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「康弘、帰ろうぜ」

 大輝が後ろからいつものように声をかけてくる。

「……いや、今日は寄る所あるから」

 僕は振り返ることもできず、鞄を持ってそそくさと立ち去った。

――どうして嘘をついた?

 理由は、分かっていた。

 弾まない足取りで自分の自転車を取る。そのまま漕ぎだそうとしたが、向こうから歩いてくる大輝と目があった。

 僕の方から視線を外し、そのまま横をすり抜ける。

「じゃあな」

 かけられた声へ曖昧に返し、ペダルを踏んだ。

 校門を出てすぐの信号は赤だった。小さく舌を打ってブレーキをかける。左右を見ると、車は来ていない。普段なら待っていたかもしれないが、今回は無視した。

 家に着き、形式だけのただいまを投げ捨てて自分の部屋へ駆け上がった。

 太陽の光が窓から強く差し込んでいて眩しい。

 電気のスイッチを入れてカーテンを閉めると部屋が暗くなった。

「ん?」

 見上げると、蛍光灯が切れかかっているのかパッパッ、と音を立てながら何度も瞬いて、ようやくというぐらいになってからついた。

 そういえばそうだった、と安堵と怒りの入り混じったため息を吐いて、苛立ちのままに鞄を部屋の隅へ投げる。

 パソコンをつけ文書作成ソフトを開きながら、小説用のノートを取り出した。今進めている小説のネタが書いてあるページを開いて膝に乗せる。

 目当ての文書ファイルを開き、一番下の文章にカーソルを合わせ――手が止まる。

 鉤括弧の中で黒いバーが明滅を繰り返す。それを睨みながら頭を抱えた。そこに入りそうな言葉が浮かび、それを揉み消す行為を脳内で繰り返す。

 その内に集中が続かなくなって、椅子に深くもたれかかった。ため息をついて顔を覆う。

 これじゃダメなのに、手が進まない。次が思いつかない。このままじゃ、大輝に追い抜かれる。

 気付けばじっとりと嫌な汗をかいていた。シャツが肌にまとわりつく。

 気持ち悪い。

 叫んで、服を破いて、窓から外に飛び出したい。

 震える手をゆっくり開くと、手のひらに爪の食い込んだ痕がついていた。食いしばった歯の隙間から息を吐き出し、目を閉じた。

「あー、クソッ!」

 パン、と膝を叩いて立ち上がる。そのままベッドへ仰向けに倒れ込んだ。腕で目を覆い、深呼吸を繰り返す。

 大分落ち着いてきたのを確認して最後に大きく息を吐く。

 どうして僕だけこんなに恵まれていないんだ。どうして僕には何も無いんだ。

 答えなど期待していない疑問をまぶたの裏に流す。まるで無人島から空き瓶に詰めた手紙を海に託すように不毛なことだ。分かってる。

 ――ドン、と肩に衝撃が来る。

 顔を上げると、ぶつかった相手はクラスの女子だった。

「あ、ごめ、ん」

 返ってきたのは、これ以上は無いだろうという蔑みの視線だけ。

「でさ、あいつ――」

 会話を再開しながら、何も無かったように僕の横を通り過ぎていく。

 僕はもう一度床を見つめながら、ゆっくりと席へ向かうだけしかできなかった。

 そして、言葉を失った。僕の机が無い。慌てて教室を見回しても、余っていそうな机は見当たらない。

 朝のホームルームが始まるにはもう少し時間があったけれど、机がどこに行ったかなんて見当もつかない。

 僕は、席があった場所に突っ立ってただただ待った。ボロボロの鞄を両手で大事にぶらさげて。

 席に座っている他のクラスメイトは僕の方を見もしない。柱とか机やいすとかよりも、僕に興味が向けられることはない。

 僕は何なのだろう。こんな簡単な問いにさえ、僕は答えを返せない。

 僕は何故ここに居るのだろう。これの答えは知っている。「あそこ」に居たくないからだ。

 僕は何をすればいいのだろう。これも答えは簡単だ。

 何もしなければいい。何かすれば、怒られる。

「おい、なんで突っ立ってる?」

 ハッ、と顔を上げる。教室に入ってきた担任が訝しげに僕を見ていた。

「机はどうした?」

「僕が、来た時にはもう、その、どこにもなくて……」

 悪いのは僕じゃないのに、なじられている気がした。

「そうか。なら、とりあえず倉庫に新しい机を取りに行ってきなさい」

 無言のままただ頷いて教室を後にした。

 階段を静かに下りていく。倉庫は確かグラウンド手前にあったはず。

 ポタ。

 零れ落ちたそれに気付いて、慌てて目を拭う。制服の繊維は固くて、あまり役に立たなかった。

 見た目は確かにかっこよくないけれど、それだけでこんなことになるのか?

 じゃあ他にどんな理由があるんだ?

 分からない。僕は特別何かしたわけじゃないのに。僕は悪くないのに。

「あ……」

 歩いているとまた零れそうだと気付いて、倉庫へ走った。

「おいお前ら! 康弘が何したんだよ!」

 倉庫から突然聞こえてきた怒鳴り声に僕は肩をすくめた。

 思わず正面を避けて倉庫の横に回り込む。そういえば、さっきまで中学だったのにこの倉庫は高校の倉庫だ。制服も高校のものになっている。

「あいつさ、動きがいちいちキモいんだよな」

「そうそう、障害あるんじゃないの?」

「そんな奴と関わりたくないし? 自衛ってやつだよねー」

 数人の笑い声がするが、そんなものは僕の耳に入ってこなかった。

 障害? 自衛?

