77 先手
コホン、と咳払いをして、リンはリョウの上体を起こした。
メイユは、首を傾げたまま扉の前に立っていた。
辞書ほどもある分厚い本を何冊も抱えているので、その両腕はプルプルと震えている。
「とりあえず座って。誰かに持ってもらわなかったの?」
ロクラはそう言って椅子を引いた。
メイユはリョウの正面に本をドサリと置くと、数回手のひらを開閉してから椅子に腰掛けた。
リョウは、勢いよく落とされた本によって天板が傷ついていないか心配になった。
「声を掛けてもいいのか分かんなかったんだよ。そもそも私の提案なんだから、誰かに負担かけるのは違うでしょ?」
メイユが言うと、ロクラはふーんとだけ反応を返す。
部屋の中には沈黙が訪れた。
「あれ? 私、何か変なこと言いました?」
メイユは落ち着きがない様子だ。
リョウが思わず母親の顔を見ると、リンは微笑んで口を開いた。
「変なことは言ってないと思うわよ。
メイユちゃんの提案なんだから、メイユちゃんが話すんじゃないかと思って待ってただけよ」
メイユはそれを聞いて、背筋を伸ばした。
「分かりました。では私から提案させて下さい……といっても、そんなに大したことではないんですけど」
そういうと、メイユは机の上の本を一冊立てた。
「王都で家庭教師をしてた時の教材とか資料とかがあるから、ここで手に入るものよりリョウくんの助けになるかなと思って。
もし良ければ、持っていって下さい」
重ねて置かれている本は、確かにそういう種類のもののようだ。
「あら、リョウくんは王都の学園に通うつもりなの?」
ロクラが口を挟んだ。
見透かすような眼差しに、リョウは思わずたじろぐ。
「いや、特にそういうつもりではないですけど、どういう選択肢があるのかを知っておきたくて……」
リョウが答えると、ロクラはただでさえ大きいその目を見開いた。
「リョウくん難しい言葉知ってるのね。しっかりしてるわ……」
ロクラは頭を前に出して、左手を顔に当てる。
手のひらをリンに向けるそのジェスチャーは、リンをこれから揶揄う意図を明らかにしている。
「リョウくん、家でお母さんに厳しくされてない? 何かあったら、こっそりおばさんに教えてね」
気持ちばかりのひそひそ声で話すが、当然リンの耳にも届いているはずだ。
ロクラはリョウに話しかけながらも横目ではリンを見ていたため、目に入ったリンの表情がツボに入ったのか、発言の後半には笑い声が混じっていた。
リョウは、この後が怖いのでロクラから目を逸らしてまでリンの表情を見ることはできなかった。
「母さんは優しいです……」
リョウの返事は、消え入るような小さな声になってしまった。
対照的に、ロクラは口を開けて豪快に笑う。
「母さんは優しいです、か。
あのリンが優しいと評価されるなんて、夢の中にいるみたいだな。なあ、リン?」
「私を貶めることへの同意を私に問わないでくれ。
リョウに悪影響になるから、この先ロクラにリョウを会わせることはないだろうし、リョウがロクラに何かを打ち明ける場面も来ない」
「あの、私はリンさんのことを優しいって思ってますよ」
口を挟んだメイユも巻き込まれ、リンとロクラの小競り合いは続いた。
リョウがメイユの用意したものを受け取ることが早々に決まったのもあって、リョウはそのガールズトークを眺めながら、自分たちはいつ帰るんだろうと考えていた。
しかし、香ばしい焼けた肉の匂いと共にやってきた使用人が次々と食事の載った皿をダイニングテーブルの上に並べ始めた時、リョウは夕飯の相伴にあずかることまでが既に決まっていたことを理解した。
その日の食事は、リョウがこれまで食べた中で一番美味しかった。
リョウのお気に入りのメニューは、串に刺した肉を小さな七輪で焼いたもので、砕いたナッツが入ったサワークリームソースとの相性が抜群だった。
あまりの衝撃に、リョウが思わず女性陣の会話に割り込んで何の肉かを聞くと、メイユが親切に魔牛の腿肉だと教えてくれた。
夕食を終えると、自然と解散の流れになった。
「そういえば、他の人には挨拶しなくていいの?」
アワルライン邸の使用人が持って来たトートバッグにメイユが用意した本を詰めながら、リンが聞く。
「いやいや、いいよ。この時期には珍しく、ここ数日アワル村の運営自体が忙しいらしいんだ。
リンは何か聞いてないの? 役場にいることが減ってるってことなら知らないか」
ロクラが答えた。
どこもかしこも大変なんだな、という感想をリョウは持った。
「帰省する人が少なかったからいつもより早く年度初めの仕事を始めたとかじゃなくて?」
「そういうこともあるのかな。ただでさえ魔物が活発でイレギュラーな時期にそんな変なことしなくていいのに」
ロクラの言葉には魂がこもっていて、説得力があった。
リョウは、役場が忙しいのは言えない事情、つまりフータンやユイ関連の何かによるものなのではないかと思い至った。
リンが役場の空気の変容を見落とすはずがない。
少なくとも、リョウはそう信頼していたのだ。
「イレギュラーな時期だからこそ、本当にまずい事態が訪れる前に多少忙しくても仕事をするんじゃないの?」
「本当にまずい事態って何ですか?」
口を挟んだのはメイユだった。
治癒所で前線の人々と接することが多いからこその、正義感のある質問にリョウには聞こえた。
「あんまり危機感を煽りたくはないんだけど……」
リンが言い淀む。
「他の人たちには言わないって約束してくれる?」
メイユは首を縦に振った。
「リョウくんはいいのか?」
ロクラの疑問は至極真っ当なものだった。
七歳児に箝口令を敷くのは通常は至難の業である。
「僕が部屋の外に出てればいい?」
リョウが言うと、リンは「あらそう?」と反応した。
その反応から、リョウは少しだけ誇らしい気持ちになった。
「いや別に、リンが良いって言うなら良いんだけど。そもそもご飯中にも色々話しちゃったし」
ロクラの発言に、リンは頭を掻いた。
「そんなに重い話でもないんだけど、私の前置きが悪かったかな。
実は大鷲よりも脅威になる魔物が南西にいて、その魔物が北上してるから大鷲も追いやられる二重構造になってるんじゃないかとか、大鷲は石壁を越えて軽々と村に侵入してくるんじゃないかとか、それだけの話だよ」
「確かに、大鷲に対してアワルやアッタースの石壁は意味を成さないのか」
ロクラは驚き、次いで納得の表情を見せた。
リョウも納得しながら、自分がその想定に至っていなかったことを悔しく思った。
そして、役場が忙しい要因を早とちりしてしまったかもしれない自分にも未熟さを感じ、反省した。
メイユは押し黙ってしまった。
リンが他言しないように念を押すが、心ここにあらずといった具合だった。
メイユのケアをロクラに任せて、リンはリョウを連れて部屋を出る。
扉の外には使用人が控えていて、ロクラの指示で玄関まで二人を案内してくれた。
屋敷の外の空はすっかり暗くなり、満天の星が瞬いていた。
リョウとリンが手を繋いで歩き出すと、涼しい風がリョウの頬を撫でる。
思えば、リョウにとって、夜遅くに外を歩くのはほとんど初めてのことだった。




