第三十七章 角符
風による揺れを感じて、サムは目を開けた。なぜが、目に入ったのは厚い革と布を縫い合わせた天幕の内側だった。もしかして仕事で疲れて、無意識にテントの中で寝た?いいえ、違う。これは工業の産物ではなく、明らかに複数の布で手縫いの天幕である。それに、両手は縄で縛られた痕跡も残っている。
彼は首を振り、右手には数人が横になっている。そのうち、自分に一番近いのは焦茶色の髪の長い女性であった。
サムは手を伸ばし、その肩を軽く揺すった。
「おい、ベス!起きろ」 でも、相手は反応していない。
『気絶していた?』と思って、サムは早速テントの入口の垂れ布を挙げた。
外の強い光が、視界を一瞬、真っ白に染めた。目が慣れるまで、数秒かかった。目の前の光景に驚いて、目玉は円盤になった。
遠方に、雪山が四方を囲まれていて、そのふもとを、油絵のような、空を映した青色をしている川が幾度も曲がりながら流れている。天幕の直前の地に、草はまばらだ、二十歩の先に羊がその数僅かの草を悠然に噛んでいる。
俄に、峡谷からの風が吹きつけた。サムは思わず身を震わせた。
その時、鋭い音が飛んだ。サムが気付いていないが、天幕の前に見張りはいる。 でも、彼は兵の言葉がわからぬ。説明するために、手を振り始めて、その見張りを近づける。 しかし、天幕からただ一歩を踏み出したら、どう力を尽くしても、体を動かしても、彼は天幕から一歩も踏み出せない。 『これは何らかの術?』と思ったが、自分の身にも特に術式や式が込まれた者も見えていない。頭を下げて目で靴を検査するとき、天幕周囲の地に、血のような円を見かけた。 それがどんな術なのかと考えているが、見張りの槍先がサムの顔の前へ突きつけられた。
その見張りは厳かな口調で何を言っているのが、サム一字でも分からない。
言語が通じなくても、意味が理解できる行動だ。 サムはやっとおじけついて、天幕の中に退いた。
「ここはどこだ?一体何があった?」
先の騒ぎで、ベスはもう目覚めて、彼女は毛布の上で上半身を起こし、まだぼんやりした顔でサムを見た。
「どうやら我々は誘拐された。その主犯はこの高原の主である原住民だ」彼は入口の垂れ布を落として、平然と答えた。
「誘拐された?そんな記憶がないが……」
「自分も同様。誘拐を成功させるために、多分何らかの人を眠らせる術や粉末を使った。そのせいで記憶も曖昧になった」
「はあ……」ベズはぼんやりした表情をして、サムの言ったことを完全に信じていない顔をした。
サムは諦めたように片眉を上げて、閉じた垂れ布を再び開けた。
「見ろ」
ベスは外の景色を見て、唖然とした。先まで見慣れた工事現場は消えて、代わりに目に入ったのは天幕の群れと山々。
「でも、何で我々を拘束しないのだ?」
「出られないのだ。周りに拘禁の術をかけたみたいだ。血のような赤黒い液体で、マーナが含まれている」
「それを壊せば?」
「見張りがいる。それに、その血の円に触ろうとしたら、痺れがくる」
「うん、じゃ、この天幕ごと燃やせば?」
「だから、見張りがいる。ばれたら、それで拘束されるぞ」
「ふん、そりゃ一理あるね」
二人は無言のまま、外を眺めていた。天幕の群れは、平地の中央を囲むように張られている。その中心に、ひときわ大きな天幕があった。入口には白い獣角が二本吊るされ、見張りの数もほかより多い。護衛兵が四人ほどいるが、距離があるために、何があっても分からない。だが、見張りの数、出入りする者たちの硬い表情から、穏やかじゃないことが起こっていると推測した。
その中央の天幕の中では、五角同盟の族長たちが集まっていた。白角高原を横切ろうとする鉄道への対応を協議していた。天幕の中の中心には、火鉢が低く燃えている。火を守る少年は、のろのろして乾いた薬草をひとつまみ火にくべっている。それを囲まれて、五つの族長は各自の席に座り、それぞれの席の後ろには、部族の年長者、戦士長、角符を守る者たちが控えていた。奥にも骨札を抱えた記憶係の女性が座っている。
「この短時間に来てくれて、ありがとう」一人の老人―タワク族の族長マヘローが口を開けて「今日で皆を呼び、他のことではなく、間も無く我々の聖地を横切る鉄道だ。わしは最近、寝ても、覚めても、考えっていた、どうすれば血沙汰にならずに済むことだ」
老人は咳払いのフリをして、一度言葉を切った。
「だが、話す前に、皆の意見を聞きたいのだ。族長だけではなく、この場にいる全員から」
