第三十九章 逃出
マヘロ族長は目を閉じたまま、自分の天幕の中で胡座をかいていた。外では角笛と怒号が飛び交っている。しかし、その表情には一切の動揺がなかった。
やがて、足音が近づいてきた。
「防衛線が破られたわけでもないのに、なぜ呼んだ。前にも言ったはずだろう」
「マヘロ族長!」しかし、その声と言語は自分の部下のものではなかった。
「君、何の要件か?」
「今、州兵が攻めてきたのか」
「それは……」ちょうどその時、頭に羽毛がついた、伝令兵らしきものが入って、族長に何を告げた。彼はマヘロから命令を受けると、すぐに出でいった。
マヘロは先の話に戻す「そうだな、襲撃したのは先遣隊らし。ただの五十人ぐらい、落ち着け」
イライアスはマヘロを信用するのか迷っていたが、相手の冷静さを見て、やっぱりまずその話を聞くことにした。彼は族長の前のカーペットに座り、じっと老人を見つめた。
「心配するな。実は州兵がここを襲うのも今が始めたことであらず、時々十数人や数十人で破壊活動をするのだ」
「でも、この白角高原を囲めるほどの軍勢は、少なくとも数千人になるだろ」
「そもそも、彼らは容易にここを襲ってこない。地の利もなし、そして、連邦政府もその野蛮な行動を許さん。今回もきっと、人数で我々を威嚇し、いずれ自ら撤退することになる。まあ、この心理作戦もある意味効いている。君たちが来る前、ワシが五族の議会を開いた。はあ……」族長から嘆声が出る。
「この我々五族が代々住む土地を離れるべきだという声も少なくなかった。それでも、ほとぼりが少し冷めれば、連邦政府の調停で、事態はすぐに収まると思う。その後、君らは勝手に出て……」
族長の舌の根の乾かぬうちに、また笛声が鳴りはじめた。だが、今回はもっと穏やかな音色で、数人が一斉吹いたように聞こえている。
「ほら、敵は撤退をした。実は、我々は使者を出した。その者の帰りを待つのが望ましい」
結局、イライアスは釈然としないまま、族長の天幕を後にした。彼は考えを整理するというより、実際の状況を自分の目で確認するため、営地の周囲を歩いた。目に至る所で、人々が散策し、子供は遊び、笑い声も戻った。あたかも前の攻撃が嘘のように。しかし、営地の辺縁に着くと、隠れた現実が浮かび上がった。強い匂いが鼻を刺激して、焼け焦げた防衛用の柵の近くに、倒れた戦士の遺体が複数あった。その近くには、倒れ死んだ戦馬もいた。
そこでは、誰かが柵や近くの天幕に燃え移った火を消していた。それに、幾人が傷者を運び、その傷者たちは一箇所に集められて、治療していた。その場にいる者たちは皆、イライアスを見ないふりをして、それぞれ自分の仕事に追われていた。
「どうやら、州兵の中に強火の魔術ができるやつがおるな。ちぇ、侮れないね、奴らは』
歩いて、歩いて、彼は営地の範囲を出た。その先には、彼らが登ってきた野道とは違い、明らかに人為的に修繕された山道が続いていた。
イライアスが天幕へ戻ろうとした矢先、遠くの霧の向こうに一つの人影が浮かび上がった。
騎馬……敵襲か?しかし、近づいてくる影は一騎のみ。
次の瞬間、騎手は馬上から崩れ落ち、残された馬は怯えたようにその場を巡り始めた。
イライアスはそれを目撃して、疾風のように騎手のところに駆けつけた。近つくと、その男性は原住民と判明した。一見すれば州兵にしか見えなかった。しかし、首元に刻まれた民族の刺青が、その正体を物語っていた。
イライアスは傷だらけの男の鼻元に一指を置いた。まだ息がある。でも、かなり弱まっている。彼は騎手の身体を自分の前に抱え込むように馬へ乗せ、そのまま手綱を取って、族長の天幕へ向けて馬を急がせた。
「はいよ!」彼は先ほどの柵を通り、人々の間をすり抜けた。戦士たちが何か叫んでいたが、イライアスにはその意味が分からなかった。ただ一つだけ理解できた。今、この男を止める時間はない。
イライアスは手綱を強く引いた。
「どうどう!」
