第三十二章 赤扉
「共和国へ?」
課長の宣言に、五課の面々は一斉に言葉を失った。
「そうだ」
ミラー課長は、いつものように淡々と告げた。
「この物議のほとぼりが冷める前に、君たちをカルデリア共和国へ送る。復興支援団の一員としてだ」
「ちょっと待ってください」
サラが真っ先に口を開いた。
「ほとぼりって、いつ冷めるんで、わからないですね、課長?」
「それを待っていたら、我々は異国で定年を迎えるでしょう」
「最悪ですね」
グレイがぼそりと言った。
ミラーは全員の文句を無視した。
「派遣されるのは、イライアス、グレイ、サラ、ピーター。それから三課の数名だ。新人の二人とマイケルは王都に残る」
「なんで私たちは行かないんですか?」
ヴィヴィアンがすぐに尋ねた。
隣でクラインも、同じことを言いたげな顔をしている。
「新人だからだ」
ミラーは短く答えた。
「新人だからこそ、経験を積むべきではですか?」
「積む経験にも順序がある。いきなり海の向こうの復興鉄道と旧戦場と共和国軍の睨み合いに放り込むほど、私はそこまで教育熱心ではない」
「では、マイケルは?」
イライアスが訊いた。
「王都に残す。議会対応、三課との残務調整、紙遣い事件の後始末。やることはいくらでもある」
「課長、五課は一体どうなるんですか」
ピーターが不安そうに言った。
「残る者で回す」
「それは、回るんですか?」
「ご心配なく、我等で何とか回せる」
その一言で、会話は一度止まった。
ミラーは机の上の書類を整え、全員を見渡した。
「質問はこれまでだ。今の主要事項は、共和国へ行く前に片づけるべき最後の事件がある」
グレイは露骨に嫌な顔をした。
「出発前に事件ですか」
「そうだ」
「普通は荷造りをする時間では?」
「荷造りなら夜にできる」
「睡眠は?」
「船で取れ」
「課長、出国なら、その前に休暇がしたいんだ」
ミラーはやはり無視した。
「先日、外務省のエイデン・H・デイヴィスと会った。復興支援団への警察派遣について話を通した相手だ」
「つまり、今回の派遣の元凶ですね」
「表現には気をつけろ、グレイ」
ミラーはそう言ってから、淡々と続けた。
「そのエイデンから、一つ頼みを受けた」
数日前。
レストラン〈銀鴎亭〉の八番個室で、エイデンは食後のナプキンで口元を拭いながら、軽く言った。
「では、この借りのお返しに、一つ事件を解決してもらおうか」
ミラーは眉を上げた。
「早速だな」
「我々外務省の人間は、機会を逃さない」
「いい。どんな事件だ」
「復興支援とも少し関わっている。ヴェルニア公国は知っているか?」
「知っている。我が国とカルデリア共和国の外交関係が冷え込んでいた間、仲介役を務めた小国だ」
「正確だな。では話が早い」
エイデンは指先でグラスの縁を軽く叩いた。
「そのヴェルニア公国公使館で、少々奇妙なことが起きている」
「外交事件か」
「そう言えなくもない。少なくとも、公にはしたくない種類の話だ」
ミラーは黙って続きを待った。
「公使館の三階に、赤の応接室と呼ばれる部屋がある」
「応接室?」
「正確には、あるはずのない部屋だ。公使館の職員が真夜中、何度か三階の廊下で、ただの壁のはずの場所に赤い扉を見掛けた。好奇心に負けて開けてみると、中には赤い壁紙の小部屋があり、古い家具や雑多な品物が置かれていたらしい」
「隠し部屋か。神秘だな。でも、それだけで事件になれるなの」
「そう考えるのが普通ね。だが、その職員が中の品物に触れようとした途端、気づけば廊下に飛ばされた。扉は消え、壁だけが残っていた。そのため、怪我人も数人が出た」
ミラーはしばらく黙った。
「それを何度も見たのか」
「そう」エイデンはタバコの先を灰皿の縁で軽く弾き、灰を落とした「別の職員も見ている。夜警もだ。ただし、昼間には何もない。ただの壁だ」
「魔導反応は?」
「公使館側が内々に調べた限りでは、微弱だがあるらしい。だから君に頼んでいる」
「本来なら五課の領分だな」
「そうだ。だが、公使館は正式な警察介入を望んでいない。外交上、面倒になる。だから、警察側からは非公式に一名だけ入ってほしい」
「一名?」
「表向きは、外務省の施設確認に同行する技術顧問という扱いだ」
「都合のいい言葉だ」
「外交には、都合のいい言葉が必要だ」
ミラーは少し考えた。
「それで、術が得意な者を出せというわけか」
「君のところにいるだろう。そういう者が」
「いる」
「もう一人、向こうが希望している人物もいる」
「誰だ」
「ジャスパー・アーヴィングという人物だ。確かに、国王様の身辺護衛の様だが」
ミラーの目がわずかに動いた。
「ジャスパーか」
「その口調、知り合いかい?」
「以前、枢機卿政変未遂に絡む件で会った。オスカー殿下とも同行していた」
「ああ、あれか」
エイデンは少し顔をしかめた。
「議会の床を貫いたと聞いた時は、本当に驚いたぞ」
「正確には、貫いたのは床だけではない」
「訂正しなくていい。余計に聞きたくなくなる」
エイデンはため息をついた。
「それで、この件、頼んでいいか」
ミラーは短く答えた。
「いいだろう」
「助かる」
「ただし、こちらも出発前で忙しい。長引かせるつもりはない」
「それはこちらも同じだ。一週間後には支援団の第一陣が出る。お前の警官たちは、二週間で事件を収めた方が望ましい」
「なら、それまでに片付ける」
エイデンは薄く笑った。
「相変わらず、言うことだけは頼もしいな」
「言うことだけではない」
「そう願っているよ」
「というわけで」
