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仕事ができない男

「お前、本気で仕事やってんのか?」


 部長の低い声に、俺は小さく縮こまった。


「営業は注文取ってきてなんぼだろうが。お前、今日で三ヶ月売上なしだぞ?」

「すみません」

「謝れって言ってんじゃねぇんだ。本気で仕事してんのかって聞いてんだよ!」


 部長が机を拳で叩く。

 ますます小さくなる俺を見て、部長は思いきり舌打ちをした。


「お前は赤字人間なんだ。いるだけ無駄なんだよ。そこんとこよく考えろ」

「すみませんでした」


 謝ることしかできないまま、俺は席に戻った。

 俺に聞こえるよう大きくため息をついて、部長が声を張り上げる。


「はい、次!」


 隣の席の、年下の同僚が部長の前に立った。


「おぉ、今月もいいじゃないか」

「ありがとうございます!」


 同僚が笑顔を見せた。


「来月も頼むぞ。今月並みの売上があれば、俺の裁量でボーナスを弾んでやる」

「はい、頑張ります!」


 大きく答えて同僚が下がってくる。

 そして、隣に座りながら小さく言った。


「もう諦めた方がいいんじゃないっすか」


 その顔に浮かぶのは、明らかな侮蔑。

 俺は、机の下で拳を握ることしかできなかった。




 父は大学教授。

 母は医者。

 兄は弁護士。

 妹は商社で一年目から海外勤務。


 エリート一家にあって、俺は完全に落ちこぼれだった。

 父のおかげで大学に滑り込んだものの、講義にまったくついていけないまま、父の力でどうにか卒業。

 母のコネで医療機器メーカーに就職したが、失敗続きで二年で退職。

 次の仕事は自分で見付けたが、これもうまく行かずに二年で退職。

 この時点で、俺は実家に見切りを付けられた。

 引っ越し代と半年分の家賃、そして気持ちばかりの生活費を渡されて、俺は家を追い出された。


 アルバイトをしながら俺は仕事探しを始めた。

 狙ったのは、いわゆるホワイトカラー職。俺のちっぽけなプライドが、ブルーカラー職に就くことを許さなかった。

 もっとも、俺は肉体労働でも落ちこぼれていた可能性が高い。俺は体力も人並み以下なのだ。


 ネットやフリーペーパーの求人情報を頼りに、俺は応募を繰り返した。

 だが、就職活動は困難を極める。


 大卒以外に資格なし。

 自動車免許もなし。

 職歴は二社とも二年で退職。

 履歴書の写真に写っているのは、覇気を感じさせない鈍臭そうな男。


 書類選考で落ちまくった。

 面接に辿り着いても、そこを越えることができなかった。

 それでも諦めずに探し続け、やっと見付けたのが今の会社だ。


 しかし、俺はここでもうまくやれなかった。

 同僚が皆ライバルという環境に適応できず、仕事のやり方を聞くこともできない。結果、俺の営業成績は惨憺たるものとなった。

 部長に言われた通り、最後に売上を上げたのは三ヶ月前だ。


 部長は新人の頃からトップの成績を出していたというエリート営業マン。

 最近結婚したのだが、お相手は社長の一人娘だ。次期社長は部長で決まりだと誰もが言っている。

 その人が部長になってから、給与体系が大きく変わった。それは成績を上げられない者には厳しい内容だった。


 元々余裕のない生活がより苦しくなった。

 それでも俺は頑張り続けた。

 だけど、やっぱり無理だったようだ。


「お前、明日から内勤な」

「え?」

「お前が外に出ると交通費が掛かるだろう? だから、社内で調べ物でもしててくれ」

「そんな!」

「話は終わりだ。席に戻っていいぞ」


 部長は一度も俺の顔を見なかった。

 席に戻った俺に、年下の同僚が言った。


「つまり、辞めろってことですよ」


 俺の心はこれで折れた。

 翌日、俺は部長に辞表を提出した。


「すみません、会社を辞めさせていただきます」

「そうか、残念だな」


 部長が白い封筒を受け取る。


「明日から休んでいいぞ。有給で処理しといてやる」

「……ありがとうございます」

「お疲れさん」


 辞表を引き出しにしまった部長が、目の前で思い切り伸びをした。

