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濃霧の守り人 ~失業した魔物狩りたちは第五課の刑事になる~  作者: 朝飯の秋刀魚
第三部 復帰編

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第二十九章 埋伏(まいふく)

 レイヴンシャー伯爵は、三階のバルコニーに立っていた。


 音楽会はようやく終わった。客の多くは帰り、残っているのは伯爵の叔母であるレディ・オーガスタと、数人の親しい客、それに後片づけに追われる使用人たちだけだった。


 伯爵は異国から取り寄せた煙草を一本取り出し、火を点けた。


 柔らかな夜風が、彼の頬をかすめていく。まるで一日の疲労を、少しずつ外へ連れ出してくれるようだった。


 音楽会の主催者としての挨拶。客との会話。ベアトリス夫人をなだめるための密会。叔母への礼。使用人への指示。


 体の芯が、今にも崩れそうだった。


 その時、廊下の向こうから、急いた靴音が聞こえた。


 伯爵は眉をひそめた。


 まだ客が残っているのか。


 そう思いながら部屋へ戻り、扉を開けた瞬間、彼は言葉を失った。


 そこに立っていたのは、レイヴンシャー伯爵夫人だった。


 その背後には、青ざめた顔の家付き弁護士が控えている。


「……アストリド」


 伯爵は思わず、妻の名を呼んだ。


「戻っていたのか」


 伯爵夫人は、返事をしなかった。


 彼女は狩猟服のままだった。裾には泥が跳ね、手袋には手綱の跡が残っている。だが、その姿は乱れているというより、むしろ戦場から戻った士官のように見えた。


「よくその名で呼べるわね」


 彼女は低く言った。


「自分が何をしでかしたか、分かっているの?」


 伯爵の顔から、わずかに血の気が引いた。


「何のことだ」


「恋文のことよ」


 その一言で、伯爵は黙った。


 夫人は一歩、部屋の中へ入った。


「千ポンドの口止め料を要求されたそうね」


「なぜ、それを……」


「説明なさい」


 夫人は背後の弁護士へ、冷たい視線を向けた。


「はい」


 弁護士は慌てて姿勢を正した。


「伯爵閣下。実は、夫人は以前、閣下とエルムズワース夫人との私的な書簡の存在をお知りになりました。その一部はすでに夫人の手で処分されましたが、エルムズワース夫人の手元に残っている分について、内密に回収するよう、私が命じられておりました」