ミラーは話を締めた。
「グレイ。今回はお前の出番だ」
グレイは面倒そうに頭をかいた。
「へえ、ジャスパーか。あの事件以来、会っていないな」
「知っているのか?」
サラが訊いた。
「まあな」
グレイは曖昧に答えた。
「王家に顔が利く、妙に上品で、妙に厄介な術師だ」
「それは味方なのか?」
ピーターが不安そうに言った。
グレイは少し考えた。
「少なくとも、敵に回すと面倒な部類だ」
「褒めているのか?」
「かなり」
ミラーは書類を一枚取り上げた。
「ヴェルニア公国公使館へ正式に入るのは、グレイ一人だ」
「一人?」
グレイが嫌そうに眉を寄せた。
「公使館側が、警察の大人数の立ち入りを望んでいない。表向きは、外務省の施設確認に同行する魔導顧問という扱いになる」
「つまり、警察官ではないふりをしろと」
「正確には、警察官であることを声高に言うな、ということだ」
「同じでは?」
「外交では違う」
ミラーは淡々と言った。
「もう一人、向こうが希望している術師が同行する。ジャスパーだ」
ミラーは書類を置いた。
「イライアス、サラ、ピーターは外で待機。公使館周辺の通用口、馬車の出入り、使用人の証言を確認しろ。サムたち三課は、外交貨物と通関業者の線を洗う」
サムが腕を組んだ。
「中には入れないのか」
「最初はな」
「最初は?」
「密輸や文書窃取の証拠が出れば、話は変わる。公使館側も、警察の追加立ち入りを拒みにくくなる」
グレイはため息をついた。
「つまり、俺が中で変な部屋を見つけて、外の連中が泥棒を見つけるわけだ」
「その通りだ」
「共和国に行く前から、すでに帰りたい」
第二区の南縁には、別荘のような建物をそのまま使った小国の公使館がいくつか並んでいる。
そのうちの一つが、ヴェルニア公国公使館だった。
公使館は、没落した貴族から安値で買い取った屋敷を、大した改修もせず、そのまま使っているものだった。
建物自体は、冴えない三階建ての古い石造邸宅である。とても、繁華な第二区にあるとは思えないほど地味だった。
正面には小さな馬車寄せがあり、二階には錆びかけた鉄細工のバルコニーが張り出している。白い石壁はところどころ煤で灰色にくすみ、門柱には公国の紋章を刻んだ小さな銅板が掲げられていた。
外交公館と呼ぶには小さく、商館と呼ぶには気取りすぎている。外交施設というより、古い屋敷が礼儀作法だけを残して役所になったような建物だった。
グレイは馬車寄せに停まった蒸気車から降りた。
玄関前には、すでにジャスパーが立っていた。
「よ、久しぶり!」
ジャスパーは明るく手を上げた。
「よ。国王様のところはどうだ? 不機嫌なら、俺たち五課に来てもいいぞ」
グレイがそう言うと、ジャスパーは笑った。
「そちらこそ、国の猟犬としてこき使われているんだろう? こっちも大歓迎だよ。特に、お前みたいな凄腕の術者ならね」
「はは。相変わらず口が回るな」
グレイがそう言いかけたところで、玄関扉が開いた。
中から、痩せた中年の男が姿を現した。銀縁の眼鏡をかけ、きっちりと撫でつけた髪に、古風な礼服を着ている。
「こんにちは。ヴェルニア公国公使館館長のマテウス・ニコラウスと申します。顧問の方々ですね。どうぞ中へ」
三人は館長に案内され、廊下を通って二階の事務室へ向かった。
事務室は広くはなかったが、壁一面に書棚が並び、古い地図と外交文書の箱が几帳面に整理されていた。窓辺には小さな国旗が置かれ、机の上には使い込まれた銀のインク壺がある。
全員が着席すると、ニコラウス館長はまず尋ねた。
「お茶かコーヒーはいかがですか?」
「ありがとうございます。結構です」
ジャスパーが穏やかに断った。
「私も同様」
グレイも短く答えた。
「では、本題に入りましょう」
ニコラウス館長は、少しだけ声を落とした。
「事情は、すでにお聞きの通りです。三階に、時おり現れ、時おり消える謎の赤い部屋がございます。ですので、本日は夕方にお越しいただきました。夜になれば、観察できるかもしれません」
彼は一度、言葉を切った。
「数日滞在していただいても構いません。もちろん、こちらとしては、できるだけ早く済ませていただける方がありがたいのですが。あの部屋は昨夜も現れまして、うちの従業員たちをひどく怯えさせました。そして、その数名の傷者で、この事件はもっと大事なるかもしれないです」
グレイは背もたれに軽く体を預けた。
「質問しても構えませんか?」
「どうぞ」
「今から少し、現場を見てもいいですか?」
館長は困ったような顔をした。
「それは構いませんが、その部屋は夜に現れるものです。今行かれても、ただの壁しかございませんよ」
「大丈夫です。まず、どんな術式が残っているかを探します」
「はあ」
館長は少し曖昧に頷いた。
「以前にも、昼間に守り人の術者に見てもらったことはあります。何も見つからなかったそうですが……まあ、さらに四つの目で見れば、何か違うものが見えるかもしれません」
「四つ?」
グレイが片眉を上げた。
館長は、グレイとジャスパーを交互に見た。
「お二人ですから」
ジャスパーが小さく笑った。
「悪くない数え方ですね」
グレイは立ち上がった。
「じゃあ、その赤い部屋の跡とやらを見せてもらおうか」
三階の奥では、廊下の一角が麻縄で囲われ、隔離されていた。そばには、通行人に注意を促すための二つ言語の看板が立っている。
『夜間に異変発生、接近禁止
(Anomaly detected at night. Do not approach.