 部長は、最後まで俺の顔を見ることをしなかった。

 入社して一年と十ヶ月。

 二年の壁を、俺はまた越えることができなかった。




 その日、最寄り駅で降りた俺は思い切り顔をしかめた。強い雨が降っていたからだ。

 周りを見ると、ほとんどの人がちゃんと傘を持っている。


「天気予報当たったね」

「朝まで降るらしいよ」


 隣のカップルの会話を聞いて俺が肩を落とす。

 家を出る前にテレビは見ていたのだが、その内容をまるで覚えていなかった。


「どこかで傘を……いや、節約しないとだな」


 家には傘が六本もある。そのうちの五本が、仕事中や帰宅途中に慌てて買ったビニール傘だ。

 自分の愚かさに腹が立って、俺はやけくそ気味に雨の中へと足を踏み出した。


 駅を出て十五分も歩くと、町並みは静かな住宅街へと変わる。

 もともと夜は人気がないのだが、雨のせいで辺りには人っ子一人いなかった。


 勢いで歩き出したものの、俺はやっぱり後悔していた。

 スーツも体もビショ濡れで、歩く度に靴の中からグチュグチュと気持ち悪い音がする。


 どうして俺はこんなにも馬鹿なんだろう。

 考えが浅い。

 先が読めない。

 空気も読めない。

 何をやっても上手くいかない。


「いっそ、死んじゃおっかな」


 声に出した途端、全身に強烈な悪寒が走った。

 それは死への恐怖か、それとも生への執着か。

 死ぬ勇気すら持てない自分を、心の底から俺は呪った。


 うつむきながら俺は歩いた。

 弱まる気配のない雨の中を、家に向かってトボトボ歩いた。

 やがてうちの近くに来た時、俺は空き地の前に段ボール箱を見付けた。

 電灯の真下に置かれたその中で、ふと何かが動く。

 恐る恐る近付くと、箱の中にカタカタと震える小さな生き物がいた。


「子犬!?」


 今どき珍しい捨て犬だ。

 よく見ると、段ボールの内側に何か書いてある。


 どなた……ってくだ……


 雨で滲んで分からないが、”どなたかもらってください”とでも書いてあるのだろう。

 箱の底にはブランケットが敷いてあって、その上にビニール袋に包まれた何かがあった。開けてみると、犬猫用哺乳器とペット用ミルクが入っている。

 雨に打たれていた子犬が、ふいに俺を見上げた。

 悲しげなその姿を見て、俺が思わず問い掛ける。


「お前、うちに来るか?」


 クゥーン


 子犬が答えた。


「そうか。じゃあ、行くか」


 この時の俺は、間違いなく正気ではなかったと思う。

 子犬を一旦箱から出し、びしょ濡れのブランケットを両手で絞り、それで子犬を包んで片手に抱え、ビニール袋と自分の鞄を腕にぶら下げると、家に向かって俺は歩き出した。




 俺は犬はおろか金魚ですら飼ったことがなかった。

 だが、そんな俺でもスマホは使える。捨て犬を拾った時の対処方法から育て方まで、ネットには何でも書いてあった。


 翌日の朝一番で動物病院に連れて行き、警察に届けを出し、保健所と役所に確認して、俺が保護することを認めてもらった。

 その後ペットショップに行って、店員に聞きながら必要な物も揃えた。


 獣医によると、この子は柴犬の雄で、生後数日しかたっていないとのこと。

 柴犬は、初めて飼う犬種としては難しいと言われた。だが、俺は手放す気はなかった。


「ハヤテ。お前は俺がちゃんと育てるからな」


 一晩考えて決めた名前だ。

 俺より強く賢くなってほしいと思ってその名を選んだ。


「これからよろしくな、ハヤテ」


 ケージの中で、小さな耳がぴょこりと跳ねた。

 それを見て俺が笑った。

 こうして、俺はハヤテと暮らすことになった。




 最初は寝てばかりだったハヤテも、二週を過ぎた頃から少しずつ動き回るようになった。ヨチヨチと歩くその姿が可愛くて、俺は動画を撮りまくった。

 四週を過ぎると、ぎこちないながらもハヤテは走るようになった。ボールを追い掛けたり部屋の中を探検したりする姿がたまらなく可愛くて、俺はまたも動画を撮りまくった。

 一回目のワクチン接種が終わる頃、ハヤテはイタズラをするようになった。電源コードをかじったり、ゴミ箱をひっくり返したり。叱られてしょんぼりする姿がたまらなく可愛くて、俺は写真を撮りまくった。


