第三十四章 南行
前の海賊に襲われた航海とは異なり、今回の旅はかなり穏やかだった。ピーターの船酔いの症状も、イライアスがDr.マッコイからもらった粉末薬で、だいぶ緩和されていた。
アストリア合衆国に着くまで、海を渡るのに十日かかった。だが、共和国の本当の傷に辿り着くには、そこからさらに長距離列車に乗って三日ほど、南へ下らなければならなかった。もっとも、その前にまず、大港から馬車か蒸気車を呼び、中央駅へ向かわなければならない。
「わー、ここは賑やかね。前に行ったソルテラの港より人が多いわ」
サラは船を降りた途端、思わずそう言った。
Nova Albion―それが、彼らがついた港の名だった。最初の植民地拠点であり、合衆国で最も古く、最大規模の港の一つである。大きな三角江は内陸へ向かって三つの流れに分かれ、船を深く受け入れる天然の良港となっていた。桟橋には大小の船が絶え間なく出入りし、沖では煙を吐く貨物船が列を作っている。さらに遠くの乾船渠では、軍艦が修繕を受けていた。黒く焦げた装甲板、曲がった煙突、砲弾の痕。その傷は、終わったはずの戦争をまだ語っていた。
港の人混みも、ただ賑やかなだけではなかった。復興局の役人、商人、鉄道技師、新聞記者、軍需業者、荷を運ぶ労働者、松葉杖をついた傷痍軍人。混乱の中にも、奇妙な秩序がある。子供たちは荷車を押し、新聞を配りながら叫んでいた。
「号外! ニフランド復興作業団、ノバー・アルビオンに到着!」
「私たち、もう新聞に載ってるの?」
サラが驚くと、グレイは少し顔をしかめた。
「載るのが早すぎる。歓迎なのか、見張られているのか、分からないな」
彼らは港で蒸気車を拾い、中央駅へ向かった。駅も港に劣らず人で溢れていた。復興局の役人、商人、鉄道技師、新聞記者、軍需業者が行き交い、復興がすでに巨大な利権になっていることが嫌でも分かった。
駅前の屋台から、肉と香辛料の匂いが流れてくる。イライアスとグレイは思わず足を止め、細長いパンに腸詰めを挟んだホットドッグを買った。
「おい、もうすぐ汽車に乗り遅れるぞ」
ピーターは呆れたように注意した。
「腹が減っては南へ下れないだろ」
イライアスはそう言って、熱気を放つホットドッグにかぶりついた。
その時、汽笛が鳴った。五課一行は慌てて人混みを抜け、三課の面々と合流した。グレイはその中にサムを見つける。貴族街盗難事件以来、ようやくきちんと顔を合わせることになったのだ。
「久しぶりだな、グレイ」
「そっちこそ。まさか異国の駅で再会するとは思わなかった」
短い挨拶を交わす間にも、駅員が出発を告げている。南へ向かう長距離列車が、黒い煙を吐きながら待っていた。
こうして、五課と三課は合流したが、でも席はそれぞれの車両、なんとか元南の都であったカランへ向かう南下の旅を始めた。
彼らが乗ったのは、政府が用意した専用列車ではなかった。復興鉄道を南へ向かう通常の長距離列車である。乗客には、復興局の役人、鉄道技師、商人、労働斡旋業者、新聞記者、帰郷者、負傷兵の家族などが混じっている。
新聞によると、この数日ーでも具体的日つけは知らぬー大統領は南部に視察をする。長年内戦で国庫は傷み、南部はまだ荒廃していた。その状況で、豪華な大統領専用列車を使えば、政治的に反感を買う。だからベネディクト・カーペンター大統領は、あえて通常列車に乗っていた。復興の負担を国民と共有している姿を見せるためでもあった。
もっとも、護衛は少数ながら精鋭だった。黒服の護衛のほか、平服で乗客に紛れた者もいる。
「二十年の内戦か。どうして、そんなに長引いたんだろうな」
グローリア号という列車に乗り、グレイは窓の外の景色を眺めながら呟いた。
