第三十章 紙遣
「曹長、イライアス! 追跡鳥で奴らの本拠を探る!」
グレイが紙の小鳥を追って走り出す。
「待て、勝手に先へ行くな!」
曹長は舌打ちし、すぐにイライアスへ目を向けた。
「イライアス、お前も来い。紙の痕跡と足取りを読む役が要る」
「了解です」
二人が走り出すと、曹長は一度だけ振り返り、マイケルに言った。
「マイケル、お前はここに残れ。事情聴取だ。相手は大貴族だ。課長にも一報を入れておけ」
「分かりました」
「逮捕はまだするな。まずは話を聞け。だが、逃がすな」
「厄介な注文ですね」
「お前向きだろう」
そう言い残すと、曹長はグレイとイライアスの後を追い、霧の中へ消えていった。
マイケルは短く息を吐いた。
「……了解」
そのころ、警察が周囲に潜んでいることをまだ知らないレイヴンシャー伯爵と伯爵夫人は、墓地近くに停めていた蒸気車から降り、ベアトリス夫人のもとへ急いでいた。
「それは恋文なの?」
伯爵夫人が、苛立ちを隠さずに尋ねた。
ベアトリス夫人は青ざめた顔で、手にした紙包みを見下ろしていた。
「ええ……そうです。でも、全部ではありません」
「全部ではない?」
伯爵が声を強張らせる。
ベアトリス夫人は、紙包みの外側に貼られていた短信を、震える手で二人に差し出した。
そこには、粗い筆跡でこう書かれていた。
『半分だけだ。 残りは、まだこちらにある。 さらに一千ポンド用意しろ。 次の連絡を待て』
「くそっ」
伯爵は思わず吐き捨てた。
伯爵夫人は何も言わなかった。ただ、その紙片を見つめる目だけが冷たく細くなっていく。
「二度目はありません」
彼女は低く言った。
「一度支払えば、次は二千、三千と増えるだけです。これはもう取引ではない。飼い犬に喉笛を見せているようなものよ」
「では、どうする」
伯爵が問う。
「こちらから首輪をつけるしかないでしょう」
伯爵夫人がそう答えた、その時だった。
霧の奥から、いくつもの灯りが近づいてきた。
カンテラの光だった。
一つ、二つ、三つ。墓石の間を縫うように、淡い光がこちらへ迫ってくる。やがて、その光の中から、私服の警官たちが姿を現した。
伯爵は身構えた。
ベアトリス夫人は小さく息を呑む。
伯爵夫人だけが、表情を変えなかった。
「こんばんは」
マイケルはカンテラを少し高く掲げ、三人の前で足を止めた。
「レイヴンシャー伯爵。レイヴンシャー伯爵夫人。エルムズワース夫人」
彼は丁寧に一礼した。
「警視庁五課です。口止め料の一件について、少しお話を伺いたい」
伯爵の顔色が変わった。
「警察が、なぜここに」
「その質問には、後ほどお答えします」
マイケルは穏やかに言った。
「今はまず、ご同行願えますか。警視庁までお越しいただきます。課長にも報告が必要ですので。でも心配なさらず、あくまでは事情聴取、逮捕されたではありません」
伯爵夫人が静かにマイケルを見た。
「私たちを疑っているの?」
「疑っている、というより、事情を知っている方々だと考えています」
マイケルは視線を逸らさなかった。
「それから、伯爵夫人。蒸気車の中でお休みになっている弁護士殿も、起こしていただけますか」
伯爵夫人の眉がわずかに動いた。
「そこまで知っているのね」
「眠っているかどうかまでは、確信がありませんでした」
マイケルは淡々と言った。
「ただ、今夜の件で一番よく眠れそうな立場ではないと思います」
霧の中で、サラが小さく笑いをこらえた。
伯爵夫人はしばらくマイケルを見ていたが、やがて短く言った。
「いいでしょう」
伯爵が低く抗議しかけた。
「アストリド――」
「行きます」
伯爵夫人は彼を見ずに言った。
「ここで警察と揉める方が、よほど目立ちます」
そして彼女は、手にした紙片をもう一度見下ろした。
「それに、どうやら今夜は、私たちだけで片づけられる段階を過ぎたようです。
ポリス・プラザー 第七取調室
レイヴンシャー伯爵夫人の事情聴取は、課長自らが担当した。
伯爵夫人は背筋を伸ばして椅子に座っていた。狩猟服から着替える暇もなかったのか、袖口にはまだ乾ききらない泥の跡が残っている。それでも彼女の姿勢は崩れず、むしろ取調室の方が彼女の客間であるかのように落ち着いていた。
課長は向かいの席に腰を下ろし、静かに言った。