 ハヤテと過ごす日々は最高に幸せだった。

 仕事を辞めて本当に良かったと思った。

 だが、さすがの俺も、ハヤテが二回目のワクチンを終えた頃から考え始める。

 貯金の底が見えてきた。計算の結果、どんなに切り詰めても再来月の家賃が払えないことが判明する。

 やはり現実は厳しかった。

 俺は、慌ててペット同伴可のアルバイトを探し始めた。


 条件に合う求人は結構あった。

 その中に家から歩ける距離にあるカフェを見付けた俺は、早速面接を受けることにした。

 店長は犬好きのマダムだった。俺というよりハヤテのことが気に入ったらしく、即日採用となった。


 だが、俺はやっぱりダメ人間だったのだ。

 注文の聞き間違いを連発した。

 食器をいくつも壊した。

 フロアの仕事も厨房の仕事も覚えられなかった。

 一ヶ月が過ぎた頃、お客様にコーヒーをぶちまけた俺に店長が言った。


「ごめんなさい。明日から来なくていいわ」


 過去最速のクビ宣告。

 ハヤテを抱えて、俺はトボトボと家に帰った。


 翌日、俺は次の仕事を探し始めた。

 こんなことで挫けている場合ではないのだ。このままではハヤテに満足な食事を与えることができなくなってしまう。

 幸いにも、次の仕事はすぐに決まった。ペットショップに併設されたペットホテルだ。


 しかし、ここでも俺は役立たずだった。

 受付で、質問に答えられずにお客様を怒らせた。

 掃除中に床を水浸しにした。

 預かっているペットたちにエサをやり忘れた。

 もう少しで一ヶ月が経つという頃、備品を床にばらまいた俺を見て店長が言った。


「ごめん、もう無理だわ」


 最短記録を更新するクビ宣告。

 ハヤテを抱えて、俺はしょんぼりと家に帰った。


 俺の仕事はうまく行かなかったが、ハヤテは順調に成長していた。

 狂犬病ワクチンも打ち終わって、そろそろお散歩デビューを考える時期になっている。


 ハヤテと遊ぶと癒やされた。

 ハヤテといると心が和んだ。

 昼寝をするハヤテを見ながら、俺は自分を奮い立たせる。

 打ちひしがれている場合ではないのだ。ハヤテのために、何としても次の仕事を見付けなければ。


 俺はスマホで求人サイトを開いた。

 その時、ふいにインターホンが鳴る。

 スマホを置いて俺は玄関へと向かった。


「どなた様ですか?」

「失礼します。このアパートを管理している不動産屋の者です。こちらから、犬の鳴き声がすると連絡があったので確認しに参りました」


 ドアノブを握った俺の手が止まる。


「このアパートは、ペット禁止となっております。もし犬を飼っているのであれば、早急に対応を……」


 ドアの向こうの声を聞きながら、俺は必死に言い訳を考えていた。




 結論から言うと、アパートでハヤテの飼育は認められなかった。ペット禁止は契約書に明記されているし、入居時に説明もされていたからだ。


「居住者の中に、犬猫アレルギーの方がいらっしゃいます。早急に決断してください」


 冷たく告げて不動産屋は帰って行った。


 よく回らない頭で俺は考える。

 ペット可のアパートは、探せばきっとあるだろう。しかし、すでに貯金が底をついていて引っ越し代すら出せない。

 頼れる友人もいなかった。親兄弟に助けを求めても、理由が理由だけに相手にもされないだろう。


 いっそ、開き直って居座るか?


 それは俺の性格上無理だ。


 獣医に相談してみるか?