「ほう。我が国の事情に興味があるのかね、若者」
グレイの後ろの席にいた老人が、開いていた新聞を畳み、体をこちらへ向けた。
「おじさんはこの国の者ですか?」
「その通り」老人は微笑んだ「君は何のために我が国へ来たのかね」
「復興作業に関わる調査、ということになっています。あなたは? ああ、その前に、お名前を伺っても?」
「わしの名はカーペンターだ。よろしく」
老人は手を伸ばし、グレイと握手をした。その手は力強かったが、痛いほどではない。頼もしさだけが、はっきりと伝わってくる握り方だった。
「どうも。私はグレイ・スターリングと申します。こちらの連れも、自分も、いずれもニルフヘイヴンの警察官です」
「警察官か。それは大変だね。吾国は内戦のため、まだ警察制度を投入せずのまま。が、ワシは最近、この国に警察制度を作ると思う。その時、是非君の意見を聞くの」
「それはまあまあですね。今回、我々は我が国と貴国の取り決めに基づいて、この地へ派遣されました。でも意見を聞きたいですが、大歓迎ですね。答えできる事なら」そうと言いつつ、『どこの高官なんのか』で、グレイは考えた。
老人が何か言いかけた時、黒い制服を着た屈強な男が近づき、彼の耳元で何事か囁いた。
老人の表情が、わずかに変わった。
「どうやら、呑気に話している場合ではないらしい」
「どうかしましたか」
「間もなく襲撃が来る」
「そうなんですか?」
グレイの口調には、半信半疑の響きがあった。
五課のほかの連中は、長旅の疲れのせいで、ほとんど眠っている。だから、その爆発的な一言にも、まだ誰も反応していなかった。
数秒考えてから、グレイは思わず「ああ」と低く声を漏らした。
彼は自慢の探知術を、断続的に張っていた。だが、何も捉えていない。つまり、初めて襲撃を察知したのは彼ではない。
まさか、カーペンターの同行者は、ずっと探知系の術式を維持しているのか。ありえない話ではない。だが、普通の同行者がすることでもなかった。
グレイは隣のイライアスに小声で問いかけた。
「あの黒服の連中、どう思う? ただの同行者ではないだろう」
グレイの視線の先には、同じ黒い制服を着た男たちが十人ほどいた。
イライアスの方はグレイの声で起こされて、寝ぼけ眼でその男たちを数秒に見つめた。
「え?こんなことで俺を起こしたの?……まあ、あれは同行者というより、護衛かな」
イライアスは眠たげな目を開き、車内をさりげなく見回した。
「それに、黒服だけじゃない。普段着の客に紛れている護衛もいる」
「へえ……」
グレイは老人へ視線を戻した。
「カーペンターさん。どんな襲撃なんですか」
グレイがそう言いかけた、その時だった。
ドン、という震天動地の響きとともに、列車が見えない巨人の手で引き抜かれたように、大きく跳ね上がった。
乗客たちは当然、この激変に混乱した。悲鳴が上がり、荷物が棚から落ち、眠っていた者たちが椅子から転げ落ちそうになる。
だが、その混乱の中で冷静だったのは、まさに護衛つきの老人一行だった。
「用意はできたかい?」
老人は、なんと笑いながら護衛たちに聞いた。
「はっ!」
その者たちは一斉に術式を展開し、先頭車両から五両目までを空中に浮かせた。
ピーターは先ほどの揺れで目を覚ましたらしく、顔には疑惑が浮かんでいた。
「ええ、なんだ? 汽車は舟みたいには揺れないと思って、薬を飲んでいなかったんだが……で、ええ!」
彼は、自分たちが高い場所にいることに気づいた。
「あやつら、奇襲で有利な立場に立ったつもりかい?しかし、これで馬鹿たれ共は逆に吾らに地の利を作り上げた!野郎ども、敵を打ち砕け!」
