第七章 盗聴
摂政公通り一二四号
ベアトリス・エルムズワース夫人は焦燥に駆られていた。
彼女は唇を噛む。それは苛立ったときに出る、昔からの癖だった。
この数日間に起きた出来事は、彼女の神経をひどくすり減らしていた。まず、書斎が何者かに荒らされた。次に、警察を名乗る二人組が屋敷の郵便受けをいじっていた。そして昨日、電話が鳴った。受話器の向こうから聞こえてきたのは、彼女とアリステア・レイヴンシャー伯爵との恋文を返してほしければ、指定の金を払えという脅迫だった。
ベアトリス自身は寡婦である。だが、恋仲にあるレイヴンシャー伯爵には妻がいる。しかもその妻は王室の遠縁にあたり、ベアトリスにとっても、友人とまでは言えないにせよ、顔見知りではあった。
この関係が明るみに出れば、彼女は社交界で終わる。
しかし、脅迫者が要求してきた金額は、あまりにも法外だった。全財産をかき集めれば、何とか用意できるかもしれない。だが、二日という期限ではさすがに無理だった。伯爵へ助けを求める手紙も送ったが、いまだ返事はない。
ベアトリスは震える手で茶杯を取り、無理に気持ちを落ち着かせようとした。
そのとき、使用人が居間へ入ってきた。
「奥様、警察の方がお見えです。お二人で――」
「面会は一切断ると言ったはずです」
彼女は鋭く言った。
「その意味が分からないのですか」
「申し訳ございません。ですが、今度は本物の警察のようでございます。郵便受けの件で、お詫びに参ったと」
「お詫び?」
ベアトリスは茶杯を受け皿に戻した。しばらく沈黙したあと、彼女は短く言った。
「……分かりました。通しなさい」
「はい、奥様」
ベアトリスは茶杯を机に置き、意外にも少し落ち着きを取り戻した。
いや、落ち着いたというより、警察がお詫びの訪問に来たということ自体を訝しんでいた。
あの怪しげな二人は、本当に刑事だったのか。
警察というものは、貴族の道楽息子か、軍隊上がりの野蛮人ばかりだと思っていた。そんな連中が、わざわざこの無名の男爵家に謝罪に来るというのか。
そんなことを考えているうちに、三人が居間へ入ってきた。
どうやら、そのうち二人は、使用人の話にあった、あの日自分の屋敷の郵便受けをいじっていた者たちらしい。
「お邪魔いたします、エルムズワース夫人。自分はウィリアム・ローランスと申します。警視庁五課の曹長です」
真ん中の男が、やけにきちんとした姿勢で名乗った。
「あの日は、うちの部下が大変失礼いたしました。彼らは調査となると、しょっちゅう突拍子もないことをします。ほら、謝れ」
イライアスとグレイはそろって、いささかぎこちなく、しかし本人たちなりに真剣な様子で深々と頭を下げた。
「申し訳ございませんでした」
「……はあ」
ベアトリスは、この者たちには一刻も早く屋敷から出ていってもらいたかった。だが、露骨に追い返せば、かえって怪しまれる。
数秒の沈黙のあと、彼女はようやく口を開いた。
「謝罪は受けることにいたしましょう。しかし、三課でしたか。そちらの方々が、すでに一度わが家を調べたはずです。それなのに、なぜまたこのような真似を?」
「ああ、それはこちらの不手際です」
曹長は臆面もなく嘘をついた。
「署に戻って分析したところ、奥様のお屋敷で行われた犯罪には、マーナや術の類が関わっている疑いが出てまいりました。そのため、この事件はうちの五課の担当となりました」
「そうなのですか」
「そうです。それで、奥様。最近、特に事件のあとで、何か怪しいことはございませんでしたか。どんな些細なことでも構いません」
「……申し訳ありません。思い当たりませんね」
「分かりました。これは我々の連絡先です。何か思い出されたことがあれば、どうぞ遠慮なくご連絡ください」
「は、はい」
曹長は軽く頭を下げると、廊下の方へ鋭く声を飛ばした。
「おい、よその家の絵を鑑賞するのは仕事ではないぞ。署に帰る!」
廊下にいたイライアスとグレイは、いかにも何もしていなかったという顔で戻ってきた。
三人は丁寧に別れの挨拶をし、やや慌ただしく屋敷を出ていった。
「どうだ?」曹長はグレイの髪をくしゃくしゃにしながら尋ねた。
先は、お詫びの偽装で、グレイとイライアスは廊下で複数の盗聴虫をばら撒いた。その後で、三人は、一二四号の近くにある空き家――摂政公街一〇七号に受信機を設置していた。
