はじめましての朝
午前零時になると、東京は一度だけ、静かになる。
眠らない街と呼ばれていたのは、もう昔の話だ。
高層ビルの壁面を走っていた広告は、夜間の電力制限に合わせて明るさを落とし、空中を行き交っていた配送ドローンも、一斉に航路を切り替える。
そして、東京都民のほぼ全員が身につけている記憶端末が、ほんの数秒だけ白く点滅する。
――Memory Backup Complete.
毎晩午前零時。
その人がその日一日で得た記憶を保存し、前日までの記憶と照合する。
それは、もう当たり前のことだった。
記憶は財産であり、身分証明であり、時には命綱でもある。
三十年前に起きた大規模な犯罪事件をきっかけに、東京都は「メモリー・バックアップ制度」を導入した。
事故に遭っても、大切な人を失っても、自分が何者なのかを忘れないように。
そして、犯罪を犯した人間が「覚えていない」と嘘をつけないように。
人間の脳だけを証拠にしない。
そんな理念から始まった制度だった。
今では、誰もそれを疑問に思わない。
少なくとも、このみはそう思っていた。
――昨日までは。
*
「……すみません」
声がした。
まだ眠りの底にいたこのみは、ぼんやりと目を開けた。
薄暗い寝室。
カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。
隣には、武尊が座っていた。
ベッドの端に腰を下ろし、こちらを見ている。
寝癖のついた髪。
少し眠そうな目。
いつもと同じ顔だった。
「……なに?」
このみが目をこすると、武尊は困ったように眉を下げた。
「あの……」
少し間を置いて。
「どちら様ですか?」
一瞬、意味が分からなかった。
「……え?」
「すみません。勝手に部屋に入ったわけじゃないですよね?」
「武尊……?」
名前を呼ぶ。
すると、彼はますます困惑した。
「俺の名前を知ってるんですか?」
「……何言ってるの?」
「いや……」
武尊はベッドから少し距離を取った。
その仕草が、胸に刺さった。
まるで本当に、知らない女から突然名前を呼ばれた人間のようだった。
「待って」
このみは起き上がった。
頭がまだ働いていない。
「昨日、一緒に寝たじゃん」
「……昨日?」
「そう」
「昨日、俺は……」
武尊は自分のスマートフォンを手に取った。
画面を操作する。
ロック解除。
そして、写真フォルダを開く。
「……」
武尊の指が止まった。
そこには、このみがいた。
桜の下で笑っている写真。
去年の夏、海で撮った写真。
二人で食べたパフェ。
旅行先で撮った自撮り。
寝起きのこのみを武尊が勝手に撮った写真まである。
三年間の記憶が、画面の中にぎっしり詰まっていた。
「この人……」
武尊が画面を見つめる。
「誰?」
「……私」
「え?」
「その写真、全部私だよ」
「……」
武尊は写真とこのみを交互に見た。
けれど、その目に浮かんでいるのは懐かしさではなかった。
困惑だった。
「じゃあ、この人は……俺が知ってる人なんだよね?」
「……恋人」
声が震えた。
「三年間、付き合ってる恋人」
武尊の顔から血の気が引いた。
「……俺が?」
「うん」
「この人と?」
「私と」
「……」
沈黙。
このみは笑おうとした。
「もしかして、寝ぼけてる?」
「いや」
武尊は首を横に振った。
「そういう感じじゃない」
その言葉を聞いた瞬間、このみの胸の奥で、何かが崩れた。
冗談ではない。
寝ぼけてもいない。
武尊は、本当に自分を知らない。
「病院……」
このみはベッドから降りた。
「病院行こう。すぐに」
「待って」
武尊が手を伸ばした。
その手が、このみの手首に触れる。
次の瞬間。
武尊の表情が変わった。
「あ……」
「どうしたの?」
「いや……」
武尊は手を離さなかった。
むしろ、不思議そうにこのみを見ている。
「なんか……」
「うん」
「君に触ると、安心する」
このみは息を止めた。
武尊自身も驚いた顔をしている。
「変だよな」
「……うん」
「全然知らない人のはずなのに」
そう言って、武尊は手を離した。
「ごめん」
知らない人。
その言葉が、今度ははっきりと胸を刺した。
*
午前八時。
病院で簡単な検査を受けた。
脳波。
神経反応。
記憶照合。
どれも異常なし。
武尊の記憶には、欠落があった。
しかし、それは一般的な健忘症とは違った。
「一部の人物記憶だけが消えている……?」
担当医が端末を見ながら呟く。
「はい」
このみが答える。
「私に関する記憶だけです」
「他の記憶は?」
「残っています」
武尊が答えた。
「仕事のことも、両親のことも、友人のことも覚えています」
「では、あなたとこのみさんが付き合っていたことだけ?」
「……はい」
医師はしばらく黙っていた。
