第九章 和談
すべてが収まったのは一週間後だった。各地でなお小規模な反乱が燻ってはいたが、総督を捕縛し、民衆の面前で斬首したあの電撃作戦以降、抵抗の火は目に見えて弱まっていた。
だが、この静かな均衡が長く続くとは誰も思っていなかった。
ある朝、何等かの邪悪な者が払ったかのように、海を覆っていた不自然な霧があっさりとしりぞいた。雲なき空の下、サランソの海岸に姿を現したのは、黄金の双頭鷲を掲げたニフランド王国の最新鋭軍艦二十隻だった。
「……計算通りですが、あまり気分のいい光景ではありませんね」
総督府のバルコニーから、グレイが冷静沈着に呟いた。
海を埋め尽くす黒鉄の巨躯。それは「秩序」という名の、数々の植民地を制圧した、圧倒的な暴力の顕現だった。
背後から、遠慮がちな声がした。ピーターだ。
彼は手すりに近づこうとしたが、港に向けられた無数の巨大な砲門を見て、思わず足をすくませた。
「……あんなの、僕の盾じゃ防げないよ。一発で街ごと吹き飛んじゃう」
「ええ、物理的な防御は不可能でしょうね。コロニー同士の間の子供遊び(戦争)は終わった、ここ後はお偉いさまの駆け引き次第だ」
グレイはピーターの方を向き、微かに口角を上げた。
「だからこそ、落ち着いていられるのです。暴力の桁が外れすぎていて、もはや個人の武勇など意味を成さない。……ここから先は、言葉と書類の戦争ですから」
ピーターは海を見つめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
かつてイライアスたちが「化け物」と呼んだ故郷の国が、どれほど巨大な力を持っているのか、彼は初めて肌で感じていた。
正午。
旗艦『アール・エヌ・エス・ウィリアム・ザ・レストラー』(RNS William the Restorer)号から、一隻の蒸気ランチ(内火艇)が波を切って港へ向かってきた。
その船首には、王国海軍の象徴である錨を抱く双頭獅子の旗がはためいている。
港には、ベリゼ軍の儀仗兵が整列していたが、その顔には明らかな緊張と恐怖が浮かんでいた。自分たちが命がけで奪ったこの街を、たった今から「大家」に明け渡さなければならないのだ。
桟橋にボートが着くと、タラップから降りてきたのは、完璧に磨き上げられた長靴の音だった。
カツ、カツ、カツ。
現れたのは、三人の主要人物と、それを護衛する完全武装の海兵隊たちだった。
先頭を歩くのは、白い髭をたくわえた巨躯の老将校。
胸には歴戦を示す無数の勲章が重なり合い、歩くたびに金属音を立てる。彼は出迎えのベリゼ兵を一瞥もしない。彼にとって、植民地の反乱軍など「風景」に過ぎないのだ。
提督の隣には、黒いフロックコートを着た、神経質そうな男がいた。
片眼鏡をかけ、手には分厚い革の鞄。彼こそが、この戦後処理のシナリオライターであり、オスカー国王の名代として「損益計算」をしに来た冷徹な官僚だ。
そして最後尾に、フードを目深にかぶった聖職者が一人。
言葉を発さず、ただ静かに港の様子 -特に、処刑された総督の首が晒されている広場の方向を、じっと見つめていた。
「……汚いな」
クロイ提督が、第一声を発した。
それは、戦火で煤けた港の瓦礫に向けられた言葉か、それとも出迎えたバルガス将軍たちの身なりに向けられたものか。
「掃除が行き届いていないようだが、まあいい。これより、我々が『消毒』を行う」
バルガス将軍が一歩進み出て、敬礼しようとした手を、ハイネマン公使が制した。
「挨拶は不要です、将軍。我々は観光に来たのではありません。陛下より預かった請求書の確認に来たのです」