怒気を混じった言葉を言いつつ、老人は意気軒昂に護衛を指図していた。
「はっ!」
四階分ほどの高さから見下ろすと、地上には魔獣や馬に乗った小部隊がいた。どうやら、この列車は爆撃の魔法に襲われたらしい。だが、高度恐怖症で気可哀想なピーターは既にサラの胸元で気絶していた。
話す間もなく、黒服の護衛たちと、平服の客に紛れていた者たちを含めて、同時に攻撃を始めた。
魔法銃を撃つ者もあれば、強力な術を放つ者もある。さらに、操作の術で、爆撃によって壊された鉄道の一部を蛇のように動かし、強襲の現行犯たちを打ち倒し、貫いていく者もいた。
「よくも爆撃されて、汽車全体が崩壊しなかったわね」
サラはそう言いながら、気絶してたピーターの頬を、両手のひらで軽く叩いた。
「見えない障壁で、汽車全体を包んでいたんだろう」
グレイは、その疑問への答えを一瞬で出した。むしろ、彼は最初にこの汽車に乗った時から、どこかに異変を感じていた。
地上は血に染まり、襲撃してきた小隊はほぼ全滅していた。
「大統領、これでよろしいですか?」
一人の護衛が、老人の判断を仰いだ。
「まあ、待てと言いたいところだが、この浮遊術もそろそろ持たぬ。いい、降ろしてくれ。ゆっくりね」
だが、護衛たちマーナはまだあるが、その耐力は尽きかけていた。頭痛を始めた者もいる。
汽車は下降しながら、だんだん速度を増していく。そして、ぽん、と地面にぶつかった。乗客全員の体が一瞬だけ宙に浮き、車体のどこかで金属が曲がる音がはっきりと響いた。
「これで終わりではないぞ。わしの出番だ!」
老人は席から立ち上がった。
彼は人並みの大きさの革袋から、一つの武器を取り出した。
それは銃にも杖にも見えた。黒い金属の筒に、銀色の環がいくつも巻かれ、側面には蓄電筒らしき透明な管が並んでいる。管の中では、青白い光が水のように揺れていた。
老人がその武器を握った瞬間、強い術式が展開された。
十歩以上離れていたグレイにも、マーナの撹乱が肌で分かった。空気が細かく震え、髪の先がかすかに逆立つ。
列車は、元の鉄路があった場所の近くに落ちていた。先ほどの戦いの埃がまだ消えないうちに、前の小隊の数倍はいる敵兵が、馬と魔獣に乗ってこちらへ駆けてくる。
彼らに、こちらの事情を弁えるつもりはまったくないらしい。
弾丸と術式が、挨拶代わりに乗客たちへ飛んできた。
しかし、それらがすべて無駄であることを、彼らはすぐに知った。
老人が引き金に指をかけた瞬間、武器の側面に並ぶ透明な蓄マーナ筒が、青白く脈打った。
それは、ただ蓄えた力を放つための道具ではなかった。蓄マーナ筒は術式を起動するための火種にすぎない。本命は、銃身に刻まれた銀の回路だった。
老人の周囲のマーナが、武器へ吸い込まれていく。
車内の灯りが一瞬暗くなり、窓枠の金具が小さく鳴った。空気が乾き、髪の先がかすかに逆立つ。護衛の一人が慌てて乗客たちを伏せさせた。
次の瞬間、空気を裂く電撃が、老人の手の内の武器から放たれた。青白い火花が車内を照らし、グレイの髪までも逆立たせる。電球のような光の塊が、矢のように敵部隊の中心へ飛んでいった。
それは一瞬、宙に止まった。
老人が指を鳴らした。
光の塊が爆発した。
開いた電撃は網のように広がり、敵兵たちへ食らいついた。稲妻ほどの光が馬と魔獣の脚を絡め取り、人を仰向けに弾き飛ばし、鉄具を焼き、銃を手から奪った。
数秒後、地上には叫び声すらほとんど残っていなかった。
焦げた肉と焼けた毛の匂いが、微風に乗ってグレイたちの鼻を刺した。
「すげえ……あの大統領、半端じゃないぜ、グレイ」
イライアスは思わず驚嘆した。
