第三十三章 出航
公使館は、その後三日ほど、表面上は穏やかな日々を過ごした。
赤い部屋は夜ごとに現れた。だが、誰も近づかなかった。館長の命令で、従業員たちは三階奥の廊下に近寄らないよう厳しく言い渡されていた。夜警でさえ、その周辺を避けて巡回するようになった。
だから四日目の夜、シャーリーンが赤い部屋の前に姿を現した時、三階の廊下には誰もいなかった。
少なくとも、彼女にはそう見えた。
「早くしろ」
背後から、カー副館長の冷たい声がした。
「向こうの親戚は、まだ次の荷を送るつもりだ。今夜の分を逃すわけにはいかない」
シャーリーンは肩を震わせた。
「でも……本当に、誰も見ていないのでしょうか」
「大丈夫だ。この三日間、きちんと観察した。職員たちは怯えて、誰も近づかない。夜警も来ない」
カーは三階の奥の暗がりを一瞥した。
「だから早くしろ。あの部屋の中に置かれたタバコを取ってこい」
「は、はい」
シャーリーンは震える手を伸ばした。
零時ちょうど、壁の表面が赤く滲んだ。やがて、そこに扉の形が浮かび上がる。赤い扉は、まるで古い傷口が開くように、音もなく現れた。
シャーリーンは息を呑み、扉を開けた。
そして、中へ入った。
数分後、彼女は二つの木箱を抱えて戻ってきた。箱は小さいが、重いらしい。シャーリーンはよろめきながら廊下へ出ると、すぐに膝をついた。木箱が床に鈍い音を立てて落ちる。
「おい、気をつけろ」
カー副館長が低く叱った。
「それはかなり高価なタバコだ。まだ四箱ある。早くしろ」
「え……」
シャーリーンの声が思わず大きくなった。彼女はすぐに口を押さえ、声を落とした。
「普段は、一日に二箱だけではなかったのですか」
「この数日、運び損ねた分がある」
「でも、そんなに運んだら……」
「口答えするな」
カーの声が、いっそう冷えた。
「君が最初にこの部屋を使わなければ、私がこうして尻拭いをする必要もなかった」
シャーリーンは唇を噛んだ。
彼女はもう一度、赤い扉へ向かおうとした。
だが、その足は途中で止まった。
廊下の影から、二人の男が姿を現したからである。
グレイとジャスパーだった。
「どうも」
ジャスパーがにやりと笑った。手にした小型の灯油灯が揺れ、その笑みを妙に不吉に照らした。
「夜分遅くに、ご苦労なことだ」
シャーリーンはあまりの驚きに、抱えていた箱を取り落とした。
カー副館長は一歩下がった。だが、逃げ道はなかった。
彼が身を翻そうとした瞬間、ジャスパーが何気ない動作で足を差し出した。カー副館長はそれにつまずき、床に膝をついた。
「失礼」
ジャスパーは少しも悪びれずに言った。
「暗かったもので」
グレイは床に落ちた木箱へ視線を落とした。
蓋の隙間から、乾いた濃い香りが漂っていた。ニフランド産の葉ではない。甘く、重く、熱帯の湿気を思わせる匂いだった。
「ソルテラ産の高級煙草か」
グレイが言った。
「外交貨物に紛れ込ませるには、悪くない品だな」
カー副館長は表情を整えようとした。
「これは誤解です。私は物音を聞いて――」
「その説明は、あとで聞く」
グレイは淡々と言った。
「まず、館長さんに来ていただこう」
しばらくして、寝間着の上に上着を羽織った館長が、顔色を失って現れた。館長もカー副館長も、この公使館に住み込んでいる。夜中とはいえ、呼び出すのに時間はかからなかった。
「これは……何事ですか」
「館長さん」
グレイは床の木箱を示した。
「あなたの公使館の中で、赤い部屋を使った密輸の現行犯を押さえました」
館長は息を呑んだ。
カー副館長はすぐに口を開いた。
「館長、違います。私はただ、秘書官がここで不審なことをしているのを見つけて――」
その声は、途中でぷつりと途切れた。
カーは口を動かしたが、出てくるのは「う、う」と低い音だけだった。
ジャスパーが目を細める。
「黙らせたのか」
「少しだけな」
グレイは副館長を見もせずに答えた。
「話の腰を折るのが上手そうだったから」
カーは怒りに顔を赤くしたが、声は出なかった。
場所は、地下の倉庫脇にある小さな事務室へ移された。
