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濃霧の守り人  作者: 朝飯の秋刀魚
第一部

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第三章  強奪

 王都ニルフヘイヴンの連続殺人事件――「切り裂き魔」の捜査が暗礁に乗り上げる中、特務第五課の面々に下されたのは、期待していた華々しい特命ではなく、あまりにも無情な日常の任務だった。


「……パトロール、だと?」


 溜まり場であるバーのカウンターで、グレイが耳を疑うような声を上げた。手にした魔導書を閉じ、不機嫌を隠そうともせずに眼鏡の奥の瞳を細める。


「曹長、聞き間違いじゃなければ、僕らは刑事のはずだ。新米の巡査じゃあるまいに」


「そう言うな、グレイ。君たちの能力を遊ばせておくのは心苦しいが、これは課長命令だ」


 ローランス曹長(sergeant)は、課長に五課の新人係を任された者。彼ら四人の視線から逃げるように、手元の書類に目を落とした。


「最近の連続殺人に加え、例の組織的な銀行強盗事件のせいで、市警の全リソースが割かれている。主要な通りは憲兵が固めているが、そのしわ寄せが境界に来ているんだ。……第一区の隣、スラムへ行ってくれ」


「At once, sir!」


 皮肉を込めて応えたのはイライアスだった。彼は愛用の大型リボルバーのシリンダーを回転させ、カチリと弾倉が収まる音を響かせた。


「ええ、愛剣からその鉄塊に情を移したかい?」グレイは思わずイライアスを揶揄いた。


「それは、しょうがないから」彼の顔は微かに赤くなった「警官たる者が大剣を背負って街を練り歩くなど、体裁が悪すぎる」


「へえ、いい警官振りをしているね、イライ!」


 第一区。そこは王宮がそびえ立ち、貴族や富裕層が贅の限りを尽くす王都の心臓だ。しかし、その輝かしい心臓部のすぐ裏側には、血管の詰まりのように淀んだ巨大なスラム街が広がっている。通称「灰の街」。


 一歩足を踏み入れれば、空気の質が変わる。


 街路樹の代わりに立ち並ぶのは、新金融街建設のために放棄された巨大な鉄骨の骨組みだ。それらはまるで、街を食い荒らす巨大な怪物の死骸のように見えた。


「このスラムも来月には強制撤去だ。ここに住んでいる連中は、ネズミ一匹残さず追い出されることになる」


 案内役を買って出たピーターが、不快そうに鼻を鳴らした。元貴族である彼にとって、この場所の臭いは耐え難いものだったのだろう。


 道端には、肌に黒炭色の結晶が浮き出た人々が力なく座り込んでいる。マーナ(魔力)精製工場から漏れ出す廃液と、石炭の煤煙が混ざり合って引き起こされる公害病――「黒炭病」だ。


 その中には、かつての戦争で手足を失った男たちの姿が目立った。


「……おい、お前、その腕はどうした」


 イライアスが、松葉杖をついた痩せこけた男に声をかけた。男の胸元には、汚れにまみれた「ソルテラ植民地戦争」の従軍勲章がぶら下がっていた。


 男は虚ろな目でイライアスを見上げ、かすれた声で笑った。


「……ソルテラさ。国の名誉のために戦って、手足の一本や二本は安い代償だと言われたよ。だが、戻ってきたらこのザマだ。工場は機械化され、元兵士の仕事なんてどこにもねえ。住む場所すら、進歩の名の下強引に取上げられた」


 かつての「守り人」だったイライアス、魔術エリートから転落したグレイ、家名を失ったピーター、そして腕一本で生きるサラ。背景は違えど、四人は目の前の光景に自分たちの未来を投影せずにはいられなかった。


 進歩という名の急行列車が、不要になった者たちを線路脇に放り出していく。


「……やりきれねえな」


 帰り道、グレイが吐き捨てるように言った言葉に、誰も返す言葉を持たなかった。国のために血を流した者が、平和になった途端に「産業廃棄物」として処理される。それが、この栄華を極めるニルフヘイヴンの真実だった。




 二日目

 ――パトロールだ。今日は第七区の検問チェックポイントに入れ」


「……曹長。昨日の今日ですよ? 僕は今日こそ、この山積みの報告書を片付ける予定だったのですが」


 グレイのあからさまな不快顔を見て、ローランスは苦笑しながら葉巻を咥えた。


「パトロールは捜査の基本だ。……いいか、君たちはARA(特殊採用制度)のおかげで、入庁即『上位巡査』の階級を得た。だがな、現場の空気、街の呼吸を知るという経験が圧倒的に足りない。階級に見合う実力をつけさせるのが、現場指揮官(曹長)である私の仕事だ」


 曹長はイライアスとグレイを見据え、言葉を継ぐ。


「それに、曹長になった私だって、たまに上からパトロールを頼まれる。……文句があるなら、犯人の一人でも引きずってきてから言え」


「……昨日のスラムですか?」


 イライアスの問いに、ミラーは首を振った。


「いや、今日は幹線道路の『チェックポイント・デルタ』だ。銀行強盗の可能逃走ルートを塞ぐための仕掛けだ」


 王都の外縁へと繋がる「チェックポイント・デルタ」。


 蒸気車の排気ガスと凍えるような冷気が渦巻く中、第五課の一行は退屈な車両点検を繰り返していた。グレイは煤で汚れる制服の袖を気にしながら、心底嫌そうに舌打ちを繰り返す。


「……効率が悪すぎます。こんな退屈な検問の仕事、僕の脳の無駄遣いですよ。だいたい、あの知能犯たちがこんな見え透いた場所を通るはずが――」


「おい、グレイ。お前は口を動かす前に手を動かせ。……それより、ピーター」


 イライアスは相棒の文句をいなし、隣に立つピーターに視線を向けた。


 今日のピーターは、普段の制服の上から、全身を覆う重厚な防弾・防暴アンチ・ライオット用のプロテクターを着用し、両手には特大の突撃盾ライオット・シールドを構えている。ただでさえ寒い王都だが、その装備の重さは見ているだけで肩が凝りそうだった。