老人は黙り、周囲を見回って、答えを持つ。しかし、火鉢の中の薬草はぱちりと爆ぜた声以外は何でも聞こえない。そろそろ気まずくなり、老人は再び発言をする時、ホマリ族の族長、ヴァランだったと言った。
「もういい。我々は幾度も連邦政府に抗議をして、でも毎回は無視された。当初、合衆国は二フランドから反税のために、独立した際、彼らは王国の積荷を港で焼き払った、総督府に反国王の落書きをして、税務官の住所を燃やした。彼らのやり方を真似し、今、我々は交流などの甘い考えを捨て、鉄道を破壊し、電報線を切り、橋を落とす。この聖なる地は我々の者と伝える」
その冷静で感情に溢れた発言に、彼の部落だけではなく、他の部落でも何人が賛同の声を上げた。
「よく分かった。他の意見はあるの?」
ヴァラン族長の反対側に座っていた老女が立った。セリカ族のニマだった。
「戦えば、若者から死ぬ」
その声に、若き戦士たちの表情がわずかに強張った。
「我々は二百年、押し戻されてきた。戦争で死に、病で死に、開拓者との争いで死んだ。天然痘で、多くの村の住人は十つに一つも残っていない。内戦では、北を助けた者はあり、南を助けた者もあり、結局いずれも両方から撃たれた」
ニマは火を見つめた。
「我々に同情的な大統領がいるうちに、保護条約を結び、次の土地を保証させるべきだ。機会は長くは続かない。新聞にも訴えてもいい。補償を得て、西へ移る道を探すべし」
真逆の二つの意見を聞いて、その場にいた者はがやがやと議論しはじめた。
「移る必要がない」ナーレ族のセナクが、ここで口を開いた「無論、流血は政府、特に散々我らを威嚇した州政府に口実を与える。故に、新聞で我々の苦難を語り、大統領に陳情し、保留地を成立する条約を結ぶ方が妥当」
そろそろ皆の発言を整える、自分の考えを述べると思って、老人は手をあげ、ゆっくりと口を開いた。しかし、その前に、天幕の入り口に何かの騒動が起こった。その場にいた者の注意も老人から入り口に移した。
「俺様を入れろ!」若き男性の声が見張りに向かった。そして、天幕の中にも届いていた。
老人はその声が自分の息子のタヤン・マヘロだとわかって、顔に不快な表情が浮かんだ。
タヤンは少し衣服を乱して、議論の天幕に入って、その後ろはもう一人の男性、彼の弟のリアンだ。
「父上……」
「会議に準時に出ると言ったが、でもお前は遅れた上に、議論中にこんなむさくさに突っ込んで、どういうつもりだ、タヤン?」老人は長男の発言を待たずに叱責をした。相手も、予想外の罵りに驚いて、無言のままに入り口で立っていた。
それでも、ダヤンはお父さんの威圧に怯えずに、勇気を絞って、自分の意見を述べる。
「父上、聞いてください」
彼は数歩を一気に踏み出した。
「これ以上退き続ければ、最後には何もかも残りません。鉄道会社も連邦政府も州政府も、我々を一歩も譲れずに迫ってくる。ならば、こちらから動くしかないのです」
彼は胸を張った。
「だから、その者の注意を引くために、鉄道会社の従業員を幾人ここに招いた。これでこそ向こうも話し合いの席につくはずです!」
先、若者の乱入と族長の怒りによって、評議の天幕は夜更けのように静まり返っていた。
だが、タヤンのその言葉は、冷たい水に熱い溶岩を流し込んだように、その場を一瞬で沸き立たせた。弟は頭を抱えて、兄の無謀を止められない自分を悔やんでいる。
この爆発的なことに告げられた老人は唖然とした。でも、彼は先ほどのように明らかに憤然としておらず、表には冷静な態度を取る。
「具体的に何をした?話せ」語気から一切の怒気が感じ取らず、でもそれこそもっと恐ろしい。
ダヤンは父の怒りを察していない、素直に答えた。
「我々はカーランとピマニ州辺境の駅を襲い、五人ほど捕らえた。心配なくて、死人は出ていないと思います」
でも、その言葉を聞いて、老人は偽りの冷静さは保っていられず、老人は手にしていた杖を振り上げ、タヤンの足元へ叩きつけるように投げた。
乾いた音が、天幕の中に響いた。
タヤンは反射的に身を引いた。
浅はかではあっても、身のこなしだけは速かった。
「出ていけ!」
「お父さん!」
「出ていけと言った!」
リアンはすぐに兄の腕を組んだ。
「兄上、俺についていけ!」
「離せ!」
結局、リアンは一刻も衰えずに兄を天幕の外に引っ張り出した。
「すまん、お父さん、タヤンは俺がなんとかする」と一句を言い残して、衆人の前から消え去った。