表向きは、公使館の備品管理室である。だが、今は臨時の尋問室になっていた。木箱は机の上に並べられ、館長は青ざめた顔で椅子に座っている。シャーリーンは立ったまま、両手を握りしめていた。カー副館長は椅子に座らされていたが、まだ声を封じられている。
グレイはシャーリーンを見た。
「まず、君から話してもらう」
カー副館長が何か言おうとしたが、やはり「うう」としか出なかった。
グレイは彼に視線だけを向けた。
「あなたの番は後です、副館長」
それから、シャーリーンへ向き直る。
「では、キャロライン・ハンフリーズ。最初から最後まで、包み隠さず話してください」
シャーリーンの目が大きく見開かれた。
「……ハンフリーズ?」
館長も声を漏らした。
「ハンフリーズ、ですって?」
グレイは机に指を置いた。
「この赤い部屋を知るには、おそらくこの屋敷の元の持ち主、ハンフリーズ家と関係があるはずです。そこで、あの家の家族と使用人たちの行方を洗いました」
彼はシャーリーンから目を逸らさなかった。
「現在の居場所がはっきりしなかった人物が一人だけいる。家主の娘、キャロライン・ハンフリーズ。つまり、あなたです。シャーリーン・ヴォスさん」
シャーリーンの顔から、血の気が引いた。
警察の威圧のせいなのか。状況があまりに早くひっくり返ったせいなのか。それとも、もう隠し続けるだけの力が残っていなかったのか。
シャーリーン――いや、キャロラインは、しばらく黙っていた。
やがて、震える声で話し始めた。
「……一年ほど前のことです」
彼女の視線は、地下室の壁ではなく、もっと遠い場所を見ていた。
「私は公国で、母の病床のそばにいました。母は長く肺を病んでいて、医者からも、もう長くはないと言われていました」
その日、キャロラインは母の枕元で、小説を読んでいた。母は目を閉じて聞いていたが、突然、細い手を伸ばし、本の上に置いた。
「キャロライン」
母はかすれた声で言った。
「あなたに、一つ秘密を話さなければならない」
「何ですか、ママ」
「母さんはたぶん、もう長くない。だから、家の秘密を話しておきたい」
そこで母は激しく咳き込んだ。耐性肺結核に蝕まれた体は、咳をするたびに少しずつ壊れていくようだった。
キャロラインは慌てて母の背を支えた。
「無理をしないで」
「いいえ。今、言わなければ」
母は喘ぎながら続けた。
「あなたが生まれて間もなく、私たちはニフランドから公国へ移った」
「ええ。父は病死したと聞いています」
母は弱く首を振った。
「それは、全部の話ではないの」
「全部ではない?」
「あなたの父は……牢獄で亡くなった」
「牢獄?」
キャロラインは本を膝から落とした。
「どういうことですか。父のことを、そんなふうに聞いたことは一度もありません」
母は苦しげに目を閉じた。
「あなたの父は、もとはソルテラで名を知られた冒険家だった。けれど、冒険家の仕事は、名誉ばかりで金がかかる。調査隊、船賃、護衛、道具、現地の案内人。すべて自分で払わなければならなかった」
母の声は途切れ途切れだった。
「彼は借金をした。その相手が悪かったの。表向きは投資会社だったけれど、実際には闇金融に近い組織だった。返済期限も利息も、最初から罠のようなものだった」
「それで……」
「返せなくなった。裁判になり、屋敷は差し押さえられ、あなたの父は債務者監獄に入れられた。そこで病にかかって、亡くなった」
キャロラインは言葉を失った。
母は、震える手で娘の髪に優しく触れた。
「屋敷は売られた。今はヴェルニア公国の公使館になっている。でも、あの屋敷には、まだ家のものが残っている」
「家のもの?」
「隠し部屋があるの。赤い壁の書斎。そこには、ハンフリーズ家の家宝と、あなたの父がソルテラから持ち帰った記録が保管されている」
「赤い、書斎……」
「その部屋は、普通の部屋ではない」
母はまた咳き込んだ。白い布に、かすかに血が滲んだ。
「ソルテラの山奥に、もう一つの保管室がある。あなたの父は、現地の古いマーナ脈を使って、二つの部屋を結んだ。人は通れない。けれど、物だけなら行き来できる」
「扉は、誰にでも開けられるのですか」