「レイヴンシャー伯爵夫人。マイケル警部補から説明があったと思いますが、これはあくまで任意の事情聴取です。逮捕ではありません。強制でもありません」
「承知しています」
「したがって、あなたには聴取を拒むことも、別の弁護士を呼ぶこともできます。ただし、家付きの弁護士殿はこの件の関係者です。あなたの代理人として同席させることはできません」
伯爵夫人はわずかに口元を動かした。
「彼を弁護士として頼るつもりはありません」
「では、始めても?」
「どうぞ」
課長は横に控えていた技術係へ目を向けた。
「ロベルト。自動筆を」
「はい」
技術係が小さな真鍮製の箱に触れると、机の端に置かれたペンがひとりでに立ち上がった。紙の上に先端を落とし、かすかな音を立てて走り始める。
しゃしゃ、しゃしゃ。
その音を伴って、事情聴取は始まった。
最初に確認されたのは、名前、住所、身分、事件当夜の行動だった。伯爵夫人は一つ一つ、短く正確に答えた。王室御猟場にいたこと。弁護士から報告を受けたこと。王都へ戻ったこと。レイヴンシャー・ハウスで伯爵と話したこと。千ポンドを自分の私財から出したこと。
やがて、課長は本題に入った。
「確認します。あなたは家付きの弁護士に命じて、エルムズワース夫人の屋敷から恋文を盗ませましたか」
「いいえ」
伯爵夫人は即答した。
「私は盗みを命じていません」
「では、何を命じたのです」
「内密に書簡を回収するよう命じました」
「その言い方では、違法な手段を含むと受け取られる余地があります」
「そう受け取った者がいたなら、その者の問題です」
課長は表情を変えなかった。
「あなたの言葉を正確に」
伯爵夫人は少しだけ考えた。
「私はこう言いました。エルムズワース夫人の手元に残っている私的書簡を、できる限り穏便に、表沙汰にせず回収しなさい、と」
「盗め、とは」
「言っていません」
「脅せ、とは」
「言っていません」
「賊団を使え、とは」
「言っていません」
「エルムズワース夫人との交渉を示唆したのですか」
「ええ」
伯爵夫人は目を伏せなかった。
「金銭で済むなら金銭で。説得で済むなら説得で。いずれにせよ、法に触れない範囲で処理するものと思っていました」
「そう証言するのですね」
「そう証言します」
自動筆が、しゃしゃ、と紙面を走った。
次に呼ばれたのは、家付きの弁護士だった。
彼は夫人とは違い、椅子に座った時点ですでに汗をかいていた。課長が先ほどの調書を閉じ、彼を見据える。
「弁護士殿。伯爵夫人は、あなたに対し、盗みも脅迫も命じていないと証言しました」
弁護士は唇を舐めた。
「……その通りです」
「顧客を守るための嘘ではありませんか」
「違います」
彼は慌てて首を振った。
「少なくとも、その点については夫人の証言は正しい。夫人は、盗めとも、脅せとも、賊団を使えとも命じておりません」
「では、誰がそのようにした」
弁護士は目を泳がせた。
「私が……私設調査員に依頼しました。相手方が保管している書簡の所在を探り、可能ならば回収するように、と」
「その調査員に、盗めと命じましたか」
「いいえ」
「脅せと」
「命じていません」
「賊団を使えと」
「言っておりません」
課長はしばらく黙って彼を見ていた。
「弁護士殿。伯爵夫人の証言は、あなたの証言によって一応裏づけられました。ですが、あなた自身の証言については、少々信じ難いが……」
弁護士の顔がさらに白くなった。
「私は本当のことを――」
「あなたはその私設調査員に、裏稼業との繋がりがあると知っていたのではありませんか」
弁護士は答えなかった。
自動筆だけが、静かに紙面を走っている。
「知っていたのですね」
課長が重ねて言った。
弁護士はついに、かすれた声で答えた。
「……噂は、聞いていました」
「それでも依頼した」
「彼は有能でした。こういう内密の調査には慣れていて……」
「便利だった、ということですね」
弁護士は唇を噛んだ。
「私は、盗みに入れとは命じていません」
「そこは裁判所が判断することです」
課長は淡々と言った。
「今、あなたにできることは、その私設調査員の名前と連絡方法を話すことです」
弁護士はしばらく黙っていた。だが、沈黙は長く続かなかった。
「……名は、エドガー・ロウです」
「住所は」
「決まった住所はありません。事務所も何度も変えています」
「では、どうやって連絡を取る」
