第一章 海賊
「ううう……ううううー……」
ピーターは船べりから身を乗り出し、滝壺を流れる水のように嘔吐を繰り返していた。その背中は、十日間の航海ですっかり痩せ細って見える。
「大変だな、船酔いというやつは。胃袋の中身と一緒に、警察官としての魂まで吐き出してるんじゃないか?」
イライアスは苦笑しながら、ぐったりとしたピーターの腰を支えてやった。
元・五課の一団を乗せた蒸気船は、王都ニフランドを脱出してから太洋を十日間、ひたすら南へと航行していた。
「り、陸が食べたい……。揺れない地面を、塩をかけて齧りたい……」
「おいおい、大丈夫か? いよいよ寝言の質が悪くなってきたな」
だが、幸いなことにピーターの祈りは通じた。水平線の向こうから、陽炎に揺れる緑の影が急速に近づいてくる。
その陸地の名は、トリナ島。ニフランドから南洋の植民地へと向かう航路の中継地点であり、熱帯の強烈な太陽が降り注ぐ活気ある「自由港」だ。ここでは本国の法も及ばず、多国籍な商船や出所不明の高速艇が、石炭の煙とスパイスの香りを混じらせてひしめき合っている。
四人は久方ぶりに陸へと足を下ろした。
「……地面が、揺れていない。なんて素晴らしいんだ……!」
ピーターは涙を流しながら石畳の地面を叩き、近くの露店で売られていた見たこともない極彩色の果実にかぶりついた。
「ピーター、君はそこで休んでいろ。我々は情報収集と、まともな食料の買い出しに行く」
「うん……もう一歩も動きたくないです……」
ピーターをベンチに放置し、グレイは港に並ぶ船の群れを鋭い目で見渡した。
「おかしいですね。ここは自由港とはいえ、軍艦が一つも見当たらない。代わりにいるのは、武装した商船や、船名を消した高速艇ばかりだ」
サラが音もなくイライアスの背後に立ち、周囲を警戒する。
「……視線を感じるわ。私たちがニフランドの公金――あの『退職金』を持っていることを嗅ぎつけているハイエナがいる。おい、イライアスは?」
「もう、あそこですよ」
グレイが呆れた顔で指差した先には、すでに街角の酒場「潮風の止まり木」の暖簾をくぐるイライアスの背中があった。
酒場の内部は、煤けた壁と乱れた机、そして安酒の匂いに満ちていた。
「酒保、ブラッディ・メアリーを一つ。ウォッカは多めだ」
イライアスがカウンターで注文する。遅れて入ってきたグレイとサラがその隣に座った。
「ここから、南の目的地ソルテラまでは幾日かかる?」
「順調にいけば四、五日ってところだ。だが、海が荒れればその倍はかかるぜ」
酒保は手際よくカクテルを作り上げ、イライアスの前へ滑らせた。グレイはそれを訝しげな視線で見やる。
「……イライアス、カクテルというものはゆっくり味わうべきで、一気に干すものではないと何度も言っているはずですが」
「喉が潮風で焼けちまっているんだ。細かいことは気にするな」
イライアスが一気に飲み干す傍らで、グレイは酒保に別の問いを投げかけた。
「このあたりで、質のいい『魔法果実の加工品』を扱っている店はありますか? 船の上で術式札(魔導紙)を使い切ってしまいましてね」
「ああ、それなら裏通りの薬屋へ行け。ただし、最近は海賊の動きが気がかりでな。物資の値段も跳ね上がってる。大半の店は売り切れたと聞いた。軍が引き揚げた隙に、奴らやりたい放題だ」
海賊。その単語に、三人の間に緊張が走った。
必要な食料と、グレイが予備として買い込んだ「南洋産の高純度魔導紙」を抱え、彼らは船へと戻った。
「……もう少し、揺れない地面にいたかったです……」
涙目で訴えるピーターを、イライアスは無慈悲にタラップの上へと引きずり上げた。
「文句を言うな。ここも安全じゃない。長居すれば、俺らの懐を狙う奴らに囲まれる」
彼らが乗っている蒸気船『グレイト・ニフランディア号』は、一見すると古びた中型貨物船だ。しかし、その実体は二フランド海軍が密輸業者から押収した船を、極秘裏に「特殊作戦船」へと違法改造したものだった。
