第二十九章 埋伏(まいふく)
レイヴンシャー伯爵は、三階のバルコニーに立っていた。
音楽会はようやく終わった。客の多くは帰り、残っているのは伯爵の叔母であるレディ・オーガスタと、数人の親しい客、それに後片づけに追われる使用人たちだけだった。
伯爵は異国から取り寄せた煙草を一本取り出し、火を点けた。
柔らかな夜風が、彼の頬をかすめていく。まるで一日の疲労を、少しずつ外へ連れ出してくれるようだった。
音楽会の主催者としての挨拶。客との会話。ベアトリス夫人をなだめるための密会。叔母への礼。使用人への指示。
体の芯が、今にも崩れそうだった。
その時、廊下の向こうから、急いた靴音が聞こえた。
伯爵は眉をひそめた。
まだ客が残っているのか。
そう思いながら部屋へ戻り、扉を開けた瞬間、彼は言葉を失った。
そこに立っていたのは、レイヴンシャー伯爵夫人だった。
その背後には、青ざめた顔の家付き弁護士が控えている。
「……アストリド」
伯爵は思わず、妻の名を呼んだ。
「戻っていたのか」
伯爵夫人は、返事をしなかった。
彼女は狩猟服のままだった。裾には泥が跳ね、手袋には手綱の跡が残っている。だが、その姿は乱れているというより、むしろ戦場から戻った士官のように見えた。
「よくその名で呼べるわね」
彼女は低く言った。
「自分が何をしでかしたか、分かっているの?」
伯爵の顔から、わずかに血の気が引いた。
「何のことだ」
「恋文のことよ」
その一言で、伯爵は黙った。
夫人は一歩、部屋の中へ入った。
「千ポンドの口止め料を要求されたそうね」
「なぜ、それを……」
「説明なさい」
夫人は背後の弁護士へ、冷たい視線を向けた。
「はい」
弁護士は慌てて姿勢を正した。
「伯爵閣下。実は、夫人は以前、閣下とエルムズワース夫人との私的な書簡の存在をお知りになりました。その一部はすでに夫人の手で処分されましたが、エルムズワース夫人の手元に残っている分について、内密に回収するよう、私が命じられておりました」
伯爵は夫人を見た。
「君が?」
「そうよ」
夫人は平然と答えた。
「盗ませろとは言っていない。脅迫しろとも言っていない。ただ、あの女の手元に残っている手紙を、内密に回収しろと命じただけ」
弁護士はますます小さくなった。
「しかし、私が依頼した私設調査員が、以前から裏稼業の者たちと関わりを持っていたようでして……その伝手から、情報が賊団に流れたものと思われます」
伯爵はゆっくりと息を吸った。
それから、弁護士を見た。
「つまり、この騒ぎは貴様の仕業か」
「申し訳ございません」
「申し訳ございませんで済むと思っているのか」
伯爵の声が荒くなった。
「だから言っただろう。この男は信用できないと。家の秘密を扱わせるには軽すぎる。何度もそう言ったはずだ」
「今さら弁護士を責めても、手紙は戻らないわ」
伯爵夫人は冷たく言った。
「責める相手を選んでいる場合ではないでしょう」
伯爵は彼女へ向き直った。
「では、君を責めればいいのか」
一瞬、部屋の空気が硬くなった。
「君が手紙を探らせた。君がこの男に命じた。その結果、ベアトリスは脅され、私も脅されている。違うか」
「違わないわ」
伯爵夫人は即座に認めた。
そのあまりの早さに、伯爵の方が言葉に詰まった。
「けれど、私は盗賊に頼んだ覚えはない。あなたもそれくらい分かっているはずよ」
「分かっているかどうかではない。君が始めたことだ」
「あなたが書いた手紙でしょう」
伯爵夫人の声が、わずかに鋭くなった。
「私が始めたのではない。あなたとあの女が、私に隠して始めたことよ」
伯爵は黙った。
夫人は彼を見据えたまま続けた。
「でも、夫婦喧嘩は後にしましょう。今夜片づけるべき相手は、あなたでも、私でも、あの女でもない」
「賊団か」
「ええ」
夫人は言った。
「「レイヴンシャー家の名を、盗人どもの商売道具にさせるつもりはないわ」