ハイネマンは革鞄を叩き、サランソの総督府を見上げた。
「……あのバルコニーにいるのは、報告にあった『掃除屋』たちですか?」
ハイネマンの視線が、正確にグレイとピーターを捉える。
その眼光は、数キロ先の獲物を見つける鷹のように鋭く、冷たかった。
「……行こう。彼らが英雄か、それとも国家反逆者か。査定を始めるとしよう」
ニフランドの海兵隊が、ザッザッザッと足並みを揃えて行進を始める。
その一糸乱れぬ隊列は、ベリゼ軍の自由奔放なスタイルとは対極にある、「絶対的な規律」を見せつけるデモンストレーションだった。
総督府の大広間。かつて総督が贅を尽くしたこの部屋は、今、氷のような冷気と、熱帯の湿気が混ざり合う奇妙な空間となっている。
長テーブルの片側には、ニフルヘイヴン帝国のハイネマン全権公使とクロイ提督。背後には完全武装の海兵隊。
対する側には、ベリゼのバルガス将軍とキリアン大尉。
そして、その中央の「証人席」に、イライアス、グレイ、ブランドン教授らが座らされていた。
「……単刀直入に言おう」
ハイネマン公使が、片眼鏡の位置を直しながら、冷徹な声で切り出した。
「我が国の総督を殺害し、領土を不法占拠した賠償金として、ベリゼ共和国の国家予算の十年分。ならびに、首謀者であるそこの墓荒らしどもの即時引き渡しを要求する」
バルガス将軍が拳を握りしめ、立ち上がろうとした。
「ふざけるな! 元はと言えば、貴国の総督が停戦ラインを越えて……」
「座ってください、将軍」
グレイが静かに遮った。彼は分厚い革鞄から、一冊の古びた帳簿と、数枚の書簡を取り出し、テーブルの上を滑らせた。
「公使閣下。賠償の話をする前に、この経費の精算をお願いします」
「……何だ、これは」
ハイネマンが帳簿を開く。そこに記されていたのは、前総督が本国の枢機卿へ送っていた莫大な裏金と、遺跡から発掘された「禁忌兵器」の横流しリストだった。
「これは前総督の『私的な日記』ではありません。オスカー国王陛下が憂慮されていた、国家反逆の証拠物件です。……もし、我々を処罰するというなら、王国政府は『枢機卿の汚職と反逆を公式に認める』ことになりますが、よろしいですか?」
ハイネマンの手が止まった。
隣でクロイ提督が唸る。「……貴様、脅す気か」
「いいえ。取引です」
グレイは微笑みもしない。「陛下の顔を立て、我々の顔も立てる。……落とし所はそこにしかありません」
一日の極秘協議の末、ハイネマン公使はため息をつき、新たな羊皮紙を取り出した。
「……よろしい。
帝国の『正義』と『名誉』を守るため、以下の条件で合意とする」
読み上げられたのは、戦後のソルテラとベリゼの関係を決定づける五つの条項だった。
【サン・クリストバル条約(遺跡特別協定)】
第一条:遺跡の共同管理
国境地帯の遺跡群は「非武装中立地帯」とし、両国の学術調査団のみが立ち入りを許可される。
第二条:王立考古学アカデミーの設立
帝国は資金を拠出し、現地に研究機関を設立。初代学長にはアーサー・ブランドン教授を任命する。
第三条:ベリゼ軍の撤退と国境保全
ベリゼ軍は即時撤退する。ただし、帝国軍も国境付近への重火器配備を行わない。
第四条:原住民の権利回復
旧総督時代に行われた原住民への強制労働を廃止し、彼らの居住権を保障する。
そこまでは順調だった。
しかし、最後の一項でペンの動きが止まった。」
「……第五条。『特務協力者への恩赦』についてだ」
クロイ提督が、イライアスを鋭く睨みつけた。
