第三十一章 物議
春は去り、夏はひそやかに王都へ訪れていた。
街路の石畳は日ごとに熱を帯び、車道の上には煤煙と陽炎が薄く揺れている。だが、外務省西棟の会議室だけは、季節を間違えたように冷え切っていた。
長い楕円形の机を挟み、ニフランド王国の代表団とアストリア合衆国の代表団が向かい合っている。
数時間に及ぶ応酬は、ようやく終わった。
怒号こそなかった。机を叩く者もいなかった。だが、そこにあったのは礼儀正しい会話ではなく、刃を鞘に収めたまま互いの喉元へ押し当てるような交渉だった。
会議室の壁に掛けられた振り子時計だけが、痛いほど鮮明な音を立てている。
かちり、かちり。
主な交渉担当者たちは誰も口を開かなかった。ただ、後列に控える公務員たちだけが、小さくひそひそと囁き合っている。
書記官が最後の文書を整え、署名欄を示した。
ニフランド側の外務次官がペンを取り、名を書く。続いて、アストリア合衆国側の代表も同じように署名した。
紙の上では、すべてが整った。
通商の再開。
港湾の復旧。
鉄道と通信網の再建。
医療団と技術者の派遣。
復興資金の融資。
そして、アストリア合衆国におけるニフランド商会の段階的な営業再開。
どの項目も、いかにも平和的で、いかにも合理的だった。
だが、その場にいる者たちの中に、勝者の顔をしている者は一人もいなかった。
二十年続いたアストリア内戦は、合衆国政府の勝利と、南部盟約の敗北によって終結した。
ニフランド王国は、その間ずっと中立を唱えていた。
だが実際には、王国は裏で銃火器、魔導油、医療物資、鉄道部品を流し、さらには傭兵までも南部盟約へ送り込んでいた。
その事実を、合衆国軍事情報部は把握していた。
ただ、内戦の最中に、海の向こうの王国と全面的に対立する余力はなかった。合衆国政府はひとまずその問題を棚上げし、少しずつニフランドとの繋がりを細らせていった。
そして今、長い内戦がようやく終わり、合衆国は正式に王国との交渉の席についた。
もちろん、戦況を終始観察していた王国も、二年ほど前から関係修復の可能性を何度も匂わせていた。
合衆国側にとって、それは決して愉快な申し出ではなかった。
だが、国土の至るところが荒廃し、港も鉄道も通信網も再建を待っている。復興すべきことが山積している今、合衆国は不快感だけでその手を払いのけることはできなかった。
そのため、合衆国は協議に応じ、最終的に署名へと至った。
そして、数か月に及ぶ剣呑な交渉など最初から存在しなかったかのように、両国の責任者たちは記者たちのマグネシウム閃光灯の前に並び、微笑み、握手を交わし、拍手を受けた。
白昼のような閃光が、会議室を一瞬だけ明るく焼いた。
その光の中で、彼らは友好関係を演じていた。
報道陣が去り、カルデリア側の代表団も控室へ引き上げると、会議室にはようやく疲労だけが残った。
ニフランド側の実務責任者の一人である、エイデン・H・デイヴィス外務省通商復興局次長は、署名済みの文書を見下ろし、小さく息を吐いた。
「……ようやく終わったか」
彼は誰に聞かせるでもなく呟いた。
だが、胸の内では別の言葉が続いていた。
こんな脆い平和が、いったいどれほど保つのか。
エイデンは椅子から立ち上がり、書記官に文書の保管を命じた。自室に戻って、局長への報告を整えなければならない。
そのため会議室を出たところで、彼は廊下に立つ一人の男を見つけた。
四十代の長身。黒い外套。磨かれた靴。人の流れから少し外れた場所に立っているだけで、廊下の温度をわずかに下げるような男だった。
カヴェンディッシュ・ミラー。
警視庁第五課長であり、ニルフヘイヴン大学時代の旧友でもある。
ミラーはエイデンの姿を認めると、ゆっくりと歩み寄ってきた。
エイデンは眉を上げた。