暴れる馬をなだめながら、騎手をそのまま残したまま、大股で族長の天幕へ踏み込む。
「マヘロ!」イライアスは礼儀を捨てた「あなたが言った使者はこの者?」
族長は半信半疑のまま、イライアスが開け放った天幕の垂れの向こうへ目をやった。そこには、馬上から崩れ落ちた騎手の姿があった。
マヘロはイライアスの疑問も無視して、騎手の傷を検査する。幸い、致命傷が見えていないし、そのものは恐らく疲労と脱水のせいで倒れたので、マヘロはほっとした。
「……この刺青。この顔……間違いない、この人は確かにワシが送った使者だ」彼は幾人を呼び、その者らが使者を天幕の中へ運んでもらう「帰りが少々遅くなったな。いったい何があった?」
一時間後、使者は目を覚ますと、自分が族長の天幕にいることに驚いた。そして、その場にいたイライアスと後来たグレイたちを見て、ますます困惑した。
「ま、マヘロ族長……」彼は震える声で族長を呼ぶ。
「叔父と呼べ。よく戻ってきた。今は休め」
「いや、これは緊急事態です」彼は族長の手を握る。「あれは……ただの威嚇ではありませんでした」
「何だと?」この爆発的な発言を聞き、族長は使者を休めさせることも忘れた。
「州長はすでに兵を集めています。昨日の小部隊はあくまで試しです」
「どうやってそれを知った?」
「自分が州政府へ赴いた時、最初はまだ歓迎されていましたが、話すうちに、州長の部下の一人が会議室を勢いよく扉を開け、飛び込んだ。彼は『南部との戦争が再開した。今こそ、あの原住民問題を一気に片付ける好機だ!』自分はその場ですぐ拘束され、情報を吐かせようとされた。ようやく隙を見つけて、逃げた。ここに戻った。自分は……」彼は自分の身に起きたことを語るうちに、次第に興奮していった。しかし、身体はすでに限界だった。最後の言葉を絞り出したところで、彼は再び意識を失った。
マヘロは静々と手で優しく使者の頭を撫でる。グレイは何を言おうと口を開いたが、また閉じた。
しばしの沈黙の後、マヘロはグレイたちに聞く「ワシは万策を尽くした。この事態をどれほど遺憾に思っていることか、後のつもりだ。君たちを交渉の切り札として、撤兵を求めるつもりだったが、先ほど聞いた情報は本当なら、それはもはや夢だ。州政府にとって、君たちの命も、我らの命も、同じく価値のないものなのだろう。州兵はこの地を焼き尽くす時、きっと君らも殺すんだろ。はあ……」
彼は両手で顔を覆って、その肩はわずかに震えていた。長い年月、五族の未来を背負ってきた族長が、初めて人前で己の弱さを赤裸々と見せた。
「族長、諦めないでください。最後の手がある」
族長はゆっくりと顔をあげ、信じない表情でグレイを見る。
「我々はカーペンター大統領と面識がある」
その言葉を耳にして、族長の目は一瞬閃いた。
「そう、あの原住民に優しい大統領です。まあ、具体的なわけを言う暇はない、とにかく、大統領事務室公印が持つ大統領府通行証書がある。その事務室に連絡すれば、なんとかできると思いますが、州兵の攻撃を食い止める保証はありません。しかし……何もしないよりは可能性があります……」
族長は無言のまま、グレイが出した通行証を見つめる。彼は知っている、グレイの言う通り、その大統領府通行証書があっても、何の保証にもならない。でも、何もしないよりはマシだ。
「分かった。でも、君たちが来た道はいかん、そして大道路も州兵が塞がった。聖地を通って、別の線路でここから出る。ワシは一人、案内役をつける」
「聖地?」グレイが聞き返した。
「そう、普段余所者は通すわけにはいかぬ聖なる場所だ」
マヘロはそこで一度言葉を切った。
「だが、今はそんなことを言っている場合ではない」
その時、天幕の外から足音が聞こえた。
「父上、お呼びですか」
それはリアンの声だった。どうやら、先ほど使者が戻った際、マヘロは彼を呼んでいたらしい。リアンは族長の次男であり、治癒の術にも長けている。また、司祭の役目も担っている。
彼は横になっている使者の姿と泣いている族長を目にして、些か愕然とする。
