第11章 もう一球
練習の合間、剣白が座って目を閉じていることがあった。
眠っているのかと思って、メイは足を止めた。
背後に、白い髪の男がいた。
長い髪が肩を越えていた。村でも、中央の競技場でも、見た覚えのない顔だった。
剣白が目を開くと、見えなくなった。
「さっき後ろに白い髪の男の人が見えた」
「ツル兄さんだ」
それだけだった。
剣白は立ち、球を拾った。メイはもう一度、その後ろを見た。
誰もいなかった。
大会が進み、再戦の組み合わせが決まった。
リリを殺した男の街だった。
最初の遠征から、いくつもの配給日が過ぎていた。干された上着が薄手のものに変わり、練習後の汗を拭く布が、前より早く乾くようになっていた。
シオンは対戦表を長く見た。
エレーヌは隣で、何も言わなかった。
紙を押さえる手が、白くなっていた。
*
試合前夜、監督は机に三本の線を引いた。
「正面からいつもどおりにやれば、分が悪い」
75。50。25。
シンボルに残る耐久の割合だった。
「最初の支援権は、見送る。次もだ」
メイが顔を上げた。
「その間、札なしですか」
「そうだ。一度見送れば、次はコモンが消える。二度続ければ、最後の25でコモンとアンコモンが消える。レア以上の三択だ」
シオンは25の線を見た。
「そこまで削る前に、崩されたら」
「何ももらえん。二度の好機を捨てただけになる」
監督は、三人を順番に見た。
「欲しいのは回復札だ」
回復にも、下級、中級、上級、特級がある。そもそもコモンには回復札がない。中級以上なら、一人を立て直せる見込みがある。
それでも、欲しい札が三枚に入るとは限らなかった。
「三人とも無傷は無理だ。だが、普段の七割ほど動けりゃ、あの連携はできる」
監督が剣白を見た。
剣白はうなずいた。
練習で一度だけ、使ったことがあった。
多想転衝。
練習の前にも、剣白は目を閉じ、呼吸を整えていた。誰へ想いを向けるのかを、何度も確かめるように。
魔法で球を押すのではない。背負う想いを、踏み込む足と拳へ集めるための集中だった。
打ったあとの剣白は、しばらく立てなかった。一試合で何度も使える技ではなかった。
球の行方も、まっすぐには定まらなかった。剣白の一撃だけで、あの相手の守りを破れる保証もなかった。
メイの加速を重ねて威力を増し、シオンが導いて、ようやく狙いへ届いた。その一球を打つまでには、三人とも脚と腕と判断を残しておかなければならなかった。
「一人だけ潰れたなら、札で連携に戻せるかもしれん。二人潰れたら、一枚じゃ足りない」
エレーヌが、自分の掌を見た。
「私の治癒じゃ……」
「お前の役目は、交代で二人を休ませることだ。できない治療を約束するな」
監督の声は厳しかった。
エレーヌは掌を閉じ、うなずいた。
「ただし、中級でも傷次第だ。出れば必ず勝てる札ではない。治り切らん可能性も、札そのものが出ん可能性もある」
「出なかったら?」
メイが聞いた。
「札を見て変える。防御なら立て直す。相手を鈍らせられるなら、その隙を使う」
「攻撃を強くする札だったら、あの連携は」
「身体が動かなきゃ、威力だけ増やしてどうする」
監督の杖が、25の線を叩いた。
「札だけ見るな。三人がどれだけ動けるか見ろ。回復が出ても足りんなら、別の手だ」
「どれも使えなかったら」
「生きて帰る手を考える」
シオンが顔を上げた。
「勝つためにやるんだ。死にに行かせるためじゃない。そこを間違えるなら、この作戦はなしだ」
剣白が、ゆっくりとうなずいた。
「それでも、普通にやるよりは」
メイが言った。
「勝ち筋がある」
シオンは机の縁へ手を置いた。
「最後の球。人が前に出ても、威力を落とさずに行きたい」
部屋が静かになった。
普段はシンボルを狙う。相手が守りへ入れば、避けて曲げるか、力を緩める。勝つための球を、誰かを殺す球にしないようにしてきた。
多くの選手は、そうしている。
「リリのことかい」
監督が聞いた。
「関係あるよ。かなり」
シオンは答えた。
「でも、それだけじゃない。普通にやったら勝てないんでしょう?」
机の上の三本の線から、目を上げた。
「私は人を殺したくない」
声は震えなかった。
「でも今回は、相手が傷つかないようにまで考えて威力を落とすつもりはない」