「郵便受けです」
課長の目がわずかに細くなった。
「どこの」
「摂政公通りの裏手にある、古い集合郵便受けです。空き家になった商館の壁に残っているもので……そこに、特定の折り方をした封筒を入れます」
「合図は」
「封筒の右上に、小さな黒色の星形の記章」
「中身は」
「短い伝言だけです。場所と時刻。あるいは、返事を受け取る場所」
課長は自動筆の紙面を一瞥した。
「今夜も連絡を取れますか」
弁護士は顔を上げた。
「今夜、ですか」
「ええ」
課長は静かに言った。
「あなたが伝言を書きます。内容はこちらで決める。彼がそれを取りに来たところを押さえる」
弁護士は震える手を膝の上で握りしめた。
「協力すれば、私の立場は――」
「悪くはならないでしょう」
課長は即答しなかった。
「良くなるとまでは言いません。ですが、黙っているよりは賢明です。弁護士殿なら、その程度の損得勘定はできるはずだ」
弁護士は顔をこわばらせた。
「私は……刑務所へ?」
「それは、あなたの協力次第です」
課長は淡々と言った。
「全面的に協力し、こちらが必要とする証言を出すなら、弁護士会の懲戒と、公益労役で済む可能性もある。もちろん、私が保証する話ではありません。あなたの方がよくご存じでしょう。法廷で、どういう者が重く見られ、どういう者がまだ救われるかを」
弁護士は目を閉じた。
そして、観念したように頷いた。
「……書きます」
「よろしい」
「彼は、毎朝六時に郵便受けを確認します。ただし、合図があれば、その日のうちに取りに来ることもあります」
課長は時計を見た。
「なら、ちょうどいい。今日動く」
彼は机の上の紙を弁護士の前に押し出した。
「こう書きなさい。手紙はすべて回収済み。夫人はあなたに報酬を払う。至急、いつもの場所へ」
弁護士は震える手でペンを取った。
自動筆ではなく、自分の手で書かせるためだった。筆跡が違えば、ロウは疑う。
やがて、封筒ができあがった。
右上には、小さな黒色の星形の記章が描かれている。
課長はそれを確認し、マイケルへ目を向けた。
「マイケル。お前が現場を仕切れ」
「了解しました」
「ロウという男が封筒を取った瞬間に押さえろ。ただし、周囲に仲間がいる可能性がある。焦るな」
「はい」
「サラ、ヴィヴィアン、ラクランを連れていけ。逃がすな」
「了解」
マイケルは封筒を受け取り、短く頷いた。
同日、午前五時五十分。
摂政公通りの裏手は、まだ夜の残り香を引きずっていた。
かつて商館だった空き家の壁には、錆びた集合郵便受けが並んでいる。街灯は少なく、霧と煤煙が混じり合い、石畳の先をぼんやりと霞ませていた。
「くそ。この霧はいつ消えるんだ」
マイケルは低く文句を言いながら、路地の角から郵便受けを見張っていた。
その少し先、逃走路になりそうな裏階段の近くにはサラがいる。ヴィヴィアンは通行人を装い、少し離れた店先でショールを直していた。ラクランは馬車道側に立ち、新聞売りの影に紛れて出口を塞いでいる。
封筒はすでに郵便受けの中に入っていた。
右上に、小さな黒い星。
それが合図だった。
しばらくして、黒い外套を着た男が郵便受けに近づいた。
男は三匹の犬を連れていた。
マイケルは目を細める。
男は郵便受けの前を通り過ぎ、少し離れた道を平然と歩き、そのまま摂政公通りの大通りへ向かった。
犬の散歩人だ。
『金持ちに雇われた犬係だろう』その場にいた警官たちは、ほとんど同時にそう判断した。
それから十分ほど、何も起きなかった。
通りかかるのは、早朝の荷車、パン屋の小僧、眠そうな女中、新聞配りだけだった。
マイケルが、今日は来ないかもしれないと思い始めた時だった。
十数名の工員が、足音を揃えて郵便受けの前を通った。
煤で汚れた作業着。肩にかけた工具袋。眠そうな顔。夜明け前の街では、少しも珍しくない一団だった。
サラの目が、その中の一人を捉えた。
灰色の鳥打帽。
他の工員たちより、わずかに歩幅が短い。郵便受けの前を通り過ぎる瞬間、視線だけが横へ滑った。
「あれ」
サラが低く言った。
マイケルは彼女の方を見た。
「どれだ」
「あの灰色の鳥打帽」
「俺には何も見えないが」
「構わない。あいつよ」
サラの目は、獲物を見定める狩人のそれだった。
マイケルは一瞬だけ迷い、それから短く舌打ちした。
「もう知らん」