「しっ。大統領は、我が国の首相ほど偉い。いや、権力だけならそれ以上かもしれない」
ピーターはイライアスの言葉を制するつもりで、声を低くした。
「だから、言葉を慎め」
「はは! 構わんさ!」
老人 -ベネディクト・カーペンターは、豪快に笑った。
「言論の自由は吾国の要だ。憲法にも書いてある」
襲撃者は撃退された。だが、全員が倒されたわけではなかった。数名は煙や地形を利用して逃げたらしい。
グレイは窓の外を見ながら、眉を寄せた。
これは、恐らく純粋な大統領暗殺ではない。殺すには詰めが甘い。だが、復興鉄道を止め、乗客たちに恐怖を与え、「この鉄道は安全ではない」と示すには十分だった。
「では、この列車には電報設備があるのか。州兵と連邦兵に連絡を取らねばならん」
カーペンターが車掌のところへ行った。
「申し訳ありません、大統領。この列車には電報設備はございません。仮に簡易送信機があったとしても、沿線の電信線が切れていれば使えません。ただ、ここから徒歩では一時間ほどのところに小駅があります」
車掌は、爆撃で歪んだ線路の先を指した。
「そこなら電報室があります」
列車を動かすことはできなかった。前方のレールは裂け、枕木は焦げ、電信柱の一本は土手の下へ倒れている。
歩ける乗客たちは、車掌の指示に従い、線路脇の保守道を次の小駅へ向かうことになった。負傷者と老人、幼い子供は車内に残され、護衛と鉄道員がその周囲を固める。
州道は、砂利と乾いた泥でできていた。片側には低い土手が続き、もう片側には砲撃跡の残る畑が広がっている。焼けた農家の煙突だけが、黒い指のように空へ突き出していた。さらに少し離れた丘の上には、放棄された砲台が、焼け焦げた体をさらすように佇んでいる。
遠くには、カランの煙突と尖塔が見えた。
近い。
だが、その近さがかえって不気味だった。都市のすぐ外側に、戦争の痕跡がまだ剥き出しのまま残っている。
小駅までは二十分ほどで着いた。だが、負傷者の搬送と乗客の移動手段を手配するため、そこからさらに二時間近く待つことになった。
幸い、大統領が電報で呼んだ軍用蒸気トラックの隊列が到着すると、疲れ切っていた乗客たちはようやく胸をなで下ろした。兵士たちは負傷者を救護車へ運び、鉄道員は荷物を仕分け、護衛たちは周囲を警戒しながら乗客を順に乗せていく。
カランの繁華街までは、そこからさらに一時間ほどかかった。
グレイたちは大統領の招きで、カーペンターと同じ蒸気車に乗った。
「昔は、もっと栄えていたんだ」
カーペンターは窓の外を見ながら言った。
「わしはこの国の中西部の出身だが、仕事の都合で若い頃、この南部の都へ来たことがある。あれは、およそ三十年ほど前だった。この大通りには馬車が溢れ、人が絶えず行き交い、当時はまだ珍しかった蒸気車まで走っていた。南部盟約の都と呼ばれるだけの力は、確かにあった」
彼の視線の先には、崩れた石垣と、ひび割れた壁が続いていた。破壊された戦車や、墜落した蒸気空中艇の残骸も、そこかしこに横たわっている。片づけられたというより、ただ道の端へ押しやられただけに見えた。
「でも、戦争はもう一年も前に終わったと聞きましたが」
イライアスは考えるより先に口を開いた。
「このガラクタの山は、どうしてまだ片づけられていないんですか?」
「おい、それは失礼な聞き方だぞ」
ピーターが慌てて小声でたしなめた。
しかし、カーペンターは怒らなかった。むしろ、大きく笑った。
「ハハ、もっともな疑問だ」
彼は、イライアスの無遠慮さを軽く受け流した。
