記憶のない街
午前零時まで、残り四十七分。
このみと武尊は、非常階段を駆け下りていた。
背後から複数の足音が追ってくる。
「こっち!」
武尊がこのみの手を引いた。
「待って、どこに行くの?」
「分からない!」
「分からないのに走ってるの?」
「止まったら捕まる!」
「それはそうだけど……!」
こんな状況なのに、思わず笑いそうになった。
三年前の事故以来。
いや。
毎朝、初対面に戻ってしまうようになってから。
武尊とこんなふうに走ったことがあっただろうか。
ない。
でも。
なぜか懐かしかった。
「……どうした?」
「ううん」
このみは走りながら答える。
「なんか、前にもこういうことがあった気がして」
「俺も」
「覚えてる?」
「覚えてない」
「そっか」
少しだけ寂しい。
けれど武尊は続けた。
「でも、たぶん楽しかったんだと思う」
「どうして?」
「君が今、笑ってるから」
このみは足を止めそうになった。
「……もう」
「何?」
「そういうところ」
「?」
「ずるい」
武尊は不思議そうに笑った。
そして二人は、地下駐車場へ飛び出した。
*
地下には、一台の古い車が停まっていた。
自動運転が当たり前になった2050年の東京では、ほとんど見かけなくなった旧式車両。
武尊がその前で立ち止まる。
「これ……」
「知ってるの?」
「分からない」
武尊は車体に触れた。
「でも、これに乗ったことがある気がする」
このみの胸がざわついた。
運転席のドアを開ける。
車内には、古い写真が一枚置かれていた。
このみと武尊。
雨の日。
二人で笑っている。
写真の裏には手書きの文字。
『忘れても、ここに来ればいい』
「……私の字」
このみは呟いた。
武尊が写真を見つめる。
「何か思い出せそう?」
「……いや」
けれど。
武尊の指が、写真の端をなぞっていた。
「でも、ここ」
「え?」
「この場所を知ってる」
このみは写真の背景を見る。
東京湾。
遠くに見える巨大な高層ビル群。
「臨海地区……?」
「たぶん」
武尊は運転席に座った。
「行こう」
「でも追っ手が――」
「だからこそ」
エンジンがかかる。
「逃げる場所が必要だろ」
*
車が地下駐車場を飛び出した。
2050年の東京。
空には無数の広告ホログラムが浮かび、道路には自動運転車が規則正しく流れている。
街は明るい。
綺麗で。
安全だった。
犯罪発生率は、過去最低。
精神疾患による自傷行為も減少。
記憶バックアップ制度は、世界で最も成功した社会システムとして評価されている。
――少なくとも、表向きは。
「この街……」
このみは窓の外を見る。
誰もが端末を身につけている。
誰もが自分の記憶を預けている。
そして誰もが。
自分の知らないところで、自分自身を管理されている。
「ねえ、武尊」
「ん?」
「もし全部嘘だったら、どうする?」
「何が?」
「この街が安全だってこと」
武尊は少し考えた。
「そのときは……」
ハンドルを握りながら言う。
「自分で確かめる」
「怖くないの?」
「怖いよ」
武尊は笑った。
「でも、君と一緒なら」
このみは黙った。
まただ。
記憶がないのに。
どうしてこの人は、以前の武尊と同じ言葉を選ぶのだろう。
*
臨海地区。
かつて研究施設があった場所は、今では廃棄されたデータセンターになっていた。
車を降りる。
周囲には誰もいない。
「ここ?」
「……うん」
武尊が答えた。
「たぶん」
このみは建物を見上げる。
入り口には、古い企業ロゴ。
ASTER
その文字を見た瞬間。
頭の奥が痛んだ。
「っ……!」
「このみ!」
視界が揺れる。
また記憶が流れ込んできた。
白い廊下。
誰かの足音。
自分の声。
『武尊、お願い』
『嫌だ』
『私が死んだら、あなたまで壊れる』
『そんなこと言うな』
『だから、忘れて』
このみは頭を押さえた。
「違う……」
「何が?」
「私……」
息を整える。
「私が武尊に忘れてって頼んだのかもしれない」
武尊が固まる。
「どういう意味?」
「分からない。でも……」
頭の中に浮かぶ映像。
ベッドに横たわる自分。
その横で泣いている武尊。
そして自分が言っている。
『あなたが私を覚えていたら、私の命を維持できない』
『だから、忘れて』
「私が……あなたに頼んだ」
武尊は何も言わなかった。
「私が死なないために」
このみは涙を拭う。
「あなたが私を忘れるようにしたのかもしれない」
武尊はしばらく黙っていた。
そして。
「……それなら」
「うん」
「俺は君の願いを守ってたんだ」
このみが顔を上げる。
「え?」
「毎日忘れて」
「……」
「毎日、また好きになって」
武尊は少し笑った。
「三年間ずっと」
このみの胸が痛んだ。
それは。
悲しい話なのか。
それとも。
途方もなく優しい話なのか。
分からなかった。
*
二人は建物の中へ入った。
内部は停止しているはずだった。
しかし。
電源が入った。
照明が一つずつ点灯する。
まるで二人を待っていたかのように。
「誰かいる?」
武尊が周囲を見る。
返事はない。
奥へ進む。
そこには巨大なサーバールームがあった。
無数の記憶データが光の粒となって流れている。
このみは中央端末へ近づいた。
画面が自動的に起動する。
WELCOME BACK, KONOMI.