「随分と重そうな格好だな。暑苦しくないか? 体がなまっちまうぞ」


「大丈夫です、イライアスさん」


 ピーターはバイザーの奥からニヤニヤと笑って答えた。


「これでも元・一課の意地がありますから。それに、盾を持つのは僕の役目です」


「いい心がけね。前衛がしっかりしてくれないと、こっちの狙いが定まらないわ」


 少し離れた時計塔の足場で、愛用の狙撃銃を手入れしていたサラが、満足げに微笑んだ。


 グレイはそんな二人を見上げながら、なおもぶつぶつと愚痴をこぼす。


「サラはいいですよ、上からのんびり狙撃訓練の続きができるんだから。……あーあ、せっかく五課の予算でいい魔導紙を支給されたってのに、こんな任務じゃ宝の持ち腐れだ……」


 その言葉が、猛烈な金属の悲鳴と、強烈なエンジン音によって掻き消された。


 数百メートル前方、検問の手前で、黒塗りの頑丈な蒸気車が突如として急加速したのだ。バリケードを無視し、完全にチェックポイントを強制突破する構えだ。車窓からは、宝石店を襲撃したばかりの強盗犯たちが魔導銃の銃口を突き出している。


「来ました! 強盗犯の車です!」


 ピーターが盾を構えて一歩前に出る。車は止まる気配を微塵も見せず、猛スピードで突っ込んでくる。


「グレイ、文句を言っている暇はなくなったぞ! やれ!」


 イライアスの鋭い声が飛ぶ。


「分かっていますよ、もう! ……まったく、泥臭い魔法は僕の趣味じゃないんですがね!」


 グレイは毒づきながらも、体制から支給されたばかりの高純度魔導紙を空中に放り投げた。指先で一瞬にして術式を書き込み、右の手のひらを力強く叩きつける。


「――『土塊の障壁アース・ブロック』!」


 次の瞬間、蒸気車の前方の石畳が、まるで生き物のようにボコボコと膨れ上がり、巨大な土と岩の塊となって路面から突き出た。


 激突。


 猛スピードの蒸気車は、グレイが作り出した土塊に乗り上げ、凄まじい衝撃音とともに車体を激しく火花を散らせながら、横倒しになって路面を滑った。


「よし、ホールドアップだ! 犯人を逮捕する!」


 横転した車から、煤まみれになった三人の男たちが這い出てくる。彼らは散り散りになって逃げようとしたが、五課の面々は逃がさなかった。


「動くな!」


 グレイが素早く指先を振ると、逃げようとした一人の目の前に、大気が歪んだような透明な障壁が出現した。男は目に見えない壁に顔面から激突し、鼻血を流してその場にへたり込んだ。


「チッ、政府の犬め!」


 二人目の男が魔導銃を向けようとした瞬間、イライアスが懐から鈍い銀色に光る魔法リボルバーを抜き放った。放たれたのは、殺傷力のない特殊な魔法弾丸。弾頭が男の太ももに命中した瞬間、衝撃とともに魔力の鎖が弾け、男の足を地面に縫い付けたように完全に固定フリーズさせた。男はそのままバランスを崩して突っ伏す。


「う、うわあああっ!」


 残る三人目の男が、ヤケクソになってナイフを振り回しながらピーターへ突っ込んできた。


「危ない!」と叫びそうになるグレイを余所に、ピーターの動きは至って地味で、そして冷静だった。


 男の突きを、構えた特大の突撃盾で正面から重々しく受け止める。ガキィィン、と鈍い音が響いた直後、ピーターは盾の自重を乗せて前へと押し出した。


「フンッ!」


 地味ながら強烈なシールド・バッシュ(盾打撃)が男の顎にクリーンヒットする。男は白目を剥いて、そのまま後ろ向きにノックアウトされた。


「……ふぅ。意外とあっけなかったですね」


 ピーターが盾を下ろし、額の汗を拭った。


「よし、ネズミどもの面拝見といこうじゃねえか」


 イライアスは足を固定された男の髪を掴み、手荒に引き起こした。首筋や手の甲を見るが、彼らが追っている組織の「聖印」もなければ、コルンブリア製の高度な装備も見当たらない。手にする武器も、市場で出回っている型落ちの粗悪品ばかりだった。王都警察の奥深く、重苦しい鉄扉の向こうにある「第一取調室」。


 イライアス、グレイ、ピーターの三人は、部屋の壁に嵌め込まれた、こちら側からは姿が見えないマジックミラー(片面ガラス)の向こう側から、尋問の様子をじっと観望していた。


 ガラスの向こうでは、第五課が捕らえた三人の強盗犯が、椅子に縛り付けられてガタガタと震えている。


 彼らを尋問しているのは、一課の叩き上げである曹長だった。


 曹長は書類を机に叩きつけ、低く濁った声で男たちを追い詰めていく。その容赦のない手際は、まさに本職の凄みがあった。


 数分もしないうちに、男たちは鼻水を垂らしながら「知能犯のニュースを見て真似しただけだ」「銀行を襲う装備がなくて宝飾店を狙った」と、すべてを白状した。


 ガチャン、と取調室の鍵が開き、尋問を終えた曹長がこちら側の部屋へと入ってきた。 曹長は手袋を脱ぎながら、五課の面々を値踏みするような目で見やった。


「——見た通りだ。奴らはただの模倣犯だ。いや、模倣犯とも言えん、本物の組織とは何の繋がりもない」


 曹長はため息をつき、イライアスたちに視線を固定する。


「君たちは曲がりなりにも警官になったわけだが、こういった尋問の経験はないだろう? 荒事とホシを割る(自白させる)のは、まったく別の技術だからな」


(はは、そいつはどうかな……)


 イライアスは帽子の庇を指で弾き、内心で苦笑した。


 守りキーパーズ時代、自らの小隊から兵糧や物資を盗み出した泥棒を捕まえたとき、自分たちも「少しばかりの尋問」をしたものだ。だが、あれは曹長が言うような高尚な警察技術ではない。薄暗いテントの裏で、大剣の腹を男の喉元に突き立てて吐かせる、ただの私刑リンチだ。法を語る本職の警察官の前で、そんな過去を披露するつもりは毛頭なかった。


