初めましてを繰り返す
午前七時十三分。
このみは目を覚ました。
カーテンの向こうから差し込む朝の光が、部屋の床を細長く照らしている。
隣を見る。
武尊は眠っていた。
規則正しい呼吸。
少しだけ開いた唇。
昨日と何も変わらない。
このみは胸の奥に溜まった不安を押し込めながら、そっとベッドを降りた。
キッチンへ向かい、コーヒーを淹れる。
二人分。
それがいつもの習慣だった。
豆を挽く音。
湯が落ちる音。
香ばしい匂い。
三年間、何百回も繰り返してきた朝。
その一つひとつが、このみには大切な思い出だった。
やがて、背後から足音が聞こえた。
「……おはよう」
このみが振り返る。
「おはよう、武尊」
武尊は立ち止まった。
ほんの一瞬。
目が合った。
そして。
「……すみません」
昨日と同じ言葉。
このみの手から、スプーンが落ちた。
カラン、と乾いた音がキッチンに響いた。
「……誰?」
武尊が尋ねる。
このみは答えられなかった。
分かっていた。
分かっていたはずなのに。
実際にその言葉を聞くと、胸の奥を鋭い刃物で切られたように痛かった。
「私……」
声が震える。
「このみ」
「……このみさん?」
「うん」
「昨日も会った?」
「……うん」
武尊は少し困った顔をした。
「ごめん。覚えてない」
「うん」
「でも……」
武尊が首を傾げる。
「なんでだろう」
「何が?」
「この部屋、すごく落ち着く」
このみは黙った。
「それに」
武尊はキッチンに置かれた二つのマグカップを見る。
「俺の分もある」
「いつも二人で飲んでたから」
「……そうなんだ」
武尊はカップを手に取った。
そして一口飲む。
「おいしい」
「……よかった」
「君が淹れたの?」
「うん」
「そっか」
武尊は微笑んだ。
「じゃあ、今日も飲みたい」
その瞬間、このみは泣きそうになった。
昨日と同じだ。
何も覚えていない。
それでも、同じものを好きになる。
同じ場所を心地いいと思う。
同じ人に惹かれる。
まるで記憶だけが切り取られ、感情だけが取り残されているようだった。
*
このみは、その日から記録を始めた。
毎朝、武尊に質問する。
名前。
仕事。
家族。
好きな食べ物。
嫌いなもの。
そして最後に、必ず同じ質問をする。
「私のこと、どう思う?」
初日は、
「気になる」
だった。
二日目は、
「一緒にいると安心する」
三日目は、
「もっと知りたい」
四日目には、
「たぶん、好きなんだと思う」
そして五日目。
武尊は少し照れながら言った。
「俺、このみさんのこと好きだと思う」
このみは笑った。
「そっか」
「嬉しくない?」
「嬉しいよ」
「でも、泣きそう」
「……嬉しすぎるから」
嘘だった。
嬉しい。
確かに嬉しい。
けれど同時に、悲しかった。
昨日の武尊も、同じことを言った。
一昨日の武尊も。
その前の日の武尊も。
毎朝、同じ人が自分を好きになる。
なのに、前の日の「好き」は次の日には存在しない。
それは、恋なのだろうか。
それとも。
恋のように見える、何か別のものなのだろうか。
*
七日目の夜。
このみは一つの実験をすることにした。
「武尊」
「ん?」
「今日は、私のことを何も説明しない」
「え?」
「写真も見せない。思い出話もしない」
「……分かった」
「あなたが私を知らない状態で、どうするのか見たい」
武尊はしばらく黙った。
「分かった」
二人は何もない部屋で向かい合った。
このみは、名前すら教えなかった。
ただそこに座っている。
武尊も何も尋ねない。
数分。
十分。
二十分。
やがて武尊が立ち上がった。
「コーヒー飲む?」
このみは驚いた。
「……どうして?」
「なんとなく」
「私の好きなもの、知らないよね」
「知らない」
「じゃあ、どうして?」
武尊は少し考えた。
「君がさっきからコーヒーのカップを見てたから」
このみは自分の手元を見る。
確かにカップを握っていた。
「……それだけ?」
「それだけ」
武尊は笑う。
「でも、君が飲みたいなら淹れるよ」
キッチンへ向かう。
このみは、その背中を見つめた。
そして気づいた。
武尊は何も覚えていない。
なのに、彼はこのみの仕草を見ている。
表情を見ている。
声を聞いている。
記憶ではなく、今この瞬間の彼女を見ている。
その夜。
二人は遅くまで話した。
好きな映画。
最近気になっている本。
東京の新しい街。
子どもの頃の夢。
武尊はこのみの過去を知らない。
だから、このみも武尊に過去を説明しなかった。
ただ、今の自分たちの話をした。
それは不思議な時間だった。
三年間付き合っている恋人なのに。
まるで、本当に初めて会った人と話しているようだった。
「このみ」
武尊が名前を呼ぶ。
「なに?」
「俺たちってさ」
「うん」
「本当に恋人だったの?」
「……そうだよ」