「南部盟約が正式に降伏したのは、確かに一年余り前だ。だが、その後も残党は各地で反旗を翻している。この旧都カランは、とりわけまとまりのない襲撃とテロ活動を受けてきた。橋を直せば爆破され、倉庫を建てれば火をつけられ、役所を戻せば脅迫状が届く。我々先が経験した襲撃も恐らく其奴らの仕業だろうか。だから、復旧作業も思うようには進まん」
彼は少しだけ声を落とした。この陳述に、グレイは少し驚いた。そして、襲撃事件自体に実に脅かされたので、襲撃者の正体を問うのも忘れたことを自覚した。
「わしはもと将軍だ。だが、いまは大統領に選ばれた身だ。この国の傷を一日でも早く癒やすことはわしの任だと思っている」
蒸気トラックは、瓦礫の間をさらに進んでいった。
「で、君たち復興作業員は、この町で指示を受けるのか?」
「そうですね。ここには復興作業員センターが設けられていて、到着した作業員はまずそこで手続きをします。氏名、所属、技能、健康状態を確認して、今夜の寝床と食券、それから明日以降の配属先を受け取るんです。ああ、あそこです!」
彼が指さした先には、白い布のバナーを掲げた煉瓦造りの建物があった。そこには赤い文字で、Reconstruction Helpers Center(復興作業員センター)と書かれている。
この町の大半の建物と同じく、その壁にも弾痕や砲撃の跡が残っていた。だが、中庭だけは異様なほど活気があった。水樽、毛布、簡易寝具、医療箱、作業服、灯油缶、缶詰、工具箱が次々と降ろされ、荷札を確認されたあと、建物の中へ運び込まれていく。
「運転手さん、止まってください!」
連邦軍の蒸気トラックの運転手は、大統領の判断を仰ぐように振り返った。カーペンターが軽く頷くと、車はゆっくりと停まった。
「ああ、そうだ。これを」
老人は、センターへ向かおうとしたグレイに、銀の懐中時計を渡した。
グレイは一瞬、受け取ってよいものか迷った。
「これは?」
「時間があれば、今宵は州長邸で歓迎会が開かれる。門番にこの時計を示せば入れるはずだ」
「なぜ、私に?」
カーペンターは短く笑った。
「列車が襲われた時、君は逃げるより先に、敵の配置と護衛の動きを見ていた。そういう目を持つ者は、歓迎会にもいた方がいい」
それだけ言うと、大統領一行は余計な説明もせず、トラックの列とともに去っていった。
「はあ……つくづく謎めいた人だな」
グレイは掌の上にある、President’s Office Seal(大統領府印章)が刻まれた懐中時計を見つめながら、そう呟いた。
しかし、考え込んでいる暇はなかった。彼らはセンターの庭に入り、そこで物資を運んでいる三課の面々を見つけた。
ただの荷運びではない。三課の者たちは木箱の封印を確認し、帳簿の数量と荷札を照らし合わせ、搬入先を記録している。復興物資は、盗まれやすい。横流しされやすい。水や毛布でさえ、足りない場所では金になる。だから盗犯課である三課は、到着早々、物資管理の手伝いに回されていた。
「鉄道のレールまで運ばされているわけじゃないんだな」
イライアスが庭を見回しながら言った。
「さすがにそれは鉄道会社と工兵隊の仕事だろう」
グレイはそう答えた。
「俺たちが見るのは、盗まれるものだ。毛布、薬、工具、食糧、作業証。人が困っている場所では、軽いものほどよく消える」
五課の到着に気づくと、サムは手元の作業を中断し、グレイたちの方へ歩いてきた。
「遅いぞ。何があった、五課の皆」
「信じないかもしれないが、我々はどこぞの賊に襲われて、汽車ごと足止めを食らった。やむなく列車を放棄して、歩いて次の駅まで行き、そこで増援を待っていたんだ」
グレイが答えるより先に、イライアスが彼らの遭遇を一気に語り始めた。
「でも幸い、この国の大統領さんと出会ってな。その人がまた――」
