「半額の棚」
黒金のオフィスには、明かりがひとつだけ点いていた。
「もう一回」ミオがブラウザの履歴を下へスクロールした。「三十一サイト。午前中だけで、派遣会社が十二社」
「あの日は、電話に出てくれたところ全部にかけたから」とユイが言った。「誰でもいいから来てほしくて」
昼間、ビルのネットが三十秒ほど落ちた。大したことじゃない。ルーターが一度まばたきして、すぐに戻った。ただ、タブはすべて読み込み直され、派遣会社のマイページからはログアウトされていた。パスワードは購買部のどこかにあって、購買部は六時に帰っていた。
ミオは発信履歴を開き、いちばん上からかけはじめた。
「夜分にすみません、黒金です。木曜日にクロークの人をお願いしたんですが……」
ユイは、もう一台のスマホを手に取った。
ハルトはチャットを閉じ、一秒だけ座ったままでいてから、台所へ向かった。台所と呼べるかどうかは怪しい。一口コンロと、電気ケトルと、流しの上の棚がひとつ。
ケトルに水を入れる。百二十円の袋麺と、最後の卵。卵を手に取って、少し考えてから棚に戻した。明日のぶんだ。
湯が沸くのを待っていると、ノートパソコンでT.I.M.B.E.R.S.のランチャーが鳴った。
『フレンド申請:Rock』
知らない名前だった。プロフィールを開く。世界ランキング十四位。あのロビーの、もう一人。試合中、チャットに一言も書かなかったほうだ。
ハルトは麺を持って戻り、座って、承認を押した。
「チビがまだキレてる」と、ロックはすぐに打ってきた。「あれ、なんだったんだよ」
「ラーメン」とハルトは返した。「ちょっと待て、冷める」
「ゲームの話」
「あいつは足音に釣られて入った。相手は射線で待ってた。それだけ」
「みんなそう言うんだよ。なんでお前にはそれが見えんの」
ハルトは箸に麺を巻きつけながら、少し考えた。
「何年も、十フレームしか出ないパソコンで遊んでた。少ししか見えないと、残りを読むようになる」
間があって、それから。
「十フレーム?? 頭おかしいだろ」
「かもな」
それから三十分ほど、やりとりが続いた。ロックはグレネードの投げ方やタイミングを聞き、ハルトは短く答えた。最後にこう届いた。
「よし、寝る。お前のこと、覚えとく」
ハルトは冷めた麺を食べ終え、電気を消した。
朝、派遣会社のアプリは空っぽだった。
『現在、募集中のシフトはありません』
更新する。もう一度。何もない。
昼前にコンビニへ行き、家賃と光熱費を払った。店員がおつりを数えて渡し、ハルトは店を出ながら、それをもう一度数えた。家賃と請求書のぶんは足りた。食費は、あまり残らなかった。
家に帰って冷蔵庫を開ける。米が半袋、醤油、卵がひとつ。
(まあ、いい)と彼は思った。(じゃあ、夜だ)
夜になると、駅前のスーパーでは売れ残った弁当に「半額」のシールが貼られる。ハルトはその時間を、どんな電車の時刻表よりもよく知っていた。
八時五分。彼は都心のスーパーの冷蔵棚の前に立っていた。エプロン姿の店員が、黄色いシールのロールを持って列に沿って歩いていったばかりだ。ハルトは最後の唐揚げ弁当に手を伸ばした。同時に、もう一本の手がそれに伸びてきた。
「あっ」
ユイだった。普段着のジャケットで、名札もなく、かごには牛乳とおにぎりのパックが入っている。
「え……」彼女はまばたきした。「なんでここにいるの?」
「あなたと同じです」ハルトはシールにあごをしゃくった。
ユイは弁当を見て、彼を見て、それから急に笑いだした。
「いいよ、取って。私、ほんとはおにぎり買いに来たんだし」
「嘘ですね」
「嘘」と彼女は認めた。「でも、取って」
二人は一緒に店を出た。入口の横、ひさしの下にベンチがあって、ユイは何も聞かずに腰を下ろした。ハルトも隣に座った。
「ひとつ聞いていい?」と彼女は言った。「仕事の話じゃなくて」
「どうぞ」
「いつもそうなの? なんていうか……落ち着いてて。何があっても平気、みたいな」
ハルトは肩をすくめた。
「平気じゃないです。ただ、シフトはないし、腹は減るし。ほかのことに使う力が残ってないだけで」
彼は少しだけ話した。一口コンロの部屋のこと。百二十円の袋麺のこと。卵は明日に取っておけること。自分のことは、何も話さなかった。ユイはそれに気づいた。
(また、かわされた)と彼女は思った。
「あなたは?」と彼が聞いた。「クラブの人ですよね。ゲーム、やるんですか」
ユイは首を振った。
「ううん。おかしいでしょ。まわりはみんなゲームしてるの。高校でも、大学でも、今の職場でも。みんな何を見てるんだろうって、ずっと気になってた。何回かインストールしたこともあるんだよ」
「それで?」
「それで、仕事」彼女は口の端だけで笑った。「それからまた仕事。それからまた。黒金に入ったとき、これでその世界の近くにいられるって思った。でも実際は、経理と清掃の人を採用してる。選手を選ぶのは、別の人たち」
(私だって、ガラスの向こうに行きたかったのに)と彼女は思った。(なのに入口に座って、番号札を配ってる)
彼女は黙った。ハルトも黙っていた。
「ディレクターが、あなたに会いたいって」やがてユイは、降参するみたいに言った。「もう一回。今度はちゃんと、列に並ばせたりしないで。二日前から、ずっと探してるんだよ」
「そうですか」とハルトは言った。
「『そうですか』って、それだけ?」
「考えておきます」
ユイは長いあいだ彼を見つめ、それから立ち上がって、バッグをかけ直した。
「ほんと、どうしようもない人だね」
「知ってます」
彼女は振り返らずに駅のほうへ歩いていった。ハルトはもう少しだけそこに座っていた。膝の上に、半額の弁当を乗せたまま。
家に戻ると、ランチャーがもう点滅していた。
「いる?」
「いる」
「なあ。お前、何になりたいんだ? ゲームで」
ハルトは画面を見た。前の自分なら「何にも」と返して、チャットを閉じていただろう。
「本気でやってみたい」と彼は打った。「プロとして。できるかはわからない」
長い間があった。それから、リンクが届いた。
プロフィール。金のワッペンがついた黒いジャケットの写真。名前の下に一行。『黒金 一軍 サポート』
「これ、俺」とロックは書いた。「十七。チームじゃ年上のほう。あのチビもうちのメンバーな。で、俺のダチがミックスのチームを組んでて、一人足りない。最初に言っとくけど、金は出ない。お試しだけ。来る?」
ハルトは、その金のワッペンを長いあいだ見つめていた。どこかで見たことがある。昨日だ。自分の手で、フックに掛けたジャケットに。
「行く」と彼は打った。
(つづく)