「じゃあ、俺は今も君を好きなのかな」
このみは答えられなかった。
武尊は窓の外を見た。
東京の夜景が、ガラス越しに滲んでいる。
「変だよね」
「何が?」
「昨日の俺は君を好きだったはずなのに、今日の俺は昨日の俺を知らない」
「……うん」
「なのに」
武尊がこのみを見る。
「今の俺も、君を好きになりそうなんだ」
このみの胸が締めつけられた。
「どうして?」
「分からない」
武尊は笑った。
「でも、たぶん……俺にとっては、それでいいんじゃないかな」
「え?」
「昨日の俺が君を好きだった理由を、今の俺が知らなくても」
武尊は少し照れながら言った。
「今の俺が君を好きになる理由は、今の俺が見つければいい」
その言葉を聞いた瞬間。
このみの目から、一粒だけ涙が落ちた。
「……泣かないで」
「泣いてない」
「泣いてる」
「これは違う」
「何が?」
「……嬉しいの」
武尊は困ったように笑った。
「そっか」
そして、そっとこのみの手を握った。
昨日までなら、何度も握った手。
今日の武尊にとっては、初めて触れる手。
それでも、その手の温度は変わらなかった。
*
その後も、同じ日々が続いた。
午前零時。
記憶が消える。
朝。
武尊がこのみを知らない。
昼。
少しずつ距離が近づく。
夜。
また恋をする。
そして午前零時。
すべてが消える。
このみは記録を続けた。
毎日の武尊の言葉を保存した。
写真を撮った。
動画を残した。
その日の会話を文章にした。
武尊が笑った瞬間。
武尊が初めてこのみの手を握った日。
武尊が「好き」と言った日。
全部。
全部、残した。
忘れないために。
いつか元に戻せるように。
そして、このみ自身が忘れないために。
けれど、十日目の朝。
異変が起きた。
いつものように武尊は目を覚ました。
このみを見て、少し困った顔をする。
「……初めまして」
「おはよう」
「ごめん。やっぱり覚えてない」
「うん」
ここまではいつも通りだった。
しかし武尊は、突然眉をひそめた。
「でも……」
「どうしたの?」
「昨日の夢を見た」
「夢?」
「うん」
武尊は額に手を当てた。
「誰かと一緒にいた」
このみの心臓が跳ねた。
「誰?」
「分からない」
武尊は目を閉じる。
「でも、その人が泣いてた」
「……」
「俺、その人に何か言ってた」
このみは息を呑んだ。
「何て?」
武尊はしばらく考えた。
そして。
「……『また明日』って」
このみの指先が震えた。
それは。
昨日の夜、二人が別れるときに武尊が言った言葉だった。
消えたはずの記憶。
存在しないはずの昨日。
それなのに。
武尊の夢の中に、残っている。
「このみ?」
「……なんでもない」
このみは笑った。
けれど、その瞬間。
胸の奥に、初めて小さな希望が生まれた。
もしかしたら。
すべてが消えているわけではないのかもしれない。
記憶の奥底に。
もっと深い場所に。
何かが残っているのかもしれない。
*
その日の夜。
このみは会社へ向かった。
深夜のオフィスは、人の気配がなかった。
照明を落としたフロアに、無数のサーバーが青白い光を放っている。
ここは、東京都民の記憶を管理する場所。
このみが働いているのは、そのシステムを維持する部署だった。
普段なら触れることのできない管理画面を開く。
武尊の個人IDを入力する。
警告。
アクセス権限がありません。
このみは迷った。
それでも、管理者権限を一時的に取得する。
画面が切り替わった。
大量のデータ。
健康情報。
記憶バックアップ履歴。
照合記録。
そして。
――危険記憶処理履歴。
このみはそこを開いた。
日付を確認する。
一日前。
二日前。
一週間前。
すべて同じ処理が行われている。
対象領域。
特定人物との関連記憶。
このみは息を止めた。
さらに詳細を開く。
すると。
画面の中央に、見覚えのない警告文が表示された。
【注意】
対象記憶は単独の人物記憶ではありません。
関連記憶群「A-03」に指定されています。
このみは眉をひそめた。
「A-03……?」
その下に、さらに一行。
最初の発生記録:2047年10月18日
日付を見た瞬間。
このみの手が止まった。
2047年10月18日。
それは。
このみと武尊が、初めて出会った日だった。
画面の最下部には、さらに赤い文字が点滅している。
記憶処理理由:国家安全保障上の機密事項
そして。
その次に表示された一文を見て、このみは息を呑んだ。
――対象者は、死亡記録を有する。
このみは、自分の名前を確認した。
そこには。
確かに。
自分の名前があった。
「篠宮このみ」
死亡日時。
2047年10月18日。
死亡確認。
――あり。
このみは画面を見つめたまま、動けなくなった。
自分は。
三年前。
一度、死んでいる。
そして、その記録を。
今まで誰も教えてくれなかった。