Nächtliche Anomalie festgestellt. Zutritt verboten.)』
「このあたりか」
グレイはぶつぶつ言いながら、麻縄を持ち上げて中に入った。
彼とジャスパーは壁を上から下まで調べ、隅から隅まで見て回った。だが、術の痕跡はまったく見当たらない。ひとまず、最初の検査は、それで終わった。
「前の守り人も同じように調べました。ですが、何も発見できなかったのです」
館長は、言った通りだろう、という顔をした。
「結論を出すには、まだ早いですよ」
ジャスパーは無言の了解で、グレイに上級魔導紙を渡した。
「王宮の特級品だ。大事に使えよ」
「ありがたい。でも、まずは……」
グレイは何度も使い慣れた探知術を起動し、軽く壁を叩いた。
「それも、あの術者はやりましたが……」
「しっ」
グレイは耳を壁に寄せた。それから、向かい側の壁でも同じことをした。
「やっぱりな」
「何か分かったのか?」
ジャスパーが訊く。
「ここには、ごく微量のマーナが残っている。それだけじゃない。異変が起きる部屋側の壁だけ、妙に厚い」
館長は半信半疑の表情を浮かべた。
グレイはそれを見て、さらに補足した。
「マーナ自体は、別に証拠にはなりません。異変があった以上、むしろ残っていて当然なことです。ただ、館長がおっしゃったように、昨日も事件があったのなら、ここのマーナ量は不自然に低い」
「逆に低い、なんですか?」
「ええ。つまり、毎晩誰かが直接この異変を操っているわけではない。壁の厚さも合わせて考えると、術はすでにこの壁の中に組み込まれている可能性が高い」
「しかし、マーナ源は? それに、術がすでに書き込まれているとすると、この別荘の元持ち主の仕業ということになりますね。だとすれば、なぜこの屋敷を我々に売ってから十五年も経った今になって術式が発動するの?」
「マーナ源の方は、壁のどこかがマーナの豊富な場所と繋がっていれば足ります。電話線のようなものです。別の場所に原動力があればいい」
グレイは壁を見上げた。
「ただ、その十五年後に今さら動き出した理由は、まだ謎ですね」
「で、これをぶち破ってみるのか?」
ジャスパーは、すでに興奮を抑えきれない様子で、武器でもある金槌を手の中で弄んでいた。
グレイはそれを見て、眉を寄せた。
「まさか、こういうことを予想して、わざわざ持ってきたのか? 以前のお前は、そんなに金槌を使っていなかっただろう。まったく使わなかったわけではないが」
「どうだろうな」
「あの、それを使うには……」
館長が不安そうに声を挟んだ。
「心配なさらず。今はまだ使いません」
「今だけでなく、今後もできれば使わないでいただきたいのですが……」
館長は苦笑した。
「ええ、なぜなの?」
「そりゃ、他にどんな装置が仕込まれているか分からないうちに壁を壊すのは無謀だからだ」
グレイはそう言って、魔導紙をしまった。
「館長さん、ひとまず検査はこれで終了です。食事はありますか?」
「当館では、六時ちょうどに夕食を取ります。一階の食堂で」
「館長さんも一緒に?」
「ええ、そうです」
「うちの課長も、よく食堂で済ませていますね」
彼らが食堂へ向かおうとすると、背後から咳払いが聞こえた。
振り向くと、役人らしき男と秘書官らしき人物が、こちらへ歩いてきていた。
「ああ、カー副館長とシャーリーン・ヴォス秘書官ではありませんか。こちらの方々は、赤い部屋の件を解決するためにお招きした専門家です。よろしければ、皆さんもご一緒に。食べたいものを言ってください。私が奢ります」
「承知しました、館長。シャーリーン、私はいつものもので頼む」
「はい、副館長」
五人はそれぞれ食事を選び、食堂の三段ほど高くなった一角にある円卓に座った。そこには薔薇模様のガラス窓があり、その向こうには、庭に咲く白と青の薔薇が見えた。
「青薔薇とは珍しいですね」
グレイは手をひさしのように額にかざし、眩しそうに目を細めながら言った。
「そうですね。天然の青薔薇は存在しませんが、マーナを多く含む水源に、マーナと親和性の高い青色の染料を混ぜれば、青い薔薇を咲かせることができます。この屋敷の元の持ち主が残したものです。確か、ハンフリーズ家でしたか」
館長は羊肉のステーキを骨から切り離しながら答えた。
「副館長、夜間は誰も事件現場に立ち入らないよう、公使館の職員には伝えましたか?」
「はい。夜半零時には、その部屋の出現場所へ近づかないように、三階全体にもできるだけ立ち入らないよう伝えてあります」
「よろしい。ああ、そうでした。先ほどは、十五年もの間動かなかった理由は謎だと言いましたが、いくつか説は考えられますか?」
「ええ。やはり、最近になって誰かが発動させた、という説は一番可能性が高いでしょう」