「……そうですか。僕の高級な魔導紙を、ただの真似事(模倣犯)のために使わされたわけですか」


 グレイが心底忌々しげに呟き、手で顔を覆った。


「ケッ……せっかく大魔法まで使ったってのに、ただの事故処理かよ。骨折り損だぜ」


 イライアスは雨に濡れたタバコを咥え、呆れたように笑いながらペンを取った。


 五課の初陣は、手柄としては上々だったが、彼らが追うべき本物の闇の手がかりは、大人の事情という深い霧の向こうへと消えていった。





 翌朝。


 昨日までの憂鬱な雨が嘘のような快晴だったが、第五課の溜まり場「Jerry’s and Jerry’s Bar」の空気は重く沈んでいた。コーヒーの苦い香りと、焼きすぎたベーコンの脂っこい匂いが、昨日のスラムの記憶をさらに後味悪くさせていた。


 グレイがカウンターに投げ出した新聞の見出しが目に飛び込んできた。


「武装強盗団、銀行を襲撃。煙に巻かれる警察、またも逃走を許す』


「これで七件目だぞ」


「手口は同じか?」


 イライアス達が座っているテーブルの後ろの客が尋ねると、グレイは不機嫌そうに頷いた。


「ああ。銀行を迅速に制圧し、駆けつけた警察車両に対して『煙幕スモークの魔導紙』を使用して視界を奪う。その隙に、強化エンジンを積んだ蒸気車で逃走する。……まるで教科書通りの軍隊的連携だ」


 強盗団の正体は、戦後に職を失った四人の元「守り人」と、貴族の御者だった熟練ドライバー。彼らは自分たちの技術が「平和」という市場で価値を失ったことを悟り、それを「強奪」という形で社会に還元し始めていた。


「ええ、其奴らは君らに捕まったではないかい?」イライアス達に同席した、同じく訓練を受けた、今だし十三区の巡査をしている者が問う。


「残念、それは偽情報」グレイは呑気に牛乳を飲んで話を続ける「我らが逮捕したのは模倣犯に過ぎない。それに、銀行を襲う装備と腕がなくで、宝石店を」


「あゝ、一等巡査の先輩に自慢した、強盗犯を捕まった新人とは知り合いって」


「それは御愁傷様」


 ポリス・プラザの作戦室。課長のミラーは、巨大な地図に赤いピンを刺しながら、感情に流されない声で告げた。


「他の課の連中は無能だ。煙に巻かれておろおろしている間に逃げられる。……いいか、我々第五課は追いかけっこはしない。待ち伏せる」


 ミラーの紹介によれば、奴らの狙いは中規模な銀行に絞られていた。


「小規模な銀行は実入りが少なく、大規模な国営銀行は警備が硬すぎる。奴らはプロだ。リスクとリターンのバランスを完全に理解している。そして、奴らの装備は魔法銃及び魔導紙。正面から憲兵と撃ち合えば勝てないことも分かっている」


 ミラーは赤虫ピンを地図に幾つの銀行がある所に刺し「一課(刑事部)の者の分析によって、この数箇所は狙われた可能性が一番高い。それに基づいて、私が提案したのは、罠をかけること。この三箇所で:三区にあるスプリング商業銀行とアシュベリー・アンド・ヴェイル銀行会社、及びノースブリッジ連合銀行の第七区支店で、間も無く金融機関や大企業の工員の年末賞金が運び込まれるという噂をばら撒く。残念ながら、君達新人は活躍機会がなく、この三箇所以外のハリントン・ブラックウッド商会銀行で見張りをす。だが、油断は禁物。我ら警察に恥をかかせないように、きちんと務めを果たす。わかったか?」


「Yes, sir!」


 数日後、作戦は決行された。第五課のメンバーは私服に身を包み、ターゲットと目された第三区の銀行周辺に潜伏した。


 通信には、電波傍受を避けるための「反応型魔導紙」が使われた。魔力を流し、紙の色が青から赤に変われば「敵襲」、紙が黒く燃え尽きれば「突入」の合図だ。


 午後二時。計画はずれの状況となった。


 大型の蒸気車が横に銀行の大門で急停車し、四人の男たちが銀行へ雪崩れ込んだ。


「動くな! 全員床に伏せろ!」


 元軍人らしい、腹の底に響く怒声。彼らの動きに無駄はなかった。一人が入り口を警戒し、二人が窓口を制圧、もう一人が金庫へ向かう。外では御者がエンジンを吹かし、いつでも離脱できる体制を整えている。


 しかし、彼らが人質に「爆発式魔導紙」を貼り付け、金を詰め込み終えた時、事態は急変した。


 外で待機していた御者が、バックミラー越しに異変を察知した。周囲の路地から、ただの通行人だと思っていた男たちが一斉に銃を抜き、逃走路を封鎖したのだ。


「なっ……!? おい、罠だ! ヅラかるぞ!」


 御者が叫んだ瞬間、路地の影からイライアスが飛び出した。


「逃がすかよ」


 彼の放った強化弾が、蒸気車のフロントタイヤを正確に粉砕した。制御を失った車が街灯に激突し、御者はパニックに陥ったところを即座に確保した。


 問題は、銀行内部に取り残された四人の実行犯だった。


 退路を断たれた彼らは、瞬時に「逃走」を諦め、「防衛」へと切り替えた。


「チッ、包囲されたか! 野郎ども、魔導紙で『陣地構築エンレンチメント』だ! 入り口を塞げ!」


 リーダー格の男が叫ぶと、仲間の魔術師が床に両手をついた。


 ズズズズン!!


