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濃霧の守り人  作者: 朝飯の秋刀魚
第一部

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第六章  監視

「外科医」に名付けられた連続殺人犯は、バーリという者一人のみと公表された。元守り人レジスタンス組織のことはともかく、人体改造や魔法の果実が武器化に応用され事実も隠蔽された。それで警視庁はこの世間を乱す事件の騒動を静めたが、五課の者の気持ちはそうならない。


「被害者家族への通知は?」


「我々が廃鉱山で発見した百名以上の被害者、それは……」


「無駄だ、上層部は認めない。」課長のミラーは、淹れたての泥のように濃いコーヒーを啜りながら、一枚の報告書をテーブルに投げ出した。


「認めない?」グレイが噛みつく。「鉱山で見た死体の山は幻覚だったとでも言うんですか!」


「公式発表ではこうだ」


 ミラーが書類を読み上げる。


「連続殺人犯『外科医』の拠点を軍が制圧。犯人は死亡。確認された被害者は、及び行方不明だった5名のみ」


「ふざけるな!」


 グレイが拳を机に叩きつけ、コーヒーカップが跳ねた。


「残りの98人はどうなる!? 鉱山ごと生き埋めにして、なかったことにする気か!」


「その通りだ。軍はすでに鉱山の入り口を爆破し、封鎖した。あれはもはや、ただの岩山だ。私も納得できないが、でもこれは我々の現実」


 一区の商店街にある大衆レストラン。


 窓の外は、明日の祝祭を前にした街の灯りが煌びやかに輝いている。店内は、仕事を終えた労働者たちの喧騒と、ローストチキンの香ばしい匂いで満ちていた。


「皆が落ち込んでいるのは承知してるけど、まずは形だけでも整えなきゃ」


 サラがジョッキを持ち上げ、努めて明るい声を作った。


「ここでピーターの無事救出と、グレイの退院祝いを兼ねて……乾杯!」


「……乾杯!」


 四つのグラスがぶつかり合う音が、重苦しい空気を少しだけ和らげた。


「ったく、なんで退院早々、こんな脂っこい料理なんだよ」


 グレイは文句を言いながらも、包帯だらけの不自由な手でフォークを突き刺し、肉に齧り付いた。


「病院食が薄味すぎて死にそうだったんだ。……うめぇ」


「見舞いをした時、文句を言いながら、お前はその一部屋の患者のなんに、一番食べているじゃない」


 サラーが呆れつつ、自分の皿からポテトをグレイの皿に移してやる。


 ピーターは、まだ少し腫れの残る顔で、申し訳無さそうに縮こまっていた。


「すまん……僕のせいで、こんな大事になっちゃった」


「気にするな、ピーター」


 イライアスがエールを流し込み、髭についた泡を拭う。


「お前が情報を持ち帰らなきゃ、俺たちは明日のパレードでマヌケ面をして旗を振っているところだった。これはその報酬だ」


 しばらくの間、とりとめのない会話が続いた。


 だが、ピーターの手がふと止まった。彼はレストランの壁に飾られた、古い王都の絵地図を見つめていた。その視線が、貴族街の一角で凍りつく。


「……あ」


 ピーターがフォークを取り落とした。


 乾いた音が、テーブルの会話を断ち切った。


「どうした、ピーター? 傷が痛むか?」


 イライアスが顔を覗き込む。


「い、いえ。思い出した……。鉱山で、檻に入れられる前のことです」


 ピーターの顔から血の気が引いていく。


「工場に、視察に来ていた男がいたんです。目立たない灰色のコートを着て、帽子を目深に被っていたので、最初はただの商人かと思いました。でも……」


 ピーターは自分の小指をさすった。


「あの男、現場監督に金の袋を渡す時、手袋を外したんだ。その小指に、銀色の重厚な家紋が嵌まっていた」


「指輪?」グレイが身を乗り出す。


「はい。一瞬でしたが、ハッキリ見えた。……白薔薇に剣の紋章だ」


 イライアスが息を呑んだ。


「白薔薇に剣……それ、サマセット子爵家の紋章よ」


 その場の空気が一瞬で凍りついた。


「サマセット子爵家か。その息子エドワードは、確かに、一連の事件の最後の犠牲者だ。被害者遺族であるはずの家の人間が、なぜ犯人のアジトである鉱山で資金提供をしていたのか?でも、紋章入りの指輪、普段から身につけているせいで、外すのを忘れたか、あるいは自分の権威を示すためにわざと見せたか」


