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濃霧の守り人  作者: 朝飯の秋刀魚
第一部

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第八章  準備

ウィリアム・ロランス曹長がローランス中将(父)との極秘面会から戻ると、課長のミラーは珍しく上機嫌だった。


執務室の革張りの椅子に深く腰掛け、「ケケケ」と、まるで壊れた蒸気パイプのような乾いた笑い声を漏らしている。


「……お帰り、曹長。どうだ、君の父上――『鉄の将軍』の反応は?」


「一応、首を縦に振りました。ただし、条件付きです。『海軍が動くのは、事態が収拾不能になった時のみ』と」


「そうか、ならいい。十分だ」


ミラーは満足げに頷き、窓の外、警視庁前の大通りで行われている「偽装工事」を指差した。


「あれを見ろ。ただのガス管工事に見えるか? 王子直轄の工兵による、市街地封鎖用のバリケード設置作業だ」


ミラーは曹長の方を振り向き、試すような視線を向けた。


「だが曹長殿。あの潔癖な王子様が、本当にそんな荒っぽい手口を使うと思うかい? 魔物を街に解き放つなんて、御伽噺のような暴挙を」


ウィリアムは一瞬躊躇したが、意を決して制服のポケットから布に包まれた「小さな金属片」を取り出し、デスクの上に置いた。


「……第四章の『聖なる森』で回収したものです。『魔力増幅器マナ・ブースター』の残骸。本来、自然界には存在しない濃度のマーナを強制的に放出し、魔物を呼び寄せるための違法魔導具です」


ミラーの笑いが凍りついた。


彼はその歪んだ金属片を拾い上げ、王家の紋章を確認すると、長く重い息を吐いた。


「……そうか。奴は『聖なる森』で実験をしていたのか。枢機卿を殺すためなら、魔物の封印を解くことも厭わないと」


数秒の沈黙の後、ミラーは立ち上がり、コートを羽織った。

わかった。曹長、君は下の連中を手伝ってやれ。魔導紙への魔力注入、魔弾の充填……猫の手も借りたい状況だ」


「はッ。……課長は?」


「私は少し、裏道を通って散歩に行ってくる。……スポンサー様に、準備完了の報告をしなくな」


その目は、笑っていなかった。


夜の闇に紛れ、ミラーは王子の離宮へと続く、王族と一部の高官しか知らない秘密の地下通路を歩いていた。


護衛もつけず、たった一人。腰には愛用の自動拳銃が一丁だけ。


離宮の私室。


オスカー王子は、巨大な王都の地図にチェスの駒を並べていた。


「……珍しいな、ミラー。貴様が正面玄関を通らず、ネズミのように裏口から来るとは」


王子は振り返らずに言った。


「秘密裏の報告には、秘密の通路が相応しいかと」


ミラーは恭しく頭を下げた。「例の『パレード』および新議会開会に向けた警備計画、すべての準備が整いました」


「ほう。第五課(野良犬)にしては手際がいい」


「ええ。……ですが殿下、一つだけ懸念が」


最近、市井では妙な噂が流れておりまして。『昔話の魔物が街に現れる』などという」


ミラーは王子の反応を伺った。


王子は手を止め、ゆっくりと振り返った。その表情は能面のようだ。


「……ミラー。新しい畑を作るには、どうすればいいか知っているか?」


「雑草を抜く、でしょうか」


「違う。『焼き払う』のだ」

王子は地図上の「スラム街」と「貴族街」の境界線に、赤い駒を置いた。


「全てを灰にすれば、肥沃な土だけが残る。そこに新しい国を建てる。……多少の火傷は、必要な痛みだ」


その言葉で、ミラーは確信した。


この男はやる。自国の民を魔物の餌にしてでも、腐敗した旧体制を焼き払うつもりだ。


「……肝に銘じます」


ミラーは深く頭を下げた。


「では、当日の『火消し』は、我々第五課が全力を以て務めさせていただきます」


「期待しているよ」


ミラーが部屋を去る。


冷たい夜風が吹く通路に出た瞬間、彼は拳を握りしめ、ギリリと歯を鳴らした。


(……上等だ、クソガキが。焼き払われるのがどっちか、見せてやる)