 激しい振動と共に、銀行の入り口の床が爆発的に隆起した。圧縮された岩と土の塊が、天井まで届く分厚い壁となって出現し、唯一の開口部を完全に封鎖してしまったのだ。


「警察だ! 聞こえているか!」


 ミラーの呼びかけに対し、土壁の向こうから、絶望を怒りに変えた声が響く。


「壁をどけろ! さもないと、この人質の頭につけた『感応爆弾』を起動させるぞ! 貴様らが少しでも不審な動きを見せれば、こいつらの頭がザクロみたいに弾け飛ぶ仕掛けだ!」


 現場に緊張が走る。


 敵が作り出した「土壁」は、魔法的に硬化されており、並の爆薬では傷一つ付かない。中の様子も、音も、魔力反応も一切遮断されている。


 迂闊に壁を壊そうとすれば、その衝撃が起爆のトリガーになりかねない。


「こんな土木魔法まで使えるなんて聞いてないぞ! どうする?」


 突入部隊の機動隊長が、焦燥に駆られてローランス曹長に詰め寄った。


「今は待機だ。私が彼らと対話し、要求を聞き出す。時間を稼ぐしかない」


 曹長が一歩前へ出ようとした時、横からグレイがその肩を掴んだ。


「待ってください、曹長。一つ解決策があります」


 グレイは眼鏡のブリッジを押し上げながら、淡々と、しかし確信に満ちた声で続けた。


「かつて魔導師たちが、魔物の巣を安全な距離から観察するために開発した術式があります。……『視覚共有』。直接見ることができない場所を、蝶に変えた魔導紙を通じて覗き見る術式です。……少々、準備に時間をいただけますか?」


「……わかった。私が強盗どもの相手をして時間を稼ごう」


 曹長が土壁に向かって説得を続けている間、グレイは地面に複雑な幾何学模様の術式を描き始めた。周囲の警官たちは、その異常な集中力と、彼から放たれる凍りつくような魔力に圧倒され、ただ見守るしかなかった。


 十分後。グレイが顔を上げた。その額には薄っすらと汗が浮かんでいる。


「準備完了です。……始めましょう」


 視覚共有には、術者自身が膨大な魔力を注入し続ける必要がある。グレイはサラ、そして他の魔力適性を持つ狙撃手たちを呼び寄せ、術式へのアクセス方法を伝達した。


「『視覚共有術式――バタフライ・リンク』」


 グレイが呪文を唱えると、四枚の魔導紙が淡い光を放ちながら、繊細な羽を持つ「蝶」へと姿を変えた。現場にいた者は好奇を満ちた目でその蝶々移動痕跡から逸らずに追跡した。


 蝶たちはひらひらと舞い、銀行のわずかな通気口や、土壁の微細な隙間から内部へと侵入していく。


 ビルの屋上、そして路地の物陰。サラを含む四名の狙撃手の視界に、異変が起きた。


 眼前に広がる光景に、半透明の映像が重なり始める。それは、天井付近に張り付いた「蝶」の視点だった。


(……見える。壁の向こう、カウンターの裏だ)


 サラはライフルのスコープを覗き込む。肉眼では、視界を遮る無機質な土壁が見えるだけだ。


 だが、脳内に流れ込む「蝶」の映像が、標的の正確な位置を映し出していた。


 強盗たちは、人質を盾にしてカウンターの陰に潜んでいた。だが、彼らは「外からは見えていない」という安心感から、わずかに頭部を露出させていた。


 自分たちが作った「鉄壁の防御」が、まさか透明な窓になっているとは思いもしないだろう。


「……位置補正完了。座標、ターゲットA、B、C、Dを固定」


 グレイの声が、共有された意識の中に響く。


 狙撃手たちは、自分の魔力をライフルの弾丸へと流し込んだ。装填されたのは、貫通力に特化した特注の『徹甲魔導弾アーマー・ピアシング・マナ』。


「ターゲット、ロック」


 サラーの指がトリガーにかかる。彼女は深く息を吐き、心臓の鼓動が消えるのを待った。


「……やれ」


 ミラーの短い命令。


 ドォォォォォン!!


 四発の銃声が、一つの音となって王都の空に轟いた。


 放たれた魔導弾は、音速を超え、強盗たちが全幅の信頼を置いていた土壁を易々と貫通した。物理的な障壁を無視するようなその弾丸は、壁の向こう側で油断していた四人の強盗たちの眉間を、一瞬の狂いもなく正確に射抜いた。


「が……っ……」


 声を上げる暇さえなかった。脳を破壊された彼らの肉体は、爆弾の起爆術式を発動という神経の反応すら許されず、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


「突入!」


 ミラーの合図で、機動隊が崩れかかった土壁を粉砕し、銀行内になだれ込む。


 そこには、何が起きたのか理解できずに震える人質たちと、自分たちが信じた「盾」の裏側で絶命した、哀れな元兵士たちの遺体が転がっていた。


「……連携チームワークじゃ、こっちが一枚上手だったな」


 グレイが冷めた目でタバコに火をつけた。紫煙が風に流され、硝煙の匂いと混ざり合う。


 イライアスは、倒れた強盗の一人が握っていた、自分と同じモデルの古い魔法銃を見つめていた。


 彼らもまた、昨日スラムで出会った男と同じだった。国のために戦い、そして捨てられた。ただ一つ違ったのは、彼らは泥を啜る代わりに、銃を手に取ったということだけだ。


「……あいつらの勲章、どこへ行ったんだろうな」


 イライアスの呟きは、誰の耳にも届かずに消えた。


 この事件は、特務第五課が単なる「厄介者の集まり」ではなく、他のどの警察組織も持たない異常な専門性と容赦のなさを備えた、「毒を持って毒を制する」チームであることを王都に知らしめる最初の象徴となった。


 だが、銀行から回収された金の一部は、巧妙に書き換えられた帳簿の隙間を通って、王宮のさらに深い闇へと流れていくことになる。彼らが守った「法」とは、一体誰のためのものなのか。