「もうすぐ……できた!イライ、お前は?」受信機に適切な術が描かれた魔導紙を張って、彼はイライアスがラジオ自体の設置の進展を聞く。
「こっちも……できた!」受信機からの雑音が出た「周波数いくらだっけ」
「三百八十」
「三百八十、よっしゃ」イライアスは受信機のつまみを回した。木箱の中で、コイルが低く唸る。そして夫人の使用人の声が聞こえた。
「でも、なんで盗聴?」盗聴作戦の要であるグレイは、すでに動き始めた受信機を見つめながら、ふと尋ねた「やっはり、被害者である夫人を盗聴のこと教えるべきでないか?」
「盗聴なんて、人聞きが悪い。逆探知だ。課長判断で、彼女を知らせれば、彼女は平静でいられない。脅迫されている人間は、警察よりも脅迫者を恐れる。こちらが一言余計なことを言えば、その日のうちに犯人へ泣きつくかもしれん。それに、我々は既に盗……いや、逆探知の限定令状をもらった」
曹長はその令状を、グレイの目の前でひらひらと振ってみせた。
「文句があるなら、判事に言え。こっちは正式な許可を取っている」
「でも、やってることはほとんど盗聴じゃ――」
「しっ」
曹長が短く制した。
受信機の奥で、かすかな雑音が走った。次いで、ベルの音が遠くに響く。
「電話だ」
三人は同時に口を閉じた。
(盗聴された部分は以下の文、『』で示す)
『はい、エルムズワース邸でございます。どちら様でいらっしゃいますか』
『失礼いたします。こちらはレイヴンシャー伯爵家の執事でございます。ベアトリス・エルムズワース夫人でいらっしゃいますでしょうか』
『私です』
『かしこまりました。本日は、レイヴンシャー伯爵閣下のご命により、ご連絡差し上げました。二日後、レイヴンシャー邸にて慈善音楽会が催される予定でございます。奥様にもぜひご出席賜りたいとのことでございますが、ご都合はいかがでしょうか』
『……ええ。出席いたします』
『承知いたしました。それでは、そのように閣下へお伝えいたします』
通話はそこで切れた。
しばらく沈黙が落ちた。
「へえ」イライアスが、受信機から目を離さずに言った「この伯爵、何者だ?」
「聞いた話じゃ、あの伯爵の先祖は、現王室の建国の際に大手柄を立てたらしい。奥方も国王の遠い親戚だとか」
「それがこの事件と関係あるんですか?」
「さあな。ただ、夫人のあの取り乱し方を見る限り、たぶん不倫だ。そして、その不倫の証拠を賊に盗まれた」
イライアスは興味深そうに口の端を上げた。
「警察として、先入観はよくない。よくないが、これまでの経験から言えば、十中八九そういう話だ」
イライアスがそう言ったとき、受信機から再び人の声が聞こえた。
『奥様、慈善音楽会のお召し物はいかがいたしますか』
『そうね。あまり目立たないものがいいわ……あの紺色のドレスにしましょう。飾りは、控えめなものを適当に』
『かしこまりました』
十数分後、またベルが鳴った。
「おい、今度こそ賊かもしれない!」
曹長は苦笑まじりにグレイを見た。
「たぶん、そんな都合のいいことは起こらん。いちいち早とちりしていると、疲れるぞ」
『はい、エルムズワース邸でございます……』
『ビー! 私たち、少し早めにあなたのお宅へ伺ってもいいかしら?』
『構いませんけれど、具体的には……』
『ありがとう!』
電話はあっさり切れた。夫人のため息が、受信機から小さく響いた。
『はあ……あの人は、いつもこうなのだから。エドモンド!』
『はい、奥様』
『午後のお茶会の準備はどう?』
『はい。お茶も菓子も、すでに用意してございます』
『助かるわ。あの人たちは、おそらく三十分ほどで着きます。今のうちに支度を整えておきなさい』
『かしこまりました』
「ああ、曹長の言う通りだ。そう都合よく手がかりが転がり込んでくるわけがないか」
「そうだ。大先輩の話は聞くものだ」
それから三人は、三時間ほど、五人の婦人たちの取りとめのない噂話を聞く羽目になった。
誰かの息子が軍に入った話。誰かの隣人が実家の領地で、生涯見た中で最も立派な鹿を仕留めた話。誰かの使用人が、装身具を少しずつ盗んでいた話。
やがて夕方になった。
