第十章 帰国
帰国の船旅から三日後。
蒸気と石炭の匂いが充満する王都ニフルヘイヴンの港に、新聞売りの少年の甲高い声が響き渡っていた。
「号外! 号外だー!元枢機卿であり、ニフルヘイヴン大主教が失踪!? 若い愛人を連れて夜逃げか!?さらに自宅からは『異教の魔物の剥製』が多数発見! 教会の権威、地に落ちる!」
タラップを降りたイライアスは、その新聞をコイン一枚で買い取り、記事を一瞥して鼻で笑った。
「……『複数若男女との不貞行為』に『悪魔崇拝の儀式』か。教会も随分と派手なシナリオを書いたもんだな」
「ええ。死人に口なし、とはよく言ったものです」
隣でグレイが、冷ややかな目で新聞を覗き込む。
記事によれば、枢機卿はスキャンダル発覚を恐れて行方をくらませたとある。
だが、裏の事情を知る二人には真実が見えていた。
条約締結により、枢機卿の資金源の八割であった「ソルテラ総督府」は消滅した。
金の切れ目が縁の切れ目。
新たな枢機卿(前任者の弟子)と他の主教たちは、用済みになった彼に全ての罪を擦り付け、トカゲの尻尾切りを行ったのだ。
おそらく今頃、枢機卿は愛人と逃避行どころか、王都の暗い裏路地で、かつての身内(教会の暗殺者)によって始末され、海に沈んでいることだろう。
「……仲間割れか。欲をかきすぎた豚の末路だな」
イライアスは新聞をくしゃりと丸め、ゴミ箱へ放り投げた。
港の出口で、共に帰国したハーワードが足を止めた。
「……さて、俺はここでお別れだ」
ハーワードは帽子を目深にかぶり直した。彼は公式には「死んだことになっている裏切り者」だが、条約の恩赦により、新しい身分証を手に入れていた。
「どうするんだ、ハーワード?」
「実家に戻ってみるよ。妻も娘も、俺は死んだと思ってるだろうからな。……幽霊が帰ってきたら、腰を抜かすかもしれんが。でも、その後は華々しいアストリアの冒険だ!ついで、大金が稼いたらいい!」
ハーワードは少し照れくさそうに笑い、手を差し出した。
「イライアス、グレイ。……礼は言わねえぞ。お互い様だからな」
「ああ。達者でな」
イライアスがその手を強く握り返す。
かつての敵であり、裏切り者であり、そして戦友だった男は、帝都の雑踏へと消えていった。
二人きりになったイライアスとグレイが、石畳の道を歩き出した時だった。
「……おい、貴様ら! いつまで観光気分で歩いている!」
雷のような怒声が響いた。
二人が振り返ると、そこには鬼のような形相をした初老の軍人――彼らの直属の上司だった曹長が、腕組みをして仁王立ちしていた。
「げっ、曹長……」
イライアスが顔を引きつらせる。
「『げっ』とは何だ、『げっ』とは!
貴様らの処分保留と、警視庁・特別第五課への復帰命令が出ている!