「百歩譲って、他の条件は飲もう。だが、この男たちは元々、本国で指名手配されている凶悪犯だ。
総督殺害の件は不問にするとしても、無罪放免で帰国させるなど、軍の示しがつかん。
彼らの身柄は、我々が『囚人』として引き取り、本国の監獄へ送るのが筋だ」
重苦しい沈黙が流れた。
イライアスが「やれやれ」と肩をすくめ、懐のリボルバーに手を伸ばしかけた時――。
「ハハハ! そいつは素晴らしい提案だ、提督!」
ベリゼ側の席から、場違いなほど明るい笑い声が響いた。
キリアン大尉だった。彼は身を乗り出し、満面の笑みで提督に告げた。
「もし、ニフルヘイヴン帝国が彼らのような優秀な『人材』を不要とおっしゃるなら、我々ベリゼが喜んで引き受けましょう!彼らには、我が国の『特殊部隊教官』および『軍事顧問』としてのポストを用意してあります。年俸は将軍並み、ラム酒は一生分無料だ!」
キリアンはイライアスにウインクをした。
「どうだ、イライアス?寒くて狭い帝国の牢獄より、南の太陽と英雄としての地位だ。
……お前が俺たちの兵を鍛えれば、次は『霧』なんて小細工なしで、帝国の正規軍とも渡り合える最強の軍隊が作れるぞ?」
「……ほう」
イライアスはニヤリと笑い、わざとらしく顎をさすった。
「そいつは悪くねえな。王国の軍艦の弱点も、お偉いさんの弱みも知り尽くしている。
……俺が本気で教官をやれば、三年でこの海から『双頭の鷲』を追い出せるかもしれねえな」
「…………ッ!!」
クロイ提督の顔が赤黒く変色した。
脅しではない。この男たちなら本当にやりかねない。
たった数人で一個師団規模の戦局を覆した「人間兵器」を、隣国ベリゼに、しかも軍事顧問として渡す?
それは将来、帝国にとって計り知れない脅威となる。
「……冗談が過ぎるぞ、ベリゼの若造」
提督は忌々しげにペンをインク壺に突っ込んだ。
「分かった、認めよう。
彼らは『無罪』だ。……王国の監視下(保護下)に置くのが、最も安全だろうからな」
サラサラサラ……ダンッ!
重厚な署名と、王国の印章が羊皮紙に押された。
それは、イライアスたちが「犯罪者」から「王の直属」へと生まれ変わった瞬間だった。
調印式の後、バルコニーにて。
「夢みたいじゃ……」
ブランドン教授は、条約書の写しを震える手で抱きしめていた。
「わしの名前が、大学の学長として……。しかも、遺跡は永遠に守られたんじゃな」
「ええ、教授。これからは泥棒の心配をせず、思う存分研究できますよ」
ピーターが教授の荷物を持ちながら、晴れ晴れとした顔で言った。
「ピーター、君はどうするんだ?」
イライアスが尋ねると、ピーターは背筋を伸ばし、真っ直ぐに答えた。
「僕は、ここに残ります。教授の助手として。……僕の『盾』は、まだこの国と教授を守るために必要ですから」
「そうか。……達者でな、少年」
イライアスはピーターの頭をくしゃくしゃに撫でた。
かつての頼りなかった御者は、今や立派な一人の男の顔をしていた。
そして、キリアン大尉が歩み寄ってきた。
「……行ってしまうのか、掃除屋。教官の話、半分は本気だったんだがな」
「ああ。ベリゼのラム酒は最高だったが、少し暑すぎた」
イライアスは煙草に火をつけ、沖合の軍艦を見上げた。
「それに、俺たちにはまだ『掃除』しなきゃならない場所がある。
……雪の降る都でな」
「そうか。……借りは返したぞ、イライアス」
「ああ。また会おう、キリアン。次は戦場じゃない場所で」
二人は固く握手を交わした。
こうして、歴史的な「サン・クリストバル条約」は結ばれ、密林の革命は幕を閉じた。