「やはりそうですか。では、最近入館した新人が怪しい、ということになりますか?」
「そうかもしれませんね。ですが、捜査で教わったのは、先入観を捨てることです」
「先入観を捨てる……ですか。いい考えですね」
時刻は、零時少し前になっていた。
グレイとジャスパーは、例の壁の近くに立っていた。
「館長さんは、そこで待っていてください」
「はい」
館長は階段口の少し手前に立ち、様子を見守った。
三分後、廊下に掛けられた時計が零時を告げた。
その途端、事件現場とされていた壁ががちゃがちゃと音を立て、振動とともに、壁の一部がゆっくりと下がっていった。
やがて、赤い扉が彼らの目の前に現れた。
その血のような赤色は、灯りに照らされて、異様なほど鮮やかだった。とても、十五年もの間修繕されていない建具には見えなかった。
グレイは一気に扉の前まで歩み寄り、深呼吸をしてから、真鍮のノブを回した。
部屋の装飾は、その扉と同じく、人目を奪うほど鮮やかな赤で統一されていた。
内部は書斎のようだった。扉の正面には事務机が置かれ、奥には五つの本棚が並んでいる。机も本棚も、目に入るもののほとんどが書類らしきもので覆われていた。床にも、ファイルと紙が海のように散らばっている。
ただ一つの例外は、本棚の下段だった。そこだけが、すでに空になっていた。
「まだ入らないのですか?」
館長は、部屋の外に佇むグレイを見て、気になったように声をかけた。
「そうですね。館長とうちの課長から聞いた情報では、人が入ると、すぐ外へ押し出される、とのことでした。それは、何らかの術によって、許可されていない者の侵入を妨げる仕組みなのかもしれません。まあ、一つの仮説に過ぎませんけど」
館長は黙っていたが、その説明に少し納得したようにも見えた。
グレイはさらに中を確認しようとしたが、ジャスパーが彼の背中を軽く押した。
「でも、こうして見ているだけでは、これ以上何も分からないだろう」
「そうみたいだな」
まだ躊躇はあったが、グレイは用心深く、そっと赤い部屋へ足を踏み入れた。
中の空気は重苦しく、埃に満ちていた。裸眼でも確認できるほど、細かな埃が宙に漂っている。
だが、グレイは入ってすぐに気づいた。
本棚の下段数列――一般的な大きさの本棚ではなく、かなり大規模な図書館の数段分にも及ぶ棚――が、すべて空になっていたのだ。
そこには埃だけが残り、もともと置かれていたものの形を、ぼんやりと描き出していた。
「見えたか。本棚の下段列だ」
グレイは一つの本棚に近づき、空いた部分を指先で擦った。
「この空白部分だけ埃が少ない。最近になって空いたように見える」
「じゃあ、これが犯人の狙いか?」
「たぶんね。でも、犯人は一体どうやってこの部屋を知った? それとも、この部屋は最近になって開くように設定されていて、偶然どこかの従業員が発見したのか? ふん……」
「では、ここを整理して、手掛かりを探す……」
グレイはジャスパーの発言に何か言おうとした。だがその時、二人は強い力に引かれ、扉の外へ引っ張られているのを感じた。
「ああっ!」
二人は一瞬で出口へ吸い寄せられ、見えない足に蹴られたように、部屋の外へ放り出された。
「どさっ!」
幸い、グレイたちは事前に準備していた。二人は扉の向こうの壁際に置いていたマットレスの上に落ちた。
「痛い! 起きろ!」
グレイは、自分より体格の大きなジャスパーに上からのしかかられ、彼を強く押しのけた。それから、ふらつきながら立ち上がろうとする。
「これを準備しておいてよかったですね」
館長は急いでマットレスのそばへ駆け寄り、グレイに手を貸した。
「そうですね。でも、今日はもう入れないかもしれません」
皆が扉のあった場所へ視線を向けると、壁は開いた傷口を癒やすように、再び扉を覆い隠していた。
「くそっ! やっぱり、この生意気な壁を叩き潰す!」
ジャスパーは金槌を構えた。
「駄目だ!」
グレイは強く叫び、両手でジャスパーの金槌を止めた。
「この中には、強引に開けようとすると発動する破壊の術が存在するかもしれない。調査は明日の夜にする。……よくその短気で国王のそばについていられるな」
翌日、正午。
グレイは客室でまだ熟睡していたが、小さなノックの音で起こされた。
「誰だ、うるさい!」
「あの……」
扉が開き、館長が申し訳なさそうな顔で客室に入ってきた。
「すみません。警視庁の方が、あなたに電話をしたいそうです」
「ああ、館長さん! すみません、あなただと知らなくて。はいはい、今降ります。電話に出ます」
「大丈夫です。この屋敷には、どの部屋にも書斎があります。そちらに電話を回します。では、私も同席してよろしいですか? おそらく事件に関する情報だと思いますので」