「これはこれは、珍客ではないか。偉大なる課長様は、いかなる御用で我々外務省へお越しになったのかな?」
「よせ、エイデン」
「何、少し揶揄っただけさ。で、本当にどうした。君が外務省に来る時は、だいたい誰かが死んだ後だ」
「今日はまだ死んでいない」
「まだ?」
「言葉の綾だ」
エイデンは何も言わず、ただ不審そうにミラーを見た。
ミラーは肩をすくめる。
「ただ旧友に会いに来ただけ、ということにはならないか」
「君が?」
「ならないな」
「当然だ」
エイデンは呆れたように眉を上げた。
ミラーは周囲を一瞥し、少し声を落とした。
「ここでは話せない」
「外務省の廊下で話せない話を、私に持ち込むな」
「壁に耳がある」
「この建物では、壁どころか床板にも耳がある」
「なら、なおさらだ」
ミラーはエイデンのそばへ寄り、短く囁いた。
「二十分後、女王橋通り三十四番地。レストラン〈銀鴎亭〉の八番個室に来い」
「急だな」
「俺の奢りだ」
「相変わらず自分勝手な男だ」
エイデンは小さく息を吐いた。
「まあ、それでこそミラーか」
「では、後ほど」
ミラーはそれだけ言うと、何事もなかったように廊下を去っていった。
二十分後。
エイデンが約束どおり、高級レストラン〈銀鴎亭〉の八番個室へ入ると、ミラーはすでに窓際の席に座っていた。
扉を開けた瞬間、煙草の煙を含んだ空気が肺に流れ込んできた。部屋に残る薄い煙は、厚いカーテンも、磨き込まれた銀器も、壁に掛けられた古い海戦画も、どこか霞んで見せている。扉の外には、余計なことを聞かないことを職業倫理としている給仕が一人立っていた。
エイデンは椅子を引きながら、少しだけ目を細めた。
「驚いたな」
「何がだ」
「大学時代には一本の煙草も吸えなかった男が、今はそんな顔で巻煙草を吸っている」
ミラーは眉を顰め、指先の煙草を見た。
「吸えるようになったわけではない」
「では、なぜ吸う」
「考え事をしているように見える」
「実際には?」
「している」
エイデンは短く笑った。
「一本、くれ」
ミラーは銀の煙草入れを差し出した。
エイデンが煙草を取り、火をつけるのを待ってから、ミラーはようやく本題に入った。
「最近の貴族街連続盗難事件は知っているか」
「知らないわけがない」
エイデンは煙を吐いた。
「偽造された民意感応紙。郵便受けに仕掛けられた感応紙虫。政府機関と貴族屋敷を一軒ずつ検査する羽目になった。外務省も大騒ぎだったぞ。こっちはカルデリア交渉だけで手一杯だったというのに」
「その件だ」
「お前ら五課が片づけたのではなかったのか」
「片づけた」
ミラーは淡々と言った。
「少なくとも、表向きは」
エイデンの表情がわずかに変わる。
「紙遣いか」
「そこまで知っているのか」
「だから、言ったじゃないか。外務省にも耳はある。床板にもな」
ミラーは否定しなかった。
「事件報告書を公表してから、もう一ヶ月になる。だが、物議はまだ収まっていない」
「三課が叩かれていると聞いた」
「最初はな」
ミラーは煙草を灰皿に押しつけた。
「盗犯課である三課は、盗まれた書簡や帳簿、恐喝材料の流通を止められなかったと非難されている。質屋、盗品商、闇市、密売品の流れ。確かに三課の領分だ」
「では、五課は?」
「近頃、その非難の矛先がこちらにも向き始めた」
エイデンは何も言わなかった。
ミラーは続ける。
「紙蜘蛛。感応紙虫。紙の鳥。魔導犯罪である以上、五課の責任ではないか、というわけだ」
「黒幕を逃がした件もある」
「それもある」
「それだけか?」
「それだけなら、まだ扱いやすい」
ミラーは椅子の背にもたれた。
「三課が議会聴聞会で問われた際、総監が三課を庇った。三課の専門は盗犯であって、感応紙虫のような魔導犯罪を見抜くことは難しかった。初動で五課を入れなかったことも、三課だけの責任とは言えない。そういう趣旨の答弁をした」