 相談したところで、ハヤテの飼育が認められるはずがない。

 せいぜい数日ハヤテを預かってくれるくらいだろう。


 何度考えても打つ手がなかった。

 どう考えても詰んでいた。


 仕事もうまくいかない。

 住むところすらままならない。


 ダメなのだ。

 俺は、何をやってもダメなダメ人間なのだ。


「もう、疲れちゃったな」


 漏れ出た声は、自分のものではないようだった。


「死ねば、楽になるのかな」


 ハヤテと出会った雨の夜にもこんな気持ちになったことがあったが、あの時は自然と体がそれを拒んだ。

 でも、今は……。


「ハヤテ、ごめんな」


 小さな頭を撫でる俺の目から、一粒涙が零れ落ちた。




 空っぽになった部屋を一瞥して鍵を閉め、それを不動産屋宛の封筒に入れて投函した俺は、その足で銀行に行って口座を解約した。

 全財産が財布に簡単に収まってしまったのを見て苦笑すると、俺は駅へ向かう。

 小さなリュックとハヤテを入れたペット用キャリーバッグ。これが俺のすべてだ。

 都会からなるべく離れることだけ決めて、俺は電車に乗った。途中、ハヤテの散歩とトイレ、ついでに自分の食事のために数回下車しながら、適当に電車を乗り継いでいく。

 乗り換える度に車両が減っていき、やがて単線になり、最後は一両しかない路線の終着駅まで行って、俺は電車を降りた。

 日はとっくに沈んでいた。

 駅の回りには何もなかった。

 持参したドッグフードと携行食でハヤテと自分の夕食を済ませると、すぐ横にある周辺案内図を見ないようにして俺は歩き出した。


 三十分も経たないうちに、道はきつい上りになった。体力のない俺には厳しい坂だ。

 時々休みながら歩き続けると、右手に車一台がやっと通れるほどの細い脇道を見付けた。

 道の入り口には簡素なバリケードがあって、関係者以外立入禁止と書いてある。道の先はさらなる上りで、舗装もされていなければ街灯もない。まさにイメージ通りの林道だ。


「この先で、かな」


 バリケードをかわして、俺は暗い山道へと足を踏み入れる。

 スマホのライトで足元を照らしながら、急な坂道を俺はゆっくり登っていった。

 見知らぬ真っ暗な山道を歩いているというのに、まるで恐怖を感じない。時々何かの鳴き声が聞こえたが、それすら怖いと思わなかった。


 疲れて足が動かなくなったところが旅の終着点だ。

 その場所で、俺の人生は終わりを迎えるのだ。


 歩きながら、俺は笑っていた。

 笑いながら、暗闇の中を俺は歩き続けた。


 やがて足が止まった。

 息が上がって呼吸が苦しかった。

 キャリーバッグを持つ手も痺れている。

 とうとうその時が来たのだ。


 木の根元にハヤテのキャリーバッグを置くと、俺は明かりを直接当てないように中を確認した。

 結構揺れていたと思うのだが、ハヤテは安心しきったように眠っている。


「お前は生きてくれよな」


 囁くように言って、俺は音を立てないようバッグのチャックを全開にした。

 バックの横にドッグフードの袋を置いて、口を少し開けておいた。

 お皿には水をたっぷり入れた。


 ハヤテの準備が終わると、次は俺の準備だ。

 リュックからロープを取り出すと、それを引っ掛ける適用な木の枝を探す。

 ちょうど近くに手頃な高さの枝があったので、俺はロープの片側を放り投げて枝に引っ掛けようとした。


 ところが、何度やってもロープが引っ掛かってくれない。

 投げたロープが違う枝に邪魔されたり、引っ掛かったロープの先が高すぎて反対側に引っ張れなかったり。


 ロープが軽すぎるのが原因だった。

 ならば先端に石か枝を括り付ければよいと思ったので、俺は周囲にライトを向けた。だが、こういう時に限って適当なものが見付からない。

 木の回りを一周したが、何もなかった。

 藪をかき分けてみても何もなかった。

 茫然とする俺の手元で、突然アラート音が鳴る。それはバッテリー低下の警告だった。

 俺は慌てた。

 それが良くなかった。

 俺は、木の根に躓いて尻もちをついてしまった。


「くそっ!」


 俺が顔を歪める。

 元々疲れていた事もあって、立ち上がる力もない。


 最後の最後まで締まらなかった。

 俺はとことんダメ人間なのだ。


 とりあえず体力を回復しなければ何もできない。

 這うようにそこから移動すると、元いた木の幹に背を預ける。

 苛立つ気持ちを落ち着かせるために、俺は目を閉じてゆっくり深呼吸をした。


 一回、二回、三回……。


 そんなことをしているうちに、俺は、いつの間にか眠ってしまっていた。




 ワンワン!