第五課の地下拠点に戻った時、そこは修羅場と化していた。


「……しんどい。死ぬ。労働基準法はどこに行ったんですか……」


グレイがソファに死体のように突っ伏していた。指先は魔力の酷使で痙攣している。


「へへ……いつキリがあるのかなあ……」


ピーターは虚ろな目で笑いながら、山積みになった魔導紙の束を数えている。「貴族時代にピアノを弾いていた時より指を使ってるよ……」


イライアスは床に座り込み、天井を睨んでいた。


部屋の隅では、ウィリアム曹長がシャツの袖を捲り上げ、鬼のような形相でインク壺に向かっていた。


「グレイ、死ぬな。手を動かせ。例の『民衆避難誘導術式』、まだ七割だぞ」


「曹長ぉ……あんた悪魔だ……」


そこへ、ミラーが戻ってきた。

彼は部下たちの悲惨な姿を見渡し、パンと手を叩いた。


「おい、お前ら! 休憩は終わりだ!」


「げぇっ、課長!?」


ミラーはニヤリと笑ったが、その瞳は燃えていた。


「さっき、王子様に会ってきた。……あの方は本気だ。我々の予想通り、街を燃やす気でいる」


その言葉に、全員の空気が変わった。疲労の色が消え、戦士の顔になる。


「……やるしかねえってことか」イライアスが銃を取る。


「ふふ、燃やされるのは御免ですね」グレイが眼鏡を直す。


「僕たちの街を、守らなきゃ」ピーターが立ち上がる。


「そうだ。我々の仕事は『火消し』だ。だが、ただ水を撒くだけじゃない」


ミラーは宣言した。


「火元(王子)ごと、鎮火してやる」


地下室の明かりは、夜明けまで消えることはなかった。


新議会開会の前夜。首相官邸の奥の間では、勝利の美酒が振る舞われていた。


「……乾杯だ! 我々の勝利に!」


ハリソン 首相は、最高級のワインを掲げて顔を紅潮させていた。枢機卿の協力により、彼の党は議会で単独過半数を獲得したのだ。


「枢機卿、あなたのおかげですよ。これで、あの邪魔なオスカー王子を排除できる!」


首相は下卑た笑みを浮かべた。「奴を事故に見せかけて始末し、その後で『クーデターを画策していた』と発表する。……女王陛下には、事後承諾で認めさせるしかありませんな」


「……ええ。首相閣下は少々酔いが過ぎるようですが、同意しますよ」


枢機卿はグラスを揺らしながら、冷ややかな目で首相を見ていた。(この男は使い捨てだ。真の支配者は我々教会だ)


