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あなたを取り戻すということ

YES。


 NO。


 二つの文字が、暗い部屋の中で交互に点滅している。


 このみは画面を見つめたまま、指を動かせなかった。


「……完全復元」


 小さく呟く。


 その言葉だけで胸が痛んだ。


 武尊が苦しそうに息をしている。


「このみ……」


「武尊」


「俺、どうなるの……?」


 その声は、いつもの穏やかな武尊とは違っていた。


 怖がっている。


 何も分からないまま、自分の中で何かが壊されようとしていることだけを感じ取っている。


「大丈夫」


 このみは武尊の手を握った。


「私がいるから」


「……本当に?」


「うん」


 けれど、自分自身がその言葉を信じられていなかった。


 画面に表示された警告が頭から離れない。


 現在の記憶領域を上書きする可能性があります。


 現在の武尊。


 このみのことを知らない。


 三年間を覚えていない。


 毎朝、初対面から始まる。


 それでも。


 彼女を見ると安心して。


 悲しそうにしていると心配して。


 何も覚えていないのに、何度でも好きになる。


 それが、今の武尊だった。


 もし完全復元を行えば。


 その武尊を失う。


「……怖い」


 このみの口から、初めて本音が漏れた。


「え?」


「私、怖い」


 武尊が黙っている。


「ずっと……あなたに私を思い出してほしかった」


 涙が落ちる。


「三年間のことを全部覚えていてほしかった。初めて会った日のことも、初めて手を繋いだ日のことも、一緒に行った場所も、喧嘩したことも……」


 声が震える。


「全部、私だけが覚えてるのが嫌だった」


「……」


「あなたにとっては、毎日が初めましてだから」


 武尊の手を強く握る。


「私はずっと、昨日までのあなたに会いたかった」


 武尊はしばらく何も言わなかった。


 そして。


「じゃあ」


 静かに尋ねた。


「今の俺は?」


 このみが顔を上げる。


「……え?」


「今の俺じゃ、駄目?」


 その言葉に胸を突かれた。


「違う……」


「俺は君のことを覚えてない」


「うん」


「君と過ごした三年間も知らない」


「うん」


「でも」


 武尊はこのみの手を握り返した。


「今、君が泣いてるのは嫌だ」


 このみの目から涙が溢れた。


「だから、笑ってほしい」


「……武尊」


「それじゃ駄目かな」


 このみは答えられなかった。


 画面のYESが点滅する。


 そして。


 このみは、指を伸ばした。


     *


 だが。


 押す直前。


 画面が突然暗転した。


「え?」


 次の瞬間。


 画面いっぱいに別の文字が表示された。


 ――完全復元は実行しないでください。


 このみは息を止めた。


「……誰?」


 システムからの警告ではない。


 政府の通知でもない。


 まるで、誰かが直接送ってきたメッセージだった。


 続けて文字が表示される。


 武尊の記憶を戻せば、彼はあなたを覚えます。


 しかし、それによってあなたは死ぬ可能性があります。


「……私が?」


 武尊も画面を見る。


「どういうこと?」


 さらに文章が表示される。


 あなたの現在の身体は、通常の人間の身体ではありません。


 このみの呼吸が止まった。


 あなたは、2047年10月18日に死亡しています。


 現在のあなたは、武尊の記憶を基盤として再構築された存在です。


 頭の中が真っ白になる。


「……嘘」


 武尊がこのみを見る。


「このみ?」


「違う」


 このみは首を振った。


「私、生きてる」


 画面は淡々と続きを表示する。


 あなたの身体は生体組織によって構成されています。


 しかし、人格と生命活動の一部は、記憶データとの同期によって維持されています。


 このみの手が震えた。


「じゃあ……」


 言葉が出てこない。


 ようやく。


「私が生きてるのは……武尊の記憶があるから?」


 画面が答える。


 正確には、武尊があなたを「生きている存在」として認識し続けているからです。


 このみは絶句した。


「……認識?」


 武尊が呟く。


 すると。


 新しい文章が表示された。


 高瀬武尊から提供された記憶には、強い情動反応が存在しました。


 愛情。執着。恐怖。喪失。


 それらが篠宮このみの人格形成に必要な情報として使用されました。


「……」


 このみは画面を見つめる。


 自分は。


 武尊の愛によって生まれた。


 いや。


 正確には。


武尊が自分を失いたくないという感情によって、生き延びた。


 そんな事実が、胸に突き刺さった。


「だから……」


 このみは震える声で言う。


「武尊が私を忘れたら……」


 画面が答える。


 同期率低下。


 生命維持状態低下。


 このみの顔が青ざめる。


 だから会社のシステムは、武尊の記憶を完全には消さなかった。


 毎晩、このみとの記憶だけを削除する。


 けれど。


 このみを「完全に知らない存在」にはしない。


 最低限の情動だけを残す。


 武尊が毎朝、このみを好きになるように。


 武尊がこのみを「大切な存在」と感じるように。