彼はヴィヴィアンへ合図を送った。
ヴィヴィアンはショールを直すふりをして、ラクランへ視線を投げる。ラクランが新聞を畳み、馬車道側へ一歩出た。
その瞬間、灰色の鳥打帽の男が動いた。
彼は工員の列から外れ、郵便受けへ手を伸ばす。細い金具が一瞬だけ光った。
封筒が抜き取られる。
だが、その動きはわずかに不自然だった。
封筒はそのまま手に残らず、男の懐へ滑り込むように消えた。
「エドガー・ロウさんですね」
マイケルの声が路地に響いた。
男は振り返らなかった。
代わりに、走った。
工員たちを押しのけ、摂政公通りの大通りへ飛び出そうとする。朝の人混みに紛れるつもりだった。
「止まれ!」
ラクランが前へ出る。だが、ロウは身をひねってその脇を抜けた。
サラは足元の小石を拾った。
マイケルが気づくより早かった。
小石が低く飛び、ロウの膝裏を正確に打った。
「ぐっ!」
ロウの足がもつれた。
彼は勢いのまま石畳に転がり、懐を押さえたまま地面に叩きつけられた。
ラクランがすぐに飛びかかり、男の腕をねじり上げる。マイケルがその懐を探り、封筒を引き抜いた。ヴィヴィアンは周囲に目を走らせた。
「見張りがいる」
ヴィヴィアンが短く言った。
通行人に紛れていた痩せた少年が、紙片を一枚落として走り去る。サラが追おうとしたが、マイケルが止めた。
「いい。まずこいつだ」
ラクランに押さえられた男は、荒く息をしながら顔を上げた。
灰色の鳥打帽がずれ、薄い傷跡のある顔が霧の中に現れる。
マイケルは彼の前にしゃがみ込んだ。
「エドガー・ロウ。警視庁五課です」
男は唾を吐こうとしたが、ラクランに腕をさらにひねられ、顔をしかめた。
「何のことだ。人違いだ」
「そうですか」
マイケルは封筒を軽く振った。
「では、人違いのまま、その封筒について説明してもらいましょう」
数分後、ロウは警察馬車の中へ押し込まれた。
サラは手袋についた土を払っている。
マイケルは彼女を睨んだ。
「おい」
「何?」
「今のは危ないだろう。膝裏とはいえ、転び方が悪ければ頭を割っていたぞ」
「大丈夫よ。首は狙ってない」
「どこにも狙うな」
「昔、狩りで生け捕りにする時、希少動物や魔物を気絶させることがあったの。力加減は分かってる」
マイケルは呆れたように彼女を見た。
「人は動物じゃないぞ」
サラは少し考えた。
「逃げる時の動きは、鹿より下手だった」
「そういう問題じゃない」
ヴィヴィアンが横で小さく笑い、ラクランは押し殺した咳払いでそれをごまかした。
額を押さえれ、マイケルはため息まじりに言った。
「……本庁へ戻る。ロウを課長の前に出す。サラ、お前は次に石を投げる時、せめて俺に一言言え」
「言ったら止めるでしょう」
「当然だ」
「だから言わなかったの」
マイケルは深く息を吐いた。
朝霧の中、警察馬車は摂政公通りの裏手を離れた。
その後ろで、錆びた集合郵便受けだけが、何事もなかったように壁に並んでいた。
再び警視庁本庁舎へ戻ると、五課はすぐにエドガー・ロウの取調べを始めた。
だが、椅子に座らされたロウは、意識こそ戻っていたものの、まだ全身を震わせていた。顔は土気色で、唇は青い。馬車の中でよほど怯えたのか、ズボンの下の方は濡れていた。
まともに会話できる状態ではなかった。
「あの、すみません、すみません。金はある。払う。命だけは、勘弁してくれ……!」
震えは声にまで出ていた。
サラは呆れた顔で腕を組んだ。
「おい。こっちは警察よ。暴力団じゃない」
そう言って、彼の椅子の脚を軽く蹴る。倒れはしなかったが、ロウはびくりと肩を跳ねさせた。
「け、警察? 本当に?」
「本当だ」
マイケルはサラを自分の後ろへ押しやり、ロウの前に立った。
「心配しなくていい。今ここであなたに暴力を振るうつもりはない。まずは話を聞くだけだ」
「ほ、本当に?」
「本当に」
マイケルは部屋の外へ目を向けた。
「誰か、着替えのズボンを持ってきてやれ。それから温かい茶もだ」
サラが眉を上げる。
「優しいのね」
「尋問できる状態に戻しているだけだ」
マイケルは低く返した。
しばらくして、ロウは着替えを済ませ、温かい茶を両手で握りしめていた。震えはまだ残っているが、少なくとも言葉は通じるようになっている。
マイケルは机の上に封筒を置いた。
右上には、小さな黒色の星形の記章がある。