「それで、議会の連中を怒らせたわけか」
「まあ、それもある。だが、それ以上に党内紛争の要素が大きい」
「ああ、新首相を気に入らない与党議員か」
エイデンは理解したように頷いた。
「だが、それと君たち警察に何の関係がある?」
「そのうちの一人、ラーソン議員だ」
ミラーの声が少し低くなった。
「彼の息子は、最近、闇市場と貴族街の社交界で流通していた魔導性麻薬を使用していた。紙遣い、あるいはその周辺の者にその秘密を握られ、口止め料を支払った。だが、金だけでは済まなかった」
エイデンは煙草を持つ手を止めた。
「息子は、脅迫と家名失墜への恐怖に追い詰められ、さらに薬に逃げた。そして、過剰摂取で死亡した」
「……気の毒な話だ」
「気の毒な話だ。だが、それだけでは終わらなかった」
ミラーは言った。
「ラーソン議員は、三課、五課、そして警視庁全体を強く批判している。無論、悲しむ父親としての怒りもあるだろう。だが今の首相は、前政権でオスカー国王とともに警察機構の改革を進めた人物だ。ラーソンにとって、これは首相の無能を強調する好機でもある」
「なるほど」
エイデンは細く煙を吐いた。
「君たちは、別々の狩人が撃ち合っている最中に、同じ照準の中へ入った鹿というわけか」
「不愉快な比喩だが、正しい」
「で、俺に何ができる?」
ミラーは待っていたように言った。
「三課と五課の一部を、お前が率いる復興支援団に入れられないか」
エイデンはしばらく考えた。
「それ自体は構わない。むしろ、こちらは人手が足りない。だが、何人ほどだ? それに、警視庁側の承認はどうする」
「警視庁の方は問題ない。五課はもともと議会の承認で動く特殊部署だ。復興支援団への参加も、正式な手続きを通せばよい。人数は、五課から四人。うちの新人は行かせない。三課からは六人と聞いている」
「計十人か」
「多いか」
「いや、お安い御用だ。こちらはむしろ人手が足りない。軍の人間は嫌がっている」
「なぜだ。功績は立たないのか。今は戦時ではないからか?」
「それもある」
エイデンは皮肉っぽく笑った。
「だが、それ以上に、軍の上澄みの連中は中央街のハロウェイから離れたくないのさ。新大陸の泥と蚊と合衆国人の視線に晒されるくらいなら、王都で勲章を磨いていたいのだろう」
「多少は知っている。他の課には、植民戦争の後に軍から転職した者も多い。だが、なぜ下っ端を送らない」
「合衆国側が納得しない」
エイデンは即答した。
「こちらは、内戦中に南部盟約を裏で支援していた疑いを持たれている。そんな相手に、形だけの復興支援団を送ればすぐに見抜かれる。下級官吏や使えない軍人だけを寄こしたとなれば、合衆国側は侮辱と受け取る」
「つまり、本当に使える人間が必要か」
「そういうことだ」
ミラーは頷いた。
「なら、こちらには数名、その凄腕がいる」
「五課の連中か」
「ああ」
「分かった。この件はそれで進めよう。名目はこちらで作る。カルデリア復興鉄道沿線における魔導汚染および治安上の危険評価。外務省から内務省へ正式に人員要請を出す」
「助かる」
「礼を言われると気味が悪いな」
「なら、言わない」
「相変わらずだ」
エイデンは苦笑した。
それから、ふと思い出したように言った。
「ところで、せっかく久しぶりに会ったんだ。仕事以外の話題もないのか」
「たとえば?」
「気に入った人でもいるのか、お前は」
ミラーは心底面倒そうに眉を寄せた。
「ないな」
「即答か」
「エイデンこそ、イングリッドとはまだ結婚しないのか」
今度はエイデンが顔をしかめた。
「なぜそこでイングリッドの名が出る」
「大学時代から出ている」
「お前は本当に、嫌なことだけ覚えているな」
「仕事柄だ」
久しぶりに顔を合わせた同窓の二人は、しばらく昔のように話した。