 その答えを知る者は、まだこの場所にはいなかった。




 ――しかし、第五課の日常は続く。


「……冗談じゃない。四枚だ。四枚だけの『上級魔導紙』を使って、こんなクソ面倒な始末書を書かされるとは……!」


 第五課の薄暗い事務室で、グレイが机に突っ伏し、髪を掻き毟りながらうめき声を上げた。


 警察組織という巨大な官僚機構において、「現場での大規模な魔法の無断使用」は重罪に近い。グレイは昨日の事件で吹き飛ばされた銀行の金庫扉の言い訳を、物理法則と魔法陣の数式を交えて延々と書き連ねていたのだ。


「諦めな、インテリ。警察ってのは剣を振るよりペンを走らせる方が体力を使うらしいぜ」


 イライアスは窓際の擦り切れたソファに寝転がり、新聞を片手に鼻で笑った。


「他人事みたいに言わないでくれ、イライアス。俺たちは一生の仲間ではないのか?助けて、最近の他の書類も積み重ねって、締め切りの前で完成できない」


「しょうがないね、じゃ手伝うから、今回だけ!」


「イライはいつでもグレイを甘やかしないで」狙撃装備を整理したばかりで帰ったサラーは意味深な目で言った。


 向かいのデスクでは、ピーターがインクで手を真っ黒にしながら、涙目で書類と格闘していた。


 グレイが深いため息をつき、インク壺にペンを浸したその時だった。


 バンッ!!


 第五課の古びたドアが、蝶番が吹き飛ぶ勢いで蹴り開けられた。


「呑気に油を売っている暇はねえぞ、諸君!」


 鬼のような形相で現れたのは、彼らの直属の上司である曹長だった。手には、まだインクが生乾きの緊急指令書が握られている。


「曹長。また一課のエリート様たちが尻尾を巻いて逃げ出すようなヤマですか?」


 グレイは一気に手持ちの書類を放り投げ、ゆっくりと身を起こす。


「おい。言い方、言い方。でも大抵はその通りだ。場所は十五区、王都最大級の紡績工場『ブラッドベリ・ミルズ』。……つい一時間前、最新鋭の『魔導蒸気織機』が暴走した」


 曹長は忌々しげに葉巻を噛みちぎり、凄惨な現場の状況を語り始めた。


「機械が、工員を次々と飲み込んだ。文字通り『食った』んだよ。肉を砕き、血を絞り出して、その血を使って布に『異常な図案』を織り上げているらしい。現場に突入した一課の警官三人衆も、意志を持ったように吹き出した高熱の蒸気に巻き込まれてミンチになった」


「……蒸気が意志を持った、か」


「第一課の連中は『ボイラーの破裂』だの『人為的なサボタージュ』だのと喚いているが、あんなものは機械の故障じゃねえ。……グレイ、わかるか?」


「ええ。十中八九、劣悪な環境による『魔導汚染』です。我々が警察庁に入庁前のあの自動人形暴走事件と似たような原理で、ただ規模は別格です」


「工場のコスト削減のために、安価で不純な魔導油エーテル・オイルを大量に使ったんです。そこに、過酷な労働で死んでいった工員たちの絶望や疲労が共鳴し、機械に低級な憑依霊ポルターガイストを定着させた。血で図案を織っているのは、その霊が『魔法陣』を描いてさらなる仲間(魔物)を現世に呼ぼうとしている証拠だ」


「正解だ。物理的な破壊も銃弾も効かん。一課の連中が持ち込んだ最新の制圧用オートマトンも、工場の呪われた磁場に当てられて一歩も動けなかったそうだ」


 曹長はイライアスに鋭い視線を向けた。


「出番だな」


 イライアスは壁に立てかけてあった巨大な対魔剣を無造作に掴み上げ、肩に担ぐ。無論、魔法銃も一緒に装備した。


「最新の機械おもちゃが役に立たねえなら、時代遅れの『守り人』の出番ってわけだ。人間の血を啜る機械なんて、悪趣味にも程がある」


「サラー、ピーター、君達は後方支援と障壁展開の準備を。現場の瘴気は相当な濃度のはずだ。吸い込めば肺から腐るぞ」


「は、はいッ!」


「いいか、諸君。工場の中にはまだ逃げ遅れた工員が数十人いる。機械をただ壊すな、呪いの根源コアを解体しろ。……さっさと行って、一課の連中にプロの仕事を見せつけてこい!」


 曹長の怒号を背に受けながら、第五課の面々は煤煙の立ち込める王都の空の下へと飛び出した。


 華やかな産業革命の影で産み落とされた鉄の怪物を狩るために。


 凄惨な事故現場である「Harrington Mill & Weaving Works (ハリントン紡績織布工場)」に到着した三人は、血生臭い脂の臭いと、逃げ遅れた工員たちの怯えた視線に迎えられた。


 曹長の言った通り、犠牲者の大半は、安い賃金で過酷な労働を強いられていた若い女性たちだった。


 工場の外には、一課の警官たちが引いた規制線が張られ、その内側で数人の女性工員が毛布にくるまり、ガタガタと震えていた。彼女たちの瞳には、つい先ほど目の前で同僚が機械に飲み込まれた光景が焼き付いている。


 イライアスは無造作に彼女たちの一人に近づき、腰を落として視線を合わせた。


「……すみません、何があったか、話せますか?無理しなくでもいいです」


 女性は焦点の定まらない目で首を振った。


「さ、何も知りません。あの日、シャーロットは……」


 彼女はついに涙をこらえきれず、肩を震わせながら小さくすすり泣き始めた。イライアスは言葉に詰まり、気まずそうにハンカチを差し出した。やがていくらか落ち着きを取り戻した工員は、残された証言を絞り出すように続けた。


「あの人は、あそこにいるはずがなかったんです。もうシフトは終わっていたはずなのに……」


 他の工員たちも、幽霊でも見たかのような顔で口々に似たようなことを呟く。


「そうよ、あの時間は誰も織機の近くにいなかった」


「機械が、勝手に動いたの。誰もいないのに、お腹を空かせた獣みたいにガタガタ鳴って……」


 イライアスは眉をひそめ、奥で今も唸り声を上げている巨大な織機を見つめた。


「グレイ、こいつをどう見る。どんな魔力痕跡がある?」


 グレイは既に片方の手袋を外し、空中に漂う微かな光の粒子を、指先でピアノを弾くように弄んでいた。彼の瞳は魔導演算モードに入り、深い青色に輝いている。


「……妙ね。魔物の痕跡が存在しなし、その痕跡がもう一切無し。機械を乗っ取るような幽霊の残留思念も、悪魔の門が開いた予兆も皆無だ。まるで最初から何もいなかったかのように、完全に気配が消されている」


