第二十八章 密会
レイヴンシャー伯爵の本拠は、北部の領地にあるレイヴンシャー・ホールである。だが王都にも、社交用の邸宅としてレイヴンシャー・ハウスを構えていた。
レイヴンシャー・ハウスは、王立公園の西側に面した、赤煉瓦と白石装飾の新しい大邸宅だった。地方の本邸ほど広大ではないが、王都の貴族街では十分に目立つ建物である。正面玄関の上には、レイヴンシャー家の紋章と、伯爵夫人の実家である公爵家の紋章が並んで彫られていた。
「わあ……ずいぶん豪奢な屋敷だな」
馬車が伯爵邸の前に着くなり、マイケルは思わず感嘆の声を漏らした。
「しっ。声が大きいわ」
サラは小声でたしなめながら、馬車の揺れで乱れた髪を手早く整えた。
「新米貴族の夫婦が、屋敷を見てはしゃいでいたら、それだけで怪しまれるでしょう」
「分かっている。ただ、これはさすがに……」
「それより、どうしてわざわざ馬車なの?」
サラは不満げに窓の外を見た。
「蒸気車では駄目だったの?」
「さあな。煙と機械油の匂い、それに機械音を嫌ったんだろう。伯爵家の慈善音楽会には似合わない、ということらしい」
マイケルがそう言ったところで、馬車は正面玄関の馬車寄せに滑り込んだ。
玄関には、家紋入りのランタンが灯され、白いリボンを結んだ月桂樹の鉢植えが左右に置かれていた。赤い絨毯こそ敷かれていないが、馬車寄せには雨除けの天幕が張られ、制服姿の従僕たちが整然と並んでいる。
扉が開くと、従僕が外套を受け取り、別の使用人が招待状を確認した。玄関ホールの奥では、執事が客名を一人ずつ読み上げている。
「アッシュフォード卿、ならびにアシュフォード夫人」
偽名が告げられた瞬間、サラの背筋がわずかに伸びた。
本館の二階にある舞踏室は、その夜、音楽会のために整えられていた。楽団はすでに異国風の小品、『An einem Frühlingstage――ある春の日』を奏でている。壁際には椅子が並べられていたが、まだ客の数はまばらだった。
正面にはピアノ、譜面台、弦楽四重奏用の椅子が置かれている。白薔薇、百合、シダ、月桂樹の鉢植えが部屋を飾り、卓上には王立慈善病院基金への寄付箱が据えられていた。
伯爵夫人は王室の狩猟滞在に招かれて不在である。そのため、その夜の女主人役は、伯爵の叔母であるレディ・オーガスタが務めていた。
サラは、課長の屋敷を除けば、これほどの豪邸に足を踏み入れたことがほとんどなかった。まして宴会や慈善音楽会のような場に出た経験などない。せっかく普段なら着ない濃紺のドレスを身にまとっているというのに、どう振る舞えばよいのか分からず、所在なげに舞踏室を見回していた。
「ねえ、マイケル」
サラは声を落とした。
「こういうとき、何をすればいいの?」
「自然に会話するんだ。慈善音楽会とはいえ、ここは重要な社交の場だからな」
「でも、誰も知らないわ」
「だから社交するんだろう」
マイケルは小さく肩をすくめた。
「もっとも、我々は仕事で来ている。あまり目立たない方がいい」
彼は舞踏室をゆっくり見渡した。
「……妙だな」
「何が?」
「レイヴンシャー伯爵の姿が見えない。伯爵夫人が不在なら、本来、伯爵が客に挨拶して回っているはずだ。女主人役は叔母上に任せるとしても、主催者本人が見当たらないのはおかしい」
サラも周囲へ視線を走らせた。
「エルムズワース夫人も、まだ来ていないみたいね」
「あるいは、もう別の部屋に通されているか」
「密会?」
「断定は早い。だが、もし二人がここで会うつもりなら、人目につく舞踏室ではないはずだ」
マイケルは声をさらに低くした。
「俺は一階と二階の廊下を見る。君はこの広間と階段まわりを見てくれ。客が出入りしても不自然でない範囲だけだ。使用人通路には入るな」
「分かった」
「目立つなよ」
「それはこっちの台詞よ」
サラは舞踏室を出ると、三階から四階へ続く、人通りの少ない階段を上った。