「リアン、来たか」
「父上、ノカイはどうしたんですか?」リアンは急いでノカイと呼ばれている使者の身辺につく。
「彼を使者として州政府に送った。だが、奴らは我らを滅ぼそうとしている。故に、お前に案内役を務めてもらう。彼らこそ、この事態を連邦政府に知らせる唯一の望みだ。昨年、お前は初めて司祭として聖地の儀式を執り行ったな」
「ええ。昨年、父上に代わって私が初めて聖地へ向かい、儀式を執り行いました。でも、それは一度きりで……」
「道は覚えているかい?」
「ええ、覚えていますが……」
「ならいい。この者たちを案内し、無事にカーランに送還するのは只今お前の唯一の役目だ」
「父上、兄上も我が一族も戦うというのに、私だけ逃げるわけにはいきません!きっと、聖地への道を知る者は他にもいるはずです。そうだ、父上自ら案内すればいい!族長自ら連邦政府に訴えれば、その言葉にももっと重みがあるはずです」リアンは込み上げる嗚咽を必死に堪えながら、父に陳情する。
「だめだ。ワシはここに残り、皆の指揮を執る。……さあ、兄に別れを告げてこい」
リアンは涙を拭いながら、天幕を出た。
マヘロはしばらくその背中を見送った。
「イライアス君」
「はい」
「息子を頼む。事態が収まらぬ限り、決してここへ戻すな」
「分かった、族長。ご安心を」
全員が準備するため、天幕から出たら、マヘロは小声で呟く「祖霊よ、どうか我らを許したまへ」
ほどなくして、リアンは最低限の荷物をまとめて戻ってきた。
彼の手のうちに祭司として使う杖を持って、鞄の中にはいくつかの薬草と数日分の食料、そして腰に小さな角笛を下げている。
「これでいいです」
「十分だ」
グレイは自分の荷物を確認した。
大統領府の通行証書。魔導ランプ。簡易魔導紙。銃器。そして、わずかな食料。
「じゃあ、行こう」
「待て」
リアンがグレイを止めた。
「聖地へ入る前に、一つだけ約束してください」
「何?」
「私が止まれと言ったら、必ず止まってください。何かを見ても、勝手に触らないでください」
グレイは少し引いた。
「そんなに危険なのか?」
「危険というより……」リアンは少し考えてから言った。
「我々にとって、大切な場所なんです」
「分かった」
グレイは素直に頷いて、一行はリアンの天幕を出た。
営地を離れるにつれ、人々の姿は少なくなっていった。
遠くではまだ、州兵の動きを警戒する戦士たちが見張りについている。だが、リアンは先頭に立ち、迷うことなく山道を進んでいく。
しばらくすると、天幕の群れは視野から消えた。目の前の道は次第に細くなり、岩の間を縫うように山腹を登っていく。
「こっちです」
リアンが指したのは、木々の間に隠れるほど細い道だった。
「こんなところに道があるのか?」
キャメロンが驚く。
「昔から使われてきた道です」リアンは振り返らずに答えた。
「五族が山を越える時に使っていました」
「鉄道会社もこの道を知っているのか?」
「分かりません、たぶん。少なくとも、我々は教えていません」
サイモンが小声で呟いた。
「なるほど。秘密の近道か」
「近道ではありません」リアンは淡々と言った。
「険しいだけです」
「……そういうことか」
グレイが苦笑した。
さらに進むと、森が途切れた。そこには、白い岩肌が広がっていた。
岩の一つ一つには、古びた線刻が刻まれている。動物の姿、狩人らしき人影、そして角を持った奇妙な記号。
『これは、彼らの先祖がここに住んでいた痕跡なのか?』
イライアスは足を緩めた。
以前、グレイとニフランドの深山に入った際にも、洞窟の中で似たような線刻を見たことがある。同じ人間でありながら、なぜこれほどまでに技術や制度が違うのか。同じ起点から生まれた人々が、それぞれ異なる社会を築いてきた。その違いは、一体どこから生まれたのだろう。
そんなことを考えているうちに、リアンが足を止めた。
「ここから先が聖地です」
全員が自然と声を落とした。風が山の間を抜けていく。