「通常なら、零時になると自動的に現れる。見えた扉は、誰にでも開けられるわ。でも、ハンフリーズ家の血を引かない者が入れば、部屋はすぐにその人間を外へ押し出す」
「血があれば、中にいられるのですか」
「少しの間だけね。部屋を安定させるには、ハンフリーズ家の血が必要なの。本当なら、術式を扱える者は、決まった時刻を待たずに扉を開くこともできる。けれど、あなたは魔法の果実を持たない。だから、零時に扉が現れるのを待つしかない」
「どうして、そんなものを」
「ソルテラで手に入れた調査記録や品物を、船に積まずにニフランドへ戻すためよ。正規の税関を避けるためでもあったでしょう。あなたの父は冒険家だったけれど、聖人ではなかった」
母の口元に、かすかな苦笑が浮かんだ。
「ただし、部屋には制限がある。一日に長くは開かない。人が長く中にいると、部屋そのものが押し出す。無理をすれば、術式が壊れる」
「なぜ今、それを私に?」
「そこには、あなたの父の肖像画もある。私たち家族のものもある。あなたが望むなら、いつか取り戻してほしい」
母は、娘の手を強く握った。
「でも、気をつけて。あの部屋は財産ではない。秘密よ。秘密は、人を守ることもある。でも、多くの場合は、人を食べる」
キャロラインは、何も答えられなかった。
その夜、母は眠った。
そして数日後、二度と目を覚まさなかった。
地下の事務室で、キャロラインはそこまで話すと、目を伏せた。
「母を埋葬したあと、私は公国の実家にもいられなくなりました。成人したばかりで、屋敷を維持する金も、自分一人で生きていく金もありませんでした。だから、母の祖国に来たのです」
「そして、偽名でこの公使館に雇われた」
グレイが言った。
「はい」
キャロラインはうなずいた。
「ハンフリーズの名で応募すれば、すぐに疑われます。だから、シャーリーン・ヴォスと名乗りました」
「赤い部屋は、どうやって開けた?」
「一年ほど待ちました。人の動き、夜警の巡回、三階の使われ方を調べてから、零時に扉が現れるのを待ちました。赤い扉が現れた場所で指先を切り、その血で部屋を安定させました」
「任意の時刻に開けることはできなかったのか」
キャロラインは首を振った。
「本来なら、術式を操作すればできるそうです。でも、私は魔法の果実を持たない者です。だから、零時を待つしかありませんでした」
「目的は?」
「最初は、家のものを取り戻すためだけでした」
彼女は声を震わせた。
「父の肖像画、母と父の小さな額絵、家の記録、私物……誰かに売るつもりはありませんでした。ただ、あのまま他国の公使館の物置に置かれているのが、耐えられなかったんです」
「では、どうして副館長と密輸に関わった?」
グレイは静かに尋ねた。
「まさか、君の行動を見つけられたのか」
「はい」
キャロラインは小さくうなずいた。
「一か月ほど前、家宝を運び出しているところを、残業していた副館長に見つかりました。私は、赤い部屋のことを話すしかありませんでした」
「ふん、館長はここで住んでいる、彼の存在に怖がらないか?」
「館長の寝室は一階で、あんまり音を出せななら、気づかれないと思ったんです」
「では、なぜ、部屋の秘密まで話した?」
「副館長が、私が部屋か品物を運ぶ最中を目撃したんです。」
「ああ、だから、ただ公使館でものを運ぶだけではなくか」
グレイはどうやら先の証言に誤解した、そして目を細めた。
「でも、我々は一分も経たずに部屋から押し出された」
「母が言わなかったことがありました」
キャロラインは震える声で言った。
「ハンフリーズ家の者と一緒に入れば、すぐには押し出されないのです。少なくとも、短い時間なら」
グレイはしばらく黙っていた。
それから、カー副館長へ視線を移した。
「なるほど。あなたはその場で、部屋の価値に気づいたわけだ」
カー副館長は口を動かしたが、まだ声は出なかった。
グレイは指を鳴らした。
カーの喉にかかっていた術式が解けた、彼は思わずに「あゝ」と叫んだ。
「では、次はあなたの番です。副館長」
カーは数度、喉を鳴らした。怒りで顔を赤くしていたが、机の上に並べられた木箱と、館長の青ざめた顔を見て、すぐには言い返せなかった。