 耳元でハヤテの声がする。

 目を開けた俺は、直後、ビックリして跳ね起きた。


「あ、動いた」


 目の前に小さな女の子がいた。


「じーちゃーん、生きてた!」


 後ろに向かって女の子が叫ぶ。

 その方向から、年配の男性がやって来た。


「観光客という感じじゃあないな。もしかして、自殺でもしに来たのか?」

「いえ、その……」


 目をそらす俺に、男性が言った。


「死ぬのは構わんが、うちの敷地の中では勘弁してほしいものだな」

「敷地の中?」


 そこで俺は気が付いた。

 木の隙間からいくつか建物が見える。

 その一つから、モォーという鳴き声が聞こえてきた。


「ここ、うちの牧場だよ」

「牧場……」


 女の子の言葉で、俺はまたも自分の愚かさを知った。

 人の来ない林だと思っていた場所は、なんと牧場の一画だったのだ。

 うなだれる俺を見た女の子が、顔を横に向けてハヤテに聞く。


「あんたのご主人、死のうとしてたの?」


 ワン!


 ハヤテが答えた。

 俺がますますうなだれた。


「この子、名前は何ていうの?」


 仕方なく俺が答える。


「ハヤテ、です」

「ハヤテ! いい名前だね!」


 女の子がハヤテを両手で思い切り撫でた。

 ハヤテが嬉しそうに尾を振った。

 それを見ていた男性が、俺に言う。


「とりあえず、うちに来なさい。飯を食えば、気持ちも少しは上向くだろう」


 男性が背中を向けて歩き出す。


「ハヤテもおいで。うちの子たちと一緒にご飯にしよう!」


 ワン!