「幽霊と悪魔の門が開く?こんな所で冗談?もっと真面目に。では、じゃ何だと? ただの機械の故障だってのか」


「いいえ。変なのはそこなのだ。直接人の手で術をかけた形跡も見えない。いわゆる『魔法攻撃』の類いじゃないんし」


 グレイは織機の心臓部――不自然な赤黒い模様が刻まれた鋼鉄のフレームに近づいた。


「直接か。……まさか、罠とか?」


「ありえる。が、確証がない。見てください、これこそが不可解な点は多過ぎる」


 グレイが空中の「光る魔力の残滓」を指差した。それは規則性を持たず、霧のように現場に満ちている。


「散らかっている。魔力の糸が、どこにでも繋がっているようで、どこにも繋がっていない。まるで、この空間そのものが『誰かの胃袋』の中に書き換えられてしまったかのような……そんな歪みを感じます」


「胃袋だと?」


 イライアスが大剣の柄に手をかける。


「ああ。イライアス、足元に気をつけて。この魔力の散らばり方は――獲物が踏むのを待っている『蜘蛛の巣』の構造に近い」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、工場の床に飛び散っていた「血の図案」が、脈打つように赤く発光し始めた。


「……来たぞ! ピーター、障壁を張れ! グレイ、演算を急げ!」


 イライアスの叫びと共に、誰もいないはずの織機が、ギチギチと悲鳴を上げながら再び回転を始めた。その歯車の間からは、工員たちの悲鳴のような蒸気が噴き出している。


「魔物?冗談か?この都市の真ん中でかよ!」


 イライアスが大剣を引き抜き、毒づく。王都ニフランドの心臓部、近代化の象徴である工場地帯で魔物など、本来あり得ないはずだった。


「知るか。だが現状、それ以外の演算結果が出ないんだ」


 グレイは既に魔導紙を三枚、扇状に展開している。彼の瞳は、空間に刻まれた歪な幾何学模様を読み解こうと激しく動いていた。


 その光景が、イライアスの脳裏に忌まわしい記憶を呼び起こす。


(……あいつだ)


 まだ彼が「守り人」として駆け出しだった頃、北部の古い廃坑で対峙した悪夢。巨大な蜘蛛の胴体に、苦悶に歪む「人間の女の顔」が張り付いた異形。獲物を即死させるのではなく、糸で絡め取り、数日間かけて生きたまま中身を啜る、あの吐き気のする捕食者。


「曹長! すぐに近隣の住民を避難させてください! この五つのブロック以内は非関係者以外立ち入り禁止だ! 急げッ!」


 イライアスの怒号が響く。一課の警官たちが戸惑う中、曹長は即座に部下を怒鳴りつけた。


「クソッ!」


 工場の窓から、白く粘着質な糸が噴き出し始めた。それは意志を持っているかのように街灯や壁を浸食し、急速に増殖していく。


 周囲の空気が急速に冷え込み、肌を刺すような寒気が走る。同時に、イライアスの体から力が抜けていく感覚があった。


「……マーナを吸い取られてる。グレイ、これは何だ?」


「『物質は無から生じない』。熱力学と魔導力学の基本ですよ。あの異常な量の糸を生成するためのエネルギーは、周囲の熱と、僕たちの生体マナを変換して得ているんです。放っておけばこの区画ごと氷河期のように凍りつきますよ!」


 ズズッ、と背後で巨大な何かが動く音がした。


 工場の入り口が、網目のような白いカーテンで塞がれようとしている。


「出るぞ! 閉じ込められたら、俺たちはあいつの保存食だ!」


 二人は、完全に糸が出口を塞ぐ寸前で、外の路地へと転がり出た。


 直後、バチンと音を立てて工場全体が巨大な繭のように白い糸に包み込まれた。


 逃げ遅れた女性工員たちの「シャーロットはシフトが終わったはず」という言葉が、イライアスの頭の中で最悪の形で結びつく。


「グレイ……あの糸の物質、もし『人間』を変換して作られてるとしたら……」


「……最悪の仮説ですね。ですが、今のところ否定する材料がありません」


 霧の立ち込める王都の夜に、かつて絶滅したはずの魔物の「咆哮」が、機械の駆動音に混じって不気味に響き渡った。


「ふん、作戦会議か。だが悠長な時間はねえぞ」


 曹長が忌々しげに吐き捨て、背後の工場を指差した。


 白い繭は、いまや工場の屋根を突き破り、まるで巨大な心臓のようにドクンドクンと脈打ちながら、周囲の建物を侵食し始めている。


「あれはどんどん大きくなるぞ。どうする、イライアス。やっぱり魔導火炎放射器マナ・ブレイザーをぶち込むか?」


 魔導火炎放射器。それはガソリンやオイルを用いる一般の火炎放射器とは一線を画す兵器だ。内部の術式回路に魔力を注入し、超高温の青い炎を放射する。その威力は、通常の燃料タンクなら一瞬で爆発するほどの熱量を生み出し、さらに精密な術式によってマナそのものを「追跡」して焼き尽くす。魔物退治にはこれ以上の武器はない。