 伯爵は夫人を見た。


「君が?」


「そうよ」


 夫人は平然と答えた。


「盗ませろとは言っていない。脅迫しろとも言っていない。ただ、あの女の手元に残っている手紙を、内密に回収しろと命じただけ」


 弁護士はますます小さくなった。


「しかし、私が依頼した私設調査員が、以前から裏稼業の者たちと関わりを持っていたようでして……その伝手から、情報が賊団に流れたものと思われます」


 伯爵はゆっくりと息を吸った。


 それから、弁護士を見た。


「つまり、この騒ぎは貴様の仕業か」


「申し訳ございません」


「申し訳ございませんで済むと思っているのか」


 伯爵の声が荒くなった。


「だから言っただろう。この男は信用できないと。家の秘密を扱わせるには軽すぎる。何度もそう言ったはずだ」


「今さら弁護士を責めても、手紙は戻らないわ」


 伯爵夫人は冷たく言った。


「責める相手を選んでいる場合ではないでしょう」


 伯爵は彼女へ向き直った。


「では、君を責めればいいのか」


 一瞬、部屋の空気が硬くなった。


「君が手紙を探らせた。君がこの男に命じた。その結果、ベアトリスは脅され、私も脅されている。違うか」


「違わないわ」


 伯爵夫人は即座に認めた。


 そのあまりの早さに、伯爵の方が言葉に詰まった。


「けれど、私は盗賊に頼んだ覚えはない。あなたもそれくらい分かっているはずよ」


「分かっているかどうかではない。君が始めたことだ」


「あなたが書いた手紙でしょう」


 伯爵夫人の声が、わずかに鋭くなった。


「私が始めたのではない。あなたとあの女が、私に隠して始めたことよ」


 伯爵は黙った。


 夫人は彼を見据えたまま続けた。


「でも、夫婦喧嘩は後にしましょう。今夜片づけるべき相手は、あなたでも、私でも、あの女でもない」


「賊団か」


「ええ」


 夫人は言った。


「「レイヴンシャー家の名を、盗人どもの商売道具にさせるつもりはないわ」


 伯爵夫人はそう言い切ったあと、伯爵をまっすぐに見た。


「そういえば、あなたは銀行家に話を通すつもりだったのでしょう」


 伯爵の表情がわずかに動いた。


「なぜそれを」


「あなたの考えることくらい分かるわ。昔から、追い詰められると一番まっすぐで、一番危ない道を選ぶ人だもの」


「危ない?」


「銀行家に急な借り入れを頼めば、明日の昼には王都中が知るわ。レイヴンシャー伯爵が、夜のうちに千ポンドを必要としている、と」


 伯爵は唇を引き結んだ。


「では、どうする」


「金は私が出します」


「君が?」


「ええ」


 伯爵夫人は迷わず答えた。


「私の私財から出す。家の帳簿には残さない。銀行家にも証券仲買人にも頭を下げない。噂を増やさずに済む」


「君の金を使えと?」


「あなたの恋文を買い戻すためにね」


 その声には、刃のような冷たさがあった。


 伯爵は顔をしかめた。


「それで、私に借りを作らせるつもりか」


「借りではないわ。これは事態の収拾よ」


「都合のいい言葉だな」


「便利な言葉よ。軍ではよく使うわ。誰が悪いかを怒鳴り合う前に、まず被害を広げない。今回はそれをするだけ」


「君は軍隊ではない。私は君の部下でもない」


「ええ。あなたは私の夫よ」


 伯爵夫人は一歩近づいた。


「だからこそ、家の名を台無しにする前に止めているの」


 伯爵の目に怒りが浮かんだ。


「君にそれを言われる筋合いがあるのか」


「ないわ」


 伯爵夫人は即座に言った。


 あまりに早い返答に、伯爵は一瞬黙った。


「私にも愛人はいる。男もいたし、女もいた。そこは否定しない」


「ならば――」


「けれど、私の不貞はまだ恐喝状になっていない」


 伯爵は言葉を失った。


 伯爵夫人は続けた。


「私はあなたに、聖人になれと言っているのではない。今後一切、誰にも心を動かすな、とも言わない。そんな資格は私にはない」


 彼女の声が、少しだけ低くなった。


「けれど、エルムズワース夫人とは終わりにしなさい」


「ベアトリスを責めるな」


「責めているわけではないわ。処理しているの、damgage control (事態の収拾)だ」


「人を物のように言うな」


「では、どう言えば満足するの?」


 伯爵夫人の目が細くなった。


「あの女は、あなたの恋人である前に、レイヴンシャー家の醜聞の中心になった。あなたが望もうと望むまいと、今夜からそういう存在よ」


「それは君の弁護士が――」


「ええ。私の弁護士がしくじった。だから私は今ここにいる」


 伯爵夫人は背後の弁護士を一瞥した。


 弁護士は縮み上がった。


「申し訳ございません。ですが、お二人とも、まずは落ち着いて――」


「黙りなさい」


 夫婦の声が、ほとんど同時に重なった。


 弁護士は口を閉じた。


 伯爵は深く息を吐いた。


「私は、彼女を見捨てるつもりはない」