 一声吠えて、ハヤテが俺をじっと見つめた。

 肩を落とし、ため息をついて、俺は荷物を手に取った。




 そこは駅から車で二十分の場所にある酪農牧場だった。吠えるハヤテを女の子が見付け、俺のところまでおじいちゃん、つまりこの牧場の社長を呼んできたという訳だ。

 ご家族と一緒に朝食をいただいた俺は、感謝と謝罪の言葉を述べた後、ここに来るまでのことを全て話した。

 聞き終えた社長が、俺に向かってふいに言う。


「あんた、死ぬ前にもう少しだけ頑張ってみる気はないか?」

「頑張る?」

「うちで働いてみないかってことさ」

「父さん!」


 俺の横から息子さんが声を上げた。

 社長が息子さんに顔を向ける。


「従業員の募集を始めて二年がたつが、いまだ応募はない。お前はよく頑張ってくれているが、やっぱり人手は必要だろう?」

「それはそうだけど」


 息子さんが視線を落とした。

 反論がないことを確かめた社長が、俺を見る。


「うちの仕事はきついし、給料もそれほど払えない。ただ、あんたにとって大きなメリットもある」

「メリット?」

「そうだ」


 大きく頷いた社長が、俺の足元を見た。


「うちでなら、そのチビと一緒に暮らしていける。そいつがいくら吠えても誰も文句は言わないし、エサ代だって掛からない。最高だと思わないか?」


 社長がにやりと笑った。

 床で丸まっているハヤテをじっと見つめた俺が、やがて顔を上げる。


「ぜひ、お願いします」


 こうして、俺は牧場の従業員となったのだった。




「おはよう!」

「おはようございます」

「まだちょっと寒いわね」

「そうですね。でも、この朝の空気、俺は好きです」

「そうなの?」


 ポニーテールが俺を覗き込む。


「干し草の匂いも牛の声も、ここにあるものは全部好きです」

「あはは。もうすっかり牧場の従業員だね」


 嬉しそうに笑うのは、社長の一番下の娘さんだ。

 農業大学を卒業後、ほかの牧場に修行に出ていて、半年前に戻ってきた。


「お父さんが言ってたよ。あいつは馬鹿みたいに真面目だから、無理をしないか心配だって」

「恐縮です。でも大丈夫です。俺、この仕事好きですから」

「だから心配なんだって」


 娘さんが、また笑った。


 俺が牧場に来てから一年半が過ぎていた。

 この一年半は、本当にあっという間だった。


 鈍臭い俺に、社長や息子さんが根気よく仕事を教えてくれた。

 失敗しても、二人がちゃんとフォローしてくれた。

 ご家族の皆さんも優しかった。

 食事も寝床も、みんなの言葉も暖かかった。


 だから、俺は必死に頑張った。

 こんなに頑張ったことはないというくらいに頑張った。


 その甲斐あって、最近はいろいろな仕事を任せてもらえるようになった。

 それがとても嬉しかった。

 それが、少し誇らしかった。


 この調子なら、二年の壁を越えることができそうだ。

 そのまま五年、十年と記録を伸ばしていきたい。

 俺は本気でそう思っていた。


 ワン!


 突然後ろから鳴き声がした。

 俺の足元に走り寄ってきたハヤテが、尻尾を振りながら俺を見上げている。


 ハヤテは見違えるほど大きくなっていた。

 生後二年の柴犬は、人間でいうと二十四才に相当するらしい。

 ついこの間まで子供だと思っていたのに、時が経つのは早いものだ。


「ハヤテ、お前は今日も元気だね」


 しゃがんだ娘さんが、ハヤテをワシャワシャと撫で回す。

 柴犬は警戒心が強いと聞いていたのに、ハヤテはとても人懐こかった。牧場でたくさんの人や犬に囲まれて育ったせいだろうか。

 しかも、ハヤテは主人の俺よりずっと早熟だ。


「マリー、そろそろですよね?」

「うん。今週末くらいじゃないかって獣医さんが言ってた」

「ハヤテが父親かぁ。何だか嘘みたいです」


 牧場にいた年上の美人柴犬、マリー。

 そのハートを、いつの間にかハヤテが射止めていたのだ。


「ハヤテ。お嫁さんと子供を大切にするんだぞ」


 ワン!


 当然だとばかりに一声吠えると、ハヤテは踵を返して母屋に戻って行く。出産に備えて、マリーは母屋にいるのだ。


「ところで、今夜のお祭りなんだけど」

「はい?」


 突然の話に俺が首を傾げる。


「よかったら、一緒に行かない?」

「……え?」


 完全なる不意打ちに、俺はポカンと口を開けた。


「きみは働き過ぎだと思うんだ。だからさ、たまには息抜きにどうかなって」

「えっと」

「お父さんも、あいつは働き過ぎだって言ってたし」


 それはさっきも聞いたけど。


「どうかな?」


 娘さんが上目遣いで俺を見る。

 その仕草を、俺は恋愛シミュレーションゲームの中で見たことがあった。

 ここで”はい”と答えると、大きく関係を進めることができるのだ。


 だが、これはゲームではなく現実世界。そして、相手は大恩ある社長の娘さん。邪な気持ちを抱くなどもってのほかだ。


 だけど。

 この時、俺は思ってしまったのだ。


 かわいい……


 その気持ちに流されて、思わず俺が答える。


「行きます」

「ほんと? やったぁ!」


 娘さんの笑顔が弾けた。


「じゃあ、夕方六時に玄関集合ね」

「分かりました」


 頷く俺の肩をポンと叩いて、娘さんが前を向く。


「さぁて、今日も一日頑張りますか!」


 歩き出した背中を追いながら、俺は考えた。


 朝は早いし一日も長い。

 動物たちに休みはないから、俺にも休みはほとんどない。

 労働時間だけで見ると結構ブラックな職場だ。


 でも、楽しかった。

 頑張った分だけ返ってくるものがあった。

 落ちこぼれの俺でも、役に立てているという実感があった。


 今まで味わったことのない充実感。

 人生で始めて感じる満ち足りた気持ち。


 何だか無性に楽しくなって、俺は突然大きな声を出した。


「今日も頑張りましょう!」

「うわっ! びっくりしたぁ」


 驚く娘さんに笑顔を見せると、足元の大地をしっかり踏み締めて、力強く俺は歩き出した。




 仕事ができない男 完


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