客用の廊下にしては、ずいぶん静かだった。壁には肖像画が並び、足元の絨毯は厚く、靴音をほとんど吸い込んでしまう。四階へ上がったところで、すぐに一人の使用人と鉢合わせした。
「失礼いたします、お客様。こちらは、お客様にお入りいただく場所では――」
「ああ、ごめんなさい。化粧室を探していたのだけれど、どうやら迷ってしまったみたい」
サラは少し困ったように笑ってみせた。
使用人は一瞬だけ彼女を見たが、すぐに丁寧に頭を下げた。
「それでしたら、こちらへ」
使用人に案内され、サラは廊下を進んだ。
その途中だった。
閉じられた扉の向こうから、かすかに女の声が聞こえた。
ベアトリス・エルムズワース夫人の声だった。
サラは足を止めなかった。顔色も変えなかった。ただ、廊下の曲がり角、窓の位置、壁にかかった肖像画、扉の数を心の中で数える。
四階へ上がって、左手の廊下。七つ目の扉。
そう覚えた。
狩りに慣れた者は、足跡だけで獲物の行き先を読む。サラもまた、一度通った道を忘れない。部屋の位置、廊下の長さ、扉の間隔。そういうものを覚えるのは、彼女にとって息をするのと同じくらい自然なことだった。
化粧室に案内されたあと、サラは用を済ませたふりをして廊下へ戻った。
問題は、どうやって気づかれずにあの部屋へ近づくかだった。
彼女は使用人に礼を言い、来た道を戻る。その途中、ちょうど七つ目の扉の前を通り過ぎる瞬間、サラはわざと手袋の留め具に触れた。
小さな紙蜘蛛が、袖口から音もなく滑り落ちる。
それは絨毯の模様に紛れ、壁際を這い、扉の下の細い隙間へ入り込んでいった。
サラは一度も振り返らなかった。
階段を下り、一階を見回っていたマイケルと合流すると、彼女は低い声で言った。
「見つけたわ」
「どこだ」
「四階。左手の廊下、七つ目の扉。ベアトリス夫人の声がした」
「入れそうか?」
「無理ね。使用人がいる。それに、客がうろつく場所じゃない」
「紙蜘蛛は?」
「扉の下から入れた。でも、あれだけでは足りないと思う」
「なぜ」
「あの部屋、壁も扉も厚い。たぶん防音のマーナも入っている。紙蜘蛛一匹では、あとで断片を拾える程度でしょう。今この場で会話を聞き取るには、もっと近い場所から共鳴を合わせる必要がある」
マイケルは少し考えた。
「隣の部屋はどうだ」
サラは一瞬だけ彼を見た。
「隣?」
「さっきの廊下の並びなら、七つ目の扉の右隣に小部屋があった。客間か、控え室か、使っていない部屋だろう。そこへ入れれば、壁越しに拾える」
「どうやって入るの」
「少しだけ煙を借りる」
マイケルは懐から、小さく折り畳まれた紙片を取り出した。
サラは眉をひそめた。
「火事騒ぎにするつもり?」
「違う。燻煙札だ。焦げた油の匂いと、薄い煙を少し出すだけだ。三階と四階の使用人階段に置けば、近くの使用人だけが確認に行く。二階の舞踏室までは届かない」
「密会中の二人は?」
「あの部屋までは届かない。騒ぎにもならない」
「本当でしょうね」
「たぶん」
「たぶん?」
「実行するには十分だ」
サラは小さく息を吐いた。
「本当に五課らしい作戦ね」
数分後、使用人階段の踊り場に、細い煙が立ちのぼった。
「何だ?」
「ランプの芯か?」
「客に気づかれる前に替えろ」
四階の廊下にいた使用人たちが、慌てるほどではないが、足早に階段の方へ向かう。
その隙に、マイケルとサラは廊下を横切った。
七つ目の扉。その右隣の扉。
マイケルが取っ手に手をかける。鍵は掛かっていなかった。中は小さな控え室だった。壁際に椅子が数脚、古い花瓶、使われていない譜面台。今夜の客を通す部屋ではない。
二人はすばやく中へ滑り込んだ。
サラはすぐに扉の内側へ紙片を貼った。
「それは?」
「人払いの魔導紙。強いものじゃないわ。ただ、この部屋を開けようとした人間に、『今は入らなくていい』と思わせるだけ」