そして、慎重に言った。
「非常に珍しい症例です」
「治りますか?」
このみはすぐに尋ねた。
「現時点では何とも」
「でも、記憶そのものは残っているんですよね?」
「ええ。少なくとも記憶端末上には」
医師が二人のスマートフォンを指した。
「ただし、本人の脳内記憶と端末のバックアップが一致していない」
「……どういうことですか?」
「脳内から消えている記憶が、バックアップ側には残っている」
このみは画面を見つめた。
写真。
動画。
メッセージ。
三年間のすべて。
そこには確かに、このみと武尊が恋人だった証拠がある。
けれど。
証拠があることと、覚えていることは違う。
「少し様子を見ましょう」
医師はそう言った。
「今日は帰宅して構いません。ただ、もし記憶障害が進行するようなら――」
「大丈夫です」
武尊が答えた。
「このみさんがそばにいてくれるので」
このみは顔を上げた。
武尊は笑っていた。
その笑顔は、昨日までと何も変わらなかった。
それなのに。
その「このみさん」という呼び方だけが、どうしようもなく遠かった。
*
昼過ぎ。
このみは自宅で仕事をしていた。
正確には、仕事をしているふりをしていた。
端末の画面には大量のデータが表示されている。
しかし、一文字も頭に入ってこない。
向かいでは武尊がコーヒーを飲んでいる。
時々、こちらを見る。
そのたびに目が合う。
そして、武尊は微笑む。
まるで初対面の女性に好意を持ったように。
「……何?」
このみが尋ねる。
「いや」
武尊は少し照れたように視線を逸らした。
「なんか、気になるなと思って」
「私が?」
「うん」
「どうして?」
「分からない」
武尊は笑った。
「でも、朝からずっと気になる」
このみは何も言えなかった。
「よかったら」
武尊が続ける。
「今日の夜、一緒にご飯食べませんか?」
「……」
「嫌だった?」
「違う」
「じゃあ――」
「行く」
即答だった。
武尊が嬉しそうに笑った。
「よかった」
その笑顔を見て、このみは泣きそうになった。
三年間、一緒に暮らしてきた。
何度も同じ店に行った。
何度も同じ料理を食べた。
何度も同じ道を歩いた。
それなのに今日の武尊にとっては、全部が初めてなのだ。
待ち合わせも。
店も。
会話も。
そして――恋も。
*
夜。
二人は駅前の小さなレストランに入った。
武尊は店内を見回して、
「ここ、来たことある?」
と聞いた。
「あるよ」
「俺と?」
「うん」
「……そっか」
武尊は少し考えた。
それからメニューを開く。
「この店、何がおいしい?」
「パスタ」
「じゃあ、それにしよう」
「いいの?」
「うん」
しばらくして、料理が運ばれてくる。
武尊は一口食べた。
「……おいしい」
「でしょ?」
「このみさんも好き?」
「好き」
「じゃあ、次もここにしよう」
その言葉に、このみは笑った。
「うん」
食事を終え、店を出る。
東京の夜景が、二人の頭上に広がっていた。
空には広告ホログラムが浮かび、道路を走る自動運転車のライトが流れていく。
2050年の東京。
何もかもが便利になった世界。
記憶さえ、保存できる世界。
なのに。
このみの隣にいる男は、彼女との三年間を何一つ覚えていない。
「このみさん」
「ん?」
武尊が立ち止まった。
「今日、会えてよかった」
このみは目を見開いた。
「……どうして?」
「分からないけど」
武尊は少し笑った。
「たぶん、明日も会いたい」
胸が痛かった。
嬉しい。
なのに、苦しい。
昨日までの武尊なら、こんなことは言わなかった。
もっと別の言葉を使った。
もっと自然に手を繋いだ。
もっと当たり前に「帰ろう」と言った。
今の武尊は、何も知らない。
それでも。
それでも、このみを選ぼうとしている。
「……じゃあ、また明日」
このみが言う。
「うん。また明日」
二人は並んで歩き出した。
*
その日の夜。
このみは眠れなかった。
時計を見る。
23時58分。
ベッドの隣では武尊が眠っている。
いつもと同じ寝顔。
いつもなら、この時間に彼の髪を撫でる。
「おやすみ」と言って、眠る。
けれど今日は違った。
このみはスマートフォンを握りしめていた。
23時59分。
画面にカウントダウンが表示される。
59。
58。
57。
――0。
その瞬間。
武尊の手首に装着された記憶端末が、白く光った。
一度。
二度。
そして、消えた。
このみは息を止めた。
隣を見る。
武尊は眠っている。
何も変わっていない。
しかし。
翌朝。
彼は再び、このみを見ることになる。
そしてまた。
彼女を知らない人間として。
それでも、なぜか惹かれてしまう人間として。
新しい一日を迎える。
午前零時。
記憶は消える。
けれど――
何かだけが、消えずに残っていた。