 イライアスが低い声で推理する。


「どちらにせよ、被害者だと思っていた家が、実は裏で糸を引いていたとしたら……話は変わってくるかな」


 イライアスは残ったエールを飲み干すと、険しい顔で立ち上がった。


「独断で動くには相手が大きすぎる。……一度戻るぞ。課長に報告だ」


 祝祭前夜で他の部署が浮き足立つ中、第五課のオフィスだけは陰鬱な沈黙に包まれて、時計の振り子の音も明白。


「……サマセット家の執事が、鉱山にいただと?」


 報告を聞いたミラー課長は、眉間の皺を深くした。


「ピーター、見間違いではないな?」


「はい。あの指輪、そして今日、僕が街で見かけたその執事の顔……間違いありません」


 ミラーは指で机を叩き、考え込んだ。


「サマセット子爵は、保守派の重鎮だ。もし我々が正規の手続きで捜査令状を請求すれば、その瞬間に上層部から圧力がかかり、揉み消されるだろう」


「じゃあ、指をくわえて見てるって、言うんですか!」


 グレイが食って掛かるが、ミラーは冷徹に首を横に振った。


「誰もそんなことは言っていない」


 ミラーは引き出しから、何の変哲もない「市内巡回」の書類を取り出し、印を押して彼らに渡した。


「表向き、君たちは明日の新年祝いパレード備えた『特別警戒』の任務に就く。……場所は一区、サマセット邸周辺だ」


 イライアスがニヤリと笑い、課長が差し出した「市内巡回任務」の書類を受け取った。


「なるほど。偶然そこを通りかかったら、不審な動きを見つけた……というわけですね」


「そういうことだ。他の部署にも、国家安全保障局にも悟られるな。あくまで『野良犬の散歩』だ。……だが、一度尻尾を掴んだら、食いちぎるまで離すなよ」


了解ラジャー!」





 翌日、一区の貴族街。


 祝祭の喧騒を遠くに、冷たい小雨が降り始めた路地の闇に、四つの影が潜んでいた。


「……課長も人が悪い。巡回任務と言いながら、ガッツリ監視機材を持たせてくれたぜ」


 屋根の上、ガーゴイルの像の隣で、サラーが高性能な双眼鏡を構える。


「動きがあるわ。……屋敷の勝手口から、一人の男が出てきた」


 質素なコートを羽織っているが、その背筋は軍人のように伸びている。


 ピーターが目を凝らし、確信を持って頷いた。


「あいつです! 鉱山で金の袋を渡していた執事長です!」


「ビンゴだ」


 グレイが拳を鳴らす。


「悲劇の遺族の仮面を剥いでやる。……追うぞ」


 イライアスの合図で、五課の面々は闇に紛れて動き出した。執事が乗り込んだ辻馬車を、彼らは適切な距離を保って追跡する。到着したのは、王都の喧騒から外れた、場末の古びた喫茶店だった。


 湿った霧雨が窓を叩く中、サマセット家の老使用人は、奥のボックス席で一人の男と対峙していた。男は深いフードを目深に被り、胸元には「聖教」の異端審問官を示す銀の十字架を隠し持っている。


 その数メートル横、空席の隣にある影の中で、グレイは自身の呼吸を極限まで押し殺していた。


(……「息隠しの術式」も長くは持たねえ。手短に頼むぜ)