「屋敷の防犯術式には?」
「この程度なら引っかからない。たぶん」
「君もたぶんなのか」
「実行するには十分よ」
マイケルは苦笑し、上着の内側から薄い魔導紙を二枚取り出した。
一枚は壁に貼る。もう一枚は、耳の後ろに当てるほどの小さな紙片だった。
「グレイが事前にマーナを通しておいた。正式には神経連結魔導紙。あいつは耳紙と呼んでいたが」
「耳紙?」
「電話の受話器に近い。ただし、音をそのまま拾うんじゃない。壁の振動をこの紙が受け取り、もう一枚が聴覚神経の近くに微かな震えとして伝える」
「便利ね」
「便利だが、長く使うと頭痛がする」
「先に言って」
マイケルは密会部屋に接した壁へ一枚目の魔導紙を貼った。紙面に描かれた銀色の輪が、かすかに光る。
サラはもう一枚を耳の後ろに当てた。
最初に聞こえたのは、低い雑音だった。舞踏室から遠く漏れてくる弦楽の響き。廊下を行き来する靴音。壁の奥を伝う、屋敷そのものの軋み。
やがて、その雑音の底から、女の声が浮かび上がった。
『……もう時間がないのです』
サラは息を止めた。
ベアトリス・エルムズワース夫人の声だった。
続いて、男の声が聞こえた。
『分かっている。だが、一千ポンドをすぐに動かすのは簡単ではない』
マイケルは壁に貼った魔導紙へ指を添え、共鳴を少しだけ強めた。
声が、わずかに鮮明になる。
『あなたなら用意できるはずです。レイヴンシャー家なら――』
『家の金を勝手には動かせない。妻の目がある』
その言葉に、サラとマイケルは同時に顔を見合わせた。
『では、何もなさらないおつもり?』
ベアトリス夫人の声は震えていた。だが、その震えの奥には、悲しみだけでなく、怒りに近いものも混じっていた。
『残された猶予は、あと一日。金が揃わなければ、あの者たちは、わたしたちの恋文を世間の口に投げ入れるでしょう。私はただの寡婦です。失うものは、まだ少ない。けれど、あなたは違う。名も、家も、地位も、すべてを失う。そうではなくて?』
『私を脅しているのか』
伯爵の声が低くなった。先ほどまでの焦りとは違う。聞いているこちらにも分かるほど、そこには怒りが混じっていた。
『いいえ。あなたなら、それが脅しでないことくらい分かるはずです。私はただ、目の前にある事実を申しているだけ』
『事実だと?』
伯爵は短く笑った。
『それが本当に事実だと、私にどうやって信じろと言うのだ。君がどこかのごろつきを雇い、盗賊の名を借りて、私から一千ポンドを搾り取ろうとしている。そういう筋書きも、ありえない話ではあるまい』
壁のこちら側で、サラの眉が跳ね上がった。
「最低」
「早いな、疑うのが」
マイケルも小声で呟いた。
向こうでは、数秒の沈黙があった。
それから、ベアトリス夫人の声が聞こえた。
『……ひどいことをおっしゃるのね』
その声は、先ほどより静かだった。静かな分だけ、かえって鋭かった。
『私たちの間には、その程度の信頼すらなかったのですか。長い年月、互いに言葉を交わし、秘密を分け合い、罪を共にしてきたというのに。最後に残るのは、疑いと憎しみだけだと?』
『ベアトリス』
『飽きたとおっしゃりたいの? この馴れ合いにも、この危うい恋にも、もう飽きたのだと』
『違う』
伯爵の声から、怒りが少し引いた。
『違う、ベアトリス。すまなかった。ただ、あまりにも急な話で、頭が乱れていたのだ。君を疑う筋合いなどない』
「なんなの、あの二人」
サラは耳の後ろに当てた魔導紙を押さえながら、顔をしかめた。
「脅迫対策の相談を聞いているはずなのに、三流芝居を聞かされているみたいなんだけど」
「悲劇なら、だいたいこのあと誰か死ぬ」
マイケルが真顔で言った。
「やめて。不吉なことを言わないで」
『……私の名と伝手を使おう。銀行家か証券仲買人に話を通し、千ポンドを用立てる。返済はあとで考える。少しずつ返せばよい』