「いいですよ」
グレイは書斎で数分待った。
その書斎もまた、古い貴族邸宅らしく、使い道よりも体面を優先した部屋だった。壁一面に本棚があり、革張りの椅子が二脚、暖炉の前に置かれている。読む者がいなくなって久しい本が、背表紙だけで礼儀を保っていた。
やがて、机の上の電話が鳴った。
グレイは受話器を取った。館長は耳を受話器に貼り、イライアスの返事を聞く。
「もしもし。ああ、イライアスか? どうだ、公使館の身辺調査は? 公使館の館長さんも同席している」
五課の残りと三課は、正式な捜査として動いているわけではない。だが、公使館から提供された資料と、警視庁に残っている資料を照合し、怪しい人物がいないかを洗っていた。
もっとも、公使館には当然、外国人が多い。ニフランドには外国人登録を一元的に管理する法律もなく、公使館側もすべての資料を警察へ渡せるわけではない。
そこで三課を調査に加えたのは、例の盗品流通調査という名目で、公使館の周辺、出入り業者、荷運び、古物商、通関関係者から非公式に話を拾うためだった。
電話の向こうで、イライアスが低い声で言った。
「今のところ、公使館の従業員の個人情報からは、大きく怪しい人物は出ていない。身元が不自然に欠けている者もいない。少なくとも、外から見える範囲ではな」
「外から見える範囲では、か」
「そうだ。ただ、公使館の最近一か月の搬出量が不自然に多い。ちょうど、赤い部屋が現れ始めた時期と重なる。とはいえ、多いと言っても倍ではない。二割ほどの増加だ」
「へえ、それは面白い。あの部屋は特別な空間で、何かが運搬された痕跡もあった」
館長の顔が、わずかに曇った。
「搬出と言っても、外交貨物ですか?」
グレイが受話器を手で押さえ、館長に視線を向けた。
「そのようです。もちろん、中身を開けて調べたわけではありません」
受話器の向こうで、イライアスが続けた。
「名目は全部自然だ。公国がニフランド国内で買い取った物品の本国移送。古書、調度品、額縁、修復品、備品整理。書類上の不備はない」
「署名は?」
「そこが面倒だ。館長名義もあるし、副館長名義もある。夜間処理された追加分でも、館長名義のものがある。副館長名義のものもある」
「秘書官の代筆か?」
「おそらくな。だが、どの秘書官が代筆したかまでは書類に残らない。公使館の実務としては普通らしい。三課のサムも同じことを言っている。署名からは誰も割れない」
グレイは短く笑った。
「優秀な役所だな。何もかも自然すぎる」
「自然だから困るんだ」
「分かった。こっちは全員から非公式に事情を聞く。警察の尋問ではなく、安全確認としてだ」
「うん、ちょっと、イライ」グレイは電話を切らぬまま、受話器を机の上に置いた。
それから、まるで館長の心配を先に読んだかのように言った。
「大丈夫です、館長さん。我々は警察名義で問い詰めるわけではありません。安全顧問が状況確認の名目で、従業員の方々から話を聞くだけです」
館長はまだ迷っていたが、やがて小さくうなずいた。
「それなら、よいでしょう。昼休みの後、関係者を順に呼びます」
「ああ、館長さん。もう少し同僚と話すので、少し席を外していただけますか」
「承知しました。では、後ほど」
扉が閉まる音を聞いてから、グレイは再び受話器を持ち上げた。
「で、誰が怪しい? まさか館長本人じゃないだろうな」
「今のところ、館長より副館長だ」
「カー副館長か」
「ああ。ただし、証拠は弱い。副館長が署名している搬出指示書はいくつもあるが、副館長が署名すること自体は自然だ。館長名義の書類も、秘書官が代筆している可能性が高い。つまり、誰が実際に紙を動かしたかは分からない」
「便利だな。罪も責任も書類の隙間に消える」
「問題は、赤い部屋の出現後に、臨時の追加搬出が増えていることだ。特に翌朝処理されたものが目立つ。だが、それも公使館の仕事として説明できる」
「署名は使えないな」
「使えない。だから、お前たちが中で拾う証言が頼りだ」
「了解した。外はそのまま押さえてくれ。馬車、裏門、出入り業者などの者。特に、昼ではなく朝方に動く荷物だ」
「分かった」グレイは今度こそ電話を切った。
窓際で腕を組んでいたジャスパーが、口の端をわずかに上げる。
「これはまた、面倒な事件だな」
グレイはミラー課長に電話して、愚痴の一つでもこぼしたくなった。だが、結局それは我慢した。
「ああ……魔力切れの頭痛みたいだ。もう少し寝ていたいな」
昼休みが終わるころ、グレイは全員に連絡を回し、食堂を臨時の聴取場所にすることにした。
しばらくして、グレイ、イライアス、ジャスパーの三人は、食堂の一角に並んで座っていた。
やがて、最初の証言者として、カー副館長が入ってきた。