剣白は黙って聞いていた。
メイも、話へ入ってこなかった。
「あの人なら、逃げると思う」
シオンは言った。
「必ずかい」
「……違う。必ずじゃない」
リリは逃げなかった。
「リリみたいに、身体で守ったら」
シオンは自分で続けた。
「死ぬかもしれない。それでも、やる」
「それで勝ったら、おしまいにはならんぞ」
監督の杖が机から離れた。
「本当に死んだら、リリのせいにするな」
「しない」
「私に言われたからでも、ないな」
「私が言ったことだよ」
シオンはうつむかなかった。
「一生、覚えてる。自分が何を提案したか」
監督は、しばらく彼女を見た。
やがて剣白が口を開いた。
「打つのは俺だ」
「増やすのは、私です」
メイが言った。
「自分だけのことにしないでください」
シオンは二人を見た。
誓約書へ署名したときより、手が冷たかった。
*
「おやおやー? また新しいお仲間が増えたのか? いいねぇ、今度はどうやって殺っちまおうかぁ。はっはっは」
男は、メイの髪を目で追った。
「あの嬢ちゃんみたいに逃げずにちゃんと受けろよー。逃げ回られたんじゃ面倒だからよぉ」
シオンの手首で、編み紐が揺れた。
手を握った。
開いた。
メイは何も言い返さなかった。
ベンチで、エレーヌがまっすぐ前を見た。
開始の笛が鳴った。
メイは派手な経路を出さなかった。
球の直前に小さな輪を置き、「加速」を一度だけ働かせて消す。男が笑った。
「中央で見たより、ずいぶん小さくなったな」
「近くで見せてあげます」
メイは球を剣白へ送った。
シオンが角度を変えた。
敵のシンボルに球が当たった。
残り耐久が750を切り、片翼が消えた。
笛。
「タイム。支援選択」
「パス」
シオンが答えた。
再開した相手は、次の球をメイへ向けた。
剣白が、その前にいた。
胸で受けた球を両手で抱え込む。
メイが息を呑んだ。
「私、避けられました」
「次に備えろ」
剣白は球を渡した。
シオンも狙われた。
彼女が大きく流せば球は外へ抜ける。だが腕も魔力も使う。
剣白が肩で止めた。
自分だけなら避けられる一球へも、彼は出た。
足は、まだ動いていた。
次の攻防で、シオンの流した球が指先の外を抜けた。背後のシンボルへぶつかり、片翼が消えた。
相手にも、支援権が出た。
男は見送らなかった。
「次の一球、威力1.5倍」
選択を告げる声が、コートに響いた。
再開して一巡した球を、男は胸の前で持ち上げた。シンボルを見て、それからメイへ目を戻した。
投げた。
剣白が間へ入った。
受けた腕ごと胸が沈み、踵が土を掘った。
球の目が、剣白の顔のすぐ下で笑っていた。
「札は使わねえのかよ」
男が向こうから呼んだ。
剣白は答えず、メイへ球を渡した。
二度目の支援権が来る頃には、包帯に巻かれていないところを探すほうが難しくなっていた。
相手の残り耐久が500を切る。
もう片方の翼が消えた。
「タイム。支援選択」
「パス」
シオンは剣白を見てから言った。
男が笑った。
「何を待ってんだあ? その壁、先に壊れるぞ」
再開の球が、剣白の左腕を曲げた。
嫌な方向だった。
球は落ちなかった。
彼は右手で抱え直した。
メイが駆け寄りかけた。
剣白は首を振った。
「まだ右がある」
返した直後に、膝が落ちた。
血を吐き、地面へ手をついた。
シオンは自分の腕を見た。
動く。
メイも、走れる。
それが誰の代わりだったのか、分かっていた。
「剣白」
呼ぶと、彼は顔を上げた。
「二人とも、残ってるな」
返事を待たず、立った。
理想の作戦ではなかった。
一人に集めればいいと、こんな姿になることを望んだのではなかった。
それでも、まだ一枚で戻せる余地だけは残っていた。
次の球は、シオンへ飛んできた。
シオンの腕に力が入り、流れが詰まった。
「通して!」
メイが叫んだ。
シオンは息を吐いた。
球は手の届かないところを抜け、メイの短い光へ入った。
剣白が右手で押し返した。
シオンは、もう一度腕を流した。
男の脇を抜けた球が、像の胸へ当たった。
消えたのは、片脚だった。
残り耐久が250を割った。
笛が鳴る。
「タイム。支援選択」
剣白が片膝をついた。
シオンは彼の肩へ触れた。立たせようとはしなかった。
