「クローク」
NEO TOKYOの従業員用通路は、塗りたてのペンキと誰かの香水の匂いがした。
「こっち」佐倉ミオは振り返りもせず、早足で歩いた。「クロークは正面入口の横。ゲストは四十人くらい、もう少し多いかも。番号札はカウンターにあるから」
ハルトはうなずいた。後ろを歩くユイは、笑えばいいのか謝ればいいのか、まだ決めかねているようだった。
「あのさ……朝のこと」と、ユイが口を開いた。
「いいよ」とハルトは言った。「寝たのは俺だから」
ミオが一瞬だけ歩みをゆるめた。でも、何も言わなかった。
カウンターは黒檀の長いもので、その奥に空のハンガーが何列も並んでいた。ハルトはポールに手のひらを滑らせ、フックを確かめ、番号札を数えた。四十八枚。足りる。
それから、人が来はじめた。
最初は黒金の選手たちだった。金のワッペンがついた揃いの黒いジャケットを着た、五人の青年。いちばん若い、十六歳くらいの少年は、こちらを見もせずにジャケットを渡し、歩きながらスマホで何か打っていた。ハルトはロビーの写真で彼の顔を知っていた。面接の日にブートキャンプをしていた、あの少年だ。
「番号札です」とハルトは言った。
少年は目も上げずに受け取った。
選手たちのあとから、ディレクターが入ってきた。六本木の、あの男だ。カウンターの前で足を止め、コートを脱ぎ、それを手にしたまま動かなくなった。
「会ったことがあるな」と彼は言った。問いかけではなかった。
「名前を聞かれました」とハルトは答えた。
ディレクターは小さく笑ってコートを渡し、奥へ進んだ。そこではミオとユイが待っていた。ミオが何かを小声で伝え、ユイがうなずくのが見えた。ディレクターは、信頼している人間の話を聞くときの顔で聞いていた。何百人も働くクラブで、人についての判断は、どうやらこの二人にしか任せていないらしい。
それから、ゲストたちが来た。
その女性には、ドアのところで気づいていた。小柄で、明るい色のコート。後ろにスーツの男が二人。襟には小さな銀の龍のバッジ。
「李暁雨です」と、彼女は少し訛りのある日本語で言った。誰にも聞かれていないのに。「上海、『LGN』です」
「東京は初めてですか」コートを受け取りながら、ハルトは聞いた。
彼女は驚いた顔をした。
「どうしてそう思うんですか」
「ポケットに、一回分の切符が入ってます。ここの人はみんな定期を使うので」
リー・シャオユーは、短く、心から笑った。
「二回目です。前回はタクシーしか乗らなかったから」
十分後、革ジャンの青年が来た。日焼けした肌に、首にはチェーン。全員にまとめて大声で挨拶した。
「ラファエル、マニラの『Nemesia』!」そう言って、カウンターをばんと叩いた。「ジャケット頼める、ブラザー?」
「預かります。ただ、ポケットの鍵は出してください」
「鍵?」
ハルトは黙って、膨らんだポケットを指さした。ラファエルは自分の太ももを叩き、鍵の束を引っぱり出して大笑いした。
「これぞサービスだな!」
誰に対しても、そんな調子だった。二言三言交わしていく人もいれば、必要以上にカウンターの前で立ち止まる人もいた。ハルトは特別なことは何もしていなかった。ただ、相手の手元や服やポケットを見て、必要なぶんだけ話した。
ディレクターたちは、ガラス扉の奥の別室へ案内された。そこは静かで、ディレクター同士だけが話す場所だった。
九時近く、ホールの照明が落とされた。黒金のディレクターがグラスを手に、小さなステージに上がった。
「来シーズンは」と彼は言った。「誰が強いかじゃない。誰がよく見えているかだ」
話は短かった。拍手は大きかった。ステージを降りながら、ディレクターはふとクロークのほうを見た。長く、じっと。そしてミオに何か言った。
九時半、ユイがカウンターに来た。
「ハルト……あのね。この先はクロークはいらないって。上着はゲストが自分で取っていくから。その……延長しないように」
「一時間ぶん払わなくて済むように、だろ」とハルトは言った。
ユイの顔が赤くなった。
「……うん」
「いいよ」彼は名札を外してカウンターに置いた。「いつもそうだから」
リュックを手に、従業員用の出口から外へ出た。また、霧雨が降っていた。
十五分後、ミオがディレクターと一緒にカウンターへ戻ってきた。
「彼は?」とディレクターが聞いた。
「帰りました」とユイが答えた。「シフトが終わったので」
「連絡先は?」
ミオは首を振った。
「派遣会社を通してしか」
ディレクターは少し黙った。
「なら、派遣会社を通して探してくれ」
ミオはもう、スマホを取り出していた。
家は静かだった。ハルトは布団の横にリュックを放り、座ってノートパソコンを開いた。まぶたが重い。
(一試合だけ)と彼は思った。
マッチングは一分もかからなかった。ロビーが読み込まれ、ハルトは一瞬、まばたきを忘れた。
味方の二人が、世界ランキングの上位にいた。十一位と、十四位。そして二人目の名前を、彼は知っていた。今日ジャケットを預かった、あの十六歳の少年だ。
チャットは一分目から始まった。
「5000位がロビーにいるw gg」
「何も触るな、立ってろ」
ハルトは返さなかった。黙ってプレイを続けた。ラウンドごとに。少年が三回連続で前に出て、三回連続で死ぬまで。
「足音に釣られて入ってるけど、相手は射線で待ってる」とハルトは打った。「二秒待て」
「お前誰だよ」
「二秒」
次のラウンド、少年は待った。二秒。そして三人を倒した。
チャットが静かになった。
試合の終わり、ハルトはスコアボードの一番上にいた。画面に表示が浮かぶ。+38。
「誰だ」と少年が打った。
ハルトはそのメッセージを見て、チャットを閉じ、パソコンの電源を落とした。
(まあ、いい)と彼は思った。
東京のどこかで、佐倉ミオが派遣会社の番号を押していた。
(つづく)




