生きている理由
警告:これ以上の記憶照会は、本人の生命維持システムに影響する可能性があります。
その一文を見つめたまま、このみは動けなかった。
生命維持システム。
その言葉だけが、頭の中で何度も反響する。
「……このみ?」
隣にいた武尊が、心配そうに顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「……なんでもない」
このみは端末を伏せた。
「仕事の通知」
「こんな朝から?」
「うん」
「大変だな」
武尊はそれ以上聞かなかった。
いつもなら、その優しさに安心する。
けれど今は違った。
彼は何も知らない。
自分が三年前に一度死んだことも。
なぜ生きているのかも。
そして、自分の命が「記憶」と結びついている可能性があることも。
このみは唇を噛んだ。
「武尊」
「ん?」
「もし……」
言葉が出てこない。
「もし、私に何かあったら」
「何かって?」
「……ううん。なんでもない」
武尊は少し不思議そうな顔をした。
それから、ふっと笑った。
「大丈夫だよ」
「……何が?」
「分からないけど」
武尊はこのみの手を握った。
「君は、たぶん大丈夫」
その言葉に、このみは胸が苦しくなった。
どうしてそんなふうに言えるのだろう。
何も覚えていないくせに。
何も知らないくせに。
どうして、このみが欲しい言葉ばかりをくれるのだろう。
「……ありがとう」
このみは笑った。
けれど、その日の昼には、もう一度会社へ向かうことを決めていた。
*
記憶管理システムの最深部。
通常の社員がアクセスできる場所ではない。
このみは自分の権限を一時的に拡張し、昨日見つけた「A-03」のデータを呼び出した。
画面には、三年前の記録が並んでいる。
2047年10月18日。
事故発生。
対象者――篠宮このみ。
死亡確認。
その後。
記憶バックアップ実験へ移行。
「……実験?」
このみは画面を拡大した。
さらに下に、別の人物の名前が表示される。
被験者:高瀬武尊
息が止まった。
「武尊……?」
つまり。
あの日。
武尊はただこのみを助けようとしたのではない。
何かの実験に参加していた。
いや。
正確には。
このみを生かすために、自分の記憶を差し出した。
画面をスクロールする。
そこには、短い記録が残されていた。
――対象者の生命活動停止を確認。
――既存記憶データの抽出を開始。
――対象者の神経活動をバックアップデータと同期。
――人格維持に必要な記憶領域を再構築。
――蘇生成功。
このみは椅子から立ち上がった。
「……蘇生?」
指先が震える。
自分は。
三年前。
確かに死んだ。
心臓が止まり。
生命活動が停止した。
それでも、武尊が記憶バックアップ技術を使って自分を蘇生させた。
だから今、生きている。
しかし。
画面にはもう一つの記録があった。
蘇生後の安定化条件:関連記憶の継続的な維持が必要。
このみは息を呑んだ。
「関連記憶……?」
その意味を理解するまでに、数秒かかった。
そして。
理解した瞬間。
全身から血の気が引いた。
自分が生きているためには。
誰かとの記憶を維持し続けなければならない。
その「誰か」が――武尊だった。
*
その夜。
このみは一人で帰宅した。
玄関を開ける。
「おかえり」
武尊がキッチンから顔を出した。
「……ただいま」
「遅かったね」
「うん。仕事が長引いて」
「ご飯、作ったよ」
「……ありがとう」
テーブルには二人分の食事が並んでいる。
味噌汁。
焼き魚。
白いご飯。
特別な料理ではない。
けれど、三年前から何度も一緒に食べてきたものだった。
このみは椅子に座る。
武尊も向かいに座る。
「いただきます」
二人で手を合わせる。
いつもの光景。
なのに。
このみには、もう以前のようには見えなかった。
武尊が自分を忘れてしまうのは、ただの副作用ではない。
このみが生きているために必要な「記憶」を、システムが毎晩壊している。
もしそうなら。
武尊がこのみを忘れるたびに。
このみ自身の存在も少しずつ不安定になっているのではないか。
「……ねえ」
「ん?」
「私がいなくなったら、どうする?」
武尊の箸が止まった。
「急にどうしたの?」
「なんとなく」
「嫌だな」
「何が?」
「そういうこと言うの」
武尊は困ったように笑う。
「このみがいなくなるの、嫌だよ」
「……でも、忘れるよね」
「え?」
「私のこと」
武尊は黙った。
そして、ゆっくり首を横に振った。
「それでも」
「……」
「嫌だと思う」
このみの目に涙が浮かんだ。
「どうして?」
「分からない」
武尊は苦笑する。
「またそれか、って思うかもしれないけど」
「ううん」
「俺は、君のことを覚えてない」
「うん」
「でも、君がいなくなるのは嫌なんだと思う」
その言葉を聞いた瞬間。
このみは確信した。
記憶がなくても。
何度忘れても。
武尊の中には何かが残っている。
それは記憶ではない。
もっと深い場所にある。
言葉にできない何か。
*
その夜。
このみは武尊が眠ったあと、一人で端末を開いた。
例の警告をもう一度確認する。
これ以上の記憶照会は、本人の生命維持システムに影響する可能性があります。
「……生命維持システム」
このみは小さく呟いた。
その瞬間。
画面が勝手に切り替わった。
緊急管理画面へ移行します。
「え?」