「まあまあ、サムはその長話を聞きたいわけじゃないだろう」
グレイはイライアスの口を手で塞ぎながら、サムへ目を向けた。
「なあ、サム」
「大統領? 本物か、それ」
サムは半信半疑の顔をしたが、グレイの手の中にある銀の懐中時計を見ると、眉を少し動かした。
「……まあ、冗談にしては上等すぎるな」
それから、彼はすぐに肩をすくめた。
「とにかく、庭のテーブルに余った制服がある。五課の皆はそこで着替えてくれ。今夜は全員、この建物の床で一晩寝ることになる。明日になれば、それぞれの行き先も決まるはずだ」
「そうか。じゃあ、今夜、外出することは可能か?」
サムはその質問を聞いて、もう一度肩をすくめた。
「庭にある物資を全部建物の中へ運び込めば、今日の作業は終わりだ。責任者からはそう聞いている。ただし、夕食は六時だ。それを逃したくないなら、それまでには戻ってこい」
そして、二時間ほど骨が折れる運搬作業を終えたあと、グレイはいよいよ宴会へ向かうことにした。
しかし、ピーターは先ほどの旅の揺れで疲れ果て、休んでいたいと言った。サラも、彼女の言葉を借りれば「付き添い」として残ることになった。結局、同行するのはイライアスだけだった。
「すみません、州長邸へはどう行けばいいんですか?この町にはタクシーもあんまり見えていないが」
グレイは従業員の一人に尋ねた。
その男は少し身を引き、困った顔で答えた。
「州長邸は戦中に焼かれましたが……ああ、現州長の住居のことですね。それなら郊外にあります。戦争後、蒸気車の数も大分減った。やはり汽車、或いは馬車で行くことになるでしょう」
「マーベル! 何事だい?」
そこへ、色白の若い男が駆け寄ってきた。
「ああ、こちらの外国作業員の方が、州長邸への行き方を尋ねていたんだ」
「なるほど。あなた方も州長邸へ行かれるのですか? 僭越ながら、どのようなご用件でしょうか」
若い男は布で手を拭いながら尋ねた。身なりは整っていたが、その体からはかすかに馬の匂いがした。
グレイは慌てて懐中時計を取り出し、相手に示した。
「我々は大統領閣下のお招きで、今宵、州長邸の宴会に参加することになっています。あなたは?」
若い男は時計をじっと見つめた。やがて、顔を近づけ、しまいには匂いまで嗅ぎ始めた。
「エリック、何をしているんだ!」
マーベルが思わず声を上げた。
若い男は自らの非礼を認めると、すぐに姿勢を正した。それから、詫びるような声で言った。
「失礼いたしました。私はEric Zimmer、州庁の使いとして参りました。州長は復興作業に大変熱心で、私をこの地へ派遣しました。この印章と懐中時計は、本物と見て間違いないようです。疑いを向けたこと、お詫び申し上げます」
彼は姿勢を正したまま、言葉を続けた。
「正式なお詫びになるかは分かりませんが、いま私の手元に蒸気車はございません。ですが、州長邸まで馬車でご案内することはできます。私自身も、先ほど急ぎ、その会へ招かれたところですので」
「いいだろう? なあ、イライ」
「ええ。俺はピーターじゃないんで、そう簡単に馬車酔いはしないと思うぞ」
「ハハ、そうだな。では、お言葉に甘えて、御身の馬車で州長邸まで向かうことにします」
「なになに!」
四人の会話を聞きつけたサムが、近づいてきた。
「州長邸での宴会だ。行くか? ピーターとサラは行かないらしい」
「いいのか?」
「いいんだろう? 同行者がもう一人増えても構いませんか、ジマーさん?」
「構いません。では、私についてきてください。宴会が始まるまで、もう一時間ほどしかありません。そろそろ向かわなければなりません」