「……鉱山の拠点が潰されたと聞いた。例の『供給』はどうなっている)


 使用人が低い声で問いかける。教会の男は冷淡に答えた。


「問題ない。軍の突入前に、主要な『苗床(犠牲者)』と抽出済みの果実は移動させた。五課が押さえたのは、敢えて残した残滓に過ぎん。まあ、果実武器の実験は一旦置いといで、それよりも、女王陛下の具合はどう?二ヶ月後のパレードまで、あのチェンジリングは持つのか?」


「未だ問題ない。操師の仕事完璧だ」


 同時刻、喫茶店の外。


 雨に濡れた路地で、サラーが屋根の上から警告を発した。


「イライアス、気をつけて。……私たちの他にもう一組、この店を見張っている連中がいる」外で見張りのサラーが双眼鏡で確認した情報を伝えた。


 イライアスが視線を走らせると、向かいの建物の影に、数人の男たちが潜んでいた。その立ち姿、気配の消し方。ただのごろつきではない。


(……守り人か?)


 イライアスが影から踏み出した瞬間、敵のリーダー格の男が反応した。


「――誰だ」


 男は振り返りざま、流れるような動作で剣を抜いた。


 カキンッ!


 イライアスの剣と、男の剣が火花を散らす。


「この重い踏み込みと剣の振り方……まさか、ジャスパーか?」


 イライアスの問いに、男――ジャスパーはフードを少し上げ、ニヤリと笑った。


「よお、イライアス。相変わらず無骨な剣を振るってるな。警察の犬に成り下がったとは聞いていたが」


 ジャスパー。かつてイライアスと同じギルドに所属し、幾度か共同戦線を張った、数えきれない魔物を一緒に切ったの男だ。


「貴様、サマセット家に雇われたのか?」


「ハッ、まさか。あんなカビの生えた貴族に興味はない。俺の飼いスポンサーはもっと高貴で、野心的なお方さ」


 ジャスパーは剣を弾くと同時に、左手で風の印を結んだ。


「王子殿下は、古臭い貴族や教会すらも駒として使っているのさ!」


 ドォォン!


 突風がイライアスの視界を塞ぐ。


「今日は挨拶だけにしておこうぜ、旧友。……明日の正午、特等席でお前のマヌケ面を見るのを楽しみにしてるよ」


 煙が晴れた時、ジャスパーとその部下たちの姿は消えていた。


 同時に、店からグレイが飛び出してくる。


「イライアス! 逃げられたか!? ……あいつら、全部グルだ!」




 一時間後。ポリス・プラザの612号室。


 ずぶ濡れで戻ってきた第五課の者を待っていて、教会からの干渉が予想外と思いつつ、一枚の上質な封筒だった。


「……たった今、王宮の使いが届けてきた」


 ミラー課長が、封筒をデスクに投げ出す。差出人の名は、第七王子オスカー。


『親愛なる第五課の諸君へ:

 昨夜は余の部下が少々騒がしかったようだね。ジャスパーから、君たちの「熱心な仕事ぶり」は聞いているよ。

  だが、このまま互いに睨み合っていても何も生まれない。誤解を解くため、一度顔を合わせたいのだ。

 こちらの誠意を示すため、会談の場所は君たちに委ねよう。

  良い返事を待っている。

  第七王子オスカーより』


「これ、罠か?」


「その可能性はないとは言わん。だが、会談の場所と時間をこちらに委ねるというのは、口封じを企む側にしてはリスクが高すぎる」


 ミラー課長は椅子の背もたれに深く沈み込み、天井のシミを睨みつけた。


「相手は本気だと思うぞ。それに……」


「そうそう」


 イライアスが言葉を継ぐ。彼は昨夜の戦闘で剣を交えた、あの糸目の男を思い出していた。


「あのジャスパーとかいう執事、教会の手先特有の『腐った聖水の臭い』がしなかった。ただの犬じゃない。もっと別の、厄介な飼い主に仕えている目だったぜ」


「……いいだろう」


 課長は渋々といった様子で吐き捨てた。


「どのみち、教会の尻尾は掴めず、捜査はどん詰まりだ。虎穴に入らずんばなんとやら、か」


 彼は机の上のベルを鳴らし、現れた連絡員にメモを書きなぐって渡した。


「大衆の目を盗むなら、あそこが適切だ。……相手が王子様だろうと、ここに来るには泥に塗れてもらうぞ」




 三時間後。


 第五課の一同が待つ場所は、王都の地下深くに張り巡らされた旧下水道の一角――通称『嘆きの回廊』だった。


 かつてこの都を「黒死病ペスト」が襲った際、処理しきれない遺体が投げ捨てられ、そのまま埋葬された場所だ。


 壁面には、補強材の代わりに無数の人骨が埋め込まれているかのように、白い石灰質の凹凸が浮き出ている。


 湿った石床を叩く水滴の音が、まるで死者の指先が床を這う音のように反響していた。


「……趣味が悪いですよ、課長」


 ピーターがハンカチで鼻と口を覆いながら呻く。


「ここは王都で最も死に近い場所です。霊的な磁場が強すぎて、まともな魔術師なら一分で発狂しますよ」

「だからこそだ」


 ミラー課長はランタンの明かりを掲げ、闇の奥を照らした。


「教会の聖職者どもは、この穢れた空気を嫌って近づかない。枢機卿の耳目を逃れるには、ここしかないんだ」


 足元の汚泥が、ねっとりとブーツに絡みつく。


 その泥の中にも、半ば朽ちた肋骨や、誰のものとも知れぬ頭蓋骨の一部が覗いていた。


 腐敗と湿気、そして数百年の怨念が入り混じった冷気が、イライアスたちの肌を撫でる。


「来たぞ」


 イライアスが闇の向こうに気配を感じ取り、短く告げた。


 その視線の先、頭蓋骨の散らばる通路の奥から、足音も立てずに二つの影が現れた。


 泥に汚れることも厭わず、優雅な足取りで進み出る金髪の青年。


 そしてその背後に控える、笑顔を貼り付けた執事、でも凄腕の武夫のこと、素人にも見ればわかる。


「……素晴らしい場所だ。私の城よりも、よほどこの国の真実を語っている」


 オスカー王子は、周囲の凄惨な光景を見回し、満足げに微笑んだ。


「皮肉がお上手ですね、殿下」


 ミラー課長が一歩進み出る。「ここは汚水と死体の掃き溜めです。輝かしい王宮とは似ても似つかない」

「いいや、同じだよ、課長」


 オスカーは白骨の埋まった壁に手を触れた。「表面だけをきれいに塗り固め、その下には腐敗した土台が横たわっている。王宮の地下も、ここと変わりはない。……いや、あちらの方がよりタチが悪いな。死体が生きたまま玉座に座っているのだから」


 その言葉に、場が凍りつく。


「死体……? まさか、女王陛下のことを仰っているのですか?」ピーターが息を呑んだ。


「単刀直入に言おう。君たちに『掃除』を頼みたい。……母上は、三年前に死んでいる。今のあれは、スフォルツァ枢機卿が禁忌の術式で動かしている、ただの美しい『器』だ」


 オスカーの顔から笑みが消え、底知れぬ憎悪が浮かんだ。


「その器を維持するために、毎夜、狂信的な信者たちが地下礼拝堂へ連れて行かれ、二度と戻ってこない。彼らは『神との合一』を信じて、喜んでその身を捧げている。……あの化け物に、生き血を啜らせているのだ」