伯爵夫人はそう言い切ったあと、伯爵をまっすぐに見た。
「そういえば、あなたは銀行家に話を通すつもりだったのでしょう」
伯爵の表情がわずかに動いた。
「なぜそれを」
「あなたの考えることくらい分かるわ。昔から、追い詰められると一番まっすぐで、一番危ない道を選ぶ人だもの」
「危ない?」
「銀行家に急な借り入れを頼めば、明日の昼には王都中が知るわ。レイヴンシャー伯爵が、夜のうちに千ポンドを必要としている、と」
伯爵は唇を引き結んだ。
「では、どうする」
「金は私が出します」
「君が?」
「ええ」
伯爵夫人は迷わず答えた。
「私の私財から出す。家の帳簿には残さない。銀行家にも証券仲買人にも頭を下げない。噂を増やさずに済む」
「君の金を使えと?」
「あなたの恋文を買い戻すためにね」
その声には、刃のような冷たさがあった。
伯爵は顔をしかめた。
「それで、私に借りを作らせるつもりか」
「借りではないわ。これは事態の収拾よ」
「都合のいい言葉だな」
「便利な言葉よ。軍ではよく使うわ。誰が悪いかを怒鳴り合う前に、まず被害を広げない。今回はそれをするだけ」
「君は軍隊ではない。私は君の部下でもない」
「ええ。あなたは私の夫よ」
伯爵夫人は一歩近づいた。
「だからこそ、家の名を台無しにする前に止めているの」
伯爵の目に怒りが浮かんだ。
「君にそれを言われる筋合いがあるのか」
「ないわ」
伯爵夫人は即座に言った。
あまりに早い返答に、伯爵は一瞬黙った。
「私にも愛人はいる。男もいたし、女もいた。そこは否定しない」
「ならば――」
「けれど、私の不貞はまだ恐喝状になっていない」
伯爵は言葉を失った。
伯爵夫人は続けた。
「私はあなたに、聖人になれと言っているのではない。今後一切、誰にも心を動かすな、とも言わない。そんな資格は私にはない」
彼女の声が、少しだけ低くなった。
「けれど、エルムズワース夫人とは終わりにしなさい」
「ベアトリスを責めるな」
「責めているわけではないわ。処理しているの、damgage control (事態の収拾)だ」
「人を物のように言うな」
「では、どう言えば満足するの?」
伯爵夫人の目が細くなった。
「あの女は、あなたの恋人である前に、レイヴンシャー家の醜聞の中心になった。あなたが望もうと望むまいと、今夜からそういう存在よ」
「それは君の弁護士が――」
「ええ。私の弁護士がしくじった。だから私は今ここにいる」
伯爵夫人は背後の弁護士を一瞥した。
弁護士は縮み上がった。
「申し訳ございません。ですが、お二人とも、まずは落ち着いて――」
「黙りなさい」
夫婦の声が、ほとんど同時に重なった。
弁護士は口を閉じた。
伯爵は深く息を吐いた。
「私は、彼女を見捨てるつもりはない」
「見捨てなさいとは言っていないわ。今夜、手紙は取り戻す。金も出す。彼女が墓地へ行くなら、無事に帰れるよう手配もする」
「それで?」
「その後は終わり」
「君が決めることではない」
「いいえ。今は私が決める」
伯爵夫人の声は静かだった。
「あなたが決めようとした結果がこれよ。恋文を盗まれ、脅され、銀行家に駆け込もうとしている。次にどうするかを決める権利は、少なくとも今夜だけは、あなたにはない」
伯爵の拳が震えた。
「アストリド」
「その名で呼ばないで」
「君はいつもそうだ」
伯爵は苦く言った。
「軍の作戦のように、人の感情まで配置しようとする」
「あなたはいつもそうよ」
伯爵夫人も即座に返した。
「感情という言葉を盾にして、後始末を誰かに押しつける」
二人はしばらく睨み合った。
やがて、伯爵の方が先に視線を逸らした。
「……金を出すと言ったな」
「ええ」
「ベアトリスには、君の金だとは言わない」
「構わないわ。むしろ言わないでちょうだい。あの女と話すつもりはない」
「彼女を責めるな」