来訪者たちは夫人をオペラに誘った、外国から来たオペラ一座が、首都でたいそう評判なのだとか。。どうやらそれこそが、彼女たちが予定より早くエルムズワース邸へやって来た理由だったらしい。
夫人はその厚意を断りきれず、結局、全員でオペラ劇場へ向かうことになった。
そうして、エルムズワース邸は急に静まり返った。
「今日中に賊からの電話を拾うのは、どうも無理そうだな。交替するぞ。俺は署に戻って、マイケル、ラクラン、サラを呼んでくる。お前たちは大人しくしていろ」
「はい!」
二人は異口同音に答えた。
しかし、曹長がその場に離れても僅かの十分、三人が期待した電話が来た。
受話器を取ったのは使用人であった。
『はい、エルムズワース邸でございます。ただいまエルムズワース夫人は不在ですが……』
『あのあま、まだ金揃っていないかい』
イライアスはそれを聞いて、眠そうなグレイを起こした。
「おい、グレイ、起きろ!起きろ!早く記録して!賊人が話している!」
「はい、はい」グレイは寝ぼけ眼のまま、ぼんやりと答えた。机の上では、術式の刻まれた万年筆がひとりでに動き始めていた。
『どこに行った、あのあま!』
『すみません』受信機から聞こえる彼の声には、はっきりと恐怖がにじんでいた『奥様はご用事で出かけました』
『……まあいい、二時間後、また電話する。その時はまだいないなら、分かってるよな? どうなるか』
『はい、すみ……』電話は突然切られた。
「うん。あの使用人、事情を知っているの様だな」
「そうみたい。まさか、あの日、我々を賊人の仲間と思ったか?」
「ふん……」
107号の扉が開いた。
「どう?なんの進展があった?」先に室に入ったマイケルが状況を尋ねる「散らかったいるね、ここは」
「まあ、ここはずいぶん使われていなかったからな」グレイは盗聴記録を補充し、マイケルを手渡した。
「どれどれ。うん、二時間後か、分かった。お前らは解放された。曹長からの伝言、明日は署に行かず、九時丁度ここで我々と交替。あゝ、そうだ、明日来るのはグレイだ、そしてもう一人はヴィヴィアン。イライアスは通常通り署に出勤する、いいね?」
「了解!」
十二時間はあっと言う間に過ぎ、九時丁度、グレイは107号の前庭で佇んでいるヴィヴィアンを見かけた。
「ヴィヴィアン、なんでただここに待っているの?」
「あゝ、スターリング伍長、自分はこれが正しい住所には確定できないですから」
「そう?俺をグレイと呼べばいい、そんなに硬くなくでもいい。さあ、入ろう」
部屋には、交代要員のほかに、曹長の姿もあった。
「ああ、曹長。今日は来ないと思っていましたが?」
「うん。昨夜、動きがあった」
曹長は机の上に置かれた紙を指で叩いた。
「マイケルが自動記録筆の番をしていた。脅迫者は、どうやら最初は口止め料として五百ポンドを要求していたらしい。だが、今度はこうだ」
曹長は記録紙を読み上げた。
「『貴様がぐずぐずしているから、値が上がった。恋文を買い戻したければ一千ポンドだ。三日後の夜十一時、聖ブリジット教会墓地の第七十八A墓所に、一千ポンドを置け』だとさ」
「じゃ簡単さ、その墓地を地図で見つけば……」
「それが問題だ。見つからん、どんな地図でも」マイケルは手元にある数枚の地図を何度も見返した。
「まさかこの街にはいないのか?その墓地?」
「そりゃちょっと奇想天外だ。大金を要求し、わざわざと外地で引き渡しをする?まあ、我々は郊外区の地図を研究している」
「ふん」グレイも地図をじっと見つめ始めた。
「あの……」ヴィヴィアンは小声で皆の注意を引く「古い地図はどうですか?」
「それも見た。この地域は、最近十数年の改造が多いから、二十年前の地図をそれぞれの区役所からもらった。それでも見つからん」
「いえ、百五十年前の地図はどうでしょう?」
「ええ?なんでそんな大昔の地図を見るの?」
「あゝ!」グレイはそれを聞き、何らかを思い出したように感嘆した「大火だ!アンダース三世十三年、即ち百四十七年前の大火だ。街は半壊、この辺りもボロボロとなった」
「私が言いたいのはまさにそうなんです」
「しかし、なぜ賊人はあいう古地図を基づいて渡し場を選択する?」
「さあ。でも、今肝心のはそれを探すだ」曹長は話を纏めた。
「それで、夫人は昨夜また何を言った、曹長?」