「エドガー・ロウ。あなたは私設調査員として、サイモン・ペイン弁護士に雇われた。目的は、ベアトリス・エルムズワース夫人の手元にある手紙を回収すること。間違いありませんか」
ロウは茶碗を見つめたまま、小さく頷いた。
「……はい。その通りです」
「ペイン弁護士は、具体的にどう依頼した」
ロウは少し迷った。
マイケルは何も言わずに待つ。
やがて、ロウは観念したように口を開いた。
「こう言われました。エルムズワース夫人が、レイヴンシャー伯爵からの私的な手紙を持っている。表沙汰になる前に、適当な手段で回収しろ。大事な件だ。しくじるな、と」
「適当な手段、か」マイケルは静かに繰り返した。
「盗め、とは言われたか」
「いいえ」
「脅せ、とは」
「言われていません」
「賊団を使え、とは」ロウは首を振った。
「それも、言われていません」
「では、なぜ賊団が動いた」
ロウは唇を舐めた。「……俺が、話を流しました」
サラの目が細くなる。
マイケルは手で彼女を制し、続けた。
「どこへ」
「昔の仲間です」
「盗賊団か」
ロウはうなだれた。
「俺は、昔、貧民街の盗賊団に出入りしていた情報屋でした。捕まってからは、しばらく警察の密告者をやらされて……その後、私設調査員を名乗るようになったんです。貴族の醜聞とか、家出人とか、盗まれた書簡とか、そういう表に出せない仕事を扱っていました」
「つまり、君はその盗賊団に古い繋がりがあった」
「はい」
「ベアトリス夫人の恋文のことを、その昔の仲間に漏らした」
ロウは黙った。
マイケルの声が少しだけ硬くなった。
「よく考えて答えなさい。あなたの態度と供述は、後で検察にも伝わる。前科持ちの情報屋が、貴族相手の恐喝事件にどこまで関わったか。そこを判断する材料になる」
ロウの肩がまた震えた。
「……最初は、本当に所在を探るだけのつもりだったんです」
「続けて」
「ペイン弁護士から相談を受けた時、俺は、エルムズワース夫人の屋敷の使用人か郵便係から話を拾えばいいと思っていました。だが、昔の仲間に少し話をした。伯爵の恋文があるらしい、と」
「それで?」
「あいつらは、それを好機だと思ったんでしょう。俺が止める前に動いた」
サラが鼻で笑った。
「止める前に、ね」
ロウは彼女を見ないようにして続けた。
「だが、昔の連中は、俺が知っていた頃とは違っていたんです」
マイケルは眉を動かした。
「どう違っていた」
「紙遣いがいた」
その名が出た瞬間、部屋の空気が少し変わった。
「紙遣い?」
サラが聞き返す。
ロウは頷いた。
「そう呼ばれていました。本名は知りません。顔も見たことがない。いつも紙の面をつけていた。声も、紙越しに聞こえるみたいに変だった」
「盗賊団の頭か」
「厳密には違います。あの団には、もともと頭なんていなかった。誰かが次の獲物を提案して、全員で決める。そういう寄せ集めでした」
「では、紙遣いは何をした」
ロウは茶碗を握りしめた。
「提案したんです。貴族街を狙え、と」
マイケルは黙って聞いた。
「民意感応紙を使えば、屋敷の中へ入り込める。感応紙虫を仕込めば、家の秘密を探れる。紙蜘蛛を使えば、どの部屋に何が隠されているか分かる。そういう手口を教えたのは、紙遣いです」
「貴族街で紙を配らせたのも」
「紙遣いの発案です」
「郵便受けに仕掛けたのも」
「そうです」
「屋敷の秘密を探らせたのも」
「そうです」
「墓地の受け渡し場所を、第七十八A墓所に決めたのも紙遣いか」
ロウは一瞬、言葉に詰まった。
「そこまでは……俺は直接聞いていません」
マイケルは目を細めた。
「だが、そうだと思っている」
「はい」
ロウは小さく頷いた。
「少なくとも、俺たちの中に、あんな古い墓地番号を選ぶ奴はいません。あんな場所を知っているのは、紙遣いくらいです」
「紙の大鳥で金を回収する方法は」
「それも紙遣いです。あれは……俺たちには作れない」
サラがマイケルの方を見た。
「墓地で見た鳥ね」
「おそらくな」
マイケルはロウへ視線を戻した。
「盗賊団の拠点はどこだ」
ロウはしばらく黙っていた。
サラが一歩前へ出る。
ロウは慌てて答えた。
「摂政公通りの近くにある空き家です。昔、商館だった建物で、裏口が二つある。地下室もある。集合郵便受けの場所から、そう遠くありません」
マイケルは封筒を机の上に置いた。