伯爵はそう言ったが、その声には決意よりも、追い詰められた者の疲れがあった。
『だが、もう行かねばならない。客が集まり始めている。音楽会の主催者が開会の挨拶に遅れれば、それだけで妙な噂になる』
やがて、隣室で椅子が引かれる音がした。
マイケルはすぐに神経連結魔導紙を壁から剥がした。サラも耳の後ろの紙片を外す。人払いの魔導紙も残さず回収し、二人は扉の外の気配をうかがった。
廊下では、使用人たちがまだ燭台の芯を取り替えている。遠く、二階の舞踏室からは、客たちのざわめきが聞こえた。
「行くぞ」
マイケルが囁いた。
二人は何食わぬ顔で控え室を出た。
その数分後、レイヴンシャー伯爵は何事もなかったように舞踏室へ現れ、主催者として開会の挨拶を述べた。
サラは拍手をしながら、笑顔だけを顔に貼りつけていた。
その夜遅く、警視庁五課の業務室では、イライアスが事件ファイルの束を前にして眉をひそめていた。
マイケルとサラは、レイヴンシャー・ハウスで聞いた会話の内容をすでに報告していた。
一千ポンド。
恋文。
ベアトリス・エルムズワース夫人。
そして、その相手がレイヴンシャー伯爵であること。
「やはり、ベアトリス邸の盗難だけは奇妙です」
イライアスは何度も読み返した調書を机の上に並べ、そう結論づけた。
曹長が椅子の背にもたれたまま、片眉を上げる。
「なぜそう言える」
「まず、複数の被害宅から、ごく微量ですが、床や壁際にマーナの痕跡が見つかっています。量があまりに少なかったため、三課は見落としたようですが、他の証拠と合わせて見れば、無関係とは考えにくい」
イライアスは一枚の見取図を引き寄せた。
「他の被害宅では、書斎、居間、寝室、金庫室など、複数の部屋に荒らされた跡があります。犯人は秘密のありかをある程度知っていた。だが、完全には把握していなかった。だから屋敷の中を探している」
「紙蜘蛛が拾った反応を頼りに、あとから探したということか」
「はい」
イライアスは頷き、次の見取図を指で叩いた。
「しかし、ベアトリス邸は違います。宝石箱も、証券類も、家計帳簿も、ほとんど手をつけられていない。荒らされた場所は限られていて、盗まれたのは夫人の私的な書簡だけです」
「つまり、最初から恋文を狙っていた」
曹長が低く言った。
「その可能性が高いです」
イライアスは淡々と続けた。
「他の事件では、紙蜘蛛が秘密を見つけ、賊が後から盗むものを選んでいる。けれどベアトリス邸だけは逆です。盗むものが、最初から決まっていたように見える」
「ほう」
曹長は少し感心したようにイライアスを見た。
「警察の基本訓練は受けているとはいえ、よくそこまで見るな」
「こいつは昔から痕跡を見るのがうまいんです」
グレイが横から口を挟んだ。
「守り人だったころ、探索魔法がマーナ汚染で使いものにならない場所では、イライアスが魔物の足跡や折れた枝、草の倒れ方なんかを見て、どこへ向かったか割り出していました」
「なるほどな」
曹長は得心したように頷いた。
「魔物狩りの目で、泥棒の通った跡を見ているわけか」
イライアスは少しだけ困った顔をした。
「人間の泥棒の方が、魔物より厄介です。証拠を隠そうとしますから」
「それで?」
曹長は机の上の見取図を指で叩いた。
「お前の見立てでは、ベアトリス邸は普通の連続盗難ではない」
「はい」
イライアスは顔を上げた。
「ベアトリス邸の盗みは、連続盗難に紛れ込ませた別件です。誰かが最初から、あの恋文を狙わせた」
「だが、なぜ同じ盗賊団が、この一件だけ別の手口を取る?」
「雇われた、と考えれば説明できます」
イライアスは言った。
「他の事件では、盗賊団が紙蜘蛛で拾った秘密を利用している。けれどベアトリス邸では、最初から恋文を狙っていた。つまり、誰かがその恋文の存在を知っていて、盗ませた」
