第6章 帰らなかったもの
リリの家へ行く前に、シオンは服を洗った。
汚れは落ちた。袖口の小さな染みだけが落ちなかった。
何度もこすっていると、リリの声を思い出した。
生地が薄くなるよ。
言われたことのある、ありふれた注意だった。
手が止まった。
桶の水に、顔が映っていた。
遺体の返還申請は、受理されなかった。
中央都市の窓口で、係員は規定集を開いた。何度も同じ説明をしているらしく、指が迷わず同じ箇所へ置かれた。
「競技に殉じた選手については、中央の管理下において――」
「埋めたいんです」
「規定により、ご遺体の返却は行っておりません」
「お金なら、次の分配から」
「金額の問題ではありません」
「じゃあ、何の問題ですか」
係員は困った顔をした。
悪意のある顔ではなかった。それがシオンを、ますます行き場のない気持ちにさせた。
「身も心も捧げる。皆様、その覚悟で」
「死んだら、どこへ行ったって同じだって言うんですか」
後ろで待っている人が、咳払いをした。
監督がシオンの手首へ触れた。
シオンは振り払わなかった。
村では、リリのために食卓が用意されていた。
小さな椀へ水が満たされていた。中央都市から来た水だった。
シオンは、それを見ないようにして頭を下げた。
「ごめんなさい」
リリの家族は、顔を上げてほしいと言った。
村の人は、リリは立派だったと言った。
子供は、リリの風がいちばん綺麗だったと言った。
シオンはどれにも、うまく答えられなかった。
表で、人の声がした。
大きな花束を抱えた男が、入口の前に立っていた。
オメガだった。
後ろには、何人かの友人がいた。
「ほら、泣くなよ。お別れを言いに来たんだろう?」
「うぐっ……ひっ、ひぃぃん……」
来る途中から、ずっと泣いていたらしかった。
「全く、お前は昔から図体デカいのに心がよわ――」
オメガの肩が、びくっと跳ねた。
「いや違うって! そういう意味じゃないから! ごめんって!」
友人が慌てて背中をさすった。
オメガは鼻をすすりながら、リリの家族へ花束を差し出した。
「本当に優しい方で……残念でなりません……うぐっ」
また泣いた。
隣の友人が、大きな背中を撫でた。
「よしよし……」
リリの家族が、花束を両手で受け取った。
「来てくださって、ありがとうございます」
オメガは何度もうなずいた。
シオンは場所を空けた。
花の包みが、小さく音を立てた。
帰り際、リリの部屋から荷物を預かった。遠征に持っていかなかった上着だった。
「寒がりだったから」
渡す人も、それをどう使えばいいのか分かっていなかった。
シオンは抱きしめて受け取った。
*
次の出場を辞めると言いかけた日、給水所で子供が桶を倒した。
以前なら、泣くほどの失敗だった。
その日は、母親がため息をついて、もう一度蛇口を開いた。
シオンは見ていた。
自分たちが勝ったことで、その程度の失敗になったのだった。
監督は、広場の端にいた。
「辞めるか」
聞かれて、シオンはすぐには答えなかった。
「続けたら、また誰か死ぬかもしれない」
「そうだ」
「私かもしれない」
「そうだ」
「監督は、怖くないの」
老婆は杖を肩から下ろした。先端を地面へ突くのではなく、両手で横に持った。
「怖くなくなるほど、長く生きとらん」
シオンは顔を上げた。
「私、リリを連れて帰れなかった」
「お前が持ってきたものは、家へ届いた」
「そういうことじゃない」
「分かっとる」
同じ言葉だった。
競技場で聞いたときには、許せなかった言葉だった。
今は、その後ろに何があるか、少しだけ考えられた。
「だから、まだ終われない」
シオンは言った。
「勝って、ちゃんと話を聞いてもらえるところまで行く。どこにいるのか、せめて知りたい」
監督はしばらく黙っていた。
「それと試合に勝つことを、ひとつにするなよ」
「どういう意味?」
「相手の顔を見ながら、ここにいない人間と戦うな」
シオンは返事をしなかった。
その夜、剣白がリリの使っていた椅子を直していた。
脚が一本、ぐらついていた。何度も腰掛けた本人が、修理を後回しにしていたものだった。
「もう使わないよ」
言ってから、シオンは後悔した。
剣白は木片を削り続けた。
「使うやつが来る」
「そんなに、すぐ」
「代わりじゃない」
木屑が、膝から落ちた。
「椅子だ」
シオンはその場にしゃがんだ。
床の木屑を、指で集めた。