「……待ってください、殿下」


 ミラー課長が声を荒らげた。


「女王陛下がそのような状態にあるなら、行政の長であるハリソン首相は何をしているのですか? 彼は『鉄の宰相』と呼ばれ、教会の干渉を嫌っているはずです」


「『鉄の宰相』? ……笑わせるな。あれはただの錆びついた風見鶏だ」


 王子は軽蔑を隠そうともせずに吐き捨てた。そして、彼はこの三年間の出来事を語り始めた。


「彼が守りたかったのは国家ではない。自分自身の椅子だ。……あの夜、何が起きたか教えてやろう」


 王子の低い声が、地下水路の湿った闇に溶けていく。


 それは三年前、霧の都がまだ「産業革命の光」に酔いしれていた頃の悪夢だった――。




【三年前・王立第一マナ精製所】


 その日、王都の空は鉛色だったが、新設された精製所の中は、目が眩むような黄金色の蒸気で満たされていた。


 視察に訪れた女王陛下を歓迎するため、技師たちは出力限界までボイラーを焚いていたのだ。


 悲劇は一瞬だった。


 安全弁の破裂音と共に、高濃度のマナ蒸気が噴き出した。


 近衛兵たちが盾になるよりも早く、熱波と魔力が女王を直撃する。


 事件後の二週間、崩れ落ちた女王の肌は、死へ向かって焦げ尽きる木のように、黒炭病の症状が徐々に広がっていった。




【首相官邸・執務室】


「……陛下が意識不明の重体だと?」


 ハリソン首相は、受話器を握りしめたまま、執務室の絨毯の上を獣のように歩き回っていた。


 彼の顔色は、死にかけた女王よりも青白かった。


 机の上には、朝刊のゲラ刷りが散らばっている。見出しは『支持率、過去最低を記録』『高騰なる物価反対デモ、拡大』。


「よりによって、総選挙の一ヶ月の前だぞ……!」


 首相は髪を掻きむしり、唸り声を上げた。


 もし今、国民から絶大な人気を誇る女王が崩御すればどうなる?


 国葬による自粛ムード、経済の停滞、そして安全管理の不備を野党に追及される。その上、民に愛された女王の死に、民衆の不満が爆発しかねない。


 内閣は総辞職し、自由保守党は大敗北、彼の政治生命は確実に終わる。


 でも、首相はまだ都合よく考えて「でも支持率なんて、当てにならないだろう。三年前の首都圏市長選を思い出す。我が党の候補は支持率で十ポイントの差をつけられ、誰もが惨敗を予想していた。だが、結果はどうだった。最後には、我々が僅差で勝ったではないか。」と小声で対面に座った党の院内幹事に言った。


「いや、去年から選挙・支持率意向魔導紙を使う世論調査の実行以来、選挙の予測は大分正確になった。油断は禁物だ」


「あゝ、なんとかしろ! 金ならいくらでも出す、最高の名医を呼べ! 陛下を生かしておけ、せめて選挙が終わるまでは!」


 だが、王室医師団の答えは絶望的だった。「現代医学では、結晶化した肺を治すことは不可能です」と。


 絶望に沈む執務室。そこへ、音もなく扉を開けて入ってきた男がいた。


 緋色の法衣を纏った、教会の最高指導者――スフォルツァ枢機卿だ。


「お困りのようですな、首相閣下」


 枢機卿の声は、蛇のように滑らかで、甘美だった。


「科学と医学が匙を投げたとしても……信仰ならば、奇跡を起こせますぞ」


「……何を言っている?」


 ウォルポールは警戒しつつも、縋るような目を向けた。「陛下を治せるのか?」


「『治す』のではありません。……『繋ぎ止める』のです」


 枢機卿は一歩近づき、首相の耳元で悪魔のように囁いた。


「古代の秘儀を用いれば、肉体は腐らず、心臓が止まっていても、国民の前で微笑み、手を振ることくらいは造作もない。……ただし、その『燃料』として、少々特殊なものが必要になりますが」