高出力の魔導ボイラーと、偽装の下に隠された黒光りする鋼鉄の砲身。
今回、この船がソルテラへの救援要請に応じる形で派遣されたのは、植民戦争の緊張から正規の軍艦を動かせないという政治的背景があった。そこに、イライアスたちの直属の上司であった曹長が「コネ」を使い、彼らを乗員としてねじ込んだのだ。
トリナ島を出港して二日目。日和で風なき、海面が鏡のように穏やかな午後のことだった。
「右舷後方より、高速船接近! 旗印は……髑髏だ!」
甲板の見張り台からサラの鋭い声が響く。
水平線の彼方から、魔法動力エンジンを異常な回転数で回し、黒煙を吐き散らしながら急速に距離を詰めてくる影があった。
「……あやつらの運のなさを嘆きたいものだ。獲物を見つけたつもりだろうが、自分たちが何を釣ろうとしているのか自覚がない」
甲板に現れたのは、落ち着いた物腰の船長だった。彼は「戦闘モードに転換、急げ!」と短く命じると、混乱する乗組員の中で、冷静に武器を手に取るイライアスたちを見据えた。
「ローランス中将――つまり、君たちのあの上司(曹長)の親父殿から聞いている。『豪腕の元守り人』が乗っているとな。なら、良い戦力になってもらうぞ」
「曹長の名前がこんな所で役に立つなんて……。親父さんが中将だなんて聞いてないですよ」
ピーターが青ざめながらも剣を構える。イライアスはニヤリと笑い、自らの大剣の重みを確かめた。
「タダ乗りは性に合わねえ。やってやるよ」
海賊船は拡声器で下品な罵声を浴びせてくる。「降伏しろ、さもなくば命はないぞ!」
だが、船長は眉一つ動かさず、伝声管に向かって静かに命じた。
「『グレイト・ニフランディア号』、戦闘形態へ。偽装解除」
蒸気機関が唸りを上げ、船体が激しく振動する。
積み荷に見せかけていた木箱が内側から割れ、甲板を覆っていた偽装用の白布が引き剥がされた。
現れたのは、きらりと光る重厚な砲身。商船の皮を被った「狼」が、その鋭い牙を剥き出しにした。
「うちの射程は、そのボロ船より三割は長い。……放てッ!」
ドォォォォン!!
通常の大砲と、グレイの術式札によって威力を底上げされた魔導砲が、並行して火を吹いた。
魔力を帯びた弾丸は海面を滑るように飛び、海賊船の甲板を正確に直撃する。
「ギャァァァ!」
メインマストがへし折れ、炎が帆に燃え移る。勝負は決した――そう思った瞬間だった。
「……いや、止まらないぞ! 奴ら、舵を固定している!」
サラが叫ぶ。海賊たちは生還を諦め、船全体を巨大な爆弾として、こちらへ特攻を仕掛けてきたのだ。
「ぶつける気だ! 衝撃に備えろ!」
「備えるだけじゃ沈みますよ! 全員、僕の背中に魔力を集中させてください!」
グレイが甲板の前方に飛び出し、昨日手に入れたばかりの最高級魔導紙を三十枚、空中に放った。
青白い光がグレイの周囲に渦巻く。
「イライアス、サラ! 出力を最大に! 船の防御ルーンを強制オーバーライドします!」
「おう!」
「わかったわ、受け取りなさい!」
イライアスとサラがグレイの肩に手を置く。二人の強大な魔力が、グレイという「演算機」を通じて術式へと流し込まれた。
「『積層型・物理干渉障壁』、展開ッ!!」
激突の瞬間、世界が白く染まった。
ズガァァァァン!!
火だるまの海賊船が、ニフランディア号の横腹に激突する。だが、グレイたちが展開した半透明の光の盾が、鉄の質量を強引に受け止めた。
軋む障壁。飛び散る火花。
拮抗は数秒だった。無理な加速で自壊しかけていた海賊船のエンジンが、ついに限界を超えて大爆発を起こした。
爆風が収まり、ピーターは恐る恐る顔を上げた。
海賊船は粉々に砕け散り、燃える残骸となって深い海の底へと沈んでいった。
「……やった、のか?」
勝利の歓声が上がろうとしたその時、船の奥底からバシュゥゥゥ……という、力が抜けるような不気味な音が響いた。
「報告! メインシャフト破断! 防御障壁の反動で魔力回路が焼き切れました! 動力喪失です!」
機関室からの絶望的な叫びが、海風にかき消される。




