死んだことになっている私
午前一時四十七分。
このみは、誰もいないオフィスの中央で立ち尽くしていた。
巨大なモニターに表示された文字が、何度読み直しても同じ意味を持っている。
死亡記録:あり。
対象者――篠宮このみ。
死亡日時――2047年10月18日。
死亡確認――済。
「……嘘」
ようやく声が出た。
自分は生きている。
こうして立っている。
心臓は動いている。
指先も動く。
呼吸をしている。
毎朝、武尊の隣で目を覚ましている。
それなのに、システム上では三年前に死んでいる。
このみは震える指で記録を開こうとした。
しかし。
ACCESS DENIED
赤い文字が画面に浮かぶ。
「なんで……」
通常の管理権限では閲覧できない。
このみは自分が知っている範囲の管理コードを入力した。
拒否。
別のコード。
拒否。
さらに上位の認証を試みる。
拒否。
そこで初めて、このみは気づいた。
これは単なる個人情報ではない。
国家レベルで隠されている。
だからこそ、武尊の記憶も毎晩消されている。
このみは画面を閉じた。
今すぐ家に帰りたかった。
武尊の顔を見たかった。
けれど。
同時に、怖かった。
もしこの記録が本当なら。
自分はいったい――何なのだろう。
*
午前二時二十三分。
帰宅すると、部屋は暗かった。
「武尊?」
返事はない。
リビングにもいない。
寝室を覗く。
ベッドの上で武尊が眠っている。
このみは、ほっと息を吐いた。
生きている。
少なくとも、今は。
ベッドの端に腰を下ろす。
眠っている武尊の顔を見る。
いつもと変わらない。
この人は何も知らない。
自分たちに何が起きているのか。
なぜ自分を忘れるのか。
なぜ毎朝、自分を好きになるのか。
そして――なぜ自分が一度「死んだ」ことになっているのか。
このみは手を伸ばし、武尊の髪に触れた。
「……ねえ、武尊」
当然、返事はない。
「私、死んでたんだって」
口にすると、あまりにも現実味がなかった。
「三年前に」
武尊が寝返りを打つ。
このみの指が止まる。
「あなたは知ってたの?」
もちろん答えはない。
それでも、このみは尋ねた。
「それとも……あなたも忘れさせられたの?」
*
翌朝。
「おはよう」
武尊が目を覚ました。
このみはベッドの横に座っていた。
「……おはよう」
武尊はこのみを見る。
少しだけ首を傾げる。
「昨日も会った?」
「うん」
「やっぱり覚えてない」
「うん」
いつもの朝。
けれど、このみの中では何もかもが変わっていた。
彼女は武尊の顔をじっと見つめる。
「武尊」
「ん?」
「私に聞きたいことない?」
「……?」
「例えば、私が誰なのかとか」
武尊は少し考えた。
「ある」
「何?」
「君は……俺にとって、どういう人?」
このみは答えた。
「恋人」
武尊は驚いた。
「やっぱり?」
「やっぱり?」
「いや……」
彼は胸元に手を当てた。
「なんとなく、そうじゃないかと思ってた」
このみは目を伏せる。
「どうして?」
「分からない」
武尊は苦笑した。
「君を見ると、胸が変な感じになる」
「嫌?」
「逆」
少し照れながら。
「たぶん、好き」
まただ。
毎朝。
何度目か分からない「好き」。
このみはそれを聞くたびに嬉しくなって、同時に悲しくなる。
けれど今日は違った。
この言葉の裏に何があるのか。
知りたかった。
「武尊」
「うん」
「昨日、夢を見たって言ってたよね」
武尊の表情が曇った。
「うん」
「もう少し詳しく教えて」
「……覚えてない」
「少しも?」
「いや」
武尊は目を閉じた。
「誰かがいた」
「私?」
「たぶん」
「どんな場所?」
「分からない」
武尊は眉間に皺を寄せる。
「白い部屋だった気がする」
このみの心臓が跳ねた。
「白い部屋?」
「うん」
「病院?」
「……たぶん違う」
「じゃあ?」
「分からない」
武尊は頭を抱えた。
「でも、君が泣いてた」
「私が?」
「うん」
「何で泣いてたの?」
「俺が……」
武尊の顔が苦しそうに歪む。
「何かを言った」
「何を?」
「……『忘れて』って」
このみは息を呑んだ。
部屋の空気が一瞬で冷たくなったように感じた。
「俺が君に言ったのか」
「……分からない」
「でも、そう聞こえた」
武尊は目を開ける。
「『このみ、忘れて』って」
このみは立ち上がった。
「ごめん」
「え?」
「ちょっと、仕事に行ってくる」
「今?」
「うん」
逃げるように部屋を出た。
*
会社に着くと、このみはすぐに自分の端末を起動した。
昨夜見つけた「A-03」。
それについて調べる。
社内データベース。
過去のプロジェクト。
廃棄された研究記録。
検索結果はほとんど出なかった。
しかし、一つだけ引っかかった。
Project Aster
2046年開始。
記憶バックアップ技術の臨床応用。
研究責任者――不明。
公開情報――なし。
このみは詳細を開こうとした。
アクセス権限がない。
「また……」
その瞬間。
背後から声がした。
「何を見てるの?」
「!」
振り返る。
同僚の女性が立っていた。
「……別に」
「そう?」
「昔のデータを整理してただけ」
「ふうん」
女性は画面を見る。
その瞬間、表情が変わった。
「Aster……?」
「知ってるの?」
「いや」
明らかに動揺していた。
「知らない」
「今、知ってるって――」
「知らないって言ったでしょ」
女性はそれ以上何も言わず、席を離れた。
このみはその背中を見送った。
そして確信した。
何かがある。
自分だけが知らない何かが。
*
昼休み。
このみは一人で社員食堂にいた。
端末を見つめながら、過去三年間の自分の記憶を整理する。
2047年。
武尊と出会った。
最初はただの同僚だった。
仕事帰りに何度か食事をして。
映画を見て。
少しずつ距離が近くなった。
そして、付き合い始めた。
そこまでは覚えている。
しかし。
――2047年10月18日。
その日の記憶だけが、妙に曖昧だった。
何をしていた?