「まだ庇うのね」
「彼女も脅されている」
「知っているわ」
伯爵夫人は短く答えた。
「だから、今夜は助ける。けれど、それと今後も続けることは別問題よ」
伯爵はしばらく黙っていた。それから、低く言った。
「……分かった」
伯爵夫人は表情を変えなかった。
「何が分かったの」
「金は君から受け取る。銀行家には話さない。ベアトリスには、私から渡す」
「そして?」
伯爵は苦しげに目を閉じた。
「今夜の件が終わったら、彼女とは会わない」
「手紙も?」
「残っているものはすべて回収する。私の手元にあるものも処分する」
「約束できるのね」
伯爵は、しばらく妻を見た。
「約束する」
伯爵夫人はようやく頷いた。
「では、事態の収拾を始めましょう」
午前三時の五課は、昼間よりもよほど静かだった。
暖炉の火はほとんど落ち、机の上には飲み残しの紅茶と、レイヴンシャー・ハウスから持ち帰った報告書が散らばっている。
「つまり、あの家の者たちはこう言ったわけだ」
マイケルは眠気を押し殺しながら、五課の面々に報告を終えた。
隣の椅子では、サラがすでに眠っていた。耳の後ろに神経連結魔導紙を当て続け、屋敷の使用人と客を避けながら一晩近く盗聴を続けたのだ。疲れ切って当然だった。
「レイヴンシャー伯爵夫人が金を出す。伯爵はそれをベアトリス夫人へ渡す。そしてベアトリス夫人は、予定どおり聖ブリジット旧教会墓地へ行く」
グレイは椅子の背に腕を掛けたまま、欠伸まじりに言った。
「じゃあ、こっちの計画は変わらないな。墓地で待ち伏せだ」
「そういうことだ」
曹長は机の上の古地図を叩いた。
「指定時刻は明日の夜十一時。われわれは一時間前、午後十時に配置につく。場所は事前に決めた通りだ。AからDまで、各自の持ち場を間違えるな」
彼は地図上の印を順に指した。
「A、旧鐘楼。上から墓地全体を見る。マイケル、イライアス」
「了解です」
「B、小丘の陰。第七十八A墓所を斜めから押さえる。グレイ、サラ」
グレイは眠そうに片手を上げた。
「了解」
「C、墓地の正門。D、南側の抜け道。制服組を私服で置く。追うな。合図があるまで動くな。相手が一人とは限らん」
曹長は全員を見回した。
「目的は金ではない。受け取り役を押さえ、賊団への道をたどることだ。分かったな」
「了解!」
「よし。今日は解散。寝ろ。明日の夜、寝不足で墓石に頭をぶつけるような奴は置いていく」
その言葉で、ようやく五課の一日は終わった。
翌夜。
聖ブリジット旧教会墓地は、薄い霧に沈んでいた。
街灯が等間隔に立ち並び、橙色の光をぼんやりと滲ませている。霧はその光を吸い込み、輪のように広げ、墓地全体を淡く照らしていた。光の届くところでは墓石の輪郭が浮かび上がり、届かないところでは闇が濃く沈む。視界は決して悪くないが、距離感が曖昧になる、不気味な明るさだった。
かつて教会だった建物は、半分崩れた石壁だけを残している。墓地の一部は公園に呑み込まれ、古い墓石は草の間から黒い歯のように突き出していた。街灯の光が石の縁をなぞり、濡れた表面を鈍く光らせている。
旧鐘楼の上では、マイケルが双眼鏡を構えていた。その隣で、イライアスが古地図と現地の配置を何度も見比べている。
「どうだ。怪しい人物は?」
イライアスが低く尋ねた。
「今のところ、いない」
マイケルは双眼鏡から目を離さずに答えた。
「ベアトリス夫人は?」
「三十分前から第七十八A墓所の前にいる。かなり怯えているな」
第七十八A墓所の前では、ベアトリス夫人が黒い外套を握りしめ、何度も周囲を見回していた。街灯の光が霧越しに彼女の輪郭をぼかし、顔の表情を曖昧にする。だが、その落ち着きのなさだけははっきりと伝わってきた。
墓石の上には、革の鞄が置かれている。
その中に、千ポンドが入っているはずだった。
「十一時十分」
マイケルは懐中時計を見た。