 首相は震えた。それが禁忌とされる死霊術ネクロマンシーの類であることは明白だった。


 だが、机の上の「支持率グラフ」が、彼の理性を麻痺させた。


「でも、演説とかはどうなる?屍のごとき有様では、公の面前に立つことなど叶わない」


「取り替えチェンジリング、一種の魔物。以前、教皇ポール七世は一時重病となり、あれで権力の鷹犬が環のように控えている状況から安全に過ごした」


「なんで、直接女王を死に、その取り替え子で女王となす」


「無理です。取り替え子は化けた者の魔力で姿を持します。それに、我々は女王の命でオスカー王子を『説得』します」


「なるほど……では、有権者には、バレないのだな?」


「勿論です。神の名にかけて」


 ハリソン首相は、脂汗の浮かぶ手で、枢機卿の差し出した冷たい手を握り返した。


 その瞬間、この国は人間ではなく、死体を王座に据えることになったのだ。


「……それが真相だ」


 地下水路の現実に引き戻されると、オスカー王子の瞳には、暗い炎のような怒りが宿っていた。


 オスカー王子は悔しげに拳を握りしめた。


「それから一年、私は何も知らずに過ごした。だが、徐々に違和感を抱き始めた。私が提案する国政改革、貧民層への支援……それら全ての法案が、議会でことごとく握りつぶされるようになったのだ。ハリソン首相は『党内の調整がつかない』と言い訳を繰り返したが、実際は偽の女王の権威を使って、私を政治的に殺そうとしていたのだ」


「なるほど……。しかし、なぜその極秘事項が漏れたのです?」グレイが尋ねる。


 王子は冷たい笑みを浮かべた。


「ハリソンの野郎は、あまりにも『人間』を軽視したからだ」


 背後に控える執事ジャスパーが、一通の書類を取り出した。


「首相の懐刀に、アーサーという秘書がいた。極めて有能で、首相の影として十年の汚れ仕事をこなしてきた男だ。彼はその功績を背景に、次回の選挙で議員への立候補を望んだ。……だが、ハリソンはそれを許さなかった」