このみは何も触れていない。
画面に一つのファイルが表示される。
ファイル名。
ASTER_FINAL
このみは迷った。
昨日の警告が頭をよぎる。
それでも。
開いた。
画面に、三年前の映像が表示された。
雨。
激しい雨だった。
道路に横転した車。
赤いライト。
誰かが叫んでいる。
『このみ!』
武尊の声。
映像の中の武尊が、このみを抱き起こしている。
その腕は血だらけだった。
『目を開けてくれ!』
このみは動かない。
武尊が何度も名前を呼ぶ。
やがて救急隊員が駆け寄ってくる。
『死亡確認』
その言葉に。
武尊が崩れ落ちた。
『嫌だ……』
そして。
映像が切り替わる。
白い部屋。
ベッドの上に、このみが横たわっている。
身体には無数のセンサー。
隣に武尊が座っている。
泣いていた。
『本当にこれで助かるんですか』
画面の外から、誰かが答える。
『肉体的な蘇生は可能です。ただし、完全ではありません』
『何が必要なんですか』
『あなたの記憶です』
武尊が顔を上げる。
『……俺の?』
『彼女は死亡しています。肉体だけを蘇生しても、人格を維持できない』
『じゃあ……』
『あなたと彼女が共有していた記憶を使います』
武尊の顔が強張った。
『記憶を……全部?』
『彼女を生かすためには、強い感情を持つ記憶が必要です』
沈黙。
そして武尊は言った。
『分かりました』
『一度提供した記憶は、あなた自身の記憶から失われる可能性があります』
『それでもいい』
『後悔しませんか』
武尊は、眠っているこのみを見つめた。
そして。
『この人が生きてくれるなら』
そう言った。
『俺が忘れてもいい』
このみの手が口元を覆った。
「……武尊」
映像の中の武尊は、泣いていた。
そして最後に。
『でも』
小さく呟いた。
『もし俺が全部忘れても……』
一度、言葉を止める。
『また、この人を好きになれますか』
研究員は答えなかった。
武尊は笑った。
『だったら、きっと大丈夫ですね』
映像が終了した。
真っ暗な画面。
このみはしばらく動けなかった。
涙だけが頬を伝っていく。
ずっと、自分は思っていた。
武尊に忘れられることが怖い。
自分との三年間を忘れてしまうことが悲しい。
記憶を失った武尊は、本当に自分を愛しているのだろうか、と。
でも。
違った。
最初に自分を選んだのも。
自分を生かそうとしたのも。
自分を忘れることを受け入れたのも。
全部。
武尊だった。
そして、その記憶さえも。
自分を生かすために失った。
「……ばか」
涙が止まらない。
「そんなの……ずるいよ」
そのとき。
背後から声がした。
「このみ?」
振り返る。
寝室の入口に武尊が立っていた。
「何してるの?」
「……」
「泣いてる?」
このみは慌てて涙を拭った。
「なんでもない」
「嘘」
武尊が近づいてくる。
そして、何も言わずにこのみの隣に座った。
「また、俺のことで泣いてる?」
「……うん」
「そっか」
武尊は困ったように笑った。
「ごめん」
「謝らないで」
「でも」
「あなたは悪くない」
このみは武尊の胸に顔を埋めた。
「何も悪くない」
武尊は少し驚いたあと、そっとこのみの背中に腕を回した。
「……俺」
「うん」
「君のこと、覚えてないけど」
「うん」
「こうするの、すごく自然な気がする」
このみは目を閉じた。
心臓の音が聞こえる。
温かい。
生きている。
この人が、自分を生かした。
記憶を捨ててまで。
なのに。
その直後。
武尊が小さく呟いた。
「……俺、君に何か大事なことを忘れさせられてる気がする」
このみは顔を上げた。
「え?」
「分からない」
武尊は自分の頭を押さえる。
「でも、ずっと何か引っかかってる」
そして。
武尊の端末が赤く点滅した。
警告音。
画面には新しい表示が浮かんでいる。
異常な記憶残留を検知。
危険記憶処理を開始します。
「……武尊?」
武尊の顔から笑みが消えた。
彼は頭を押さえた。
「痛い……」
「武尊!」
「このみ……」
苦しそうに、このみの名前を呼ぶ。
その声に、このみは凍りついた。
今まで、午前零時を過ぎれば必ず消えていた名前。
それを。
今の武尊は、自分の意思で呼んでいる。
「このみ……逃げて」
「え?」
「俺の記憶を……」
武尊の目に、恐怖が浮かんだ。
「これ以上、消させないで」
その瞬間。
部屋の照明がすべて消えた。
窓の外。
東京中の街灯が、一斉に赤く変わった。
そして、このみの端末に政府から直接通知が届いた。
対象者・篠宮このみの生命維持状態に異常を確認。
直ちに記憶照会を停止してください。
さらに、その下に。
今まで存在しなかった選択肢が表示された。
【記憶完全復元プログラムを実行しますか?】
YES。
NO。
このみは画面を見つめる。
その向こうで、武尊が苦しそうに息をしている。
もしYESを押せば。
武尊は、自分との三年間を取り戻せる。
もう、毎朝「初めまして」と言われなくて済む。
もう一度、昔の二人に戻れる。
けれど。
画面の下には、もう一つの警告が表示されていた。
注意:完全復元を実行した場合、現在の記憶領域を上書きする可能性があります。
このみの指が震える。
そして。
初めて。
彼女は気づく。
自分が取り戻そうとしているのは、
「武尊との記憶」なのか。
それとも。
「自分が愛されていた証拠」なのか。
画面のYESが、静かに点滅していた。