「よろしい」
ロウは顔を上げた。
「俺は、検察へ?」
「最終的にはな」
マイケルは立ち上がった。
「だが、その前に、もう少し話してもらう。紙遣いの面、声、使っていた紙、残した印。覚えていることは全部だ」
「全部話します」
ロウは力なく頷いた。
「だから……あいつらに、俺を渡さないでくれ」
「警察に協力している間は、こちらで保護する」
マイケルは淡々と言った。
「その価値がある供述なら、だが」
ロウはまた震え始めた。
同じころ、隣の取調室では、課長がベアトリス夫人とレイヴンシャー伯爵の聴取を終えようとしていた。
ベアトリス夫人の証言は単純だった。脅迫状を受け取って、 指定どおり、聖ブリジット旧教会墓地へ行った。
第七十八A墓所という場所は、脅迫状で初めて知った。
あの墓地へ行ったこともなく、墓所番号にも心当たりはない。
伯爵夫人と直接交渉したこともない。
恋文を盗ませた覚えもない。
次に、伯爵が呼ばれた。
彼は疲れ切っていたが、まだ貴族としての姿勢を保っていた。椅子に座っても背筋は曲げず、声も低く抑えている。
課長は調書を一枚めくった。
「伯爵。あなたは第七十八A墓所の場所を、事前に知っていましたか」
伯爵は短く答えた。
「知っている」
課長の視線が上がる。
「理由を」
「私の職務だ」
「職務?」
「私は都市計画局に関わっている。王都の区画整理、墓地の再配置、道路の拡張、旧墓地の整理。そういう図面を何度も見ている」
伯爵は少し不快そうに続けた。
「聖ブリジット旧教会墓地の古い墓所番号も、仕事上、目にしていた。第七十八A墓所の位置を知っていても、不自然ではない」
「その情報を、誰かに話したことは」
「少なくとも、意識して話したことはない」
「図面を見られる者は?」
伯爵が答えようとした、その時だった。
取調室の外が騒がしくなった。
廊下を走る靴音が近づいてくる。
扉が開き、ロベルトが顔を出した。
「課長。曹長たちが戻りました」
課長は伯爵から視線を外さず、静かに言った。
「入れろ」
数秒後、グレイと曹長が姿を現した。
ただし、イライアスは戻らなかった。彼は摂政公通り近くの空き家に残り、監視を続けている。
「紙の追跡鳥は、例の空き家に入った」
曹長は課長に報告した。
「イライアスを残してある。人の出入りも確認している。踏み込むなら今です」
課長は短く判断した。
「五課だけでは足りない。三課からも人を借りる」
彼はロベルトに命じた。
「至急、三課へ応援要請。対象は摂政公通り裏手の旧商館。連続窃盗および魔導犯罪の拠点と見られる。武装あり、魔導紙あり。逃走経路を塞げ」
「はい」
課長は曹長へ向き直った。
「現場指揮はお前だ。グレイを連れていけ。イライアスと合流しろ」
「了解」
「紙遣いは捕らえられるなら捕らえろ。だが、無理をして死人を出すな」
曹長は帽子をかぶり直した。
「難しい注文ですね」
「お前向きだろう」
曹長は鼻で笑った。
「真似しないでください」
空き家は、表向きには完全に死んだ建物だった。
かつて商館だったその建物は、窓の多くが板で塞がれ、扉には古い鎖が掛かっている。だが裏手には、人ひとりが通れるほどの隙間があった。
イライアスはその向かいの廃屋の陰に身を伏せていた。
曹長たちが合流すると、彼は小声で言った。
「中に少なくとも十二人。酒を飲んでいる者、眠っている者、地下へ降りた者がいます」
「紙遣いは?」
「分かりません」
イライアスは空き家の二階を見上げた。
「ただ、一人だけ妙な者がいます。浮浪者に見えますが、動かない。柱にもたれたまま、ずっと同じ姿勢です」
グレイが目を細めた。
「どこだ」
「二階奥の広間。窓の割れ目から見えました」
曹長は短く頷いた。
「全員、配置につけ」
数分後、五課と三課の警官たちは旧商館を取り囲んだ。
合図は短かった。
扉が破られた。
警官たちが一斉に踏み込む。
中にいた盗賊団員たちは、ほとんど抵抗できなかった。ある者は床に転がって眠っており、ある者は酒瓶を抱えたまま目を丸くし、ある者は立ち上がる前に警棒を突きつけられた。
一階の広間、台所跡、地下へ続く階段。
次々に確保される。
その中には、明らかに賊団員ではなく、寝床代わりに建物へ入り込んでいた浮浪者たちも混じっている。
「こいつらは分けろ」
曹長が命じた。