「見捨てなさいとは言っていないわ。今夜、手紙は取り戻す。金も出す。彼女が墓地へ行くなら、無事に帰れるよう手配もする」


「それで?」


「その後は終わり」


「君が決めることではない」


「いいえ。今は私が決める」


 伯爵夫人の声は静かだった。


「あなたが決めようとした結果がこれよ。恋文を盗まれ、脅され、銀行家に駆け込もうとしている。次にどうするかを決める権利は、少なくとも今夜だけは、あなたにはない」


 伯爵の拳が震えた。


「アストリド」


「その名で呼ばないで」


「君はいつもそうだ」


 伯爵は苦く言った。


「軍の作戦のように、人の感情まで配置しようとする」


「あなたはいつもそうよ」


 伯爵夫人も即座に返した。


「感情という言葉を盾にして、後始末を誰かに押しつける」


 二人はしばらく睨み合った。


 やがて、伯爵の方が先に視線を逸らした。


「……金を出すと言ったな」


「ええ」


「ベアトリスには、君の金だとは言わない」


「構わないわ。むしろ言わないでちょうだい。あの女と話すつもりはない」


「彼女を責めるな」


「まだ庇うのね」


「彼女も脅されている」


「知っているわ」


 伯爵夫人は短く答えた。


「だから、今夜は助ける。けれど、それと今後も続けることは別問題よ」


 伯爵はしばらく黙っていた。それから、低く言った。


「……分かった」


 伯爵夫人は表情を変えなかった。


「何が分かったの」


「金は君から受け取る。銀行家には話さない。ベアトリスには、私から渡す」


「そして?」


 伯爵は苦しげに目を閉じた。


「今夜の件が終わったら、彼女とは会わない」


「手紙も?」


「残っているものはすべて回収する。私の手元にあるものも処分する」


「約束できるのね」


 伯爵は、しばらく妻を見た。


「約束する」


 伯爵夫人はようやく頷いた。


「では、事態の収拾を始めましょう」

 

 

 午前三時の五課は、昼間よりもよほど静かだった。


 暖炉の火はほとんど落ち、机の上には飲み残しの紅茶と、レイヴンシャー・ハウスから持ち帰った報告書が散らばっている。


「つまり、あの家の者たちはこう言ったわけだ」


 マイケルは眠気を押し殺しながら、五課の面々に報告を終えた。


 隣の椅子では、サラがすでに眠っていた。耳の後ろに神経連結魔導紙を当て続け、屋敷の使用人と客を避けながら一晩近く盗聴を続けたのだ。疲れ切って当然だった。


「レイヴンシャー伯爵夫人が金を出す。伯爵はそれをベアトリス夫人へ渡す。そしてベアトリス夫人は、予定どおり聖ブリジット旧教会墓地へ行く」


 グレイは椅子の背に腕を掛けたまま、欠伸まじりに言った。


「じゃあ、こっちの計画は変わらないな。墓地で待ち伏せだ」


「そういうことだ」


 曹長は机の上の古地図を叩いた。


「指定時刻は明日の夜十一時。われわれは一時間前、午後十時に配置につく。場所は事前に決めた通りだ。AからDまで、各自の持ち場を間違えるな」


 彼は地図上の印を順に指した。


「A、旧鐘楼。上から墓地全体を見る。マイケル、イライアス」


「了解です」


「B、小丘の陰。第七十八A墓所を斜めから押さえる。グレイ、サラ」


 グレイは眠そうに片手を上げた。


「了解」


「C、墓地の正門。D、南側の抜け道。制服組を私服で置く。追うな。合図があるまで動くな。相手が一人とは限らん」


 曹長は全員を見回した。


「目的は金ではない。受け取り役を押さえ、賊団への道をたどることだ。分かったな」


「了解!」


「よし。今日は解散。寝ろ。明日の夜、寝不足で墓石に頭をぶつけるような奴は置いていく」


 その言葉で、ようやく五課の一日は終わった。




 翌夜。


 聖ブリジット旧教会墓地は、薄い霧に沈んでいた。


 街灯が等間隔に立ち並び、橙色の光をぼんやりと滲ませている。霧はその光を吸い込み、輪のように広げ、墓地全体を淡く照らしていた。光の届くところでは墓石の輪郭が浮かび上がり、届かないところでは闇が濃く沈む。視界は決して悪くないが、距離感が曖昧になる、不気味な明るさだった。


 かつて教会だった建物は、半分崩れた石壁だけを残している。墓地の一部は公園に呑み込まれ、古い墓石は草の間から黒い歯のように突き出していた。街灯の光が石の縁をなぞり、濡れた表面を鈍く光らせている。


 旧鐘楼の上では、マイケルが双眼鏡を構えていた。その隣で、イライアスが古地図と現地の配置を何度も見比べている。


「どうだ。怪しい人物は?」


 イライアスが低く尋ねた。


「今のところ、いない」


 マイケルは双眼鏡から目を離さずに答えた。


「ベアトリス夫人は?」


「三十分前から第七十八A墓所の前にいる。かなり怯えているな」


 第七十八A墓所の前では、ベアトリス夫人が黒い外套を握りしめ、何度も周囲を見回していた。街灯の光が霧越しに彼女の輪郭をぼかし、顔の表情を曖昧にする。だが、その落ち着きのなさだけははっきりと伝わってきた。