「いえ、特に注意すべき内容はなかった。今朝も昨日選んだ服装にかなり不満、中央街の百貨店で買い物に行った」
「ええ、変なことをしないか?」
「心配しないで、あの百貨店に張り込みを送った」
「はあ、じゃ古地図を見つかればいいんだ」
五課の一行は、まず当区役所に現行の地図を要求した。だが、どの地図にも聖ブリジット教会墓地の名はなかった。
次に、十年前、二十年前の都市計画図を出させた。それでも見つからない。区役所の職員は申し訳なさそうに肩をすくめ、このあたりは大火後に何度も区画整理が行われたため、古い地名の多くは失われているのだと説明した。
結局、手がかりは図書館で見つかった。
「……あった」
古い都市図をめくっていたヴィヴィアンが、小さく声を上げた。
グレイとマイケルが同時に覗き込む。
黄ばんだ紙面の一角に、細い文字でこう記されていた。
『聖ブリジット教会墓地』
さらに、その図には細かな区画線とともに、墓所ごとに番号が振られていた。
「ここだ」
グレイは思わず声を上げた、マイケルは「っし」で彼の声を下がると示した。
「でも、今の地図には載っていない。墓地そのものがなくなっているんだろう? それでどうやって第七十八A墓所を探す?」
ヴィヴィアンは首を振った。
「いいえ、探せます。この地図には墓所番号が記されています。位置関係さえ分かれば、現在の地図と重ね合わせることができます」
彼女は指先で古地図の区画をなぞった。
「大火後に公園へ転用されたとしても、地形そのものが完全に変わるわけではありません。道の位置や境界線を基準にすれば、墓所の位置は割り出せます」
マイケルは手元の地図を何度も見返した。
「つまり、古地図の墓所番号と現在の公園の配置を照合すれば、第七十八A墓所の位置を特定できるということか」
「はい」
ヴィヴィアンは頷いた。
「犯人は適当に場所を選んだわけではありません。この番号を指定してきたということは、同じように古地図を参照しているはずです」
「普通のこそ泥が知っている場所じゃないな」
曹長は腕を組んだ。
「古い地図に触れられる人間。役所、図書館、印刷業者、教会関係者……そのあたりか」
「じゃあ、夫人を尾行すれば済むんじゃないですか?」
グレイが言った。
「どうせ金を置きに行くなら、その場所は分かるでしょう」
「それも一つの手だ」
マイケルは頷いた。
「だが、受け取り役は先に現地へ入るかもしれない。墓所の周辺を確認し、逃げ道を見て、警察がいないか探るはずだ。こちらも先に場所を押さえておきたい」
「ふん」
曹長が地図を覗き込み、鼻を鳴らした。
「聖ブリジット教会墓地なら、たしか今は公園になっている。だが、全部が消えたわけじゃない。古い墓石がいくつか残っていたはずだ」
「本当ですか?」
「この街に長年住んでいる俺には分かる」
曹長は少し誇らしげに言った。
「現地へ行けば、昔の区画の名残も見えるはずだ。古地図と照らし合わせれば、第七十八A墓所の位置も割り出せる」
曹長の言う通りだ。彼はマイケルと共に、付近の鐘楼に登って、嘗て墓地であった公園を双眼鏡で眺める。
「うん、四つ……いや、五つの墓石。あの地図が示した78Aは、多分あのリンデンの下。でも、どうしてこの五つの墓石だけ、大火のあとも移されなかったんですか?」
「まあ、それはよくある話だ。教会墓地は、大火のあとに大部分が整理された。身元の分かる墓や、有力な家の墓石は新墓地へ移されたが、引き取り手のない古い墓だけは、そのまま残された」
「なるほど、それはまた悲しいことだな」グレイは夕日を眺望しながら慨嘆した。
「うん。でも、悲しむ時間がないだぞ。明日の慈善音楽会、課長のコネで、客人として招かれた。ほら、招待状」曹長はその招待状をマイケルの服の前ポケットに置いた。
「やるじゃん、課長。待って、何で俺に招待状を?」
「その善音楽会で、君とサラーは新参の地方貴族夫婦を化けてもらう……」
「えええ!……イライアスたちは?」
「あいつらは五課で他の盗難事件を研究している……」
「何で俺?何で他の者じゃないの?」
「まあまあ、いいじゃない?音楽会なんて、一日中盗聴するよりずっとましだ。さあささ、帰るぞ。それに、重要のはイライアスとグレイはベアトリス夫人にすでに顔を見られているので」