天幕の中は、静けさが再び戻り、火鉢の音と、ときおり誰かが咳払いをする音しか聞こえなかった。
マヘロはしばし黙り込んだ。その表情から、誰が見てもその怒りはまだ消えていないとわかっている。だが、彼には、息子がやらかしたことは、同盟に対しどれほど危険だと把握している。そして、その自責の念は彼の怒りを冷ます。
そこで沈黙を破ったのはセナク。
「マヘロ、我々はもう後戻りができない。今こそ、やはり対策を考えるべし。まずは、州兵はおそらく、まもなくここを攻撃するのであろう。全員が警戒すると命じるべきかと」
息子の失態を己の失態として受け止めたマヘロはすぐ立て直して、杖で地面を力強く叩いた。
「その通りだな。各部族へ知らせろ、老人と幼い子は谷の奥へ退かせろ。家畜も連れていけ。戦士たちは、この拠点の防御を固めろ。でも、まだここから先に手を出すな。わしは、人質の無事解放を前提とするなら、まだ交渉の余地がる」
反論したい者はいたが、それぞれの族長に押しとどめられた。今は争論する場合ではない。彼らは、存亡の危機に迫れた。
参会者は散開、族長たちだけを残して、また小会議をした後で、マヘロは自分の天幕に戻った。その入口に、次男のリアンが立っている。
「兄は中にいるのかい?」
「はい、父上の処分を待っています」
「お前は頼りになれるとわかった。一緒に入って」
入ったら、そこに、父の声を聞いて、跪いたタヤンがいた。
「父上、我を許されよ。軽率な行動を取り、我が一族と同盟を危険にさらしました……」
「そんなような辞令はもういい。軍と刃を交えることになれば、お前にも戦ってもらう
が、その前に、ここで謹慎していろ。また馬鹿な真似をするな。わかった?」
父の剣幕に、タヤンは跪いたまま震えていた。
「は……はい、父上」
「うん。それで、人質をとこに置いた」
「あ、天幕群の後ろの丘に置いております。羊の血で、拘禁の術をかけました」
「ふん、小賢しい真似を」マヘロは苦々しい口調で話しながら、天幕を出た。
「お前に任せる。タヤンをしっかり見張って」
「はい、父上」
マヘロは誰もいない、天幕の後ろに佇む。夜は深く、星は、碁盤に散らした碁石のように空に広がっている。彼はそれを見て、思わずため息をついた。
族長のみの小会議で、彼は他の族長を説得し、最後の賭けとして、使者を出した。軍勢を送らぬなら、直ちに人質を解放する。
「ああ、祖霊よ、我らを助けたまえ」と叫びたい衝動はあった。だが、それは己の無力を晒すだけだった。
同じころ、白角高原の別の尾根では、グレイたちがなお山道を進んでいた。
夜の風は冷たく、白樺の葉が暗闇の中でかすかに鳴っている。
案内人であるサイモンは先頭を歩き、その少し後ろをグレイたち四人が続いている。時折、彼は地面に膝をついて土の匂いを嗅いだ。
「うん、大勢の人、家畜と物資が動いた跡がある。やっぱり、聞いた情報通り、原住民たちはなんのために一箇所に集まった」
「じゃ、我々はタワク族の領地に行かないの?」グレイは退屈しのぎに、角符の紐を指に引っかけ、先の角符をくるくると回していた。
「ええ、見せるために置かれた可能性がある。我々の目をタワク族に移すために」
「なら、これは無用?」
「まあ、そうなるだろう。でも、一応持っていたほうが……」
「シッ!」この山登りの道中、ずっと無口だったサラーは急に口を開いた。
「なんだ?」グレイは小声でサラーに問う。
彼女は何も言わずに、深刻な顔で山登りの一行の正面の森に指差した。
指先の方向に、凛々とした白樺森の只中に、真っ黒な毛の塊のようなものが見える、そして、微かに動いている。
サイモンはそれを見て、顔色は忽ち死人の色となった。
「あれ、まさか、クマ?」
「ええ、でも……」サラーは目を細くした「あれはただの動物ではないみたい。マーナも感じ取り。魔物だ」
「この森で出現する魔物に関する情報、何が知っている、サイモン?」
「シッ!」
だが、彼らの声は小さいとは言え、魔熊は獲物の存在を感知、緩やかなにグレイたちに頭を振り向いた。
月を覆いた雲はちょうどこの時で移り、月光は魔熊の全身を照らした。よく見ると、魔熊の全身は傷だらけて、銃や魔法による攻撃の痕跡は熊が経験した激しい戦いを語っている。
「おい、熊は実、易々に人を攻撃しないだろう」
「一般的にね。でも、傷付いたら……」サラーは解説を終えずに、魔熊はグレイ一行に咆哮し、四本足の姿勢で、白樺の若木をなぎ倒しながら、一行へ突進してきた。