 頭の中が黒い渦に絡めとられていく。

「……それ以上言うなよ」

 背筋が凍った。高校生が――大輝が出していい声じゃなかった。

 この感覚は、前にもあった、気がする。デジャブ?

 この後大輝は、こいつらをボコボコにして、そのせいで特進クラスに行けなくなって?

「何格好付けてるのさ? こっちの人数分かってるの? 十対一だよ? あの障害君のため? すごいね」

 また笑い声。そう言えば、さっきから倉庫の中じゃなくて裏から声がしている。

 そうだ、これに気付かなかった僕は倉庫の窓から中を覗こうと思って裏に回るんだ。大輝が危ないっていうのに助けに行かず見るだけにしようとしたんだ。

 僕の身体が勝手に動き出し、倉庫の角を超えた。目の前に、乱闘の光景が広がる。

 大輝が正面に居たリーダー格を殴り飛ばし、すぐさま身体を返して隣に立っている奴の腹へ蹴りを食らわせる。

 呆気に取られていたメンバーが立ち直って襲いかかろうとするが大輝は一人一人倒していく。

 顔面へのパンチをしゃがんで避け、立ち上がる勢いを殺さず拳を腹へ。

 悶絶する仲間の横から飛び出してきた一人に前蹴りがクリーンヒットし軽く二メートル宙を舞った。

 立ち尽くす僕の視界で、大輝は近付いてくる奴等を片っ端から吹き飛ばしていく。

 空手は心の鍛錬だから、と笑っていた大輝の顔がこんなに恐ろしい表情を浮かべていることに、僕は茫然とする。

 骨が肉を打つ鈍い音が僕の耳を、身体を震わせていく。

 鳩尾への正拳が入り、最後の一人が崩れ落ちた。

 息を切らして立つ大輝を中心に、十人が呻き声をあげている。

 背を向けて立っている大輝の表情は、今もあの恐ろしいものなのだろうか。

 僕はそこでようやく我に返って、大輝に駆け寄る。そうすると大輝は「見てたんなら助けろよ」と冗談を言いながら辛そうに笑うのだ。

 そうだ。これは僕の昔の思い出だ。ということは、これは夢なのか。

「大輝!」

 駆け寄る僕。大輝が俯いたまま振り返る。

「康弘……」

 そして、大輝は僕を殴った。

 痛みは無く、麻酔をかけられたような痺れが頬を覆った。

 尻餅をつきながら驚いて見上げると、あの表情のまま僕を見下ろしていた。

「死ねよ」

「えっ……」

「死ねよ」

 聞き間違い、じゃなかった。

 大輝があの女子と同じ目で僕を見つめている。

「だ、大輝?」

 気付くと、周囲の光景が目を焼くような黄色に変わっていた。

 心臓が鼓動に合わせてズキンズキンと、今度は鋭く痛み始める。

「お前はぁ、自分勝手だぁ」

 大輝の語尾が伸びて、濁った不協和音を低く放つ。

「親友のぉ、オレをぉ」

 ペタリ、と黄色が張りつき、ゾリゾリ、と足裏から上ってくる。

 僕は立ち上がって、黄色を振り払う。

「蹴落とそうとぉ、しているぅ」

 半分も黄色に犯された大輝がゆらゆらと揺れながら、僕の首を掴んで持ち上げる。

 ものすごい力で、抵抗するのは無理だとすぐに分かった。

「醜いぃ、嫉妬でぇ」

 体中が黄色に蝕まれていく。

 呼吸が苦しい。

「お前がぁ、生きる意味はぁ」

 顔を近づけてくる。

 脳みそを直接揺らされているような感覚。

「ないぃぃ――」

 耳の中、大輝の声が直接こだまする。

 僕が生きる意味は、無い。

「死ねよ」

 突然手を離される。

 黄色い地面は地面ではなくなっていて、僕は何も無く落ちていく。

 重力が内臓だけを持ち上げている。

 身体全体で感じる、純粋な恐怖。

「うわぁぁああ!」

 手足をばたつかせても叫んでも、どうしようもないだろ、と僕が呟く。

 周囲の色が黄色から黒へ、黒から黄色へ、狂ったように変わっていく。

「こ、これは夢だこれは夢だこれは夢だ」

 目が覚めれば終わる。

 大輝も、僕も、全部嘘なんだ。

「これは夢だこれは夢だこれは夢だ」

 ずっと、落ちていく。

 いや、もうすでに僕は。

「これは」

 言葉が止まる。

 それを見計らっていたかのように、大輝の声が降ってきた。

「本当に夢か?」

 ――ドスン、と音を立てて腰から床に落ちた。痛みが意識をこれでもかというほど素早く覚醒させる。

 しばらくはそのまま座っていた。

 そして僕はゆっくりと、無心で笑った。

 蛍光灯がいつの間にか切れていた。

 そのせいで、僕は出口の無い部屋にいるみたいだった。


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