 だが、曹長は苦虫を噛み潰したような顔で横入りした。


「いや、無駄だ。僅かに配備されていた魔導火炎放射器も、全部軍に借り出されちまったよ。北の地の反乱を収めるだのなんだので、王都の倉庫は空っぽだ」


「ちっ、こんな時にまで『軍優先』かよ。一課の連中が使ってる安物のオイル放射器じゃ、あの糸に触れる前に冷やされちまうぜ」


 イライアスが大剣を握り直す。グレイは、一課の警官たちが積み上げていた予備の燃料タンクを凝視し、計算を始めた。


「……グレイ、普通の火炎放射器に、君が即席で術式を組むのはどうだ?」


「悪くない。……いえ、それしかありませんね」


 グレイは眼鏡を押し上げ、不敵に微笑んだ。


「まず、普通の火の熱量で繭の増殖に負荷をかけ、一瞬だけ動きを止めます。その隙に、僕が燃料そのものに『燃焼連鎖』の術式を上書きする。あとは一気に放出パージすれば、ただのガソリンが魔導の炎に変わる。――一気に焼き払えますよ!」


「よし、決まりだ。ピーター! お前は一課の連中を下げさせろ。ここから先は、熱すぎて一般人の肺じゃ耐えられねえぞ!」


「わかりました! 障壁の展開、準備完了!」


 イライアスは普通の火炎放射器のノズルを乱暴にひったくると、グレイが術式札を貼り付けるのを待って、巨大な繭へと銃口を向けた。


「さあ、焼き肉の時間だ。シャーロットだったか……悪いが、天国へ行く前に少し熱い思いをしてもらうぜ!」


 ゴォォォォォォォッ!!


 轟音と共に、王都の夜を真っ赤な炎が切り裂いた。


 ゴォォォォォォォッ!!


 グレイの即席術式によって「魔導の炎」へと変質した紅蓮の奔流が、白い繭を真っ向から焼き払った。


 超高温の炎に晒された粘着質の糸は、不快な音を立てて弾け、みるみるうちに茶黒く萎びていく。周囲の気温が急上昇し、凍りついていた街灯の霧氷が蒸気となって爆ぜた。


「……仕留めたか?」


 イライアスが放射器のノズルを下げ、煤煙の向こうを睨みつける。


 だが、事態は終わっていなかった。


 焼けて萎み、ボロ布のようになった繭の残骸が、内側から激しく脈動した。


 ドクン、ドクンと不気味な音が響き、焦げた糸を突き破って「それ」が姿を現す。


 現れたのは、八本の節くれ立った脚を持つ、漆黒の巨大な蜘蛛だった。しかし、その頭部があるべき場所には、悍ましいほどに巨大な「人間の女性の顔」が張り付いていた。


「……ひっ……」


 背後でピーターが息を呑む。


 その顔は、熱に焼かれ、皮膚がただれ、苦悶に歪んでいる。地獄の底から這い上がってきた亡者のような形相。だが、その虚ろな瞳からは、一線の涙が頬を伝って流れ落ちていた。


「シャーロット……なのか?」


 イライアスが低く呟く。その涙は、魔物としての本能に塗りつぶされる直前の、人間としての最後の欠片なのかもしれない。


「イライアス、情を捨てるんだ!」


 グレイが鋭く叫んだ。


「彼女はもう人間じゃない. る。細胞の隅々まで魔導汚染に侵され、肉体を組み替えられている。あの涙は……ただの生体液の流出に過ぎない、そう思うしかないんだ!」


 蜘蛛の顔が、ギリギリと音を立てて大きく開いた。喉の奥から響くのは、女性の悲鳴を幾重にも重ねたような、不快な高周波の咆哮。


「……わかってるよ、グレイ」


 イライアスは大剣を正眼に構え、その切っ先を「彼女」に向けた。


「せめて一撃で終わらせてやる。それが、今の俺たちにできる唯一の救済だ」


 人面蜘蛛が、鋭利な前脚を振り上げ、石畳を砕きながら突進してきた。


 宙に舞う人面蜘蛛。無防備に晒されたその頭部――シャーロットの歪んだ顔の奥には、彼女の脳を侵食し、魔力供給の管制塔と化したエーテル核 が脈打っているはずだ。


「サラ! 狙えッ!!」


 屋根の上、サラが冷徹に引き金を引き絞る。


「……脳幹、照準固定ロック。バイバイ、シャーロット」


 放たれた徹甲魔弾は、蜘蛛の額を正確に貫いた。だが、魔物は死なない。エーテル核が残っている限り、神経伝達が強引に継続され、肉体は狂乱のままに動き続ける。


「まだだ! 神経系ラインを直接断つぞ!」


 イライアスが地面を蹴った。


 落下してくる巨体。その「人間の顔」と「蜘蛛の胴体」の接合部。そこに魔力がもっとも集中する中枢神経の束がある。


「グレイ、点火エンチャントしろ! 焼き切るぞ!」


「了解……出力最大! 『極点燃焼マキシマム・バースト』!!」


 大剣が白熱し、超高温の断熱結界を纏う。


 イライアスは落下してくる蜘蛛の重力を利用し、接合部へと剣を横一文字に叩き込んだ。


 ガギィィィィン!!


 硬質の外殻を、熱を帯びた刃が強引に両断する。


 刹那、イライアスの視界に、肉の奥で青白く発光する光が映った。血管と魔力が複雑に絡み合った、悍ましくも美しい「脳の一部」だ。


「あ……あ……」


 シャーロットの口から、最後のか細い声が漏れた。


 大剣の刃が、その青白い核を真っ二つに叩き割る。 バヂィィィッ! と高電圧が弾けるような音が響き、蜘蛛の巨体から一切の「意志」が消え失せた。エーテル核という制御中枢を失った肉体は、ただの重い肉の塊に成り果て、石畳に激突する。


 ズルリ、と蜘蛛の脚から力が抜け、死骸が冷えていく。


「……この蜘蛛の完全沈黙を確認。……終わったよ、イライアス」


 グレイが静かに告げる。


 イライアスは剣に付着した黒い体液を払い、灰色の空を仰いだ。


「ああ。……あいつの脳に、まだシャーロットが残ってたのかどうか……それは誰にもわからねえな」


 五課の面々は、静まり返った工場地帯を後にした。


 ふぅ……やっと終わったんですね」


 ピーターが安堵の息を吐き、盾を下げたその時だった。


 ピチャリ、と嫌な音が静まり返った工場に響く。


 横たわる人面蜘蛛の死体。その膨れ上がった腹部が、内側から激しく波打ったかと思うと、一気に弾け飛んだ。


「――っ!? 伏せろ!」


 イライアスの叫びも虚しく、死体の裂け目から溢れ出したのは、手のひらほどのサイズの子蜘蛛たちだった。数十、いや、数百という数の黒い群れが、カサカサと不気味な音を立てて四方八方へと散らばっていく。