 そのために。


 このみは生きていられる。


「……じゃあ」


 武尊の声が震える。


「俺が君を忘れたら、君は死ぬの?」


 このみは答えられなかった。


 画面には、


同期率:63%


と表示されている。


 そして。


 その数字は少しずつ下がっていた。


 62%。


 61%。


「……まずい」


 このみが呟く。


「何が?」


「私……」


 そのとき。


 胸の奥に鋭い痛みが走った。


「っ……!」


 このみが胸を押さえる。


 膝から力が抜ける。


「このみ!」


 武尊が抱き止めた。


「大丈夫?」


「……うん」


「嘘だろ」


 武尊の声が震える。


「顔色、真っ青だ」


「大丈夫だから」


「大丈夫じゃない!」


 武尊が叫ぶ。


 その声に、このみは驚いた。


 武尊がこんな声を出すのを、初めて見た。


「俺が君を忘れると……君が死ぬの?」


「……」


「答えて」


「……たぶん」


 武尊は絶句した。


 そして。


 自分の頭を押さえた。


「じゃあ、俺が忘れなければいい」


「武尊?」


「ずっと覚えてればいいんだろ?」


「でも……」


「だったら、覚える」


 武尊はこのみを見る。


「何度でも」


「……」


「毎日、君の名前を覚える」


 その言葉に、このみの胸が締めつけられた。


「朝起きたら、君を見る」


「……」


「君の顔を覚える」


「武尊……」


「毎日、好きになる」


 武尊は涙を浮かべながら笑った。


「それなら、君は死なない?」


 このみは答えられなかった。


 なぜなら。


 それこそが。


 このみが最初から欲しかったものだったから。


 記憶を取り戻してほしい。


 過去を覚えていてほしい。


 そう願っていた。


 けれど。


 今、目の前にいる武尊は。


 過去を知らない。


 それでも。


 このみを選ぼうとしている。


 その瞬間。


 画面の表示が変わった。


 同期率:58%


 そして。


 危険水準に到達。


「……嘘」


 このみの身体がまた震える。


「もう時間がない」


 武尊が立ち上がる。


「だったら復元する」


「駄目!」


「どうして!」


「今のあなたが消えるかもしれない!」


「君が死ぬよりいい!」


「私は嫌!」


 初めて、このみは叫んだ。


「私は、あなたを失いたくない!」


 部屋が静まり返る。


「三年前も……あなたは私を助けてくれた」


 涙が溢れる。


「私のために記憶を捨てた」


 武尊が目を見開く。


「なのに、今度は私があなたを消すなんて……そんなの嫌」


「でも……」


「私はもう、あなたに何かを犠牲にしてほしくない」


 このみは武尊の胸に額を押しつけた。


「私が死ぬなら、それでもいい」


「……駄目だ」


「武尊」


「絶対に駄目」


 武尊の腕が、このみを強く抱きしめる。


「俺は三年前、君を助けた」


「……うん」


「今度も助ける」


「でも」


「今度は、記憶を捨てない方法を探す」


 このみは顔を上げた。


 武尊は泣いていた。


 それでも。


 笑っていた。


「俺たち、まだ終わってないだろ」


     *


 その瞬間。


 部屋の扉が開いた。


「動かないで」


 黒い制服を着た男女が数人、立っている。


 東京都記憶安全管理局。


 このみは凍りついた。


「篠宮このみさん」


 先頭の男が言う。


「あなたには、これ以上のシステムへの不正アクセスを停止していただきます」


「……あなたたちは何者?」


「あなたを保護するために来ました」


「保護?」


 このみは笑った。


「私の記憶を毎晩消しているのに?」


 男の表情が僅かに変わった。


「それは必要な処置です」


「武尊の記憶も?」


「彼の精神的安定のためです」


「嘘」


 このみは言った。


「本当は違う」


 男は黙った。


「私が死なないために、武尊の記憶を使ってるんでしょう?」


 沈黙。


 その沈黙こそが答えだった。


 武尊がこのみの手を握る。


「逃げよう」


「え?」


「ここにいたら、また何かされる」


 男が一歩前に出る。


「高瀬さん。あなたには関係ありません」


「関係ある」


 武尊が言った。


「この人は俺の恋人だから」


 男は冷たく答えた。


「あなたは彼女を三年間、忘れている」


「それでも」


 武尊はこのみを見る。


「今、好きだから」


 男が一瞬だけ黙った。


 そして。


「……やはり、危険ですね」


 その言葉と同時に。


 部屋の照明が赤く点滅した。


 警報が鳴る。


 記憶安全システム緊急停止まで――30秒。


「走って!」


 二人は手を繋いで走り出した。


 その先に何があるのかも分からない。


 どこへ行けばいいのかも分からない。


 ただ。


 今までずっと守られていたはずの「安全な東京」が。


 初めて、このみには檻のように見えた。


 そして武尊は。


 過去を取り戻すためではなく。


今のこのみを失わないために、彼女の手を握っていた。


 午前零時まで。


 残り――


47分。

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