どこにいた?
武尊と一緒だった?
思い出せない。
いや。
正確には。
思い出そうとすると、頭の奥が痛む。
「……っ」
このみは額を押さえた。
頭の奥に、一瞬だけ映像が浮かんだ。
白い光。
雨。
壊れた車。
血のついた手。
「……武尊?」
そして。
誰かの声。
――このみ。
次の瞬間、映像は消えた。
このみは荒い息を吐いた。
「何……今の」
自分自身の記憶なのに。
なぜか、見てはいけないものを見たような感覚があった。
*
その日の夜。
このみは武尊に何も話さなかった。
いつものように夕食を作った。
武尊はいつものように手伝った。
テレビでは東京のニュースが流れている。
『本日、東京都記憶安全管理局は――』
このみの手が止まった。
『記憶バックアップ制度に関する新たな安全基準を発表しました』
画面には、政府関係者が映っている。
『危険記憶については、本人の精神的安全を最優先し、適切な処理を行うことが重要です』
武尊は何気なくテレビを見る。
「便利な世の中になったよな」
「……そうだね」
「嫌な記憶って、消せるんだろ?」
「完全に消えるわけじゃないよ」
「でも、楽になるならいいんじゃない?」
このみは黙った。
「もし」
武尊が言った。
「もし俺に、すごく辛い記憶があったら」
「うん」
「君なら消してほしい?」
このみは答えられなかった。
少し考えてから。
「……私は、消したくない」
「どうして?」
「辛い記憶でも、自分が生きてきた一部だから」
武尊は笑った。
「このみらしい」
「何それ」
「なんとなく」
その言葉に、このみも笑った。
けれど。
笑いながら、思っていた。
――あなたは今、何を忘れさせられているの?
*
午前零時。
武尊の端末が光る。
このみは眠ったふりをして、その様子を見ていた。
光が消える。
何も起きない。
武尊は眠っている。
しかし。
このみは気づいた。
武尊の手が、布団の上を探るように動いた。
そして。
眠ったまま、このみの手を握った。
「……」
このみは息を止める。
武尊は目を覚ましていない。
それなのに。
その手は、迷わずこのみを探していた。
記憶が消えた後も。
頭が彼女を知らなくなった後も。
身体は、このみを知っている。
その事実に、このみは涙をこぼした。
「……ずるいよ」
小さく呟く。
「そんなの……忘れられないじゃん」
武尊の手を握り返す。
そして。
このみは決めた。
明日、会社のシステムをもう一度調べる。
A-03。
Project Aster。
2047年10月18日。
そして、自分の死亡記録。
全部つなげる。
たとえ、それが何を意味していたとしても。
*
翌朝。
武尊は目を覚ました。
「……おはよう」
「おはよう」
「今日も会ったね」
このみが笑う。
「うん」
「変な感じ」
「何が?」
「毎朝、君と初めましてなのに」
武尊は少し笑った。
「毎朝、君に会いたくなる」
このみは目を伏せる。
「……ありがとう」
「このみ」
「ん?」
「昨日の夢、少し思い出した」
このみが顔を上げた。
「何を?」
「事故」
心臓が大きく鳴った。
「車があった」
「……うん」
「雨が降ってた」
「うん」
「君が倒れてた」
このみの顔から血の気が引く。
「武尊……」
「俺、君を抱き上げてた」
武尊の声が震えた。
「でも、君は動かなかった」
「……」
「俺、ずっと叫んでた」
武尊は胸元を押さえる。
「お願いだから、死なないでって」
このみの目から涙が落ちた。
「そのあと」
武尊が呟く。
「誰かが俺に言った」
「何て?」
「――彼女を生かすなら、記憶を預けろって」
部屋が静まり返る。
「そして俺は……」
武尊はこのみを見る。
「君を助けるために、何かに同意した」
このみは動けなかった。
「でも」
武尊が苦しそうに眉を寄せる。
「その後の記憶だけが、真っ黒なんだ」
その瞬間。
このみの端末が鳴った。
社内システムからの通知。
件名――A-03関連データへの不正アクセスを検知しました。
本文には、短く一行だけ書かれていた。
対象者:篠宮このみ
警告:これ以上の記憶照会は、本人の生命維持システムに影響する可能性があります。
このみは画面を見つめた。
そして初めて。
自分の「生きている」という事実そのものが、誰かによって管理されているのだと知った。




