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私を選ぶ

午前零時まで、あと十二分。


 サーバールームの中央で、このみは二つの選択肢を見つめていた。


 過去の篠宮このみを完全復元する。


 現在の篠宮このみを維持する。


 どちらを選んでも、何かを失う。


 過去を選べば。


 今の自分が消えるかもしれない。


 現在を選べば。


 三年前の「本当の自分」を失うことになる。


「……どうして」


 このみは主任研究員に尋ねた。


「どうして、こんな選択を私にさせるんですか」


「選ぶのは、あなたである必要があるからです」


「私が……?」


「ええ」


 研究員は静かに答えた。


「三年前、あなたは自分で選べませんでした」


「……」


「あなたは死亡していたからです」


 このみの胸が痛んだ。


「だから、あなたを生かすために武尊さんが選びました」


 武尊が顔を上げる。


「俺が……?」


「そうです」


「じゃあ、今度は?」


「今度はあなた自身が選ぶ番です」


 このみは画面を見る。


 自分の未来。


 自分の存在。


 それを決める選択肢。


 けれど。


 どうしても指が動かない。


「……怖い」


 このみが呟いた。


「何が怖い?」


 武尊が聞く。


「私が、本物じゃないって言われること」


「……」


「三年前に死んだ私と、今ここにいる私は別人なのかもしれない」


 涙が頬を伝う。


「だったら、私は誰なの?」


 武尊は答えなかった。


 代わりに。


 このみの前に立った。


「顔を上げて」


「……」


「このみ」


 その声に、このみは顔を上げる。


「俺は、君が誰なのか分からない」


「……うん」


「三年前の君も知らない」


「うん」


「君が本当に同じ人なのかも、俺には証明できない」


 胸が痛い。


 でも。


 武尊は続けた。


「それでも」


 このみの頬に触れる。


「今、目の前にいる君を好きだと思ってる」


「……」


「それじゃ駄目?」


 このみの目から涙が溢れた。


「……ずるい」


「また?」


「うん」


 泣きながら笑う。


「あなた、いつもそれ言う」


「何を?」


「記憶がないくせに……私が欲しい答えをくれる」


「じゃあ、覚えてないだけで、結構いい男だったのかも」


「自分で言う?」


 二人は小さく笑った。


 その瞬間。


 このみの胸の奥に、何かが落ち着いた。


 過去の自分。


 今の自分。


 どちらが本物なのか。


 そんなことは、もう重要ではないのかもしれない。


 自分は今ここにいる。


 武尊の手を握っている。


 そして。


 彼を好きだと思っている。


 それだけは、誰にも否定できない。


     *


「選びます」


 このみは研究員を見る。


「私は、現在の私を残します」


 研究員は頷いた。


「よろしいのですね?」


「はい」


「過去の記憶は戻りません」


「分かっています」


「武尊さんとの三年間も」


「……はい」


 少しだけ胸が痛む。


 でも。


「思い出を取り戻すために、今の私を消したくない」


 このみは武尊を見る。


「私は、この人とこれからの思い出を作りたい」


 武尊が目を伏せる。


「……うん」


「それに」


 このみは笑った。


「私、毎朝初めましてでもいいかもしれない」


「え?」


「だって」


 涙を拭う。


「毎朝、あなたに好きになってもらえるんでしょう?」


 武尊は目を丸くした。


 そして。


「……それは、かなり嬉しい」


「でしょ?」


「じゃあ、明日の朝も」


「うん」


「初めましてから」


「うん」


「俺、たぶん君を好きになる」


 このみは笑った。


「知ってる」


     *


 研究員が端末を操作する。


「では、記憶完全復元システムを停止します」


 画面に確認表示が出る。


 過去記憶復元:キャンセル


 そして。


 Aster個体維持システム:現行人格を基準として再設定。


 このみの身体が一瞬だけ震えた。


「……っ」


「大丈夫ですか?」


「大丈夫……」


 胸の奥に、熱い感覚が広がる。


 これまで自分を支えていたものが、少しずつ変わっていく。


 武尊の記憶。


 三年前に提供された愛情。


 それに依存していた生命維持システム。


 それを。


 自分自身の現在の記憶へと切り替える。


「同期率……」


 武尊が画面を見る。


「どうなってる?」


 研究員が答える。


「変化しています」


 63%。


 58%。


 51%。


 数字が急激に落ちる。


「まずいんじゃないですか?」


 武尊が声を上げる。


「いいえ」


 研究員は落ち着いていた。


「これは旧システムとの同期率です」


「……?」


「これまでの彼女は、武尊さんの記憶によって生かされていた」


 画面の数字が消える。


 代わりに。


 自己記憶同期:開始


 と表示された。


「これからは」


 研究員は言う。


「彼女自身が、自分の人生を記憶することで生きていく」


 このみは画面を見つめる。


「……私の記憶で?」


「はい」


「じゃあ……」


 このみは武尊を見る。


「もう、武尊が私を覚えていなくても」


 研究員は頷いた。


「あなたは生きていけます」


 その言葉を聞いた瞬間。


 このみは泣いた。


 今まで。


 自分は武尊に覚えていてもらわなければ、生きていけないと思っていた。


 だから。


 忘れられるたびに苦しかった。


 自分の存在が、彼の中から消えてしまうことが怖かった。


 けれど。


 違った。