「うわあああ! 出たぁぁぁ!」


「撃て! 逃がすな! 踏み潰せ!」


 現場は一転してパニックに陥った。イライアスは大剣を振り回して群れを叩き潰し、グレイは残った魔導火炎放射器で周囲を焼き払う。一課の警官たちも悲鳴を上げながら重いブーツで地面を何度も踏みつけた。


 だが、あまりに数が多すぎた。子蜘蛛たちは排水溝の隙間や、工場の壁の割れ目へと滑り込み、闇の中へと消えていく。


「……クソ、大半は逃げられたか」


 イライアスが煤まみれの顔で床を見下ろした。


「最悪です。あの子蜘蛛たちが街の地下に巣を作ったら、また同じことが繰り返される……」


 グレイが頭を抱える。


「やばいですよ……課長、絶対に怒りますよね」


 ピーターの顔が真っ青になる。


 守り人の仕事なら、「親玉を倒した」時点で依頼完了だった。報酬をもらって、あとは野となれ山となれで去ればいい。だが、警察は違う。


「警察は、守り人と違って面倒な後始末を回避できない。……市民の不安を放置して去ることは許されないんだ」


 グレイが重い口調で言った。警察組織という看板を背負った以上、彼らは「責任」という名の鎖に繋がれているのだ。


 案の定、翌朝の第五課には、ミラー課長の怒号が響き渡った。


「貴様らぁ! 王都のど真ん中で魔物の種を撒き散らして、どの面下げて帰ってきた!」


 それからの、地獄の一週間。


 五課の四人に、優雅な捜査の時間などは微塵もなかった。


 彼らに与えられたのは、殺虫剤と魔導トーチ、そして王都の汚水が流れる狭い地下水道の地図だった。


「……くっせえ。剣士の俺が、なんで地下水路で這いつくばって虫退治してなきゃならねえんだ」


 泥と蜘蛛の糸にまみれたイライアスが毒づく。


「文句を言わないでください。……お、いたぞ! 十二時方向、配管の裏だ!」


 グレイが指示を出し、サラが正確な射撃で子蜘蛛を仕留め、ピーターが逃げ道を塞ぐ。


 最新鋭の魔導産業革命を謳歌する王都の足元で、彼らは泥にまみれ、ネズミと腐敗臭に囲まれながら、一匹残らず蜘蛛を排除するための「警察的な」地道な作業を繰り返した。


 この「面倒な仕事」こそが、彼らが捨てたはずの「守り人」と、新しく手に入れた「警察官」という身分の間にある、決定的な違いだった。


「……でも、これで少しは『シャーロット』の家族も、安心して眠れるようになるといいですね」


 一週間にわたる地下水道での「清掃作業」を終え、五課の面々がようやく地上に這い出してきた時には、全員がどこの浮浪者かと思うほど泥と汚水にまみれていた。


 夕暮れのガス灯が灯り始めた王都の街並みは、自分たちの汚れ具合とは対照的に、どこまでも平穏で、無機質な美しさを保っている。


「……はは、見てくださいよ。僕の制服、もう元の色がわかりません」


 ピーターが力なく笑いながら、泥の塊を地面に落とした。


「笑えねえよ。剣士の俺が、一週間で振ったのは大剣より殺虫スプレーの方が多かったぜ」


 イライアスは忌々しげに鼻を鳴らし、湿気った煙草を口にくわえたが、火をつける気力すら残っていないようだった。


 グレイは一人、工場の裏口にある石段に腰を下ろし、真っ黒に汚れた自分の手を見つめていた。


 かつて守り人だった頃、彼らの仕事は常に「華々しい結末」を求められた。巨大な魔物を倒し、依頼主から金貨の袋を受け取り、次の街へと去る。倒した後の死骸がどうなるか、その後にどんな小さな問題が残るかなど、考えたこともなかった。


「……どうした、グレイ。あまりの汚さに知恵熱でも出たか?」


 イライアスが横に座り、火のつかない煙草を弄ぶ。


「いえ……。ただ、考えていたんです。僕たちが今やったことは、守り人の基準で言えば『仕事』ですらない」


 グレイは静かに語り出した。


「魔物の親玉を倒した時点で、僕たちの勝ちは決まっていた。本来なら、そこでおしまいです。でも、警察は……その後に残った、取るに足らない数百匹の子蜘蛛のために、一週間も泥水を啜る。誰に感謝されるわけでもなく、ただ『市民の眠りを妨げないため』だけに」


 グレイは眼鏡を外し、汚れを拭いながら街ゆく人々を見た。


 彼らは、自分たちの足元で起きた凄惨な事件も、その後に五課がどれほど泥まみれになって「安全」を繋ぎ止めたかも知らない。


「守り人は『英雄』になれる。でも、警察官は……ただの『仕組み』の一部だ。どんなに苦労しても、何も起きなかったことにするのが僕たちの成功なんです。……本当に、守り人とは正反対の仕事だ」


「嫌になったか?」


 イライアスの問いに、グレイは少しだけ口角を上げた。


「……不思議と、悪くない気分です。英雄として去るよりも、この街の『日常』を、文字通り這いつくばって守り抜いたという実感がある」


 グレイは立ち上がり、汚れた服を軽く叩いた。


「さあ、帰りましょう。早く報告書を書き上げないと、今度はミラー課長に、書類の山という名の魔物に食い殺されますよ」


「ケッ、そいつが一番の強敵だな」


 二人のやり取りを、少し後ろでピーターとサラが微笑ましそうに眺めている。


 その闇を払うのは、もはや伝説の英雄ではない。


 泥にまみれて日常を繋ぎ止める、不器用な警察官たちなのだ。 



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