 墓石の上には、革の鞄が置かれている。


 その中に、千ポンドが入っているはずだった。


「十一時十分」


 マイケルは懐中時計を見た。


「指定時刻を過ぎた。賊は来ないのか」


「来ているのかもしれない」


 イライアスが呟いた。


「どこに?」


「まだ分からない」


 そのころ、小丘の陰では、サラが苛立たしげに身を低くしていた。


 街灯の光はここまで届かず、霧だけが白く漂っている。遠くの灯りがぼんやりと滲み、影と光の境界が曖昧だった。


「何なのよ。もう十分も過ぎているじゃない。墓石の上に金入りの鞄を置かせて、そのまま放置なんて、いくらなんでも奇妙だわ」


 隣に伏せていたグレイは答えなかった。


 彼は墓地を見ていなかった。


 空を見ていた。


 街灯の光が霧に反射し、空は完全な闇ではなく、淡く濁った灰色に見える。その中に、何かが動けば、影として浮かび上がるはずだった。


「……まずいな」


「何が?」


「地上に来る気がない」


 サラは一瞬、意味が分からずグレイを見た。


「どういうこと?」


「連中は、地面を歩いて鞄を取りに来る必要がないんだ」


 グレイは懐に手を入れ、残っていた魔導紙を取り出した。次の瞬間、彼は人差し指と中指を噛み切り、血で術式を描き始めた。サラは「万年筆なら持っているけど」と言いかけた。だが、彼があまりにも真剣な顔でそのまま血文字を書き続けるので、なんとなく言い出せなくなり、気まずく黙り込んだ。


「サラ。紙はあるか」


「え?」


「魔導紙だ。何枚持ってる」


「三枚だけ」


「十分だ。こっちに九枚ある。合わせて十二枚。追跡用なら、ぎりぎりいける」


「ちょっと、何を――」


 サラが言い終える前に、グレイは魔導紙を膝の上で素早く継ぎ合わせ始めた。


 紙片に細い銀線が走り、折り目が増え、鳥の骨格のような形が浮かび上がる。


 その時だった。


 小丘の上に、巨大な影が落ちた。


 サラは反射的に顔を上げた。


 霧に滲んだ街灯の光の中で、その影ははっきりと輪郭を持っていた。光を遮ることで、逆に存在が浮かび上がる。


 霧の上を、紙でできた巨大な鳥が滑るように飛んでいた。


 鴉にも、鳶にも見える。翼は何枚もの魔導紙を重ねたように薄く、しかし人一人を乗せられるほど大きい。その背には、黒い目出し帽をかぶった人影がまたがっていた。


「空から――」


 サラが呟いた瞬間、紙鳥は急降下した。


 翼が墓石すれすれをかすめる。街灯の光が紙の表面を一瞬だけ照らし、白い羽が鋭く光った。


 ベアトリス夫人は小さく悲鳴を上げ、後ずさった。


 黒い人影が身を乗り出し、墓石の上の鞄を掴む。


 同時に、何かを墓石の上へ落とした。


 封をされた紙包みだった。


 次の瞬間、紙鳥は再び翼を広げ、霧の中へ舞い上がった。街灯の光を横切り、その影が一瞬だけ大きく伸び、すぐに霧に溶けて消える。


「グレイ!」


 サラが叫ぶより早く、グレイは手の中の紙鳥を完成させていた。


 大きさは雀ほどしかない。翼の左右も少し不揃いで、飛び立つ前から頼りない。


「ほら、飛べ」


 グレイが指を離す。


 紙の小鳥は一度だけぐらりと沈み、それから不安定な羽ばたきで空へ上がった。街灯の光を受けて、銀の線がかすかに光る。


「追え」


 グレイが低く命じた。


 紙鳥は巨大な影の消えた方角へ、ふらつきながらも飛んでいった。


 サラは拳銃に手をかけたまま、空を見上げていた。


「……地上を張っていた私たちが、馬鹿みたいじゃない」


「馬鹿じゃない」


 グレイは目を細めた。


「相手が一枚上手だっただけだ」


 旧鐘楼の上でも、マイケルが同じ影を見ていた。


「空だ!」


 彼は双眼鏡を下ろし、鐘楼の下へ向かって叫んだ。


「受け取り役は空から来た! グレイが追跡を出した!」


 イライアスは第七十八A墓所を見た。


 ベアトリス夫人はその場に立ち尽くしている。


 墓石の上には、金の鞄の代わりに、紙包みが一つ残されていた。街灯の光がその表面を淡く照らし、封の影をくっきりと浮かび上がらせている。


「手紙か」


 イライアスは呟いた。


「あるいは、罠か」


 夜霧の中で、紙の小鳥だけが、かすかな銀色の尾を引いて飛んでいた。






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