「……おかえり、って?」
このみは息を呑んだ。
続けて。
PROJECT ASTER――FINAL RECORD
その文字が表示された。
「開いて」
武尊が言う。
「でも……」
「ここまで来たんだ」
このみは頷いた。
ファイルを開く。
そこには三年前の最終記録があった。
研究責任者の音声。
『Aster計画の目的は、人間の記憶を保存することではない』
このみは眉を寄せる。
『記憶を失ってもなお残る「感情」を利用し、人間の人格を再構築することだ』
武尊が息を呑む。
『篠宮このみは、実験の最初の成功例となった』
「……成功例?」
『彼女は死亡後、武尊から提供された記憶と感情を基盤に再構築された』
このみは画面を見つめる。
『しかし、問題が発生した』
画面にデータが表示される。
人格安定率:42%
『再構築された人格は、元の篠宮このみと完全には一致しなかった』
このみの顔が強張る。
『彼女は、元の本人ではない可能性がある』
「……」
言葉が出なかった。
『だが、武尊から提供された記憶に含まれる「愛情」によって、人格は徐々に安定した』
画面に新しい数値。
安定率:91%
『我々はここで重要な結論を得た』
音声が続く。
『人間の人格は、本人の記憶だけで構成されるものではない』
『誰かに愛された記憶』
『誰かを愛した記憶』
『そして、誰かを失いたくないという感情』
『それらによって、人間は「自分」を維持できる』
このみは涙を拭った。
ずっと信じていた。
記憶が自分自身を作るのだと。
だから。
武尊に忘れられることが怖かった。
自分との記憶を失えば。
彼の中で自分が消えてしまうと思っていた。
けれど。
違った。
記憶がなくても。
感情は残る。
愛したという事実が、形を変えて残る。
*
そのとき。
施設内に警報が鳴り響いた。
侵入者を確認。
武尊が振り返る。
「来た」
遠くから足音が聞こえる。
記憶安全管理局の人間だ。
「このみ、逃げよう」
「待って」
このみは画面を見る。
最後のファイルが一つだけ残っていた。
KONOMI_PERSONAL_RECORD
自分自身の記録。
開く。
画面に映像が現れた。
三年前。
事故の前日。
このみ自身がカメラに向かって話していた。
『もし、この映像を見ている私が、今の私と同じじゃなかったとしても』
このみは息を止めた。
映像の中の自分は笑っている。
『それでも、私は私だと思う』
そして。
『だって私は、武尊を好きになるから』
武尊が画面を見つめる。
『もし記憶がなくなっても』
映像のこのみは言った。
『もし私が、私じゃなくなっても』
一度、息を吸う。
『またあなたを好きになれたなら』
微笑む。
『それはきっと、私だから』
映像が終わる。
静寂。
このみは涙を流していた。
「……私」
「うん」
「私、知ってたんだ」
「何を?」
「忘れることが怖いんじゃなかった」
このみは武尊を見る。
「忘れても、もう一度好きになれることを……私は信じてたんだ」
武尊は何も言わない。
ただ。
このみの手を握った。
その瞬間。
施設の奥から、誰かが現れた。
「その通りです」
二人が振り返る。
白衣を着た女性だった。
年齢は五十代ほど。
彼女は静かに二人を見つめる。
「……誰?」
このみが尋ねる。
女性は答えた。
「Aster計画の主任研究員です」
「あなたが……?」
「ええ」
女性はこのみを見る。
「そして、あなたを三年前に蘇らせた人間の一人です」
武尊が一歩前に出る。
「じゃあ、全部知ってるんですか」
「ええ」
「このみは、本当に……」
女性は静かに頷いた。
「あなたが知っている篠宮このみは、三年前に一度亡くなっています」
このみの指が震える。
「でも」
女性は続けた。
「あなたが愛した彼女も」
「今、あなたの隣にいる彼女も」
「どちらも、本物です」
武尊が息を呑む。
「……どういう意味ですか」
女性は微笑んだ。
「記憶とは、本人を証明するものではありません」
「……」
「その人が誰を愛し、誰に愛され、何を選ぶのか」
「それこそが、人間を人間にするものです」
そして。
女性はこのみを見た。
「だから、あなたには最後の選択があります」
このみの前に、二つのデータが表示された。
過去のこのみを完全復元する。
あるいは。
現在のこのみを、そのまま生かす。
このみは画面を見つめる。
その二つは。
初めて見る選択肢ではなかった。
けれど。
今度は違う。
今度は「武尊の記憶を戻すか」ではない。
自分が、どちらの自分として生きたいか。
その選択だった。
そして。
画面の端に、小さく表示された数字。
午前零時まで、あと12分。
このみはゆっくりと手を伸ばした。




