第16章 英雄になる前
まだ彼を英雄と呼ぶ者はいなかった。
彼には、泣いている子供を黙らせるほどの名前も、争う街を従わせる兵もなかった。
背負った幼馴染の重さだけを知っていた。
岩山の向こうで煙が上がっていた。
何のために誰が燃やしたのか、もう確かめる余裕はなかった。水の取り合いだったかもしれない。穀物かもしれない。あるいは、前に奪われたものへの仕返しだったかもしれない。
彼女が魔法で道を開いた。
開きすぎた。
後の時代なら、魔力暴走と呼ばれる現象だった。
使いすぎた魔力が身体へ残り、人の形そのものを変えてしまうことがある。
けれど、その頃の彼は、そんな名前さえ知らなかった。
敵を遠ざけた光は、彼女の身体から消えなくなった。
「下ろして」
耳元で言われた。
「もう少し」
「重いでしょ」
「重くない」
「嘘」
「あとで文句を言え」
洞窟を見つけた。
奥は冷たかった。壁に、見たことのない鉱物があった。火を持っていないのに、その石は彼女の光を受けて淡く輝いた。
彼は幼馴染を下ろした。
足首から先が、透けていた。
最初は光のせいだと思った。
手を入れれば、いつもの皮膚の感触が戻ると思った。
指先に触れたのは、硬く、冷たいものだった。
触れた拍子に、爪ほどの透明な欠片が床へ落ちた。
彼は拾った。
捨てられなかった。
彼女の身体から落ちたものを、ただの石として扱うことができなかった。
布に包み、懐へしまった。
「痛い?」
彼が聞いた。
「いまは、よく分からない」
彼女は答えた。
それが嘘かどうか、彼には分からなかった。
水が落ちた。
乾いていたはずの足元へ、透明な滴ができた。
彼は掌ですくった。
匂いを嗅ぎ、舐めた。
水だった。
彼女が、それを見て笑った。
「飲める?」
「ああ」
「よかった」
「よくない」
彼は即座に言った。
彼女の笑顔が止まった。
「こんなの、よくない。外へ出る。医者を探す」
彼は立ち上がり、また彼女を抱き上げようとした。
変わりかけた足が、鉱物の根とつながっていた。
引いたら何が起きるか、分からなかった。
彼女が彼の腕を押さえた。
「待って」
彼は止まった。
待つ以外のことが、何一つできなかった。
*
最初の夜は、眠らなかった。
二日目に、外で助けを探した。
三日目、戻ると彼女の膝が変わっていた。
持ち帰った薬を飲ませた。熱を測った。布を温めた。温めると楽だというので、何度も替えた。
変化は止まらなかった。
「話して」
彼女が言った。
「何を」
「何でも」
彼は、まだ平和だった頃の川の話をした。
彼女が流した履物を、二人で追いかけた話。
盗んだ木の実がすっぱくて、二人とも盗んだことより味に腹を立てた話。
彼女はところどころで笑った。
笑うと、胸の光が揺れた。
彼はそれを見るたび、話を止めた。
「続けて」
彼女は言った。
だから続けた。
洞窟の入口に、母親が子供を連れて来た。
水の匂いがした、と言った。
彼は追い返そうとした。
子供の唇が割れていた。
幼馴染が奥から、名前を呼んだ。
「分けてあげて」
彼は器を取った。
母親は水を飲ませながら泣いた。
彼女はその声を聞いて、少しだけ安心したように目を閉じた。
夜、彼は泣いた。
彼女に背を向けていた。
「聞こえてる」
言われて、息を止めた。
「泣いてない」
「じゃあ、こっち向いて」
向けなかった。
しばらくして、彼女が手を伸ばした。
まだ人のままだった手が、背中へ触れた。
「ねえ。もう、分かってるでしょ」
彼は首を振った。
「分かってない」
「私のこと」
「分かってない」
「私に起きたこの現象を使ってみんなを助けてあげて。もう争わないですむように……」
最後まで聞けなかった。
「嫌だ」
彼は振り向いた。
「お前を助ける。そんなことを頼むな」
彼女は、怒らなかった。
彼が怒れるだけの力を残していることを、喜ぶような顔をした。
「助けようとしてくれてるの、知ってる」
「なら」
「知ってるよ」
彼女の手が、彼の袖をつかんだ。
その力は、いつもより弱かった。
彼は手を重ねた。
願いを引き受けると口にしたら、救うことを諦めたことになる気がした。
だから、その場では何も約束しなかった。
彼女も、答えを急がせなかった。
洞窟の奥で、水滴が落ちていた。
*
呼びかけへの返事は、少しずつ遅くなった。
ある日は、目が合った。
ある日は、合わなかった。
彼は記録をつけた。
返事をした日を、忘れたくなかった。
返事がなかった日を、昨日と同じだと思いたくなかった。
外には人が増えた。
器を持って、並んだ。
彼は水を運んだ。
洞窟へ戻り、彼女へ話しかけた。
「今日の子供は、ちゃんと歩いて帰った」
返事はなかった。
「お前の水だ」
その言い方が嫌で、言い直した。
「お前が、分けてくれた水だ」
彼女の指は、もう袖をつかめなかった。