神聖さを感じるより先に、標高のせいか、一行はまず寒さを感じた。
リアンは懐から小さな器を取り出した。中には灰と乾燥した薬草が入っている。
「……何をするんだ?」グレイが尋ねる。
「聖地へ入るための儀式です」リアンはそう答え、指先で灰を少し取った。
そして、グレイの額に細い線を引く。
「……これで?」
グレイは自分の額を触った。
「はい」
「本当に必要なのか?」
「必要です」
リアンは短く答え、今度はイライアス、サラー、サイモン、キャメロンにも同じように灰を施した。
サイモンは自分の額についた灰を指で擦りながら、首を傾げる。
「これで魔物に襲われなくなるのか?」
「そんな便利な魔法はありません」
「じゃあ、何のため?」
「聖地に入るためです」
「なるほど。よく分からん」リアンは答えなかった
「どうやら、これは原住民の迷信だな、多分」彼はリアンに聞こえないよう、イライアスに小声で呟いた。
五人はリアンに続いて、聖地へ足を踏み入れた。どこからか、乾いた角の音が聞こえた。
グレイは周囲を見回した。
「誰かいるのか?」
「いません」
「じゃあ、今の音は?」
「風です」リアンはそれ以上説明しなかった。
グレイも聞くのをやめた。彼らは静かに歩き続けた。
聖地の奥へ進むにつれて、道は再び下り始めた。その時、リアンが突然手を上げた。
全員が足を止める。
「どうした?」
イライアスが小声で尋ねる。リアンは答えず、前方の岩陰から遠くを覗いた。
しばらくして、低い声で言った。
「州兵のようです」
グレイたちも身を屈めた。霧の向こうに、数人の兵士が見える。山道を調べながら、ゆっくりと進んでいる。
「ここは州兵には知られていないんじゃないのか?」
グレイが呟いた。
「分かりません」
リアンは首を横に振った。
「ですが、まだこちらには気づいていません」
「じゃあ、どうする?」
「隠れるんです」
リアンは道を外れ、岩壁の隙間へ入っていった。そして、グレイはある程度認識阻害の術をかけた。無論、彼らの気配を完全に消すことはできないが、不不意に枝を踏んで折る音ぐらいなら隠すことができる。
一見すると、ただの岩陰だった。
だが、その奥には人一人がやっと通れるほどの細い空間が続いていた。
「ここを?」
キャメロンが疑わしそうに見る。
「はい」
「本当に大丈夫か?」
「私も一度しか通ったことがありません」
「……それ、大丈夫って言わないだろ」サイモンがぼそりと言った。
リアンは聞こえなかったふりをした。
一行は身を屈めながら、その隙間へ身を滑り込ませた。岩陰から覗くと、州兵たちはそのまま山道を進んでいく。
そして、何人かがリアンたちのいる方向へ近づいてきた。
「まずい」
グレイが呟く。
だが、リアンは静かに首を横に振った。
「大丈夫です」
「何が?」
リアンは答えなかった。
やがて州兵の一人が、岩壁に刻まれた線刻を見つけた。
「おい、ここに何かあるぞ」
「原住民の聖地か?」
「だったら、奴らが隠れているかもしれない」
兵士たちは周囲を警戒しながら、さらに奥へ進んでいった。リアンは目を閉じた。
その表情だけが、わずかに強張っていた。しばらくして、兵士たちの声が聞こえてきた。
「……おい」
「どうした?」
「今、誰か呼ばなかったか?」
「呼んでない」
「いや、確かに聞こえた」
十数分緊張した時間が過ぎた。やがて、一人の兵士が突然叫んだ。
「お前、何をしている!」
「何だと?」
「さっきから俺を見ていただろう!」
「見ていただけだ!」
「嘘をつくな!」
グレイは岩陰からそっと覗いた。
兵士たちは互いに怒鳴り合っている。
一人は何かに怯えるように周囲を見回し、別の兵士は誰もいない場所へ向かって銃を構えていた。
「……何が起きている?」キャメロンが小声で尋ねた。
リアンは答えなかった。
やがて、乾いた銃声が一発響いた。その後、二発、三発。
怒号と悲鳴が霧の中で重なった。
グレイは息を呑んだ。
