日、蕎麦を打ってきただけだ」
「その毎日が、すごいんです」
衛の言葉に、忠雄は何も返せなかった。
ヨシエは、焼酎をひと口飲んだ。
「それで?」
「それで、って……」
「義父さんへの恩義はわかったよ。ほかにはないのかい?」
衛は少し考えた。
「僕は、この店が好きなんです」
「蕎麦がうまいからかい?」
「それもあります。でも、それだけじゃありません」
衛は店内を見回した。
長年使われてきたカウンター。壁に掛かった品書き。常連客がいつも座る席。
この店には、いつも同じような時間が流れていた。
仕事帰りに立ち寄る客。
黙って蕎麦をすすり、食べ終わると「ごちそうさん」と言って帰っていく客。
店主と世間話をしながら、いつもの一杯を楽しむ客。
「この店には、ここでしか生まれない時間があると思うんです」
衛は続けた。
「店がなくなったら、そういう時間もなくなってしまう。それが、寂しいんです」
ヨシエは、しばらく衛の顔を見ていた。
「なるほどねえ」
そして、少し意地悪そうに笑った。
「だったら、アンタが毎日、ここで蕎麦を食べに来ればいいじゃないか」
「えっ?」
「店がなくなっても、アンタが蕎麦を食べるのは自由だろう?」
「そういうことじゃないんです」
衛は苦笑した。
「自分が食べられればいい、という話ではありませんから」
「そうかい」
ヨシエは、うなずいた。
この男は、ただ店を自分のものにしたいわけではないらしい。
「それで、料理人としてはどうなんだい?」
「料理人として?」
「洋食屋で働いてるんだろう。今の仕事を辞めて、蕎麦屋をやる。そっちはどう考えてるんだい?」
衛は、すぐには答えなかった。
「正直に言えば、挑戦してみたいんです」
「ほう」
「洋食と蕎麦では、違うことばかりでしょう。でも、料理人として、別の世界を学ぶことには魅力を感じています」
「蕎麦打ちは、やったことがあるのかい?」
「本格的にはありません」
「茹では?」
「お義父さんのようにはできません」
「出汁は?」
「まだまだ勉強が必要です」
ヨシエは、立て続けに質問した。
衛は、どれにもごまかさずに答えた。
「蕎麦屋の仕事は、料理を作るだけじゃないよ。仕入れも、仕込みも、接客も、経営もある。わかってるのかい?」
「はい。簡単だとは思っていません」
「だったら、どうして継げると思うんだい?」
衛は、唇を結んだ。
「今の僕に、全部できるとは思っていません」
「じゃあ、無理じゃないか」
忠雄が、思わず口を挟んだ。
「ヨシエ、そんな言い方をしなくても……」
「うるさいね。あたしは、この人に聞いてるんだよ」
衛は、首を横に振った。
「いえ。いいんです」
そして、ゆっくりと言った。
「今できないからといって、最初から諦めたくはないんです。修業が必要なら、教えていただきたい。自分に足りないものがあるなら、身につけたいんです」
「何年かかるかわからないよ」
「はい」
「その間、義父さんは店に立たなきゃならない。アンタが一人前になるまで、ずっとだ」
衛は黙った。
ヨシエは、さらに続けた。
「蕎麦打ちを覚えるだけじゃない。茹でだって、出汁だって、簡単にはいかない。店を継いだら、今度は経営の心配もある。材料費が上がったらどうする。客が減ったらどうする。アンタの家族だっているんだろう?」
「はい」
「美奈子さんも、子どもたちもいる。アンタ一人の話じゃないんだよ」
衛は、膝の上で両手を握りしめた。
「わかっています」
「本当にわかってるのかい?」
厳しい問いだった。
衛は、すぐに答えられなかった。
自分が店を継ぎたいと思う理由は、いくつもある。
義父への恩義。
店への愛着。
料理人としての挑戦。
そして、家族に大切な場所を残したいという気持ち。
だが、その気持ちを実現するために、誰がどれだけの負担を背負うのか。
そこまで、十分に考えていただろうか。
衛は、ようやく顔を上げた。
「……まだ、わかっていないこともあると思います」
ヨシエは、少しだけ目を細めた。
「へえ。正直じゃないか」
「でも、考えたいんです。お義父さんが大切にしてきた店を、どうすれば残せるのか」
忠雄が、静かに口を開いた。
「衛。俺はな、お前に苦労をさせたくないんだ」
「わかっています」
「蕎麦屋は、見た目ほど楽な仕事じゃない。年を取ってくると、なおさらだ。俺だって、いつまで続けられるかわからない」
「はい」
「それでも、お前は継ぎたいのか?」
衛は、義父の顔を見つめた。
「はい。継ぎたいです」
迷いのない返事だった。
「ただ……お義父さんに無理をさせてまで、とは思っていません」
忠雄は、何も言わなかった。
衛の気持ちは、よくわかった。
だからこそ、簡単には答えを出せなかった。
ヨシエは、空になったグラスをカウンターに置いた。
「ふうん」
そして、二人を交互に見た。
「アンタたち、似た者同士だねえ」
「え?」
衛と忠雄が、同時に顔を向けた。
「店を残したい衛さんと、家族に苦労をさせたくない忠雄。どっちも相手のことを考えてる。だから、話がややこしくなるんだよ」
ヨシエは、だし巻き卵の最後の一切れを口に入れた。
「でもね、気持ちだけじゃ、蕎麦屋は続けられない」
二人は黙っていた。
「かといって、金勘定だけで決められる話でもない。まずは、何ができて、何ができないのか。そこをはっきりさせることだね」
ヨシエは、忠雄に向き直った。
「アンタ、衛さんに蕎麦を教えるとしたら、どれくらいかかると思ってるんだい?」
「そりゃ……簡単には言えないよ」
「そうだろうね」
ヨシエは、ふっと笑った。
「だったら、そこから算段を始めるとするかね」
店の外では、夜の街を行き交う人々が、足早に家路を急いでいた。
蕎麦処 権堂の暖簾は、今日も静かに揺れている。
だが、この暖簾が来年も同じ場所に掛かっている保証は、どこにもなかった。