「有能すぎた、ということですか」ミラーが察する。


「その通りだ。手元から離したくなかった首相は、裏で手を回し、アーサーの選挙区に刺客を送り込んで、彼の立候補を無残に叩き潰したのだ。


 一ヶ月前、私は酒場で泥酔していたアーサーに接触した。『次の選挙での全面支援と大臣の椅子』を条件にな。……彼は泣きながら、首相と教会の秘密を私に売ったよ」


 そして、王子は懐中から数枚の羊皮紙を出し、課長に渡しだ。


「これは証拠、取り替え子と古代術のことを載せた。あの秘書が持ち出したもの、うちの人間がコーピでこれと切り替えした」」


「事情は理解しました。しかし、相手は教会と国家権力そのものです。どう戦うおつもりで?」


 イライアスの問いに対し、オスカー王子は無言で指を鳴らした。


 地下通路の奥から、重苦しい鎖の音と共に、数人の近衛兵が現れた。


 彼らが引き連れているのは、軍用犬ではない。体長3メートルを超え、全身が漆黒の剛毛に覆われた「大狼ダイアウルフ」の魔物だった。


 その額には、赤く発光する魔法陣――『従服の印』が焼き付けられている。


「こいつらは私の可愛い『猟犬』だ。捕獲した魔物に術式を刻み、私の命令だけを聞くように調教してある」


 王子は、唸り声を上げる魔物の鼻先を愛おしげに撫でた。


「計画は単純だ。明日の議会開会式、枢機卿と首相が雛壇に並んだ瞬間、私が合図を送る。


 この猟犬たちを議場に解き放つのだ。こいつらは『教会の魔力の臭い』を嗅ぎ分ける。枢機卿と、その背後に隠れている護衛の魔物どもを一瞬で噛み殺すだろう」


 第五課の面々は息を呑んだ。


「……正気ですか?」ピーターが震える声で言った。「議事堂には議員や一般の傍聴人もいるんですよ? 魔物を放てばパニックになる。大虐殺になります!」


「多少の犠牲は必要だ」


 王子の瞳は、復讐の炎で濁っていた。


「腐った患部を切除するのだ。血が流れるのは当然だろう? 恐怖と暴力で制圧し、その混乱に乗じて私が軍を掌握する。それが最も早い」


「――下策ですな」


 冷ややかな声が、地下道に響いた。


 ミラー課長が、王子の前に立ちはだかったのだ。


「なんだと? 課長、貴様ごときが私の策を――」


「殿下、あなたは『王』になりたいのですか? それともただの『復讐者』として死にたいのですか?」


 ミラーは一歩も引かず、王子の目を射抜いた。


「魔物を議会に放てば、確かに枢機卿は死ぬでしょう。ですが、市民の目にはどう映る?『狂った王子が魔物をけしかけて議会を血祭りにあげた』――それだけです。


 教会はあなたを『悪魔憑き』と断定し、聖戦を叫ぶでしょう。そうなれば正規軍も敵に回る。あなたは国を救う英雄ではなく、国を滅ぼすテロリストとして歴史に名を残すことになる」


「……っ!」


 王子は言葉に詰まり、唇を噛んだ。「ではどうしろと言うのだ! 奴らの権力は盤石だ。正面から告発しても握りつぶされる!」


「だからこそ、『真実』を突きつけるのです」


 ミラーは諭すように語りかけた。


「暴力で解決する必要はありません。敵の最大の弱点は、『女王陛下が偽物である』という一点です。


 殿下が魔物をけしかけるのではなく……女王自身に、その正体を晒させればいい」


 グレイが眼鏡を押し上げ、課長の言葉を引き継いだ。


「魔力供給が断たれれば、チェンジリングは人間の姿を保てません。


 想像してください、殿下。全議員と国民が注目する生中継のさなか、麗しき女王陛下の顔が崩れ落ち、醜悪な肉塊へと変わる瞬間を。


 ……誰が手を下す必要もない。その光景一つで、教会と首相の権威は地に落ちます」


 イライアスがニヤリと笑った。


「パニックにはなるだろうが、虐殺にはならねえ。あんたはそこで、驚く国民を守るために剣を抜けばいい。『母を冒涜した逆賊どもを許すな』と叫んでいた。


 そうすれば、あんたは『悲劇の英雄』だ」


 オスカー王子は、しばらくの間、自分の連れてきた魔物と、ミラー課長の顔を交互に見つめていた。


 やがて、彼は深く息を吐き、肩の力を抜いた。


「……私の負けだ、課長。やはり『鉄の宰相』の宿敵だった男は、頭の回転が違う」


 王子は自嘲気味に笑い、右手を差し出した。


「いいだろう。私の『猟犬』は、万が一の時の予備戦力として待機させる。


 本番の舞台ステージは君たちに任せる。……母上の化けの皮を剥がし、この国に真実を見せてやってくれ」


「承知いたしました」


 ミラーはその手を力強く握り返した。


 会談が終わり、第五課の面々が去った後。


 オスカーと執事のジャスパーだけが、暗い地下道を歩いていた。


「……よろしいのですか、殿下」


 ジャスパーが、主の背中に静かに問いかける。


「決心なされたのですね。ご自身の手で、お母上を……」


 オスカーの足が止まった。


 彼は懐から、幼い頃に母と撮った小さなロケットペンダントを取り出し、指で撫でた。


「……分かっている」


 王子の声は震えていた。先ほどの傲慢な政治家の顔は消え、そこには傷ついた青年の素顔があった。


「母上を殺すことになる。……だが、これ以上あの人を、枢機卿の操り人形として晒し者にはさせない。愛しているからこそ……人として終わらせて差し上げるのが、息子の務めだ」


 オスカーはロケットを握りしめ、苦痛に顔を歪めた。


「たとえ、この手が母の血で汚れようとも……私は、王にならねばならないのだ」


 ジャスパーは深く一礼した。


「心中、お察しいたします。……このジャスパー、地獄の底までお供しましょう」














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