「指定時刻を過ぎた。賊は来ないのか」
「来ているのかもしれない」
イライアスが呟いた。
「どこに?」
「まだ分からない」
そのころ、小丘の陰では、サラが苛立たしげに身を低くしていた。
街灯の光はここまで届かず、霧だけが白く漂っている。遠くの灯りがぼんやりと滲み、影と光の境界が曖昧だった。
「何なのよ。もう十分も過ぎているじゃない。墓石の上に金入りの鞄を置かせて、そのまま放置なんて、いくらなんでも奇妙だわ」
隣に伏せていたグレイは答えなかった。
彼は墓地を見ていなかった。
空を見ていた。
街灯の光が霧に反射し、空は完全な闇ではなく、淡く濁った灰色に見える。その中に、何かが動けば、影として浮かび上がるはずだった。
「……まずいな」
「何が?」
「地上に来る気がない」
サラは一瞬、意味が分からずグレイを見た。
「どういうこと?」
「連中は、地面を歩いて鞄を取りに来る必要がないんだ」
グレイは懐に手を入れ、残っていた魔導紙を取り出した。次の瞬間、彼は人差し指と中指を噛み切り、血で術式を描き始めた。サラは「万年筆なら持っているけど」と言いかけた。だが、彼があまりにも真剣な顔でそのまま血文字を書き続けるので、なんとなく言い出せなくなり、気まずく黙り込んだ。
「サラ。紙はあるか」
「え?」
「魔導紙だ。何枚持ってる」
「三枚だけ」
「十分だ。こっちに九枚ある。合わせて十二枚。追跡用なら、ぎりぎりいける」
「ちょっと、何を――」
サラが言い終える前に、グレイは魔導紙を膝の上で素早く継ぎ合わせ始めた。
紙片に細い銀線が走り、折り目が増え、鳥の骨格のような形が浮かび上がる。
その時だった。
小丘の上に、巨大な影が落ちた。
サラは反射的に顔を上げた。
霧に滲んだ街灯の光の中で、その影ははっきりと輪郭を持っていた。光を遮ることで、逆に存在が浮かび上がる。
霧の上を、紙でできた巨大な鳥が滑るように飛んでいた。
鴉にも、鳶にも見える。翼は何枚もの魔導紙を重ねたように薄く、しかし人一人を乗せられるほど大きい。その背には、黒い目出し帽をかぶった人影がまたがっていた。
「空から――」
サラが呟いた瞬間、紙鳥は急降下した。
翼が墓石すれすれをかすめる。街灯の光が紙の表面を一瞬だけ照らし、白い羽が鋭く光った。
ベアトリス夫人は小さく悲鳴を上げ、後ずさった。
黒い人影が身を乗り出し、墓石の上の鞄を掴む。
同時に、何かを墓石の上へ落とした。
封をされた紙包みだった。
次の瞬間、紙鳥は再び翼を広げ、霧の中へ舞い上がった。街灯の光を横切り、その影が一瞬だけ大きく伸び、すぐに霧に溶けて消える。
「グレイ!」
サラが叫ぶより早く、グレイは手の中の紙鳥を完成させていた。
大きさは雀ほどしかない。翼の左右も少し不揃いで、飛び立つ前から頼りない。
「ほら、飛べ」
グレイが指を離す。
紙の小鳥は一度だけぐらりと沈み、それから不安定な羽ばたきで空へ上がった。街灯の光を受けて、銀の線がかすかに光る。
「追え」
グレイが低く命じた。
紙鳥は巨大な影の消えた方角へ、ふらつきながらも飛んでいった。
サラは拳銃に手をかけたまま、空を見上げていた。
「……地上を張っていた私たちが、馬鹿みたいじゃない」
「馬鹿じゃない」
グレイは目を細めた。
「相手が一枚上手だっただけだ」
旧鐘楼の上でも、マイケルが同じ影を見ていた。
「空だ!」
彼は双眼鏡を下ろし、鐘楼の下へ向かって叫んだ。
「受け取り役は空から来た! グレイが追跡を出した!」
イライアスは第七十八A墓所を見た。
ベアトリス夫人はその場に立ち尽くしている。
墓石の上には、金の鞄の代わりに、紙包みが一つ残されていた。街灯の光がその表面を淡く照らし、封の影をくっきりと浮かび上がらせている。
「手紙か」
イライアスは呟いた。
「あるいは、罠か」
夜霧の中で、紙の小鳥だけが、かすかな銀色の尾を引いて飛んでいた。




