第二話 暖簾を継ぐということ
「それで、三人の娘たちは何と言ってるんだい?」
蕎麦処 権堂のカウンターで、内海ヨシエは蕎麦焼酎のグラスを傾けた。
目の前には、板わさと、まだ湯気の立つだし巻き卵。
権藤忠雄は、厨房の中で蕎麦を茹でる手を止めた。
「まだ、ちゃんと話してないんだ」
「はあ?」
ヨシエの眉が、ぴくりと動いた。
「アンタ、来年店を閉めるって決めたんだろう? なのに、娘たちにも話してないのかい」
「いや、店を閉めること自体は、前から考えていたんだよ」
「考えていたのと、決めたのは違うだろうが」
忠雄は苦笑した。
七十三歳。
蕎麦屋を始めてから、長い年月が過ぎた。
妻と二人で店を切り盛りしていた頃は、忙しくても苦にはならなかった。客が帰り際に「うまかったよ」と言ってくれれば、それだけで疲れも吹き飛んだ。
だが、二年前に妻を亡くしてからは、何もかもが変わった。
店を手伝ってくれる人はいる。
長年通ってくれる常連客もいる。
それでも、最後に決断するのは自分だった。
「三人とも、それぞれの生活があるからな」
「そりゃそうだね」
ヨシエは、あっさりとうなずいた。
「長女の真理子は、離婚して子どもを育ててる。次女の美奈子には、子どもが三人いる。三女の奈緒子は、来年結婚するんだったね」
「よく覚えてるな」
「アンタが話したんだろうが。年寄り扱いするんじゃないよ」
忠雄は、思わず笑った。
ヨシエは七十八歳。
自分より五歳年上なのに、言うことは相変わらず遠慮がない。
「誰か一人でも、店を継いでくれればと思わなかったわけじゃない。でも、こっちから頼むのもな……」
「頼んだら、断られるのが怖いのかい?」
「そういうわけじゃないさ」
「じゃあ、何だい」
忠雄は返事をしなかった。
ヨシエは、だし巻き卵を一切れ口に運んだ。
「うん。相変わらず、いい味だね」
「そりゃどうも」
「こんなものを作れる店をなくすのは、もったいないねえ」
忠雄の顔が、少し曇った。
「だから、困ってるんだよ」
「で、衛さんはどうなんだい?」
次女の美奈子の夫、矢田衛。
四十歳。
洋食屋で働く料理人だ。
「衛は、店を継ぎたいと言ってくれてるんだ」
「ほう」
ヨシエは、グラスを置いた。
「そりゃ、いい話じゃないか」
「簡単に言うなよ」
忠雄の声に、苦笑が混じった。
「衛は洋食屋の料理人だ。料理はできる。でも、蕎麦屋は違うんだよ」
「何が違うんだい?」
「蕎麦を打つのも、茹でるのも、出汁を取るのも、全部、ここのやり方がある。覚えることは山ほどあるんだ」
「なるほどねえ」
ヨシエは、焼酎をひと口飲んだ。
「料理人なら、何でもできるってわけじゃないんだね」
「そういうことだ」
「じゃあ、衛さんが修業する間、アンタはどうするんだい?」
忠雄は黙った。
「教えるんだろう? 蕎麦打ちも、茹でも、出汁も。店の仕事を一通り覚えるまで、そばについてやらなきゃならない」
「まあ、そうなるな」
「アンタ、今、何歳だい?」
「七十三だよ」
「知ってるよ。聞いてるのは、何歳まで働くつもりなのかってことさ」
忠雄は、答えに詰まった。
「衛さんが一人前になるまで、何年かかるかねえ」
「それは……本人の努力次第だろう」
「そうだね。本人の努力次第だ。でも、教えるアンタの体力だって、本人の努力でどうにかなるもんじゃない」
厨房から、湯の沸く音が聞こえた。
忠雄は、もう何十年もこの音を聞いてきた。
朝早くから仕込みをし、蕎麦を打ち、昼の忙しさを乗り切る。客が途切れれば、次の仕込みをする。
そんな毎日を、いつまで続けられるのだろう。
「それにな」
ヨシエは、さらに言った。
「店を譲ったからって、アンタの心配がなくなるわけじゃないだろう?」
忠雄は、苦笑いした。
「……そうだな」
衛に任せれば、最初は何かと気になるはずだ。
仕入れはどうする。
常連客への接し方はどうする。
売上は足りているのか。
値上げをしたら、客が離れてしまわないか。
自分が長年築いてきた店だからこそ、口を出したくなるに違いない。
そして、口を出せば、今度は衛がやりにくくなる。
「おまけに、材料費は上がる一方だ。蕎麦粉も、鰹節も、昆布も、醤油もな」
忠雄は、カウンターの向こうでため息をついた。
「値上げすれば、長年の客が来なくなるかもしれない。かといって、今の値段じゃ苦しい。衛に継がせて、あいつにそんな苦労まで背負わせていいのかと思うんだ」
ヨシエは、しばらく忠雄を見つめていた。
やがて、ふん、と鼻を鳴らした。
「アンタは、店を残したいのかい。それとも、家族に苦労させたくないのかい?」
「……両方だよ」
「欲張りだねえ」
「そりゃ、そうだろう。長年やってきた店なんだから」
「わかってるさ」
ヨシエの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「だから、あたしも考えてるんだよ」
「何を?」
「この店の算段さ」
忠雄は、目を丸くした。
「お前、占いで店の経営までわかるのか?」
「バカ言ってんじゃないよ。占いで蕎麦粉の値段が下がるなら、苦労はしないさ」
ヨシエは、焼酎を飲み干した。
「まずは、衛さんの話を聞く。それから、娘たちの話も聞く。アンタが何を残したいのかもね」
「そこまでしなくても……」
「うるさいね。あたしが気になったんだから、あたしの勝手だよ」
忠雄は、とうとう声を出して笑った。
「昔から、お前にはかなわんな」
「今頃、気づいたのかい」
ヨシエは、得意げに胸を張った。
そのとき、厨房から蕎麦が茹で上がる音がした。
忠雄は、いつものように蕎麦を湯から上げ、手早く仕上げていく。
その手つきを、ヨシエは黙って眺めていた。
長年、当たり前のように繰り返してきた仕事。
だが、その当たり前が、来年にはなくなるかもしれない。
店を継ぐということ。
店を閉めるということ。
どちらを選んでも、簡単な話ではない。
ヨシエは、出された温かいとろろ昆布蕎麦に箸をつけた。
「忠雄」
「ん?」
「まだ、閉めると決めたわけじゃないんだろう?」
忠雄は、少し考えてから答えた。
「……ああ。まだ、決めきれないところもある」
「なら、話はこれからだね」
ヨシエは、蕎麦をすすった。
さて。
まずは、衛という男が何を考えているのか。
そこから聞いてみるとするか。
内幸町の占いババアは、次の算段に取りかかろうとしていた。