 もう。


 自分の命を、武尊の記憶に預けなくていい。


 自分自身の記憶で生きられる。


 だから。


 武尊が忘れても。


 自分が覚えていればいい。


     *


 午前零時まで、あと三分。


 施設内の警報が止まった。


 東京都全域の記憶バックアップシステムも、一時的に停止している。


 研究員が言った。


「時間がありません」


「何が?」


「この施設は間もなく封鎖されます」


「……逃げないと」


「はい」


 三人は施設を出た。


 外は静かな夜だった。


 東京湾の向こうに、高層ビルの光が広がっている。


 いつもと同じ東京。


 けれど。


 このみには、まったく違う街に見えた。


「武尊」


「ん?」


「ありがとう」


「何が?」


「三年前」


 武尊は少し困った顔をした。


「俺、覚えてないよ」


「うん」


「だから、お礼を言われても……」


「それでも」


 このみは笑った。


「私が覚えてるから」


 武尊は少しだけ目を細めた。


「そっか」


「うん」


 そのとき。


 街中の時計が一斉に午前零時を示した。


 00:00


 静かな電子音。


 記憶バックアップが再開する。


 武尊の目が一瞬、ぼんやりした。


「……」


「武尊?」


 彼はこのみを見る。


 そして。


 少し困ったように笑った。


「……初めまして」


 このみの胸が痛んだ。


 それでも。


 今回は違った。


 泣かなかった。


 ただ笑った。


「うん」


 そして。


「初めまして」


 武尊は少し考える。


「……よかったら」


「うん?」


「一緒に帰らない?」


 このみは頷く。


「もちろん」


 二人は歩き出した。


 その背中を、研究員は黙って見送っていた。


     *


 翌朝。


 このみが目を覚ます。


 隣には武尊がいる。


 彼はゆっくり目を開けた。


「……おはよう」


「おはよう」


 武尊がこのみを見る。


 少しだけ首を傾げる。


「……俺たち」


「うん?」


「知り合い?」


 このみは一瞬だけ目を閉じた。


 胸の奥に、ほんの少し痛みがある。


 でも。


 昨日までとは違う。


 自分は覚えている。


 三年前の事故も。


 この人が自分を助けてくれたことも。


 自分が一度死んだことも。


 そして。


 今ここにいることも。


「うん」


 このみは笑った。


「あなたの恋人」


「……本当に?」


「本当」


「俺、全然覚えてない」


「知ってる」


「ごめん」


「謝らなくていいよ」


「でも……」


 武尊は少し考えて。


「じゃあ」


 笑った。


「また、好きになってもいい?」


 このみは笑う。


「うん」


「よかった」


 武尊は安心したように笑った。


「じゃあ、朝ご飯食べよう」


「うん」


 二人でキッチンへ向かう。


 トーストを焼く。


 コーヒーを淹れる。


 窓の外には、朝の東京。


 昨日までと同じ街。


 でも。


 このみには分かっていた。


 これからも、武尊は毎晩自分を忘れる。


 そして毎朝、初めましてになる。


 それでも。


 もう怖くない。


 なぜなら。


 自分は覚えているから。


 彼との三年間を。


 そして。


 今日から始まる新しい一日を。


     *


 数週間後。


 東京都では、記憶バックアップ制度の大規模な見直しが始まった。


 「危険記憶」という名目で行われていた無断処理。


 感情そのものを管理していたシステム。


 Aster計画。


 それらの存在が、少しずつ明るみに出ていった。


 けれど。


 すべてがすぐに変わったわけではない。


 人々はまだ、自分の記憶を政府に預けている。


 毎晩、午前零時になる。


 街は静かに記憶をバックアップする。


 そして。


 このみと武尊も。


 変わらず、その時間を迎える。


     *


 ある夜。


 ベッドの中で、武尊が尋ねた。


「ねえ」


「ん?」


「俺、毎日君を忘れるけど」


「うん」


「それでも、君は嫌じゃない?」


 このみは少し考えた。


「前は嫌だった」


「今は?」


「今は……」


 武尊の手を握る。


「ちょっと楽しみ」


「え?」


「だって、毎朝あなたに恋をしてもらえるから」


 武尊は笑った。


「じゃあ、明日の俺にもちゃんと教えて」


「何を?」


「君が好きだって」


 このみは笑う。


「分かった」


「約束」


「約束」


 時計が、午前零時を示す。


 武尊の記憶が静かにリセットされる。


 そして。


 翌朝。


「……初めまして」


 このみは笑う。


「初めまして」


 武尊は彼女を見つめる。


 数秒。


 そして。


「……なんか」


「うん?」


「君のこと、好きになりそう」


 このみは笑った。


「知ってる」


 記憶は消える。


 けれど。


 愛は消えない。


 それは記憶の中にあるものではなく。


 何度でも、相手を選ぶという行為そのものだった。


 忘れるたびに。


 また出会う。


 出会うたびに。


 また好きになる。


 そして。


 そのたびに新しい記憶が生まれていく。


 だから、このみはもう怖くなかった。


 明日、武尊が自分を忘れても。


 その次の日も。


 そのまた次の日も。


 自分は彼の隣にいる。


 そして。


 何度でも、彼を選ぶ。


 何度でも。


 恋をする。


 何度でも――。


 「初めまして」から始める。

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