平和を祝う打ち上げの宴。三国の政治要人たちが酒を酌み交わす場は、かつての一触即発の緊張感が嘘のように、晴れやかで気楽な空気に満ちていた。
そんな喧騒の片隅で、場に不釣り合いなほどぎこちないステップで(あるいは渋々)踊っていたイライアスとグレイのもとへ、大尉がにやつきながら歩み寄ってきた。
「グレイ、イライアス。お前たち、お呼び出しだぞ」
「誰からですか?」
グレイが信じられないという顔で、踊りを止めて眼鏡の位置を直す。
「オスカー陛下だ。奥の接待室でお待ちかねだぞ。……おっと、そうだ。ハーワードも一緒に連れて行ってやれ」
大尉に促され、グレイ、イライアス、ハーワードを含む五人が足を踏み入れた応接室は、にわかに王族の『玉座の間』めいた姿へと作り替えられていた。
いつもならこの建物にあるはずの質素な布のカーテンは、厚く上質な紫のチンツ(更紗)の帳に取り替えられ、部屋の中央にはまるで玉座を思わせる重厚な椅子が置かれている。その背後には、王冠を戴く黄色の双頭の鷲――ニフルヘイヴン王家の紋章を鮮やかに染め抜いた大旗が、壁一面を覆うように垂れ下がっていた。
そこに座していたのは、若きニフランド国王、オスカー陛下だった。
陛下は五人の入室を確認すると、周囲に控えていた側近や下人たちを「下がれ」と一言で退散させた。重厚な扉が閉まり、完全な密室になると、オスカーは意味深な、そして少々恨めしげな視線を真っ直ぐグレイへと向けた。
「お前たち……。予は確かに『現地では臨機応変に対処せよ』とは言った。だがな、これほど大仰な国家規模の騒ぎを起こせとは、一言も申しておらぬぞ!」
オスカー国王は、王としての威厳をかなぐり捨てるように両手を頭の後ろで組み、椅子の背もたれに深く体重を預けて長いため息をついた。
「あの夜、貴様らから『ソルテラの枢機卿勢力を一掃する策あり。本国艦隊の移動を三日間延期されたし』という無茶苦茶な緊急暗号電報が飛び込んできた時、予がどれほど肝を冷やしたか分かっているのか? おかげでこちらの計画は完全に台無しだ。議会や内閣のウルサイ連中に、どう言い訳をすればいいか今から頭が痛いぞ」
グレイは表情を変えず、ただ恭しく頭を下げた。イライアスは隣で「へっ、やっぱり怒ってやがる」とでも言いたげに唇の端を吊り上げている。
しかし、オスカー国王は部下たちの言い訳を待つつもりはないようだった。彼はすぐに視線を移し、部屋の隅で緊張の面持ちで立っていた男を見つめた。
「……君がハーワードだな?」
「はっ……!」
ハーワードは気まずそうに、しかし軍人としての本能で綺麗な敬礼を返した。
「どうだ、ニフランドの軍隊で働いてみる気はないか? 条約に基づき、予が君の身柄に手出しをせんと約束はしたが、流石にこの地にこれ以上留まるのは、色々と居心地が悪かろう」
それは最高権力者からの破格の救済措置であり、誘いだった。だが、ハーワードは静かに息を吸い込むと、毅然とした態度で言葉を返した。
「殿下、恐れ多くも私のような者にそのよう温かい勧誘の言葉をいただき、光栄の極みでございます。……しかし、私はこの得難い好機に、一度アストリア合衆国へ渡り、広い世界を見物してみたいと考えております」
「ハハッ、アストリア合衆国だと! あの新天地を見に行こうというわけか。それもまた、面白い選択だな!」
オスカー国王は豪快に笑い声を上げると、椅子の肘掛けを軽く叩いた。
「まあいい! とにかく、伝えたいことは伝えた。用はそれだけだ。……お前たちはさっさと予の目の前から消え失せろ! 予の胃に穴が空く前にな!」