「……私は、公使館の利益を損なうつもりはありませんでした」
「家族の利益のためですか」
グレイが言った。
カーは黙々と目を逸らした。
沈黙が、答えだった。
やがて、彼は低い声で話し始めた。
カー副館長の動機は、驚くほど単純だった。
彼の家族は最近、蔗糖先物の取引で大きな損失を出していた。穴を埋める金が必要だった。そこへ、偽名で公使館に入り込み、赤い部屋を使って家宝を運び出していたキャロラインを見つけたのである。
彼は彼女を警察に突き出すと脅した。
そして、その便利な部屋を、ソルテラ産タバコの密輸に使わせた。
ソルテラ側には、カーの親戚がいた。その親戚が向こうの保管室へタバコを運び入れ、ニフランド側ではキャロラインが赤い部屋を開ける。届いた箱は、公使館の備品や外交貨物に紛れ込ませる。書類は館長名義でも副館長名義でも処理できた。秘書官が代筆することも、公使館の実務としては珍しくない。
だから、書類だけでは誰も捕まえられなかった。だが今、木箱はここにある。
グレイは机の上の箱を軽く叩いた。
「外交特権を盾にすれば、この場であなたを裁くのは難しいでしょう。おそらく、本国へ送還されることになる」
カー副館長の顔に、かすかな安堵が浮かんだ。
グレイはそれを見逃さなかった。
「ただし、薬入りの凝乳で夜警を眠らせた件と、赤い部屋を使った密輸の件は、館長さんから正式に本国へ報告していただきます」
館長は硬い顔でうなずいた。
「もちろんです。公使館としても、これは看過できません」
カーの安堵は消えた。
グレイは次に、キャロラインを見た。
「あなたはニフランドで裁判を受けることになるでしょう。家宝を持ち出したこと、偽名で公使館に入り込んだこと、密輸に協力したこと。その責任は消えません」
キャロラインは目を伏せた。
「……はい」
「ただし、脅迫されていたことと、家族の事情については、こちらから検察官へ伝えます。扱いが軽くなる可能性はあります」
「ありがとうございます」
彼女の声は、かすれていた。
「礼を言うには早い」
グレイは淡々と言った。
「秘密は人を守ることもある。だが、多くの場合は、人を食べる。あなたのお母さんは正しかった」
キャロラインは何も言えなかった。
事件の処理が一段落した頃には、外は薄く明るくなり始めていた。
地下の事務室を出ると、グレイは廊下の窓辺で立ち止まった。自動筆を止め、長い欠伸をする。
「この事件、見た目は神秘的だが、実際はずいぶんつまらないな」
「密輸だからな」
ジャスパーが言った。
「人間の欲が絡むと、たいてい仕組みは単純になる」
「唯一面白いのは、あの赤い部屋の仕組みだ。もう一度ソルテラへ行って、向こうの洞窟を見てみたい」
ジャスパーは露骨に嫌な顔をした。
「君たちの経験を聞く限り、二度とソルテラへ行きたいとは思わないがね」
グレイは少し考えてから、肩をすくめた。
「まあ、その通りだな。あそこには、少し嫌な思い出がある」
「少し?」
ジャスパーが眉を上げた。
「君の少しは、普通の人間なら一生分だ」
「便利な尺度だな」
「不便な人生の方だと思うが」
グレイは窓の外を見た。
夜明けの公使館は、昨夜と同じように古びて、静かだった。
だが、その壁の奥にはもう、古い秘密だけが眠っているわけではなかった。
カー副館長は当面、公使館内で本国送還を待つことになった。グレイがキャロラインを拘束し、警視庁へ連れて戻ろうとした時、公使館前の通りには一台の蒸気車が停まっていた。
その車の傍らに、一人の男が立っている。
背丈はごく普通。セピア色のコートを着た、目立たない顔立ちの男だった。
男は近づいてくるグレイたちを見ると、懐に手を入れ、何かを探った。だが、朝の濃霧の中では、何を取り出したのかよく見えない。
グレイは一瞬、相手がよからぬ意図を持ってそこで待っていたのだと考えた。
その緊張に気づいたのか、男は静かに言った。
「私はハーディング・オズボーン。こういう者です」
彼の手にあったのは、情報局の徽章だった。街灯の光を受けて、鈍く輝いている。
「情報局?なぜ君たちが関わる?」