「恋文の相手はレイヴンシャー伯爵」
曹長は事件ファイルを見つめた。
「となれば、まず疑うべきは伯爵夫人だな」
五課が新たに疑い始めたその女、レイヴンシャー伯爵夫人は、そのころ王都郊外の王室御猟場にいた。
彼女は白馬にまたがり、芽吹き始めた森を抜けていた。王都近郊で最大の狩場であり、王族や高位貴族だけが招かれる場所である。
社交界ではレイヴンシャー伯爵夫人と呼ばれているが、生家は公爵家だった。とはいえ、彼女は次女である。爵位が自分に回ってくるはずもない。幼いころから、家名の役に立つ結婚をするか、軍に入って名誉を得るか、そのどちらかを求められてきた。
彼女がレイヴンシャー伯爵と出会ったのは、まだ二人とも若かったころである。任務で赴いた北部の駐屯地で、彼女は偶然、当時まだ軍務に就いていた伯爵と顔を合わせた。
いつの間にか、彼女は恋に落ちていた。
だが、伯爵が同じだけの熱を返したわけではない。嫌っていたわけでもない。むしろ好意はあったのだろう。ただ、それは彼女が望んだほど激しいものではなかった。
それでも、両家にとって都合のよい縁談だった。
公爵家の次女と、北部に領地を持つ伯爵家の当主。家柄も、政治的な釣り合いも悪くない。気づけば婚約の話は整い、知人から婚約者へ、婚約者から夫婦へと変わるまで、半年もかからなかった。
結婚後、伯爵は軍を離れ、王都で文官職に就いた。夫人の方は陸軍大尉として軍に残り、やがて上層部にも顔を利かせるようになった。
二人は少しずつ離れていった。
食卓を共にしても、話すことがない。舞踏会で並んで立っても、互いの視線は別の場所を見ている。夫婦でありながら、同じ屋敷に住む同盟者のようになっていった。
やがて、互いに愛人を作った。
伯爵夫人の相手は一人ではなかった。男もいれば、女もいた。長く続いた者も、数か月で終わった者もいる。彼女にとってそれは、退屈な婚姻生活の外にある、数少ない息継ぎだった。
一方で、伯爵の相手はベアトリス・エルムズワース夫人ただ一人だった。美術館の慈善展示で知り合った未亡人。穏やかで、古い詩を愛し、伯爵の話を静かに聞く女。
その事実が、夫人にはどうにも釈然としなかった。
自分も不貞を働いている。だから、夫を責める資格などない。そんなことは分かっていた。
それでも、腹が立った。
自分はただ退屈から逃げただけだ。だが夫は、逃げ場所ではなく、帰る場所を見つけたのではないか。
そう思うと、胸の奥に冷たいものが沈んだ。
この王室主催の狩猟は、彼女にとって、職務からも家庭からも離れられる数少ない時間だった。馬を駆れば、軍の命令も、夫の沈黙も、社交界の噂も、少しの間だけ後ろへ流れていく。
ときどき、彼女は自分が馬そのものになれたらと思う。
あるいは、翼を広げる鳥になれたらと思う。
あるいは、かつて洞窟で追い詰めた魔物でさえ、今の自分よりは自由だったのではないかと、馬鹿げたことまで考える。
いや。
彼女は手綱を握り直した。
いけない。
今は狩りだ。
狩りくらい、楽しまなければ。
その日の猟果は、兎が二十、狐が七、鳥が十三。
王室御猟場の一日としては、悪くない収穫だった。
そのうち狐一匹と雉二羽は、伯爵夫人が自ら仕留めたものだった。馬の扱いも、銃の構えも、彼女はそこにいる多くの紳士よりよほど確かだった。
晩餐の席では、その日の狩りの話で周囲が盛り上がっていた。誰が狐を外した、誰の猟犬がよく走った、どの馬が泥に足を取られた。笑い声と銀器の音が、長い食卓の上を行き交う。
しかし伯爵夫人は、ほとんど誰とも話さなかった。
彼女は一人で皿の上の料理を切り分け、グラスの中のワインを飲み干した。蜂蜜を塗って焼いた兎肉にナイフを入れようとした、その時だった。
一人の使用人がそっと近づき、彼女の耳元で囁いた。
「伯爵夫人。ご家付きの弁護士が、お目にかかりたいと申しております。急用とのことで、すでに二階の応接室でお待ちです」