カーは乱れのない服装をしていた。細い口髭も、襟元の結び目も、見事なほど正確だった。椅子に腰を下ろす動作にさえ、余分な音がなかった。
「お時間を取らせてすみません、副館長」
「いえ。公使館の安全に関わることであれば、協力いたします」
「では確認だけ。最近、公使館からの搬出品が増えていますね」
「そうです」
カーは迷わず答えた。
「理由は?」
「本国から、館内備品と古書類の整理を進めるよう指示がありました。長く使われていない調度品、修復の必要な額縁、保管に向かない古書などを、順次ヴェルニアへ戻しています」
「署名はあなたが?」
「私が署名したものもあります。館長名義のものもあります」
「館長名義の書類を、秘書官が代筆することは?」
「あります」
「副館長名義では?」
「それもあります。公使館では珍しいことではありません。館長は対外的な会合が多い。実務上の書類は、私や秘書官が処理します」
答えが滑らかすぎる。
だが、滑らかであることは罪ではない。むしろ、こういう職に就く者としては美徳ですらあった。
グレイは机の上の紙を一枚めくった。
「夜間に処理された搬出指示もありますね」
「緊急の追加分であれば、夜に処理することもあります。翌朝の馬車に間に合わせるためです」
「赤い部屋が現れ始めた時期と重なっています」
カーは、そこで初めてほんの少しだけ眉を動かした。
「偶然でしょう。赤い部屋の件は、私も館長から聞いて驚いたくらいです」
「実際に見たことは?」
「ありません」
「入ったことも?」
「ありません」
「夜間勤務の者に、差し入れを出していたそうですね」
カーは表情を変えなかった。
「古い屋敷です。夜は冷えます。夜警や残業する職員に温かいものを出すことはあります」
「凝乳ですか」
「ええ。厨房がよく用意します。消化にもよい」
ジャスパーが暖炉のそばで小さく咳払いした。笑いを堪えたのか、単に埃を吸ったのかは分からなかった。
グレイはカーの顔を見た。
「副館長、あなたは嘘をつくのが上手そうですね」
カーは静かに答えた。
「褒め言葉としては、受け取りにくいですね」
「では言い換えます。あなたは、本当のことを言うのが上手い」
「職務上、必要な技術です」
「でしょうね」
その後もいくつか質問を重ねたが、カーの答えはどれも壊れなかった。
搬出も署名も夜間処理も凝乳もすべて職務であり、すべて正しい。正しいことだけで、肝心なものが隠れていた。
カーが退室したあと、ジャスパーが呟いた。
「あれは面倒だな」
「嘘をつかないからな」
「嘘つきより厄介だ」
「同感だ」
次に入ってきたのは、シャーリーン・ヴォス秘書官だった。
彼女は若いが、立ち居振る舞いに隙が少なかった。緊張はしている。だが、それを礼儀の形に押し込める程度には訓練されていた。
「シャーリーン・ヴォスさんですね」
「はい」
「公使館にはいつから?」
「一年ほど前からです」
「三階へ夜に上がったことは?」
「あります。書類整理のためです」
「赤い部屋の前にも?」
「三階の奥の廊下には行きました。ただ、赤い部屋に入ったことはありません」
グレイは少し間を置いた。
「赤い部屋の中が、どんな場所かは知っていますか」
シャーリーンは一瞬だけ、言葉を選んだ。
「……書斎のようだったと聞いています」
「誰から?」
「清掃係の女性です。夜に化粧室を探していて、誤って扉を開けたそうです。すぐに外へ押し出されたと聞きました」
答えは早すぎなかった。遅すぎもしなかった。
ただ、その説明は、あらかじめ用意されていたように整っていた。
「なるほど。では、あなた自身は中を見ていない」
「はい」
「本棚の下段が空になっていたことも?」
「存じません」
「壁に大きな額縁の跡があったことも?」
今度は、ほんのわずかに沈黙があった。
「古い屋敷ですから、額縁の跡くらいはあると思います」
「そうですね。古い屋敷には、たいてい過去が壁に残っている」
シャーリーンは答えなかった。
グレイは質問を変えた。
「搬出書類を作ることは?」
「あります」
「館長名義で?」
「あります」
「副館長名義で?」
「それもあります」
「それはあなたの判断で?」
「いいえ。指示に従って作成します。署名名義も、書類の種類によって決まります」
「最近、臨時の追加搬出が増えたことは?」
「事務処理上は、増えていたかもしれません。ただ、私は全体の量までは把握していません」
「赤い部屋が現れ始めた時期と重なっています」
「それは……偶然だと思います」
「偶然は便利な言葉です。誰も責任を持たなくていい」
彼女の指が膝の上でわずかに重なった。グレイはそれ以上追わなかった。
この場で押せば、彼女は黙る。
そして、黙る者からは何も出ない。