「本物の浮浪者まで賊にするな。手を見ろ。服を見ろ。道具を持っているか確認しろ」
警官たちが混乱する中、イライアスだけが二階奥を見ていた。
「グレイ」
「何だ」
「やはり、あの男です」
柱にもたれて座る浮浪者らしき人物がいた。
ぼろ布をまとい、顔を伏せ、手足はだらりと投げ出されている。眠っているようにも、酔いつぶれているようにも見えた。
だが、周囲の騒ぎにも反応しない。
あまりに静かだった。
グレイが一歩近づいた瞬間、顔色を変えた。
「曹長」
「どうした」
「あれをすぐ押さえろ」
「浮浪者だぞ」
「違う」
グレイは声を低くした。
「あいつから、馬鹿みたいな量のマーナが漏らしている。特殊な服て隠すつもりだが、それも無駄みたい」
その言葉が終わる前に、柱にもたれていた浮浪者が顔を上げた。
顔はなかった。
そこにあったのは、紙でできた白い面だった。
「押さえろ!」
曹長が叫んだ。
警官たちが飛びかかる。
その瞬間、部屋全体が音を立ててめくれ上がった。
壁が剥がれた。
柱が折れた。
椅子に見えていたものが、床に座っていた浮浪者が、積まれた木箱が、一斉に白い紙へ戻っていく。
「下がれ!」
グレイが叫んだ。
だが、遅かった。
部屋そのものが、何枚もの紙を重ねて作られた偽の空間だった。
紙壁が渦を巻く。
床が沈む。
天井が折り畳まれる。
警官たちも、捕らえられた盗賊団員たちも、剥がれ落ちる紙の波に巻き込まれた。
紙の面をつけた人物だけが、渦の中心に立っていた。
男か女かも分からない。
年齢も分からない。
ただ、薄い紙越しに声がした。
「遅い」
次の瞬間、その人物の背後に、渦巻く紙の穴が開いた。
出口なのか、通路なのか、ただの錯覚なのかも分からない。
紙遣いはそこへ一歩下がった。
曹長が手を伸ばす。
グレイが魔導紙を投げる。
だが、紙遣いの姿は、めくれ上がる白い紙の中へ吸い込まれるように消えた。
残ったのは、崩れ落ちる紙の部屋だけだった。
旧商館の二階は、数時間にわたって混乱した。
警官たちは、折り畳まれた紙壁の中から仲間を引きずり出さなければならなかった。盗賊団員の数人も紙の下敷きになり、泣き喚いて助けを求めていた。
幸い、死者は出なかった。
だが、誰もが紙屑と埃にまみれ、怒鳴り声と咳と罵声が建物中に響いた。
「紙でできた部屋に閉じ込められるとはな」
曹長は紙片を払い落としながら吐き捨てた。
「長く警官をやっているが、これは初めてだ」
グレイは、崩れた紙壁の一部を拾い上げていた。
「普通の魔導紙じゃない」
「分かるのか」
「分かる」
グレイは紙を指で挟んだ。
「術式が薄い。だが、マーナの残り香が濃すぎる。紙に術を載せたんじゃない。紙そのものを従えている」
イライアスが、瓦礫のように積もった紙片を見下ろした。
「つまり、あれが紙遣い」
「たぶんな」
「顔は?」
「見ていない」
曹長が近くの盗賊団員を睨んだ。
「お前らは見たのか」
盗賊団員は首を振った。
「知らねえ。本当に知らねえんだ。いつも紙の面をつけてた。声も違って聞こえた。男か女かも分からねえ」
「本名は」
「知らねえ」
「知っていることは」
「紙を……生き物みたいに動かした。それだけだ」
ほかの団員たちもほぼ同じだった。
紙遣いの顔を知らない。
声もわからない。
本名も知らない。
知っているのは、紙の面をつけていたことと、紙を生き物のように操ったことだけだった。
旧商館からは、証拠品が山ほど見つかった。
民意感応紙の束。
感応紙虫の残骸。
紙蜘蛛の未使用品。
貴族街の屋敷名を書いた一覧。
使用人の出入りを記録した紙片。
被害宅の間取り。
盗まれた帳簿類。
宝飾品の一部。
ベアトリス・エルムズワース夫人の恋文の残り。
そして、レイヴンシャー家が支払った千ポンドの鞄。
ただし、過去の恐喝で得た金はほとんど残っているのはかなり少ない。
盗品を売り払った金。
他の被害者から巻き上げた口止め料。
その大半は消えていた。
曹長は空になった金庫を見て、低く言った。
「紙遣いが持っていったな」
グレイは答えなかった。
曹長はさらに不機嫌そうに続けた。
「賊団は捕まえた。証拠もある。恋文も鞄も戻った。事件本体は解決だ」
「ですが」
イライアスが言う。
「紙遣いは逃げた」
「ああ」
曹長は歯を食いしばった。
「一番厄介な奴だけが、な」
盗賊団は逮捕された。