夫人の手が止まった。
せっかくの食事を邪魔されたことに、彼女は少しだけ不機嫌になった。
「二十分後に行くと伝えなさい」
「かしこまりました。どうぞ、お食事をお楽しみくださいませ」
使用人は静かに下がった。
だが、一度耳に入った「急用」という言葉は、もう食卓から消えてはくれなかった。
夫人は兎肉を一口だけ口に運んだ。味はしなかった。菓子が出るまで待つ気にもなれず、彼女はナプキンを卓上に置いた。
「失礼」
短くそう言って席を立つと、夫人は二階の応接室へ向かった。
弁護士は、彼女が扉を開けた瞬間、弾かれたように立ち上がった。顔は紙のように白く、額には汗が浮いている。
「伯爵夫人――」
「挨拶はいい。何があった」
弁護士は喉を鳴らした。
「その、以前、夫人は、伯爵閣下とエルムズワース夫人の私的な書簡の存在をお知りになり、その一部を入手して処分なさいました」
「ええ。それで?」
夫人は冷ややかに彼を見た。
「まさか、今さら説教をしに来たわけではないでしょうね」
「いえ。その後、夫人は、エルムズワース夫人の手元に残っている書簡についても、内密に回収するよう、私にお命じになりました」
「その話ね」
夫人の目が細くなった。
「見つかった、という顔ではないわね」
「それが、その……」
「ぐずぐずしないで。早く言いなさい」
「はい。実は、私がよく使う私設調査員に、その件を任せました。ですが、その男には、以前、裏稼業の者たちと関わりがありまして……今は足を洗ったと言っておりますが、どうやらまだ完全には切れていなかったようなのです」
夫人は一歩近づいた。
「続けなさい」
「その調査員が、恋文の所在を探るために、昔の伝手を使いました。ところが、その情報が賊団に流れたらしく……」
弁護士は言葉を飲み込んだ。
「流れたらしく、何?」
「賊団は、ベアトリス・エルムズワース夫人の屋敷から恋文を盗み出しました。そして今、その手紙を使って、エルムズワース夫人と伯爵閣下に千ポンドの口止め料を要求しています」
応接室の空気が、凍りついた。
数秒の沈黙のあと、夫人は低く言った。
「愚か者」
弁護士は身を縮めた。
「申し訳ございません」
「謝罪は後で聞く。あなたの首をどうするかも後で考える。今は王都へ戻る」
「今から、でございますか」
「今からよ」
夫人は踵を返した。
「馬車を用意させなさい」
「汽車を使われた方が――」
「駅まで行き、夜汽車を待ち、駅員にも乗客にも顔を見られる。そんな悠長なことをしている暇はないわ」
夫人は冷たく言った。
「王都までなら、街道を飛ばした方が早い」
「ですが、夜道でございます」
「だから私が手綱を握る」
「伯爵夫人、それは――」
「黙りなさい。あなたも乗るの」
それから十分も経たないうちに、伯爵夫人は狩猟館の前庭にいた。
夜気は冷たく、馬車の灯りが石畳の上で揺れている。御者が慌てて手綱を渡そうとしたが、夫人はそれを奪うように受け取り、自ら御者台へ上がった。
弁護士は青ざめた顔で車内に押し込まれた。
「夫人、お待ちください。夜道でその速度は――」
「黙っていなさい」
伯爵夫人は鞭を鳴らした。馬車が跳ねるように走り出す。
狩猟館の灯りが、背後へ流れていった。弁護士の短い悲鳴が車内から聞こえたが、夫人は一度も振り返らなかった。
あの馬鹿。
彼女は歯を食いしばった。
それが夫のことなのか、弁護士のことなのか、それともこんな手を使った自分自身のことなのか、彼女にも分からなかった。
馬車は夜の街道を裂くように走った。
その先には、レイヴンシャー・ハウスの灯りがある。
そしてその屋敷ではまだ、伯爵が何も知らずに、客たちの前で穏やかな主催者の顔をしていた。
しかし、彼らが知らないうちに、後ろに二人の警官を乗っていた馬車に追われていた。