「ありがとうございました。最後に一つだけ」
「はい」
「あなたは、この屋敷が以前どこの家のものだったか知っていますか」
「……古い貴族の屋敷だったと聞いています」
「名前は?」
「存じません」
彼女はそう言った。
それはおそらく、この部屋に入ってから初めての、明確な嘘だった。
シャーリーンが退室すると、ジャスパーは低い声で言った。
「さっきのは引っかけか」
「どれだ?」
「書斎のことだ」
「半分な。だが、あれだけでは弱い。実際に清掃係が中を見ているなら、彼女が聞いていても不思議ではない」
「じゃあ、何が気に入らなかった」
「知らないと言う場所について、知らない理由を用意していた」
ジャスパーは少し笑った。
「知らないにも技術が要るんだな」
「要る。特に、知っている人間にはな」
次に呼ばれたのは夜警だった。
彼は初老の男で、帽子を両手で握り締めていた。顔色は悪い。犯人というより、叱責を恐れる使用人の顔だった。
「赤い部屋が現れた夜、あなたは三階を巡回していましたか」
「はい。いや、その、巡回の途中で、遠くから見ました」
「中には?」
「一度だけ入りました。最初の夜です。扉が勝手に出たものですから、危ないと思いまして」
「中は?」
「赤い書斎でした。机と、本棚があって……でも、すぐに外へ投げ出されました」
グレイはうなずいた。
「その話を、他の職員にしましたか」
「しました。怖かったものですから。厨房でも話しましたし、清掃の者にも話しました」
「シャーリーン・ヴォスにも?」
夜警は目を泳がせた。
「覚えておりません。ですが、公使館中の噂になっていましたので、聞いていてもおかしくはないかと」
これで、シャーリーンが「書斎」と言ったことは、ほとんど証拠にならなくなった。
グレイは次の質問へ移った。
「その後、不審者は見ましたか」
「見ておりません」
「夜に三階へ上がる者は?」
「いませんでした」
「本当に?」
夜警は帽子を握る手に力を入れた。
「……少なくとも、私が起きていた間は」
ジャスパーが目を細めた。
「つまり、寝ていた時間がある」
夜警は下を向いた。
「少しだけです。ほんの少しです。夜食をいただいたあと、どうにも眠くなりまして」
「夜食?」
「厨房から凝乳を。副館長様が、夜勤の者に出すようにと」
グレイは何も書かず、ただその言葉だけを覚えた。
「その夜、あなたが眠っていたことを知っている者は?」
「誰にも言っておりません」
「でしょうね」
夜警は縮こまった。
「処分されますでしょうか」
「それは館長さんの仕事です。私の仕事は、あなたが寝ていた間に誰が動けたかを考えることです」
夜警の次に、清掃係の女が呼ばれた。
彼女は夜警よりもさらに怯えていた。質問される前から、何度も「私は何も盗んでおりません」と繰り返した。
「盗みの話ではありません。赤い部屋の話です」
「はい、あの、私は中に入りました。でも、わざとではありません」
「化粧室を探していた?」
「はい。夜でしたし、灯りも暗くて。いつもは壁だったところに扉がありまして……開けたら、赤い部屋で」
「書斎だった」
「はい。机と、本棚がありました。紙がたくさんありました。でも、すぐに押し出されました。私は何も触っておりません」
「その話を誰にしましたか」
「厨房で話しました。夜警さんにも。たぶん、秘書官の方々にも聞こえていたと思います」
グレイは軽くうなずいた。
「では、シャーリーン・ヴォスさんがその話を聞いていても、おかしくはない」
「はい。おかしくありません」
「別の話をします。あなたは、シャーリーンさんが三階にいるのを見たことがありますか」
清掃係は黙った。
「怒りませんよ」
「……一度だけ」
「いつ」
「赤い部屋が出るようになってからです。夜遅く、三階の奥の壁の前に立っていました」
「何をしていましたか」
「分かりません。ただ……泣いていたように見えました」
「泣いていた?」
「声は聞こえませんでした。でも、壁に手を当てていました」
「何か持っていましたか」
「その時は何も。別の日に、布で包んだ細長いものを抱えているのを見ました。額縁か、巻いた布のような……でも、よく見ていません。本当に、よく見ていないんです」
グレイはそこで筆を止めた。
「そのことを、なぜ最初に言わなかったんです」
清掃係は唇を噛んだ。
「シャーリーン様は、私に優しくしてくださったからです。外国から来た者にも、使用人にも、同じように声をかけてくださいます。悪いことをしているようには見えませんでした」
「悪いことをしている人間が、いつも悪く見えるなら、我々はもう少し早く帰宅できます」
清掃係は意味が分からない顔をした。
ジャスパーだけが、少し笑った。
最後に、料理長が呼ばれた。