グレイは表に淡然と聞くが、その聞き方にやや不満が聞こえる。だが、相手はその微妙な敵意をわざとなのか無意識なのか、無視した。
「本当にお分かりにならないのですか、スターリング伍長」
オズボーンは穏やかな声で言った。
「賢い術者だと聞いていましたが、どうやら評判倒れだったようですね」
グレイの胸に怒りがこみ上げた。
だが、その直後、彼はオズボーンの言葉の意味を悟った。
あの部屋は、人間や他の生き物を移動させることはできない。だが、無生物なら話は別だ。情報、武器、薬品、魔導器具。船なら数週間かかるソルテラへ、それらをほとんど瞬時に移せる。
それ自体が、かなり強力な武器だった。
「その表情。分かったようですね」
オズボーンはわずかに笑った。
「先のソルテラ襲撃事件以来、国は今も植民地情勢に神経を尖らせています。些細な変化にさえ、です。まして、こんな馬鹿げて強力な部屋となれば、なおさら見過ごせません」
彼は館長の方へ視線を移した。
館長は驚きのあまり、その場に立ち尽くしていた。
「したがって、この公使館として使われている屋敷と、その敷地全体は、ニフランド政府の管理下に置かれます」
「接収、ということですか」
館長がかすれた声で言った。
「接収という言葉を使わずに済むなら、我々としてもありがたい。表向きには、公使館施設改善のための移転です。貴国政府にも、すでにその線で話が通っています」
そう言いながら、オズボーンは館長に命令書を示した。
同時に、霧の中から十数名の情報局員が現れ、公使館の周囲を静かに囲んだ。
「館長さん」
オズボーンは丁寧な口調で続けた。
「急なお知らせで恐縮ですが、まずは公使館へお戻りください。本国からの電話をお受けになることをお勧めします。ご心配には及びません。ニフランド政府はすでに貴国政府と取り決めを交わしております。間もなく、外務省西通り沿いの立派な公館で勤務していただけるはずです」
館長はそこでようやく我に返った。
彼は何も言わず、公使館の中へ駆け戻っていった。
オズボーンは軽く首を振り、再びグレイたちに向き直った。
「彼女は我々警察が拘束します」
グレイは一歩前に出て、キャロラインの前に立ちはだかった。
「無論です」
オズボーンは穏やかに答えた。
「ただし、情報局もハンフリーズさんへの正式な事情聴取に立ち会います。それから、もう一つお知らせしておきたいことがあります」
「何だ」
「ハンフリーズさんは、公国人であるだけではありません。この国の国籍も持っています。我が国は多重国籍を禁じておりません。ただし、当人がこの国、またはこの国の植民地にいる間は、ニフランド国民として扱われます」
オズボーンはキャロラインへ視線を移した。
「したがって、ハンフリーズさんが国外追放されることはありません。その点を、あらかじめお伝えしておきます」
こうして、赤い部屋をめぐる事件は、ひとまず幕を閉じた。
密輸事件としては小さく、国家の秘密としては大きすぎる。
その曖昧な重さだけが、公使館の朝霧の中に残った。
「へえ、結局そんなことだったのか」
帰ってきたグレイから赤い部屋事件の顛末を聞いても、イライアスの顔にはまだ不思議そうな表情が残っていた。
「まあ、そうだな」
グレイは肩をすくめた。
「で、三課の連中はどうだった。サム以外のやつらは?」
「まずまずだな。特に目立つ者はいない。あとは、向こうで会えば分かるだろう」
「共和国に行くのは、緊張しないのか?」
「いや、前のように戦争に巻き込まれるわけではない。大丈夫だろう」
彼らはまだ知らなかった。戦争は、銃声だけで始まるものではない。
線路を引くことも、土地を測ることも、時には戦争の続きになる。
そして、旅立ちの日。
ニルフヘイヴンの第三埠頭には、朝から人と荷物が溢れていた。
「復興事業の関係で、共和国へ向かう者が多いらしい。この船は満員だ。三課の連中は、別の船に乗るそうだ」
見送りに来たローランス曹長からそれを聞いたグレイは、イライアス、ピーター、サラにそう伝えた。
「では、行こう」
イライアスは桟橋の先に停まる蒸気船を見上げた。
「共和国へ。いつ帰れるんかな」
空を飛ぶ鴎が、その問いに答えるように鳴いた。