「リアン……」
「見ないほうがいいです」
リアンは静かに言った。それ以上、彼は何も説明しなかった。
しばらくして、辺りが再び静かになった。
「……もう行けます」
リアンが立ち上がった。
誰も質問しなかった。
しばらくして、岩の向こうから光が差し込んできた。
グレイが先に外へ出る。そこには、山の反対側へ続く広い谷があった。谷底には、古い線路が一本だけ残っていた。
「線路……?」
サラーが呟いた。
「昔の鉄道です」
リアンが答えた。
「今は使われていません」
少し離れたところには、木造の小さな建物が建っていた。
屋根は半ば崩れ、壁も雨風に晒されて黒ずんでいた。だが、その側面には、古い電信線が数本残っていた。
グレイは目を見開いた。
「これが……」
「昔の電信局です」
リアンが言った。
「昔はここからカーランへ信号を送っていたそうです」
グレイは建物へ歩み寄って、扉を押す。
ギイ……。
長い間使われていなかった蝶番が、乾いた音を立てた。内部には埃を被った机と、古びた電信機が残されていた。
「使えるのか?」
イライアスが尋ねる。
グレイは電信機を調べた。
「分からない。でも、試す価値があるな」
彼は懐から大統領府通行証書を取り出した。紙面に押された公印を見つめる。
その時、通行証書の隅に記された小さな番号が目に入った。
「……そうか」
「どうした?」
「これだ」
グレイは番号を指で示した。
通行証書には、公印だけでなく、発行元を特定するための特殊な番号が記されていた。
それは単なる通行許可の番号と異なっている。大統領府と連絡を取る際、まずこの番号を送ることで、誰が発信した通信なのかを確認できるようになっている。
「正文の前に、この番号を送るんだ」
「それで、大統領府が本物だと分かるのか?」
キャメロンが尋ねる。
「少なくとも、俺たちが何者なのかを確認する手掛かりにはなる」
グレイは頷いた。
「これなら、話を聞いてもらえる可能性がある」
その時、背後から声がした。
「何をしている?」
振り返ると、青い制服を着ている電信局の職員らしき男が立っていた。彼はグレイたちを見て、警戒するように眉をひそめた。
「ここはもう使われていないはずだが」
「大統領府へ通信したい」
グレイは通行証書を差し出した。
男はそれを受け取り、しばらく眺めた。
「……これは?」
「大統領府の通行証書です」
「あなた方が?」男は明らかに疑っていた。
「失礼ですが、確認させていただきます」
彼は机の奥から小さな魔導器具を取り出した。通行証書をその上に置く。
淡い緑色の光が器具の内部を走った。男の顔から血の気が引いた。
「……本物だ」
「そう言っただろ」
「い、いえ……そういう意味ではなく……」
男は慌てて姿勢を正した。
「失礼いたしました。まさか、このような場所へ大統領府からの使者が来るとは……」
「俺たちは使者じゃない。ただ、緊急の報告がある」
「もちろんです。どうぞ」
男は急いで机を片付けた。
「部屋なら空いております。通信が終わるまで、こちらでお休みください」
グレイは少し驚いた。
だが、今はそれを気にしているところではない。
「助かる」
彼は椅子に座って、古びた電信機の前に通行証書を置く。
続いて、白角高原で起きている状況を、簡潔に打ち込んでいく。
『白角高原、州兵による包囲を確認。州政府は全面攻撃を準備中。五族の住民に危機が迫っている。至急、対応を求む』
最後に、グレイはもう一度通行証書へ目をやった。
「……これで届くはずだ」
カタ、カタ、カタ……。
最後の一文字が送られた。
グレイは静かに息を吐いた。
窓の外では、白角高原の山々が霧の向こうへ連なっている。そのさらに向こうでは、州兵が五族の営地へ迫っていた。
だが今、その事実を知る者は、グレイたちだけではない。
遠く離れたどこかで、古い電信線を通じて、その報告を受け取る者がいる。
グレイは椅子にもたれ、目を閉じた。
「……あとは、待つしかないな」