恰幅のよい男で、証言台に立つより市場で値切る方が似合いそうな人物だった。
「夜勤の者に凝乳を出していましたね」
「はい。副館長様からのご指示で」
「いつから?」
「ここ数週間です」
「赤い部屋が現れ始めた頃から?」
「さあ、そこまでは。ただ、寒い夜でもないのに妙だとは思いました」
「妙だと思って、出した」
「副館長様のご指示ですので」
「何か混ぜましたか」
料理長は目を丸くした。
「砂糖と、少しの香料だけです」
「それ以外は?」
「ございません」
答えは本気に見えた。
少なくとも、この男は睡眠薬を混ぜた顔ではなかった。
もし薬が入っていたとしても、厨房の外で加えられたのだろう。
料理長が退室したあと、館長が戻ってきた。
机の上には、グレイの短いメモが並んでいた。
『搬出量二割増
署名は証拠にならない
カーは自然すぎる
シャーリーンは知らないふりが上手い
夜警は眠った
清掃係は赤い書斎を見た
凝乳』
館長は不安そうにそれを見た。
「何か分かりましたか」
「分かったことはあります」
「では」
「ですが、誰を責められるほどのものではありません」
館長は肩を落としたようにも、安堵したようにも見えた。
ジャスパーが暖炉の前から言った。
「全員、少しずつ嘘をついている」
館長は顔を上げた。
「全員、ですか」
グレイはメモをまとめた。
「嘘というより、隠し事です。館長さん、あなたも最初の報告を遅らせた。副館長は正しいことだけを言っている。シャーリーンさんは、知らないと言うには用心深すぎる。夜警は居眠りを隠した。清掃係はシャーリーンさんをかばった。料理長は、副館長の指示を妙だと思いながら従った」
「では、犯人は」
「まだいません」
「まだ?」
「はい。今ここにあるのは、犯人ではなく、隙間です」
グレイは椅子から立ち上がった。
「赤い部屋からは、何かが消えている。公使館からは、何かが増えて出ている。だが、その二つをつなぐ証拠がない」
館長は疲れた顔で言った。
「では、どうされるのです」
「今日のところは、こちらで確認できる範囲の調査は終わりにします」
「終わり、ですか」
「正式な捜査ではありませんから。これ以上、職員の方々を拘束するわけにもいきません」
カー副館長が廊下から戻ってきたのは、その直後だった。どうやら、部屋の外で待っていたらしい。
「それは賢明なご判断です。公使館としても、必要以上に騒ぎを大きくしたくありません」
グレイはカーに向かって微笑んだ。
「ええ。騒ぎを大きくするのは、我々も好みません」
ジャスパーが小さく鼻を鳴らした。
グレイは帽子を手に取った。
「ただし、館長さん。赤い部屋には、しばらく誰も近づけないでください。危険な術式である可能性はまだ残っています」
「分かりました。職員には改めて命じます」
「お願いします」
グレイとジャスパーは公使館を出た。
玄関の外へ出ると、夏の午後の光が石段に薄く落ちていた。第二区の空気は、煤煙と馬車の油と、遠くの川の匂いを含んでいる。
ジャスパーが低く言った。
「本当に終わりか」
「まさか」
「だろうな」
「証言は終わりだ。あとは、動くのを待つ」
グレイは振り返り、公使館の三階を見上げた。
赤い部屋は、今はどこにも見えない。
ただの古い壁の向こうに、ただの古い秘密が眠っているように見えた。
「館長には、術式の分析に時間がかかるとでも言っておいた」
「一周は必要だ、ってやつか」
「それくらいの言い訳なら、誰も疑わない」
「便利な言葉だな。時間を稼ぐには」
「時間を稼ぐためじゃない。待つためだ」
ジャスパーはわずかに目を細めた。
「ここでか?」
「いや」
グレイは短く答えた。
「中だ」
「……最初からそのつもりだったな」
「外で見張っても意味がない。あの扉の前に来るやつを捕まえる」
「館長にも言わずに?」
「言えば止められる。外交問題になるからな」
「もうなってる気もするが」
「まだ表に出ていない。だから、まだ問題じゃない」
ジャスパーは小さく息を吐いた。
「で、どうやって潜る」
「簡単だ。戻るだけだ」
「堂々と出て、こっそり戻る。古典的だな」
「古典はよく当たる」
グレイは外套の内側から、小さな折り紙のようなものを取り出した。薄い紙片が、指先でかすかに震えた。
紙虫だった。
「前の盗難事件で使ったやつか」
「少し改良した。今回は音を拾うより、動きを拾う」
「見張りと罠、両方か」
「そういうことだ」
「公使館に仕掛けるのは、なかなか外交的だな」
「だから警察の捜査ではない。安全顧問の予防措置だ」
「言い方だけで罪が軽くなるなら、世の中は平和だ」
「だから平和じゃないんだ」
グレイは紙虫を指先から放した。
それは夏の埃のように舞い上がり、目立たぬまま、公使館の壁へ吸い寄せられていった。