その時、青ざめた秘書官が飛び込んできた。


「しゅ、首相! 緊急事態です! 近衛騎士団が王子の私兵に入れ替わっています! さらに王宮へのアクセスが遮断されました!」


「何だと……!?」


枢機卿は即座に立ち上がった。「馬鹿め、奴は最初から実力行使に出る気だったか! 首相、ここはお前の責任で何とかしろ!」


枢機卿は首相を見捨て、官邸を飛び出した。


夜の闇の中、枢機卿を乗せた馬車が王宮の正門へ滑り込む。


「開けろ! 私は枢機卿だぞ! 女王陛下の『専属医』を連れてきた!」


枢機卿は焦っていた。馬車の奥には、魔物の精神を制御できる唯一の人物――「操師ハンドラー」が控えている。


現在、王宮にいる「女王」は、教会が用意した「チェンジリング(取り替え子)」だ。定期的に操師が暗示をかけ直さねば、化けの皮が剥がれ、ただの肉塊に戻ってしまう。


だが、門を塞いでいたのは、抜身の剣を持った近衛隊長と、冷酷な笑みを浮かべたオスカー王子だった。


「……遅いぞ、枢機卿」


王子は、馬車の窓から覗く操師の怯えた顔を一瞥して、鼻で笑った。


「母上は『深い眠り』についておられる。……もう、二度とさえずることもなくな」


「なっ……貴様、まさか……!」


枢機卿の顔から血の気が引く。


王子は手袋についた青黒い血を、ハンカチで拭いながら淡々と言い放った。


「あの『化け物』、少々口数が多かったのでな。


――舌を切り落としておいた」


「ひっ……!!」


馬車の中の操師が悲鳴を上げた。


チェンジリングにとって、舌は声帯模写と幻惑魔法のかなめ。それを失えば、もはや女王の声で喋ることも、命令を下すこともできない。ただの「おしの化け物」だ。


「……き、貴様……神聖な玉体を……!」


「帰って祈るがいい。明日の議会で、貴様らの化けの皮を剥いでやる」


枢機卿はガタガタと震えながら馬車の窓を閉めた。


「も、戻れ! 教会へ戻れ! ……『予備スペア』を起こす! まだ負けではない!」


逃げ去る枢機卿の馬車を見送りながら、王子は近衛隊長に向き直った。


「……鼠は罠にかかった。これで奴らは、王宮の『女王』を使えない」


王子の視線は、王宮の最奥――主を失った寝室の方角へと向けられた。


豪奢な扉の向こう、闇に沈んだその部屋には今、舌を切り取られ、再生能力を阻害する「封魔の銀鎖」に繋がれた元・女王が転がっているはずだ。


 かつて国母として敬愛されたその姿は、もうどこにもない。あるのは、禁忌の魔術に肉体を蝕まれ、ただ生き続けるだけの「不死の怪物」だけだ。


「さて。……正規軍はどう動く?」


 王子は、背後に控えていた軍部の将軍に問うた。


 古傷の残る将軍は、沈痛な面持ちで重々しく口を開いた。


「軍の本分は国土防衛。政治的争いには不干渉(中立)を貫きます。……ただし、『市街地での大規模な破壊活動』、あるいは『人らざる脅威』が発生した場合のみ、治安維持のために出動します」


「……それでいい」


 王子は満足げに頷くと、バルコニーの手すりに手をかけた。冷たい夜風が、彼の頬を撫でる。


「明日の議会開会式。……歴史が変わる瞬間だ」


 独りごちて、王子は夜空を見上げた。

ふと、視界の端に王宮の庭園が映る。月明かりに照らされたその場所は、幼い日の記憶を鮮烈に呼び覚ました。


『もういいかーい?』


『まーだだよ』


 脳裏に響くのは、鈴を転がしたような笑い声。


 あの頃、母上はまだ「女王」ではなく、ただの優しい母だった。


 父上――ロバート公と、六人の兄や姉たち。家族九人で囲む食卓には、いつも暖かなスープと笑顔があった。バラの咲く庭園で、末っ子だった自分を見つけて抱き上げてくれた母の、陽だまりのような匂い。


 だが、その幸福は長くは続かなかった。


 流行り病、魔獣の襲撃、不審な事故。


 まるで死神に見初められたかのように、父が逝き、兄たちが倒れ、愛らしい姉たちが棺に入っていった。


 一人、また一人。


 喪服を脱ぐ暇さえなく、葬列は続いた。


 ――そして、最後の兄が息を引き取ったあの日。


 母の心は、音を立てて砕け散ったのだ。


『私が……私が守らなければ。死なない国を、死なない体を』


 優しかった母の瞳から光が消え、代わりに狂気が宿った。彼女は心を閉ざし、禁じられた錬金術と古代魔術に救いを求めた。国を守るため、そして最後に残った自分(王子)を守るため、彼女は自ら「人」であることを捨てたのだ。


「……母上」


 王子は声もなく呟き、一筋の涙が頬を伝い落ちた。


 あの優しかった母は、もういない。そこにいるのは、国を食い物にする哀れな独裁者だけだ。


 だからこそ、終わらせなければならない。他の誰でもない、彼女が命がけで守ろうとした自分の手で。


「かくれんぼは、もう終わりです」


 王子は涙を拭い、決別の言葉を夜風に乗せた。


「おやすみなさい、母上。……明日はきっと、良い天気になりますよ」


 雲の切れ間から覗く月は、まるで欠けた王冠のように、静かに王都を見下ろしていた。


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