回復札が来れば。
中級でも、せめて、もう一度踏み込めるところまで。
三枚が開いた。
そのうち一枚だけ、金色の縁が静かに光っていた。
実況の声が裏返った。
「レジェンダリー!」
観客が立ち上がった。
完全回復。
肉体損傷。疲労。魔力。
対象一人を、すべて完全な状態へ戻す。
死亡には無効。
シオンは説明を二度読んだ。
こんな札を待っていたのではなかった。
こんな札を当てるつもりで、二度も権利を捨てたのではなかった。
リリの顔が浮かんだ。
あの日にはなかった。
今日、ここにはあった。
「剣白に」
シオンは選んだ。
全身を光が包んだ。
腕が戻った。
肩が上がった。
浅くなっていた呼吸が、深くなった。
剣白は立った。
掌を一度開き、閉じた。
男の笑いが止まった。
「おい。そんなの、運じゃねえか」
「そうだな」
剣白が答えた。
目を閉じた。
深く吸い、吐く。
シオンとメイが、その間の球を受けられる位置へ動いた。
再開の笛に、剣白は目を開いた。
次の球が来た。
両手で、受けた。
メイが走った。
シオンの腕が流れた。
剣白の足の下で土が沈んだ。
投げ上げられた球へ、剣白が踏み込んだ。
肩から腕へ、力が満ちた。
剣白の背後に、人の姿が重なった。
給水所に並ぶ村人。
灯りの下で髪をとかすリリ。
腕を流すシオン。輪を作るメイ。杖を肩へ担いだ監督。
コートにいるはずの二人の姿までそこに見えて、メイは息を呑んだ。輪を出す手は、止めなかった。
リリの荷物を渡されたときの、軽さ。
悲しみも怒りも、嬉しかったことも、帰ってほしいと振られた手も。
剣白は握った。
「多想転衝」
拳が、球へ入った。
空気が破れた。
球は斜めへ暴れた。そのままならシンボルへ届かない。
メイが輪を置いた。
必要なところへ、一つ。「加速」。
通り過ぎた光を消し、次へ一つ。わずかに向きを変え、また加速。
輪を抜ければ、その命令はもう変えられない。
さらに速くなる。さらに強くなる。
軌道が、いっそう手に負えなくなった。
シオンは止めなかった。
あの力を腕力で押さえようとはしなかった。
手と腕を流し、輪を抜けた球そのものへ少しずつ向きを与える。
剣白の力を失わせず、メイの加速も殺さず。
三人で初めて、一本の軌道になった。
男が、シンボルの前にいた。
目が見開かれた。
両腕が上がりかけた。
引っ込んだ。
身体が横へ飛んだ。
球は、男が立っていた場所を通った。
シンボルに当たり、最後の頭が消えた。
終了の笛が鳴った。
剣白は立っていなかった。
膝をつき、地面へ掌を押しつけていた。
シオンが駆け寄る。
メイが反対側へ入る。
「少し、待て」
彼は息をしながら言った。
エレーヌも駆けてきた。切れていたシオンの指に、布を巻いた。
敵の男は、自分のシンボルの跡を見ていた。
手が震えていた。
シオンはそこへ歩いた。
「逃げるなと人には言うのに、あなたは逃げるのね」
男が振り向いた。
「彼女は逃げなかったわ」
言っても、何も戻らなかった。
胸も軽くならなかった。
「次やるときは、制御しきれるか分からない」
自分の指は、まだ痺れていた。
「特に、あなたがコートにいる場合はね」
男の口が動いた。
声にはならなかった。
シオンは背を向けた。
向こうで、剣白が立とうとしていた。
*
観覧席に、セラフィマがいた。
三人が退場するまで、席を立たなかった。
拳が球へ触れた瞬間。
光の輪が、力をさらに増したこと。
そしてあの球を最後まで導いた、シオンの腕。
彼女は膝の上で指を重ねた。
*
その男が引退したと聞いたのは、後日だった。
試合前に笑っていた口から、辞退の言葉が出た。
コートへ戻れば、またあの球が来る。
今度は逃げ切れないかもしれない。
自分が他人へ向けてきた恐怖が、次の出場票へ名前を書かせなかった。
シオンは知らせを聞き、紙を返した。
リリは戻らなかった。
練習場へ行くと、メイが短い輪を作っていた。
休んでいる剣白の前を、球が緩やかに転がった。
エレーヌが拾い、シオンへ渡した。
四人が、そこにいた。
その後も試合を重ね、一般リーグを二位で終えた。
上位3チームには、中央リーグへの参加資格が与えられる。
届いた通知には、村の名前と、四人の登録番号が並んでいた。