エドガー・ロウも逮捕された。
サイモン・ペイン弁護士は刑事責任を問われる可能性があり、少なくとも弁護士としての職を失うことになる。
レイヴンシャー伯爵夫人は逮捕されなかった。
彼女は最後まで、弁護士に「私的書簡を内密に回収せよ」と命じただけだと主張した。盗み、脅迫、賊団の使用を命じた証拠はない。弁護士もその点については彼女の証言を認めている。
五課としては、伯爵夫人を立件できなかった。
だが、曹長は彼女を無罪だとは見ていない。
「伯爵夫人を捕まえるのは無理だな」
彼は報告書を閉じながら言った。
「盗めとも脅せとも命じた証拠がない」
「無罪だと思いますか」
イライアスが尋ねる。
「まさか」
曹長は短く笑った。
「火種を投げ込んだのはあの女だ。貴族の火遊びは、下の連中を燃やす。今回はその典型だ」
回収された恋文は、マイケル立ち会いのもとで焼却された。
「いえ、三人はいずれに不起訴処分だ」検察官と相談した課長は取調室を出て、どうしようない顔をしてた「伯爵夫人は王家のコネを使って、三人共無罪にする」
「ええ、仲良し大家族ですね」
ベアトリス・エルムズワース夫人、レイヴンシャー伯爵、レイヴンシャー伯爵夫人の三人が同席した。
和解はなかった、無論仲良し大家族なんかじゃない。
誰も、相手に謝らなかった。
ただ、封蝋のついた手紙が一通ずつ火にくべられ、黒く縮み、灰になっていくのを見ていた。
最後の一通が燃え落ちたとき、伯爵夫人はベアトリス夫人を見た。
「これで終わりです」
ベアトリス夫人は顔を上げた。
伯爵夫人は静かに続けて、ベアトリス夫人に顔を向けた。
「あなたなちも不起訴処分にした。だから、もう二度と、レイヴンシャー家に関わらないでください」
ベアトリス夫人は小さく頷いた。彼女は口を噛んで、微か細い血の筋が見えている。
「……分かりました」
伯爵は何も言えなかった。
公式発表は簡潔なものになった。
王都貴族街で発生していた連続盗難事件について、警視庁五課は窃盗団を摘発し、複数名を逮捕した。
押収品には、金品、私的書簡、帳簿類が含まれていた。
恋文、口止め料、レイヴンシャー家の醜聞については、公表されなかった。
三日後。
聖ブリジット旧教会墓地から警察の警戒線が撤去された。
第七十八A墓所の前に、一人の人物が立っていた。
男か女かは分からない。
顔は薄い面布に隠され、帽子のつばが目元を覆っている。
第七十八A墓所は、百二十年前に作られた古い墓だった。墓標に刻まれているのは、紙遣いの曽祖父の名である。
だが、その下には、もう一人が眠っていた。
紙遣いの母だった。
金がなく、正式な墓を買えなかった母は、墓標に名を刻まれることもなく、古い一族墓の片隅に葬られていた。
人物は墓石の前に膝をついた。
「母さん」
声は小さかった。
「あなたを踏みにじった連中には、報いを受けさせた」
風が草を揺らした。
「安らかに眠って」
その人物は、懐から数枚の白い紙を取り出した。
紙は指先で折れ、羽根を持ち、首を持ち、目のない小さな鳩になった。
一羽。
二羽。
三羽。
やがて十数羽の紙鳩が、墓石の上から一斉に飛び立った。
白い羽が、朝の薄い光の中でちらつく。
紙鳩が空へ消えた時、その人物の姿も、もうどこにもなかった。
数日後。
王都の南西にある軍港都市ダスクポートでは、朝霧の中、新大陸行きの蒸気船が出港準備を進めていた。
軍艦、商船、移民船、貨物船が並び、港は早朝から騒がしい。汽笛、荷馬車の車輪、船員の怒鳴り声、移民たちの泣き声と笑い声が、霧の中で混じり合っていた。
その人混みの中に、一人の旅人がいた。
性別も年齢も分からない。
顔は広いつばの帽子と薄い面布で隠されている。
手には、何の変哲もない鞄が一つだけあった。
船員が乗船券を確認する。
「名前は?」
旅人は小さな紙片を差し出した。
そこには偽名が書かれている。
船員は特に疑うこともなく、乗船を許した。
「新大陸行きだ。三等船室は下だぞ」
旅人は何も言わず、船へ乗り込んだ。
その足元で、一枚の白い紙片が風に転がった。
紙片は埠頭の端まで流れ、そこでふわりと浮いた。
まるで小さな鳥のように。
汽笛が鳴る。
蒸気船がゆっくりと岸を離れる。
波が埠頭を叩く音の中で、白い紙片は一度だけ震えた。まるで、誰かの笑い声を覚えているかのように。




