58 安息
ガオに頬を何度か叩かれて、リョウは目を覚ました。
息の詰まるような蒸し暑さと、目の前に広がる木目の天井。
周囲の状況に大きな変化はないように思え、それほど時間が経っていないことが感じ取れた。
「ガオ……」
「魔法の使いすぎか?
ディアンさんを呼んできた方がいいか?」
寝ぼけたように意識は混濁していたものの、リョウは反射的に首を振り、上体を起こした。
「とりあえずこの部屋から出よう」
リョウはガオに肩を借りながら、部屋の外に出たのだった。
部屋の前には、バスマットのような役割の布が敷かれている。
リョウたちはその上に立ち、乾いた布で体を改めて拭く。
乾いた布の入っている棚の上には、二人分の着替えが畳んで用意されていた。
パンツと、薄い半袖のシャツと、幅のあるズボン。
服装の種類はケメルデと変わらないものの、暗めの紺色や深緑色が主体で、森の中での迷彩性を意識したデザインであることに、リョウは文化的な差異を感じ取っていた。
「落ち着いたか?」
肌着に足を通しながら、ガオが尋ねる。
時間帯も手伝い、廊下はひんやりと涼しかったため、リョウの意識も次第にはっきりとしていった。
「ああ、心配かけてごめん。少し疲れてたみたいだ。
魔法の説明をしてたときから、どれくらい経ってる?」
「そんなに経ってないと思う。横にして、ディアンさんを呼ぶか迷ってたら、すぐ目を覚ましたって感じだな」
「それは良かった。魔法の使いすぎもあるかもしれないから、ガオも練習することがあれば気をつけろよ」
ガオはシャツに首を通す。
リョウに向き合ったその表情は、笑顔に包まれていた。
「リョウがそれ言うのか!
いっつも倒れたり無理したりしてるのはリョウの方じゃん!
俺はアワルに帰ってからしか練習しないから安心しろよ」
リョウは自分の行動を省みて、ガオの言い分にも一理あると納得した。
(でも、ちょっとガオに諭されるのはムカつくかもな……)
「そもそも、ガオが泉のところで足を踏み外さなければ……」
リョウとガオの小競り合いは、数分間続いた。
それはある意味で、長い間続いた緊張感の決壊によるもので、二人の口調は刺々しいものではなかった。
アンダルが夕食の時間だと呼びに来る頃には、湿っていた二人の髪はほとんど乾いていた。
アンダルに従って二人が円卓の部屋に入ると、すでに食事は並べられており、ディアンは明かりを背に座り、何らかの書類に目を通していた。
「二人とも、思ったより長かったわね。もうご飯は用意できてるから、温かいうちに食べましょう」
リョウ、ガオに加え、アンダルも同時に食卓につく。
それぞれの前には、水の入ったコップ、生野菜のサラダ、平打ち麺の塩焼きそばのようなものが盛られた皿が置かれている。
麺は油で炒められた艶を放ち、香辛料の香りをまとった湯気が食欲を誘う。
昼とは打って変わって、会話の弾む食卓となった。
主にディアンがリョウたちに質問をし、時折アンダルにフータンの言葉での説明を挟む。
質問の内容は、アワルでのこれまでの暮らしについてのものが主だった。
「リョウって、よくそんな小さい頃の話まで覚えてるよな。俺なんか、ユイの兄ちゃんが運ばれてきたのがリョウの誕生日だったってこと、すっかり忘れてたぜ」
「いや、それは割と最近の話だと思うけど……」
(でも確かに、本当に小さい頃の話まで覚えてると不自然だよな)
リョウは今のところ、別の世界を生きた記憶を持っていることを誰にも明かすつもりはなかった。
「運ばれてきたユイちゃんのお兄さんは、どういう怪我をしていたの?」
手に持っていた木製のコップを置き、ディアンが尋ねる。
リョウは運ばれてきた瞬間を思い返すが、その直後に魔法に気を取られてしまったことで、詳しいことは覚えていなかった。
「詳しくは覚えてないですけど、脇腹から血を流していたと思います」
「転んだりしたのか、魔物に襲われたのか、どっちかしら。流石に、人に襲われたとは思いたくないけど……」
ディアンが斜め上に目線を向けて腕を組み、何かを考え込むような仕草を見せる。
きっと自分の知らない多くの情報を持っているのだろうとリョウがその様子を観察していると、ガオが口を開いた。
「お医者さんは、毒の可能性があるからどうとかって言ってなかったか?」
「そうだったっけ? 正直覚えてないや。
ガオこそ、人の話とかは意外と覚えてるよな」
「『意外と』ってひどくないか? 確かに、リョウとかランに比べると頭は悪いけどさ」
賑やかな食事を終え、家屋の外に設置されている立水栓のような設備で手と口を洗った二人は、昨晩と同じ寝室に案内された。
「エイコーは明日の昼頃に帰るそうだから、間に合いそうならその後すぐにアワルに向かって出発するわ。
まあまあ歩くと思うから、今日はたくさん寝るのよ。おやすみなさい」
ディアンはそう言うと、扉を完全に閉めた。
真っ暗な部屋に、リョウとガオのひそひそ声だけが広がる。
暗闇と静寂の心地よさの中で、二人はほぼ同時に眠りに落ちたのだった。