休暇は終わりだ! 明日の朝0800までに出頭しろ! 遅刻したら営倉行きだぞ!」
曹長はそれだけ怒鳴ると、ニヤリと笑って去っていった。
「……やれやれ。無罪放免どころか、またこき使われるのか」
「ですが、職を失わずに済んだのは朗報ですよ、イライアス」
その日の夜。
二人は、かつて住んでいたアパートの前まで戻ってきた。
その前、教会勢力の襲撃によって爆破され、灰燼に帰したはずの「我が家」だ。
しかし、
「……おい、グレイ。俺の目がイカれちまったのか?」
イライアスが呆然と呟いた。
そこには、以前と全く同じ姿の、いや、以前よりも外壁が綺麗に塗り直され、窓ガラスもピカピカに輝くアパートが建っていたのだ。
玄関には、一枚の張り紙があった。
「改装工事完了。これは君らの帰国祝いのプレゼント』
「……どうやら、陛下からの『ボーナス』のようですね」
グレイが鍵を取り出すと、それは滑らかにシリンダーに吸い込まれ、カチャリと音がした。
部屋の中は、家具の配置まで以前のまま再現されていた。
唯一違うのは、新品の革張りソファと、テーブルの上に置かれた最高級のスコッチウイスキーのボトルだけだ。
イライアスはソファにどかっと腰を下ろし、琥珀色の液体をグラスに注いだ。
「……ふぅ。やっぱり、ここの空気は汚くて落ち着くぜ」
窓を開けると、帝都特有の煤煙と霧の匂いが入ってくる。
密林の新鮮な空気よりも、この肺を焦がすようなスモッグの方が、彼らにとっては「日常」の香りだった。
「ねえ、イライ」
グレイも向かいの椅子に座り、グラスを傾けた。
「この先、どうなると思いますか? 枢機卿は消えましたが、教会の闇が全て晴れたわけではありません」
「知らん」
イライアスは短く答え、グラスを掲げた。
「だが、穏やかな生活なんてのは、俺たちにとっては幻覚(幻)みたいなもんだ。
どうせまたすぐに、面倒な『掃除』の依頼が舞い込んでくるさ」
「……違いありません」
二人はグラスを軽く合わせる。
カチン、と硬質な音が、静かな部屋に響いた。
窓の外では、王都の夜霧が深まり、ガス灯の明かりが揺れている。
彼らの戦いは終わったわけではない。
ただ、今は束の間の休息を。
ニフルヘヴン王宮 国王事務室重厚なオーク材の門が音もなく開き、一人の男が滑り込んできた。
アーサー親王。現国王オスカーの弟であり、先代女王が遺した第八番目の末子。そして今、この国の財布を握る財務大臣である。
アーサーは扉に背を預け、ニヤニヤとした不遜な笑みを浮かべながら、机に向かう兄へと声をかけた。
「……悪くないね。例のソルテラの一件、見事な幕引きだったよ」
「ん? 隣国との和談のことか? ……ああ、ようやく済んだ。全く、あのクソ総督がどれほどの茶番を演じてくれたことか。後始末にどれだけ書類を書かせるつもりだ」
国王オスカーは顔を上げず、苛立ちを隠そうともせずに次々と書類へサインを走らせる。その言葉は、いかにも「厄介な外交問題を片付けただけ」という風を装っていた。
「ハッ! 兄上、しらばくれるのはよしてくれ。僕がそんな表向きの話をしているんじゃないことくらい、わかっているだろう?」
アーサーは歩み寄り、手にした一枚の報告書を、兄の目の前のデスクへ叩きつけるように置いた。
「これを見てくれ。ニフルヘヴンと連合王国の先物取引所で、二週間前――つまりソルテラが最も混乱していた最中に、大量の『蔗糖(砂糖)先物』を買い占めた秘密資金がある。そして今日、ソルテラの和平交渉成立が公式発表される直前、その買い手は絶妙なタイミングで全てを売り抜けた、そしてすぐに空売りをした」
オスカーの手が、わずかに止まる。
「……それがどうした? 運の良い投機家など、この街には腐るほどいるだろう」
「いいや、これは運じゃない。完璧なインサイダー(内部情報取引)だ。……おいおい、兄上。この私を財務大臣に任命したことを忘れたのかい? こんな不自然な金の動き、僕の目を誤魔化せるはずがないだろう」
アーサーは机に両手を突き、兄の顔を覗き込んだ。
「事前に教えてくれれば、部下たちに言い訳を考える苦労も減ったんだがね。不審取引の調査を止めるのは、財務大臣としては非常に骨が折れるんだ」
オスカーはようやくペンを置き、背もたれに深く体を預けた。眼鏡の奥の瞳には、感情の読めない冷徹な光が宿っている。
「……それはご親切に。だが、国を運営するには、帳簿に載らない金が必要な時もある。お前なら、それくらい理解していると思っていたがな」
アーサーは肩をすくめ、満足げに鼻を鳴らした。
「もちろん、理解しているさ。……ただ、次は僕の取り分も残しておいてほしいものだね、我が兄上」




